帰路と残された謎
名水百選にも選ばれている京極町の『ふきだし公園』。
大自然の圧倒的なスケールと、名前を失った神への畏敬の念に打たれ、厳かな空気に包まれていた大暮ヨウと葉室珠子だったが……その十分後。
「コーヒー! 頼む珠子、あそこの売店でコーヒー飲ませてくれ!」
ヨウは、絶世の金髪美少女の顔をくしゃくしゃにして、まるで砂漠でオアシスを見つけた遭難者のように売店を指差した。
「ちょっとヨウ、さっきまでのあの神秘的な余韻はどこに行ったんですか……」
「余韻よりカフェインだ! 俺は昨日の夜から一睡もせずに絶対結界を維持してたんだぞ! 中身が四十九歳のおっさんには徹夜はキツいんだよ! それに、ここの名水で淹れたコーヒーは絶対に美味い!」
じたばたと駄々をこねるヨウを見て、珠子は呆れたようにため息をついた。
「……わかりました。行きましょう」
公園内の売店で購入した、ふきだしの湧水で淹れたホットコーヒー。
ヨウはベンチに座り、両手で紙コップを包み込むようにして一口すすると、「くぅ〜っ!」と全身の力が抜けたような声を上げた。
「美味い……! 五臓六腑に染み渡るぜ。水がまろやかだから、コーヒーの雑味が全然ねぇんだ」
「……ふふっ。確かに、すごく美味しいですね」
珠子も自分の分のコーヒーを口に運び、ホッと息をついた。
早朝のひんやりとした空気の中、温かいコーヒーの香りが二人の間を優しく漂う。昨夜の恐怖や緊張が、少しずつ日常の温かさへと溶けていくようだった。
「よし、カフェインも補給したし、隣の道の駅でお土産でも買って帰るか!」
すっかり元気を取り戻したヨウが立ち上がる。
道の駅『名水の郷きょうごく』の売店エリア。
ヨウが「祭には何がいいかな〜。アイリーンは甘いものなら何でも食うしな」と商品を物色していると、背後から珠子がスッと封筒を差し出してきた。
「はい、ヨウ。今回の仕事の報酬です」
「おっ、サンキュー」
ヨウは軽い気持ちで封筒を受け取り、中を覗き込んだ。
「…………は?」
ヨウは、文字通り石像のように固まった。
封筒の中には、福沢諭吉の束がぎっしりと詰まっていたのだ。
「は、は、八十万……!?」
ヨウの裏返った声が、道の駅の店内に響きかけたのを、珠子が慌てて手で口を塞いで止めた。
「しっ! 声が大きいです!」
「いやいやいや! 多すぎるだろ! 俺、昨日結界張ってテント出しただけだぞ!?」
「少なかったですか? でしたら、私の個人的な口座からあと二十万お出しします。キリよく百万でどうでしょう」
「違う! そういう問題じゃねぇ!」
珠子が本気で財布を取り出そうとするのを、ヨウは必死で止めた。
しかし、珠子は凜とした瞳でヨウを真っ直ぐに見つめ返した。
「ヨウ。あなたがいなければ、私は昨日の尻別岳で間違いなく死んでいたか、精神を壊されて廃人になっていました。……私の命の価値は、百万円よりも低いですか?」
「…………」
ヨウは、言葉に詰まった。
珠子の瞳の奥にある、揺るぎない感謝と、隠しきれない熱烈な想い。
「……低くねぇよ。お前の命は、金なんかじゃ買えねぇくらい大事だ」
ヨウが観念したようにそう言うと、珠子はパッと花が咲いたように表情を輝かせた。
ヨウは、手元の分厚い封筒を見つめ、うんうんと唸りながら考え込んだ。
(八十万か……。とりあえず、車の免許を取り直すのに三十万くらいかかるよな。あとは、車を買うための資金として貯金するか? ……いや、待てよ)
ヨウの脳裏に、小樽のボロアパートで待つ愛する妻の祭と、居候のアイリーンの顔が浮かんだ。
そして、目の前には、自分を慕ってくれている初恋の教え子。
(祭やアイリーン、それに珠子も連れて、みんなで温泉旅行とか行くのもいいな……)
そんな温かい未来の計画を思い描きながら、ヨウは珠子が差し出そうとしていた残りの二十万円を、そっと押し返した。
「八十万は、ありがたく受け取る。でも、その二十万はお前が持ってろ。珠子から個人的にはもらえねぇよ」
「でも……」
「お前には、貸しよりも『借り』の方がずっとデカいんだよ。生活の面倒まで見てもらってさ。この借り貸しが無くなって、俺が対等になったら、その時はありがたく奢ってもらうさ!」
