湧水地――名前を失った神
尻別岳の中腹。
見渡す限りの深い闇と、耳鳴りがするほどの重い静寂に包まれた森の中で、そこだけが異質な空間となっていた。
大暮ヨウが展開した最高位の防御魔法『絶対結界(アブソリュート・サンクチュアリ)』。
その黄金のドームの中は、外の干渉を遮断しており、狂おしいほどの霊的プレッシャーから切り離された、穏やかで温かな空気に満ちていた。
アウトドアチェアに深く腰掛けたヨウは、結界の半透明な壁越しに、夜空に瞬く無数の星々を見上げていた。
北海道の澄み切った大気が見せる満天の星空は、まるで宇宙の底から見上げているような錯覚に陥るほど美しい。
(……それにしても、不思議なもんだな)
ヨウは、自分の手のひらをじっと見つめた。
この『絶対結界』は、レベル99の勇者クレアの肉体をもってしても、本来なら維持するだけで莫大な魔力と集中力をゴリゴリと削られるはずの大魔法だ。
事実、展開した直後は、魔力が急速に吸い取られていく感覚に冷や汗をかき、立っているのもやっとの状態で痩せ我慢をしていた。
だが、今はどうだろう。
アウトドアチェアに座り、こうして星空を眺め、頭の中で様々なことを考えながらでも、結界は当たり前のように維持されている。呼吸をするのと同じくらい、自然に。
(最初は、珠子を怖がらせちゃいけない、安心させなきゃって必死だった。でも、その『守りたい』って意志が、この勇者の身体のポテンシャルを完全に引き出したのかもしれねぇな)
四十九歳の元高校教師のおっさんの魂と、異世界の絶世の勇者の肉体。
ちぐはぐだった二つが、珠子という大切な存在を守るという目的のために、ピタリと噛み合ったような感覚があった。
「……珠子のお陰だな」
ヨウが小さく呟いたその時、テントの少し離れた場所で調査を行っていた珠子が、スケッチブックを手に戻ってきた。
「ヨウ。終わりました」
「おっ、お疲れ。どうだった?」
珠子の表情は、少し疲労が滲んでいるものの、エージェントとしての確かな達成感に満ちていた。
「この結界の中からでも、竜脈の流れははっきりと観測できました。……スケッチと、霊力測定のデータ、全て揃いました。やはり、尻別岳から羊蹄山へのエネルギーの供給、そして湧水地への集束……。私たちが昨日導き出した仮説に間違いありません」
大自然の営みだけではない。この途方もない『仕組み』を作り出した何か。到底人間の理解が及ぶものではないが、観測し、記録することはできた。
「よくやったな、珠子。すげぇ大仕事だ」
「あっ……」
ヨウが嬉しそうに頭をポンポンと撫でると、珠子は少し照れくさそうに目を伏せ、それでも嬉しそうに頬を緩ませた。
「よし、それじゃあ少し休もう。明日は最終日だ。……朝の五時ころに下山を開始するってことでいいか?」
「はい。そうしましょう。暗いうちに行動するのは危険ですから」
珠子は素直に頷いたが、実はヨウの頭の中では、あるシビアな計算が行われていた。
(今の俺の魔力残量と、この結界の維持コストを逆算すると……タイムリミットは明日の午前六時ころだな。それまでに結界を解いて下山しないと、完全に魔力切れで俺がぶっ倒れる)
そんな限界ギリギリの状態であることを微塵も悟らせず、ヨウは「じゃあ、俺は外で見張りをしてるから、珠子はテントの中でゆっくり寝てな」と優しく促した。
「……はい。お言葉に甘えます。おやすみなさい、ヨウ」
珠子はテントに入り、寝袋の上に横になった。
しかし――。
(……ダメだ。眠れない……)
目を閉じると、先ほど生身で感じた『山が脈打つ音』が脳内にフラッシュバックしてくる。
ドクン、ドクンという、あの圧倒的で暴力的な大地の鼓動。
自分が一匹の蟻にすら満たない微小な存在になったかのような、根源的な恐怖。
珠子の身体は、寝袋の中でガタガタと小刻みに震え始めていた。
結界の中にいて外の干渉を遮断していると頭では分かっていても、精神に刻まれた恐怖が、彼女の意識を暗闇の底へと引きずり込もうとする。
「……珠子。起きてるか?」
不意に、テントの入り口が開き、ヨウが中に入ってきた。
「ヨウ……?」
「震えてるじゃないか。……やっぱり、あんなもん見せられたら、怖いよな」
ヨウは、躊躇することなく珠子の隣に横たわると、その華奢な身体を腕の中に引き寄せ、ギュッと強く抱きしめた。
「ひゃっ……!? ヨ、ヨウ!?」
「大丈夫だ。俺がついてる。絶対に怖い思いはさせねぇから、安心して目をつぶれ」
ヨウの腕の中は、驚くほど温かかった。
耳を澄ませば、ドクン、ドクンという一定のリズムが聞こえる。それは、外の恐ろしい大地の脈動ではなく、ヨウの胸の奥で力強く鳴る、優しくて頼もしい生命の鼓動だった。
「ヨウ……っ」
珠子は、ヨウの胸元に顔を埋めた。
恐怖で凍りついていた心が、ヨウの温もりに包まれて、じんわりと溶けていく。
(ああ……なんて安心するんだろう。ずっと、こうしていたい……)
やがて、珠子の震えは完全に治まり、スヤスヤという規則正しい寝息へと変わっていった。
珠子が完全に眠りに落ちたことを確認すると、ヨウはそっと彼女の身体を寝袋に寝かせ、テントを抜け出した。
夜気は冷たく、結界の外では依然として大地の心臓が脈打ち続けている。
(……なんだ?)
