自動車学校、入校手続きと八月下旬の洗礼
八月下旬。
小樽市内の自動車学校に向かう無料送迎バスから降り立った大暮ヨウは、目の前の光景に唖然としていた。
「……なんだ、この人数は」
教習所のロビーは、まるでバーゲンセール中のデパートかのように人で溢れかえっていた。
待合のソファーはもちろん、受付のカウンター前にも長い列ができている。そのほとんどが、ヨウと同じか少し年下くらいの、高校生や大学生らしき若者たちだった。
(そうか……八月下旬って、学生はまだ夏休みの真っ最中だもんな)
四十九歳のおっさんであるヨウは、高校教師だった頃の記憶を引っ張り出して一人納得した。
夏休みを利用して一気に免許を取ろうとする学生で、この時期の教習所は一年で最も忙しいピークの一つなのだ。
ヨウは、周囲の熱気と喧騒に少しだけ辟易しながら、入校手続きの列の最後尾に並んだ。
白いオーバーサイズのTシャツにスキニーデニムというラフな格好だが、黄金の長い髪と透き通るような白い肌、そして暴力的なまでの巨乳を隠しきれないそのプロポーションは、順番待ちをしている若者たちの視線を否応なしに引きつけていた。
(なんか……めっちゃ見られてる気がするんだが。やっぱり、女の身体でガニ股気味に立ってるからか?)
ヨウは無自覚に少しだけ姿勢を正してみたが、視線が減るどころか、ヒソヒソというざわめきがさらに大きくなっただけだった。
***
三十分ほど待たされ、ようやくヨウの順番が回ってきた。
「入校手続きですね。必要書類と、身分証明書をお願いします」
受付の女性スタッフが、事務的な笑顔で対応する。
ヨウは、珠子が用意してくれた新しい住民票と、身分証明書代わりの保険証を提出した。
「大暮ヨウさんですね。今回は、普通自動車のMT(マニュアル)車でよろしいですか?」
「はい、マニュアルでお願いします」
「かしこまりました。それでは、教習料金のお支払いをお願いします。本日は現金一括でよろしいですか?」
「……はい」
ヨウは、バッグの中から珠子にもらった報酬と、祭から渡された十万円が入った封筒を取り出した。
提示された金額は、約三十八万円。
(……高ぇな。マジで)
ヨウは、福沢諭吉が三十八枚も手元から消えていく現実に、心の中で血の涙を流しながら深いため息をついた。
事前に三十万ほどで済むとタカをくくっていただけに、この八万円のオーバーは痛い。
(祭が十万追加でくれてなかったら、初日で詰んでたぞ……。祭、本当に感謝だな……)
支払いを済ませると、コースの選択になった。
「大暮さんは、ご自分のペースで通われる通常コースと、スケジュールを当校で組ませていただく短期集中コース、どちらになさいますか?」
「早く免許が欲しいので、短期コースでお願いします」
ヨウが即答すると、受付の女性は少し申し訳なさそうな顔をした。
「短期コースですね。かしこまりました。……ただ、現在八月下旬ということで、大変混み合っております。短期コースでも、キャンセル待ちなどの状況によっては、予定通りに進まない可能性がございますが、よろしいでしょうか?」
「マジか……」
ヨウは肩を落とした。
(俺、運転自体は二十年以上やってるベテランなんだけどな。教習なんて一瞬で終わらせられるのに。)
しかし、現在の『大暮ヨウ(二十歳)』の身体では免許証が存在しない以上、ゼロから法に則って時間をかけて取得するしかない。
教習の規定時間は法律で決まっているため、レベル99の身体能力や運動神経があったところで、時間を短縮することはできないのだ。
(まぁ、運転技術より学科のほうが問題か)
四十九歳のおっさんとして、交通ルールの基本は当然知っている。しかし、細かい点数制度や、現在の最新の道路交通法、引っかけ問題だらけの学科試験などは、改めて勉強し直す必要がある。
(昔取った免許の知識だけで受けたら、絶対学科で落ちるな。高認の勉強もあるし、気合い入れねぇと……)
***
入校手続きが終わると、次は適性検査と視力検査だ。
検査室に通され、機械を覗き込む。
「はい、それじゃあ見えたところの開いている方向を言ってくださいね」
「上。右。左。下。左下。右上」
ヨウは、検査員が切り替えるよりも早く、瞬時に答えていった。
レベル99の勇者クレアの肉体は、マサイ族も驚くほどの超視力を持っている。こんな機械の検査など、目を瞑っていても(嘘だが)クリアできるレベルだ。
「……えっ? あ、はい。……視力、完璧ですね」
検査員の初老の男性が、目を丸くしてヨウの顔を見た。
色彩識別などの検査も、全く問題なくスムーズに終わる。
(視力とか身体能力だけならチートなんだけどな……。それが教習時間の短縮に繋がらないのがもどかしいぜ)
ヨウは苦笑しながら検査室を後にした。
***
検査を終え、待合スペースのソファーに腰を下ろして配られた教本をパラパラとめくっていると、周囲の視線がさらに強くなっているのを感じた。
「ねぇ……あの人、めちゃくちゃ綺麗じゃない?」
「モデルかな? それともアイドル?」
「同じ教習生だよね? 話しかけてみようかな……」
少し離れた席に固まっている女子大生らしきグループが、チラチラとこちらを見ながら小声でざわついている。
(なんか視線感じるな……。やっぱ俺、ガニ股で座りすぎか?)
