自動車学校前夜、三十八万円の誤算
八月下旬。
小樽の短い夏も終わりに近づき、朝夕には涼しい風が吹き始めているものの、日中のアパートは相変わらず扇風機がミィィィと音を立てて生ぬるい風をかき回している。
ちゃぶ台に広げたスマートフォンを見つめながら、大暮ヨウは頭を抱えていた。
「……甘かった。完全に甘く見てたぜ」
画面に表示されているのは、小樽市内にある自動車学校の料金表だ。
「マニュアル車の教習料金、三十八万近くかかるのか……。三十万くらいで取れるって想定してたんだが……」
先日、珠子からの報酬八十万円を受け取った際、ヨウは祭に「免許代は三十万もあれば足りる」と豪語してしまった。
そして残りの四十万を祭に生活費としてドーンと渡し、十万だけを自分の小遣いや諸経費として手元に残していたのだ。
つまり、八十万から五十万を引いた『残り三十万』で免許を取るつもりだったのだが、このままでは完全に予算オーバーである。
「食費もある。雑費もある。教習は最短でも十七日から二十三日ほどかかるっていうのに……」
ヨウは、深い深いため息を吐いた。
「……俺、戸籍上は無職のニートだからな。いや、待てよ! 珠子社長(八咫烏)からの怪異退治の仕事があるんだから、立派なフリーランスのエージェントだ! 無職のニートじゃねぇ!」
誰もいない八畳の居間で虚勢を張ってみるが、虚しさがこみ上げてくるだけだ。
うーん、と唸りながらちゃぶ台に突っ伏していると。
「ゴシュジンサマァ……」
背後から、豊満な二つの膨らみがムギュッと押し当てられ、首筋に生温かく湿った感触が這った。
「んあっ!? おい、アイリーン! 俺を舐め回すな!」
ヨウが慌てて振り払うと、赤と青のオッドアイを輝かせた元魔王アイリーンが、妖艶な笑みを浮かべていた。
「エヘヘ。ゴシュジンサマが悩んでおられたので、癒やして差し上げようかと」
「お前、言葉遣い随分と滑らかになったな……」
ヨウは感心してアイリーンの顔を見上げた。半月前まではカタカナだらけの片言だったのに、今ではまだぎこちなさは残るものの、ずいぶん自然な日本語を話している。
「どれ、勉強の進み具合はどうだ?」
ヨウがアイリーンの使っているノートパソコンを覗き込むと、そこには中学校レベルの国語や数学、さらには歴史の学習サイトが開かれていた。
「すげーなこいつ……。もう中学生の範囲まで進んでるのか」
「ハイ! 毎日、動画や日本語の教材で勉強していましたカラ! 魔界の言葉に比べれば、日本語はシンプルで、論理的デス。漢字を覚えるのは少し大変デスが、ルールが分かれば、なんてことありマセン」
胸を張るアイリーンを見て、ヨウは先日、倶知安やニセコで外国人観光客に英語で話しかけられ、完全にフリーズしてしまった己の姿を思い出した。
(……俺なんて、大学出てるのにネイティブの英語であんなにテンパったのにな。それに比べて、この元魔王様の適応力たるや……)
「お前、本当にすごいな! よく頑張ってる!」
ヨウは、わしゃわしゃとアイリーンの赤いロングヘアを撫で回し、その豊かな身体をポンポンと叩いて褒め称えた。
「あぁんっ、ゴシュジンサマに褒められるの、最高ですぅ!」
アイリーンは犬のように目を細めて喜んでいる。
「なぁ、アイリーン。お前、このペースなら『高卒認定試験』、俺と一緒に受けられるんじゃないか?」
「コウソツニンテイシケン?」
「ああ。高校を卒業したのと同じ学力があるって証明する国家試験だ。これに受かれば、お前も日本で就職の幅がグッと広がるぞ」
「ゴシュジンサマと、一緒の試験……! 受けます! 私、絶対に合格してみせます!」
アイリーンは両拳を握りしめ、目をキラキラさせて喜んだ。
***
夜。
パートを終えて帰宅した祭が、シャワーを浴びてリビングにやってきた。
「お疲れ様、陽、アイリーン。陽は明日から自動車学校だよね? 頑張ってね!」
若返りの魔法で十代の輝きを放つ妻からのエールに、ヨウはドンと平らな胸を叩いた。
「おう、任せておけ! 元々運転は得意だったからな。すぐに免許取って、お前たちをドライブに連れてってやるからな!」
「ふふっ、楽しみにしてる」
祭はそう言うと、ハンドバッグの中から茶封筒を取り出し、ヨウに差し出した。
「はい、これ」
「ん? なんだ?」
「十万円。学校っていうんだから、お昼ご飯代とか、ちょっとした付き合いとか、色々と諸経費がかかるでしょ? 足りなくなったら困ると思って」
ヨウは、その封筒を受け取りながら、胸の奥がジーンと熱くなるのを感じた。
「これは私がパートで働いた分だから、遠慮しないで使ってね」
(くぅ〜っ……なんて出来た嫁なんだ! 自分が汗水垂らして働いた金から、俺の足しにしてくれって……!)
