尻別岳――「吐き出す」男の山、そして鼓動
第三日目の朝。
倶知安の高級温泉旅館の和室には、爽やかな朝の日差しが障子越しに差し込んでいた。
「……んんっ」
葉室珠子は、心地よい温もりと、柑橘系のような甘く爽やかな香りに包まれながら、ゆっくりと意識を浮上させた。
(なんだか、すごくよく眠れたな……。最高の抱き枕みたい……)
微睡みの中で、珠子は自分を包み込んでいる『極上の抱き枕』に頬をすりすりしようとして――ハッと目を見開いた。
抱き枕ではない。
目の前には、スヤスヤと無防備な寝息を立てる絶世の金髪美少女――大暮ヨウの美しい寝顔があった。
しかも、ヨウの長い腕が珠子の背中に回され、珠子自身もヨウの胸元にしっかりと顔を埋めるようにして、がっちりと抱き合っている状態だったのだ。
「ひゃうっ!?」
珠子は声にならない悲鳴を上げ、弾かれたようにヨウの腕から抜け出した。
心臓が、バクバクと肋骨を突き破りそうなほどの勢いで早鐘を打っている。顔から火が出るかと思うほど熱い。
(そ、そうだった……! 昨日の夜、ヨウがこっちの布団に入ってきて、私が抱きついちゃって……! そのまま朝まで!?)
十九歳の古神道結社・八咫烏のエージェント。
普段はどんな怪異を前にしても冷静沈着な珠子だが、初恋の恩師との『朝チュン』のような状況は、乙女のキャパシティを完全にオーバーしていた。
「……んあ? どうした珠子、もう朝か……?」
珠子がバタバタと起き上がった気配で、ヨウものそりと身を起こした。
乱れた浴衣の襟元から、真っ白な谷間が惜しげもなく覗いている。
「お、おはようございますっ! ヨ、ヨウ、寝相悪すぎですっ! 私の布団にまで入ってきて!」
珠子が真っ赤な顔で必死に抗議すると、ヨウは頭をガリガリと掻きながらニカッと笑った。
「おう、わりぃわりぃ! なんか夜中にすげぇ丁度いい抱き枕があるなぁと思って、無意識に抱き着いちまったみたいだ。おかげでぐっすり眠れたぜ!」
「だ、抱き枕って……っ!」
「いやぁ、珠子はあったかくていい匂いがするな! 最高だったぞ!」
純粋な一〇〇パーセントの悪気ゼロで放たれたヨウの言葉に、珠子は言葉を失った。
中身が四十九歳のおっさんであるヨウは、同性の友人感覚(あるいは娘感覚)で、全く無自覚に珠子を褒めちぎっているのだ。
(あったかくて、いい匂い……。最高……っ!)
珠子は、怒るべきか喜ぶべきか脳の処理が追いつかず、「もう、早く着替えてください!」とだけ叫んで、逃げるように洗面所へと駆け込んだ。
***
朝食を済ませ、宿をチェックアウトした二人は、再び珠子のCX-60に乗り込んだ。
今日のターゲットは『尻別岳』。
標高一一〇七メートルのこの山は、羊蹄山の南東に位置し、地元では羊蹄山と対をなす存在として親しまれている。
整った円錐形の羊蹄山(蝦夷富士)に対し、尻別岳は少し荒々しい印象を与える山容だ。
「昨日が女の山で、今日が男の山、か」
ヨウが、フロントガラス越しに迫ってくる尻別岳の姿を見上げて呟く。
「はい。アイヌ語では羊蹄山が『マチネシリ(女の山)』、尻別岳が『ピンネシリ(男の山)』と呼ばれていた伝承があります。気をつけていきましょう」
***
午前九時。尻別岳の登山口から入山した二人は、鬱蒼とした森の中を進んでいた。
昨日登った羊蹄山とは、明らかに空気が違う。
羊蹄山の森はどこか静謐で、全てを飲み込むような静けさがあったが、尻別岳の森は、むせ返るような『濃密さ』があった。
「はっ、はっ……よし、今日はちゃんとフラットに足をついてるぞ!」
ヨウは、昨日の珠子のアドバイスを忠実に守り、無駄な力を抜いてリズミカルに歩を進めていた。
レベル99の筋力に任せて地面を蹴るのではなく、大地の傾斜に合わせて力を逃す。
元プロボクサーのステップワークと合気武道の体捌きが、見事に登山に融合していた。
「……ええ。素晴らしいです、ヨウ。昨日とは見違えるようです」
先頭を歩く珠子は、ヨウの学習能力の高さに素直に感心していた。
(本当に、この人はすごい。どんな状況でも、自分をアップデートできる……)
しかし、登り始めて一時間ほど経った頃。
珠子の顔から、感心の笑みがスッと消え去った。
「……ヨウ。ストップです」
珠子が立ち止まり、周囲を鋭く見回す。
風が止んだ。木々のざわめきが消え、鳥の鳴き声も聞こえない。
まるで、見えない巨大なドームの中に閉じ込められたかのような、耳鳴りがするほどの重い静寂。
空気が、水飴のようにねっとりと重い。
珠子は、懐から数枚の呪符を取り出し、昨日のように『霊視』の術を展開した。