ヨウが慌てて両膝をくっつけて座り直した、その時だった。
「あ、あの……!」
小柄で、ボブカットが似合う大人しそうな女子学生が、緊張した面持ちでヨウの前に立っていた。
「ん? なんだ?」
「こ、これ……どこに提出するんですか?」
女子学生――東山紬は、震える手で適性検査の書類をヨウに見せてきた。
どうやら、初めての場所で勝手がわからず、迷ってしまったらしい。
「ああ、それか。受付の二番窓口に持っていけばいいんじゃないか? さっき俺もそこに出したぞ」
ヨウは、元教師としての面倒見の良さを発揮し、普通に優しく教えてあげた。
「あ……ありがとうございます!」
紬はパッと顔を輝かせ、ペコリとお辞儀をして受付へと小走りで向かっていった。
それだけの、なんてことのない普通の会話だった。
しかし、周囲の女子グループからは、全く違うように見えていた。
「嘘、あの東山さん、もうあんな美人と話しかけてる!」
「距離近くない? 羨ましい……」
「私もなんか理由つけて話しかけに行こうかな」
教習所の待合室に、謎の微妙な空気が流れ始めていた。
しかし、中身がおっさんのヨウは、自分が女子たちの間で『高嶺の花のイケメン(中身)』のような扱いを受け始めていることなど、全く気づいていなかった。
***
その後、学科の案内を受けた。
入校式の日程と、最初に受ける先行学科『学科1』についての説明。
「本日は手続きと適性検査だけですので、実際の教習開始は数日後になります」
「じゃあ今日は帰るか」
ヨウが席を立とうとすると、受付のスタッフが声をかけてきた。
「大暮さん、せっかくですので、今日このあとすぐ受けられる『教習の進め方についての事前説明会』に参加していかれませんか?」
「説明会? まぁ、時間はあるからいいけど」
案内された教室に入ると、そこにはすでに十数人の教習生が集まっていた。
教壇に立っていたのは、四十代前半の、落ち着いた雰囲気のベテラン教官――佐伯だった。
佐伯は、教室に入ってきたヨウの絶世の美貌を見て一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐにプロの顔に戻って普通に対応を始めた。
「えー、それでは説明会を始めます。……大暮さんは、運転経験はありますか?」
出席を取る流れで、佐伯がヨウに尋ねた。
ヨウは、一瞬固まった。
(運転経験……? 現世のおっさん時代なら二十年以上バリバリ運転してたけど、この二十歳の身体で『あります』って答えたら絶対おかしいよな)
「……昔、少し」
「少し? 原付ですか?」
「まあ……普通に運転してました」
嘘ではない。中身は普通に運転していたのだ。ヨウはポーカーフェイスで押し通した。
「そうですか。まぁ、最初は皆緊張すると思いますが、リラックスして……」
佐伯が黒板を使って、教習原簿の見方や、技能教習の際のハンドルの持ち方、安全確認の基本について簡単な説明を始めた。
「発進の際は、ルームミラー、ドアミラー、そして目視での死角確認が重要です。特に左後方は……」
「巻き込み確認ですね。ドアミラーの死角にバイクとか自転車が入り込みやすいから、目視は絶対です」
ヨウは、無意識のうちに佐伯の説明に被せるように相槌を打ってしまった。
教官の佐伯が、ピタリと説明を止めた。
「……大暮さん。もしかして、かなり運転されていました?」
ヨウはハッとして口を塞いだ。
「……い、今の身体では初めてです」
「……今の、身体?」
佐伯が怪訝そうな顔で眉をひそめる。
「い、いや! なんでもないです! ゲームの話です! マリオカートとか、そういうやつの!」
ヨウは冷や汗をかきながら、慌てて誤魔化した。
(危ねぇ……! おっさん時代の癖で、つい知ったかぶってしまった。気をつけねぇと)
***
説明会が終わり、最後に短期コースの具体的なスケジュール調整が行われた。