結界の境界線ギリギリに立ったヨウの超感覚が、チリチリと警鐘を鳴らしていた。
地の底のさらに深くから、何か途方もない『気配』がこちらを窺っているような感覚。
暗闇の奥を凝視したが、ハッキリとは分からない。
「……まあいい。今は、やり過ごすだけだ」
ヨウは深く息を吐き、結界の維持に意識を集中させた。
***
午前四時。
東の空がわずかに白み始め、星々がその輝きを失い始めた頃。
ヨウは一人、静かにキャンプの撤収作業を始めていた。
アウトドアチェアやテーブルを畳み、手際よく片付けていく。
午前四時半。
「珠子、朝だぞ。起きろー」
ヨウがテントの外から声をかけると、珠子が目をこすりながら出てきた。
「おはようございます、ヨウ……。あれ? もうこんなに片付いて……」
「おう。あとはテントだけだ。さっさと下山するぞ」
「はいっ」
珠子が手伝い、テントを畳む。
そして、最後に残った荷物をヨウが『収納魔法』の空間の穴へと一気に突っ込んだ。
「よし、忘れ物はないな。結界を解くぞ」
ヨウが指を鳴らすと、二人を守っていた黄金のドームが光の粒子となって朝の空気の中に溶けて消えた。
「行くぞ、珠子。日の出と共に下山だ」
「はい!」
二人は、朝霧に包まれた尻別岳の登山道を、足早に駆け下りていった。
***
午前七時。
無事に下山し、CX-60に乗り込んだ二人は、羊蹄山の麓に位置する京極町の『ふきだし公園』へと向かっていた。
「はぁ〜、なんとか生きて帰ってこれたな」
助手席で、ヨウがシートに深く背中を預けて大きく伸びをした。
「本当にお疲れ様でした、ヨウ。……ヨウがいてくれなかったら、私、あの場でどうなっていたか分かりません。改めて、ありがとうございます」
運転席の珠子が、真剣な眼差しで感謝を伝える。
車は、羊蹄山の麓を周回する国道を快調に走り、やがて目的地のふきだし公園に到着した。
羊蹄山に降った雨や雪が数十年の歳月をかけて地下層で濾過され、ミネラルたっぷりの湧水となって地上に噴き出している名水スポットだ。
公園内には豊かな緑が溢れ、そこかしこからゴウゴウと勢いよく水が湧き出す音が聞こえてくる。
二人は車を降り、湧水口の近くへと歩み寄った。
「すげぇ水の量だな。空気までひんやりしてて気持ちいいぜ」
「ええ。一日になんと八万トンもの水が湧き出しているそうです」
珠子は、周囲の岩や木々に視線を巡らせながら言った。
「普通なら、羊蹄山の伏流水がここへ流れていると説明されます。でも、私たちが昨日から観測してきた『霊脈』の流れ……。尻別岳から羊蹄山へ、そしてこの湧水地へと至るエネルギーのトライアングル。それが、現実の地下水脈の動きと見事に符合しているんです」
ファンタジーのような巨大な霊脈のメカニズムが、現実世界の地形や水脈と完全にリンクしている。
珠子は、湧水口のすぐそばにある、苔むした古い岩の前に立った。
羊蹄山や尻別岳で見つけたものと同じような、古い人工的な痕跡を感じる岩だ。
「……少し、探ってみます」
珠子は目を閉じ、和紙の呪符を取り出した。
「この岩には古い霊力が濃く残っている。これなら記憶を拾えるかもしれません」
残存する微量な魔力と霊力を同調させ、過去の記憶を読み取る術。和紙を岩の表面にそっと押し当てたその瞬間。
「ッ……!!」
珠子の脳裏に、強烈なビジョンが閃いた。
それは、獣ではない。人間でもない。神社の神体でも、仏像でもない。
圧倒的な質量を持った『山そのもの』が、まるで巨大な生命のように見えた。大地に根を張り、呼吸し、エネルギーを循環させている。
自分たち人間は、その巨大な存在の表面に寄生する、ほんの小さな細胞の一つに過ぎない。
「はぁっ、はぁっ……!」
珠子は弾かれたように岩から手を離し、肩で荒い息をした。
「どうした、珠子! 何が見えた!?」
ヨウが慌てて駆け寄り、珠子の背中を支える。
「山……山が、見えました。神様とか、そういうのじゃなくて……この山自体が、巨大な生命のように……」
珠子の言葉は、恐怖ではなく、圧倒的な畏敬の念に震えていた。
ヨウは、湧き出す清冽な水と、その奥にそびえる羊蹄山の雄大な姿を見つめた。
「……昔の人間は、神様を作ったんじゃないんだな」
ヨウが、ポツリと呟く。
「え?」
「偶像を彫ったり、神話を創り出したりするよりもずっと昔。古代の人間たちは、この圧倒的な『大地そのものの仕組み』を直感的に理解し、畏れ敬っていた。この巨大な山、水、そして大地そのものが……彼らにとっては、これこそが『神』だったのかもしれねぇ」
宗教という枠組みに収まる前の、もっと根源的で、剥き出しの自然信仰。
二人は、絶え間なく湧き出し続ける清らかな水音を聞きながら、言葉を失い、ただ目の前の大自然の圧倒的なスケールを前に立ち尽くした。
――名前を失った神。
その畏敬の念を胸に刻み、二人が静かに湧水地を立ち去ろうと背を向けた、その直後だった。
ドクン。
ゴウゴウと流れる湧水の水面が、一瞬だけ、微かに、しかし確実に脈打った。
それは、まだこの大地に『何か』が残っていることを暗示するような、静かで不気味な鼓動だった。