「ありがたい……! 祭、本当にありがとうな!」
「じゃ〜、私に美味しい夕食と冷たいお酒を出しなさいな!」
祭が上機嫌で座椅子に腰を下ろすと、キッチンからエプロン姿のアイリーンが意気揚々と料理を運んできた。
「はーい、マツリ様! 今日はお待ちかね、大好物のエビチリデス! ……と言いたいところなのデスが、鶏の胸肉チリデス! エビは高いデスから!」
ドン、とちゃぶ台に置かれたのは、真っ赤なチリソースがたっぷりと絡んだ鶏むね肉の炒めもの。
「そして、お酒は発泡酒デス! ビールは高いデスから!」
アイリーンは、悪びれる様子もなく堂々と缶の発泡酒をプシュッと開けて祭のグラスに注いだ。
ヨウは、思わずツッコミを入れた。
「おいアイリーン! 俺、この間四十万は家計に入れただろうが! エビとビールくらいたまには買ってもいいだろ!」
「ダメデス! あの四十万は、これからの生活や、もしもの時のための、大切な防衛資金デス。毎日の食費は、ギリギリまで切り詰める。それが、優秀な主婦(元魔王)の務めデス!」
ビシッと指を突きつけるアイリーン。
すると、祭はグラスの発泡酒を美味しそうにグビッと飲み、鶏むね肉のチリソースを口に運んだ。
「ん〜っ! 美味しいっ! いいのいいの、陽。私、アイリーンの作る料理大好きなんだから。この発泡酒だって、冷えてれば最高だよ!」
祭は、ニコニコしながらアイリーンの頭をよしよしと撫でた。
「アイリーン、節約してくれてありがとうね。美味しいよ、偉い偉い!」
「あ〜ん……マツリ様が喜んでくれて、ワタシ幸せですぅ。大好きです、マツリ様……」
アイリーンは、祭に撫でられながらデレデレに顔を溶かしている。
その平和で温かい食卓の光景を見ながら、ヨウは缶の発泡酒を煽った。
「……おう。俺もまた、珠子から怪異退治の仕事もらって、頑張って稼いできますよ」
(……本当は、残った金でPS5とか、グランツーリスモ7とか買って遊びたいなんて……この節約ムードの食卓じゃ、絶対に口が裂けても言えねぇ……!)
四十九歳のおっさんの密かな物欲は、発泡酒の泡と共に胃袋の奥底へと消えていった。
***
食後。
ヨウは、布団の上でゴロゴロしながら、少しだけ口を尖らせていた。
キッチンの方では、祭とアイリーンが楽しそうにキャッキャと笑い合いながら皿洗いをしている。
(……なんか、最近あの二人、やたら仲がいいんだよな。俺が入り込む隙がねぇというか……)
妻と居候の元魔王が仲良くしてくれるのはありがたいことだが、少しだけ疎外感を感じて嫉妬してしまうおっさん心である。
「陽〜、お待たせ」
皿洗いを終えた祭が、色っぽいネグリジェ姿で布団に潜り込んできた。
若返った肌から、石鹸のいい香りが漂ってくる。
「明日から学校でしょ? 今のうちに、たっぷり『エネルギー補給』してあげようか?」
祭が、悪戯っぽい笑みを浮かべてヨウの胸元に指を這わせた。
勇者クレアの超絶敏感な身体が、ビクッと反応する。
「お、おい祭……。明日から学校なんだから、今日は早く寝ねぇと……」
「え〜? 嫌なの? こんなに身体、熱くなってるのに?」
チュッ、と首筋にキスを落とされ、ヨウの理性の壁はあっさりと崩れ去った。
「……嫌なわけ、あるかよ」
まんまと乗せられ、祭を抱き寄せようとした瞬間。
「ワタシも! ワタシもエネルギー補給、お手伝いしますぅ!」
いつの間にか全裸になったアイリーンが、布団の中に滑り込んできた。
「ちょ、お前まで!?」
「いいじゃない陽、三人で一緒に気持ちよくなろ?」
「あぁんっ、ゴシュジンサマのそこ、メチャクチャにしちゃいますぅ!」
「ひゃああっ!? や、やめろ、そこはダメだぁぁぁっ!」
小樽の安アパートの夜。
明日からの自動車学校の初日を控えているというのに、四十九歳の元おっさんは、愛する妻と元魔王の手によってメチャクチャに快楽の渦へと沈められてしまった。
***
そして、翌朝――。
「ふぁぁ……ねむぃ……腰痛ぇ……」
寝不足と昨夜の『激しすぎるエネルギー補給』による疲労で、ヨウはフラフラとアパートを出た。
停留所に停まっていた自動車学校の無料送迎バスに、這うようにして乗り込む。
「おはようござい……ます……」
死んだ魚のような目で挨拶したヨウだったが、送迎バスの初老の運転手は、朝から乗り込んできた絶世の美少女の姿に「お、おはようございます!?」と完全にドギマギして顔を赤くしていた。
バスに揺られること数十分。
ヨウは、小樽市内の自動車学校の門の前に立っていた。
「よし、気合入れるか……。目指せ、一発合格!」
パンッ、と両頬を叩いて気合を入れ直す。
夏の朝日に照らされた黄金の髪がサラリと揺れ、その美貌がひときわ眩しく輝いた。
その瞬間。
「ねぇ、ちょっと見て……あの子」
「うわ、すっごい美人……ハーフかな?」
「というか、スタイルやばくない? モデル?」
すれ違う教習生たち――特に同年代の女子や男子たちが、一斉に足を止めてざわつき始めたのだ。
(……またかよ)
無数の熱い視線を浴びながら、中身四十九歳のおっさんは、初日から前途多難な教習所生活の幕開けを予感して、深く、深くため息をついた。