青い光が珠子の瞳に宿る。
「……やはり」
珠子が、息を呑んで呟いた。
「どうした、珠子。霊脈は見えたか?」
「見えました。……凄まじい量です。ですが、昨日の羊蹄山とは全く正反対です」
珠子は、地面を指差した。
「昨日は、遥か地下深くを一本の奔流となって流れていました。でもここは……地中深くから、間欠泉のように膨大な霊力が『湧き上がって』います」
「湧き上がってる? 吐き出してるってことか?」
「はい。尻別岳の山体全体を使って、大地の奥底からエネルギーを吸い上げ、地上に向けてすさまじい勢いで放出しています。放出されたエネルギーは、目には見えませんが、昨日の羊蹄山に向かって空を切り裂くように流れていっています」
吸い込む、女の山。
吐き出す、男の山。
「……後世の人間は、これを見て『夫婦の山』と呼んだんでしょうね。まるで、エネルギーを与え合い、循環させているような……」
珠子が、少しだけ神秘的なものを見るような目で呟いた。
しかし、ヨウの表情は違った。
碧眼を鋭く細め、地面から立ち上る見えない霊力を見透かすように睨みつけている。
「……いや。こいつらは夫婦なんかじゃない」
「え?」
「珠子、お前も薄々感じてるんじゃないのか? これは、自然の営みや、ロマンチックな夫婦の絆なんかじゃない」
ヨウは、足元の土をゴシッと登山靴で踏みしめた。
「これは、巨大な『仕組み』だ。何か意図的な、恐ろしくスケールのデカい仕組みを見せられてる気分だぜ」
中身が四十九歳のおっさんであるヨウは、現世で数々の人間社会のシステムや、理不尽な組織の構造を見てきた。だからこそ、直感したのだ。
この二つの山は、愛し合っているのではない。
何か途方もない目的のために、エネルギーを循環させるポンプとして機能させられているのだと。
***
「……ヨウの言う通りかもしれません。少し、登山道から外れてみましょう。霊力の流れが一番濃い場所を探ります」
珠子はヨウの直感に同意し、獣道すら定かではない藪の中へと足を踏み入れた。
ヨウが前を歩き、レベル99の力で邪魔な枝や熊笹をバキバキと払い除けながら進む。
やがて、二人の前に、急峻な斜面に突き出すようにして現れた『それ』があった。
「これは……」
それは、岩肌だった。
いや、ただの岩肌ではない。
山の斜面の一部が、まるで巨大な広場のように平らに削り取られ、剥き出しになっているのだ。
そして、その岩の表面には、無数の『窪み』があった。
「祠も、神像もない……。文字も、アイヌの模様すらない……」
珠子が、震える手でその岩肌に触れた。
「珠子、この窪み……」
ヨウも近づき、岩肌の窪みに自分の手を当ててみた。
背筋が、ゾクッと粟立った。
人間の手が押し当てられたような窪みだった。
一つや二つではない。岩肌全体に、無数の人間の手が押し当てられた痕跡が残っているのだ。
「……何千年も前の人間たち……縄文時代か、それ以前の文明の人々が、ここで祈っていた……?」
珠子が、信じられないものを見るような目で呟いた。
「祈っていたんじゃねぇよ」
ヨウが、低い声で言った。
「え?」
「ここにいるのは、神様じゃねぇ。偶像も、教義も、名前すらない。昔の人間たちは、ただこの圧倒的な『山という巨大な力』そのものに触れ、畏怖し、ひれ伏すしかなかったんだ」
圧倒的な自然。そして、大地を貫く巨大なエネルギーの奔流。
古代の人間たちは、ただその力の前に圧倒され、岩に手を押し当ててすがりつくことしかできなかったのだ。
その時だった。
――ドクン。
「え……?」
珠子が、目を見開いた。
地震ではない。
足元が揺れたわけではない。木々も揺れていない。
しかし、大気が、空間が、そして自分たちの魂そのものが、内側から激しく揺さぶられた。
――ドクン。
二度目の脈動。
「ヨウ……っ! 今の……!」
「ああ、感じた。……足元からじゃねぇ。大地に埋め込まれた巨大な心臓だ!」
レベル99の勇者の肉体を持つヨウの超感覚が、その異常をハッキリと捉えていた。
尻別岳の地中深くから、膨大なエネルギーが心臓の鼓動のように脈打ちながら汲み上げられている。
そして、汲み上げられたエネルギーは上空へと吹き出し、隣の羊蹄山へと向かって凄まじい勢いで流れ込んでいる。
羊蹄山が、吸い込む。
尻別岳が、吐き出す。
ドクン。ドクン。ドクン。
恐怖。
それは、幽霊や魔物に遭遇した時の恐怖ではない。
圧倒的なスケールの違い。自分たち人間が、まるで巨大なクジラの体内に迷い込んだプランクトンやバクテリアにすぎないと思い知らされる、根源的な宇宙的恐怖だった。