受付のスタッフとパソコンの画面を見ながら、空いている枠を拾っていく。
「大暮さん、やはり八月下旬から九月にかけては学生の皆様が多く、技能の予約が大変混みやすくなっております。できるだけ空いている時間帯を入れさせていただきますが、卒業までには約四週間程度は必要になるかと思います」
「四週間か……。まぁ、仕方ないですね」
ヨウは、プリントアウトされた予定表を見て頭を抱えた。
(俺、今年中に高卒認定の試験勉強もやらなきゃいけないんだけどな……。怪異退治の仕事もあるし、教習所と勉強の二足のわらじ、結構ハードスケジュールになりそうだぜ)
***
夜。
すっかり暗くなった小樽のアパートに帰宅すると、祭とアイリーンが出迎えてくれた。
「ただいまー」
「おかえり、陽! 入校手続き、無事に終わった?」
「おう。でも混んでて疲れたわ。三十八万も吹っ飛んだしな」
ヨウが座椅子にどかっと座ると、アイリーンが冷たい麦茶を運んできた。
「ゴシュジンサマ、お疲れ様です! これで、鉄の魔獣(車)に乗れるようになるのですね!」
「鉄の魔獣って……。まぁ、免許取れればな」
祭がニコニコしながら言う。
「免許取れたら、ドライブ連れてってね。珠子ちゃんも一緒に、どこか温泉とか」
「ゴシュジンサマが運転する車……私も乗りたいデス! 助手席はワタシの特等席ですね!」
アイリーンが興奮気味に身を乗り出す。
「お前らなぁ。まずは俺が免許を取ってからだ。四週間はかかるって言われたぞ」
ヨウが釘を刺すように言うと、アイリーンがふと、余計なことを思いついたようにオッドアイを輝かせた。
「そういえば、教習所には、美人の女性がたくさんいるのデスか?」
ヨウは麦茶を吹き出しそうになった。
「……知らねぇよ」
祭が、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべてヨウの顔を覗き込んだ。
「陽ちゃん、その見た目だし、中身は頼りがいのある(元)先生なんだから。教習所で女の子たちにモテるんじゃない?」
「バカ言え。俺は免許を取りに行くだけだ。若い女の子なんて興味ねぇよ」
祭とアイリーンが顔を見合わせる。
「……本人はそう言うよね」
「ハイ。ゴシュジンサマは、自分の破壊力に無自覚すぎますから」
妻と元魔王の意味深なやり取りに、ヨウだけが「なんだよ?」と意味が分からず首を傾げていた。
***
翌日。
ヨウにとって、初めての『技能教習』の時間がやってきた。
担当教官は、昨日の説明会でも顔を合わせたベテランの佐伯だった。
教習車の助手席に乗った佐伯が、クリップボードを持ちながら言う。
「大暮さん。それでは、まずは運転席に乗ってみてください」
「はい」
ヨウは、全く緊張する様子もなく、ごく自然な動作で運転席のドアを開けて乗り込んだ。
シートに座るなり、左手でレバーを引いてシートポジションを前後に調整し、右手で背もたれの角度を合わせる。
次に、ルームミラーの角度を両手で微調整し、左右のドアミラーを確認。
シートベルトをカチャリと締め、クラッチペダルを左足でスッと奥まで踏み込み、ギアがニュートラルに入っていることを確認してから、ブレーキを踏んだままエンジンキーを回した。
ブルルンッ!
教習車のエンジンが、軽快な音を立てて始動する。
無駄が一切ない、完璧すぎる流れるような発進準備。
助手席の佐伯教官が、クリップボードを落としそうになりながら、ポカンと口を開けてヨウを見ていた。
「…………大暮さん。本当に、車の運転は初めてですか?」
ヨウは、涼しい顔でウインカーに手をかけながら答えた。
「グランツーリスモ7です」
「…………」
四十九歳のベテランドライバーの魂と、絶世の美少女の肉体。
教習所のコースに、大波乱の予感が漂い始めていた。