ヨウがニカッと笑って言うと、珠子は少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「借り貸しなんて、目に見えませんよ」
「俺にはハッキリ見えてるんだよ! いいから、それで納得しておけ!」
強引に押し切るヨウの不器用な優しさに、珠子はふっと吹き出し、やがてクスクスと笑い始めた。
「……わかりました。そういうことにしておきます」
その屈託のない笑顔は、年相応の十九歳の少女のそれで、ヨウは思わず「可愛いな」と見惚れそうになった。
***
無事にお土産も買い込み、さあ帰るかという段になって、ヨウが自分の長い金髪をクンクンと嗅ぎ始めた。
「あー……ダメだ。やっぱり昨日のキャンプの煙の匂いが染み付いてる。魔法で汚れは落ちても、気分的にサッパリしねぇ」
ヨウは、道の駅のすぐ隣にある施設をビシッと指差した。
「珠子! すぐそこの『京極温泉』に入って帰ろうぜ!」
「ええっ!? ダメですよ、早く帰って本家に今回の霊脈異常のレポートを送らないといけないんですから」
「ダメだ! 絶対温泉! ここの温泉、露天風呂から羊蹄山が見えて最高なんだよ! それに、食堂のジンギスカン定食が激安で美味いんだ! 温泉入りたい!」
「ちょっとヨウ、駄々っ子みたいになってますよ……」
「ふん! 俺のせいじゃない、この勇者クレアの若い身体に引きずられて精神が子供っぽくなってるんだよ!!」
「……いくらなんでも苦しすぎますよ、その言い訳。まあ、そういうことにしておきましょうか」
結局、珠子はヨウの強引な誘いに折れるしかなかった。
京極温泉は、地元の人々や観光客で賑わう人気の温泉施設だ。
泉質もさることながら、ヨウのお目当ては『サウナと水風呂』だった。
「くぅ〜っ! やっぱサウナの後の水風呂は最高だな! 羊蹄山の湧き水を使ってるから、キンキンに冷えてて肌が引き締まるぜ!」
ザバーン!と豪快に水風呂に肩まで浸かるヨウ。絶世の美貌を持った金髪の少女が、おっさんのような至福の表情で水風呂を堪能している。
一方の珠子は、サウナの熱気にも水風呂の冷たさにもまだ慣れず、足先だけをお湯につけて苦笑いしていた。
「なんだかんだ言って、珠子も温泉好きになってきただろ?」
「そうですね……。ヨウと一緒に入る温泉は、悪くないです」
洗い場に移動すると、二人はごく自然にお互いの背中を洗い合い始めた。
倶知安の宿で背中を流し合って以来、これが二人の間の新しいルーティンになりつつあった。
珠子の手は優しく、ヨウの手は力強く、お互いの肌の温もりを通して、言葉以上の信頼感が育まれていく。
風呂上がりの大広間の食堂。
ヨウはジョッキに入ったノンアルコールビールを片手に、ジンギスカン定食を豪快に頬張っていた。
「ぷはぁーっ! 美味い! やっぱ風呂上がりの一杯と肉はたまんねぇな!」
見た目は西洋の女神、中身は新橋のサラリーマン。
その強烈なギャップに、食堂にいる他の客たちの視線が釘付けになっていた。
パシャッ、パシャパシャッ。
あちこちから、スマホのカメラのシャッター音が聞こえてくる。
「ねえ見て、あの金髪の子……」
「SNSでバズってた子だよね? 小樽にいるって噂の……」
「マジかよ、加工してないんだ。完全なスッピンでしょあれ。信じられないくらい美人……」
ヒソヒソと囁かれる噂声に、珠子は眉をひそめた。
(……最近、ヨウの目撃情報がSNSで拡散され始めている。このままだと、そのうち大変な騒ぎになるんじゃないかしら……)
エージェントとしての危機感が募る珠子だったが、当のヨウは全く気にする素振りも見せない。
「どうした珠子、箸が止まってるぞ。美味いぞこれ。お前も冷めないうちに食べろ食べろ!」
「あ……はいはい、いただきます」
底抜けに明るいヨウの笑顔を見ていると、珠子の不安もどこかへ飛んでいってしまった。
(まあ、いざとなれば私が全力で守ればいいだけよね)
珠子は、ジンギスカンの肉を口に運びながら、密かにそう決意を固めた。
***
京極町を離れ、CX-60は夕暮れの国道393号線を小樽へと向かって走っていた。