「ぁ……、あぁっ……」
霊視を続けていたせいで、珠子の意識が竜脈と繋がってしまった。
人間の処理能力を遥かに超えた大地の鼓動が、直接脳内に流れ込んでくる。
珠子の瞳の焦点がブレ、その場に力なく膝から崩れ落ちそうになった。
「珠子ッ!」
ヨウは咄嗟に珠子の身体を抱きとめ、自らの腕の中にきつく抱きしめた。
そして、頭の中のスキルの海から、一瞬で最上位の防御魔法を引きずり出す。
「『絶対結界(アブソリュート・サンクチュアリ)』ッ!!」
ヨウが叫んだ瞬間、二人の周囲を巨大な黄金のドームが包み込んだ。
勇者の魔法。外部からの物理・魔法・霊的干渉を遮断する、神聖なる絶対領域だ。
黄金の光に包まれた途端、珠子を苛んでいた重圧と、山が脈打つ不気味な鼓動が、嘘のようにピタリと消え去った。
「はぁっ、はぁっ……!」
珠子は、ヨウの腕の中で荒い息を吐きながら、ガタガタと震えていた。
そんな珠子の背中を、ヨウは大きくて温かい手で優しく撫でた。
「『精神治癒』」
ヨウの手から放たれた柔らかな光が、珠子のすり減った精神をじんわりと癒やしていく。
「大丈夫だ、珠子」
ヨウの、鈴を転がすような美しい、けれどどこまでも頼もしい声が降ってくる。
「安心しろ。……俺を、しっかりと見ろ」
言われるがまま、珠子がゆっくりと顔を上げると、そこには透き通るような碧眼でこちらを真っ直ぐに見つめるヨウの顔があった。
その瞳には、恐怖も動揺もない。ただ、大切なものを守り抜くという強固な意志だけが宿っている。
(ヨウ……)
震えが、次第に治まっていく。
黄金の結界の中は、驚くほど静かで、温かかった。
狂おしいほどのプレッシャーを放つ外界とは完全に切り離された、二人だけの絶対安全圏。
「……調査が目的だ。無理して魂まで引っ張られる必要はねぇ」
ヨウの落ち着いた声に、珠子は何度か瞬きをして、深く息を吐き出した。
エージェントとしての理性が、少しずつ戻ってくる。
「……はい。もう大丈夫です。……ありがとう、ヨウ」
珠子は、ヨウの腕から少しだけ身体を離し、凜とした表情を取り戻した。
まだ少し顔は赤いものの、瞳の奥の光は力強い。
「では、撤退はしません。ここに泊まり、この絶対結界の中から、竜脈の調査と観察を続行します」
珠子のプロとしての決断を聞き、ヨウはパァッと顔を輝かせた。
「おう! そういうことなら任せろ!」
ヨウは、拳を天に向かって突き上げ、最高のテンションで叫んだ。
「ここをキャンプ地とする! だな!」
「……はい、そうです?」
珠子は、全く意味が分からず、小首を傾げた。
中身が四十九歳のおっさんであるヨウにとっては、北海道を代表する番組『水曜どうでしょう』の魂の叫びだったが、十九歳の珠子にはミリも伝わっていなかった。
「……いや。なんでもない。ごめんなさい」
ヨウは、ジェネレーションギャップに少しだけ悲しそうな顔をして謝った。
「気を取り直して、と! よし、設営するぞ!」
ヨウは虚空に手をかざし、得意の『収納魔法』を展開した。
空間の穴から、テント、寝袋、コット、ランタン、コンロなど、昨日密かに買い込んでいたキャンプ用品が次々と飛び出してくる。
「ちょっとヨウ! いつの間にこんな機材を……」
「収納魔法サマサマだろ? これなら、山の中でも快適なホテル暮らしだぜ!」
あっという間に、黄金の絶対結界の中にキャンプサイトが完成した。
「さあ、俺は外の警戒とメシの準備をしてるから、珠子は心ゆくまで調査してくれ」
「……はい。頼りにしていますよ、ヨウ」
珠子は、テントの前に設置されたアウトドアチェアに腰掛け、スケッチブックを取り出した。
結界の外では、依然として山全体が不気味な脈動を続けている。しかし、結界の中は完全に安全だった。
(……でも、この結界もずっとは持たないはず)
ヨウは、珠子には何でもない素振りをしているが、これほど高位の結界の維持には結構な魔力を継続して消費しているのだ。
(……朝までは大丈夫だろう。それまでに、必要なデータを取り終えてくれよ、珠子)
一方の珠子は、結界の境界線ギリギリから、強大な『竜脈』の流れを観察し、スケッチブックに精緻に描き写していく。
羊蹄山へ向かうエネルギーの流れ。
それを、昨日書き留めた羊蹄山と湧水地のデータと繋ぎ合わせてハッとした。
(昨日見つけた『三角形の霊脈』……。その全貌が、これで完全に繋がったわ)
巨大な心臓が脈打ち、吸い込み、吐き出す。
その果てしないエネルギーの循環の正体が、ゆっくりと、だが確実に姿を現し始めていた。