車内には、カーオーディオから静かなジャズが流れ、心地よい疲労感が漂っている。
助手席でシートベルトに身を委ねたヨウは、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。
日常へ帰っていくという、確かな安心感。
バックミラーの向こうで、茜色に染まる空を背景に、羊蹄山の雄大なシルエットが徐々に遠ざかっていく。
(終わったな……。これでまた、祭とアイリーンの待つあのボロアパートでの日常が戻ってくる)
ヨウが、フッと息をついて目を閉じた、その瞬間だった。
――ドクン。
「ッ!?」
ヨウの身体が、ビクッと大きく跳ねた。
今度は、地面の揺れではない。珠子の羅盤が割れたわけでもない。
ヨウの、レベル99の勇者の肉体……あるいは、その奥底にある魂そのものだけが、その『巨大な心音』をダイレクトに感知したのだ。
遠く離れたはずの後志の大地。
その奥深くに眠る、名前を失った巨大なメカニズムが、脈動する音。
それはまるで、「まだ終わっていないぞ」と、ヨウの存在を明確に認識し、語りかけてきたかのような、恐ろしいほどに生々しい響きだった。
「……ヨウ? どうかしましたか?」
運転席の珠子が、ヨウの異変に気づいて声をかけた。
珠子には、今の脈動は全く聞こえていないようだった。
ヨウは、心臓の嫌な動悸を必死に抑え込み、努めて明るい声を作った。
珠子を、これ以上あの巨大な恐怖に巻き込むわけにはいかない。
「いや……なんでもない。ちょっと、寝ぼけて夢を見ただけだ」
「そうですか? 疲れてるんですね。小樽までゆっくり寝ててください」
「おう、そうさせてもらうわ……」
ヨウは再び窓の外に視線を戻した。
完全に夕闇に沈んだ後志の山々は、何も語らず、ただ黒々とした影を横たえているだけだった。
***
夜の七時。
小樽の安アパートの前に到着したCX-60から、ヨウが荷物を抱えて降り立った。
「珠子、色々と本当にサンキューな! 助かったぜ!」
「いいえ、こちらこそ。また何かあれば連絡しますね」
「おう! 気をつけて帰れよ!」
珠子の車が見えなくなるまで手を振って見送った後、ヨウはアパートの階段を駆け上がった。
ガチャリ、と玄関のドアを開ける。
「ただいまーっ!」
「よ、陽ッ! おかえりなさい!」
「ゴシュジンサマァァァッ!! 寂シカッタデスゥゥゥッ!!」
エプロン姿の祭が満面の笑みで飛びついてきて、その背後から、元魔王アイリーンが長い赤髪を振り乱しながら猛烈な勢いでタックルしてきた。
「うおわっ!? ちょ、お前ら重い! 首絞まってる、絞まってるって!」
狭い玄関で、三人が団子になって倒れ込む。
相変わらずの、騒がしくて、優しくて、愛おしい日常。
ヨウは、首を絞められながらも、腹の底から笑い声を上げた。
***
一方その頃。
小樽市内にある葉室結社の隠れ家に戻った珠子は、デスクのパソコンに向かい、今回の調査報告書の文面をまとめていた。
『――結論。羊蹄山周辺の霊脈異常は、尻別岳との間で発生している巨大なエネルギーの循環システムによるものである。』
『両山を一つの巨大な霊的メカニズム、あるいは生命体として認識した場合、現在の「夫婦山」という伝承とは全く異なる、より古代的で本質的な解釈が成立する。』
カタカタとキーボードを叩く音が、静かな部屋に響く。
珠子は、報告書の最後に一行だけ追記をした。
『なお、この巨大な霊的脈動を引き起こしている「原因」については、現在も不明である。引き続き、監視と調査を要する。』
エンターキーをターン!と叩き、ファイルを本家のサーバーへと送信する。
珠子は大きく伸びをし、デスクの横に置かれたマグカップに手を伸ばした。
窓の外では、小樽の海風が静かに吹いている。
北海道という広大な大地。そこには、現代の科学や、裏社会の結社の知識すら遠く及ばない、土着的で底知れない『何か』が、まだ無数に眠っている。
遠く、後志の山々の方角から、風に乗って微かな地鳴りのような音が聞こえた気がした。
珠子は窓をピシャリと閉め、カーテンを引いた。
謎はまだ、残されたままだ。
しかし今は、あの温かい笑顔を思い出しながら、少しだけ眠りにつきたかった。




