羊蹄山――「吸い込む」女の山
八月中旬の早朝。午前五時半。
北海道の夏空は、雲一つない抜けるような青さに満ちていた。
ひんやりとした朝の空気が肺を心地よく満たし、高原特有の爽やかな風が、葉室珠子の黒髪をさらさらと揺らしている。
「うおおぉぉっ……! すげぇな、間近で見ると圧倒的だぜ!」
羊蹄山の南西に位置する真狩コースの登山口駐車場。
大暮ヨウは、車から降りるなり首が痛くなるほど山頂を見上げて、感嘆の声を上げた。
目の前にそびえ立つのは、標高一八九八メートルを誇る成層火山、羊蹄山。その完璧なまでに整った円錐形のシルエットから「蝦夷富士」とも呼ばれる北海道を代表する名峰だ。
夏の眩しい朝日を浴びた巨大な山肌は、深い緑の絨毯に覆われ、山頂付近にはわずかに荒々しい岩肌が覗いている。
澄み切った青空とのコントラストがあまりにも美しく、まるで巨大な一枚の絵画のような雄大さだった。
昨日倶知安で揃えたばかりの真新しい登山装備に身を包んだヨウは、黄金の長い髪を邪魔にならないようポニーテールに束ねている。
透き通るような白い肌と碧眼が朝日に照らされ、ただ準備運動をしているだけなのに、スポーツメーカーのポスターのような鮮烈な美しさを放っていた。
「よっしゃ! レベル99の勇者の力、見せてやるぜ! こんな山、走って登ってやるからな!」
「……ヨウ。言っておきますけど、山を舐めたら本当に痛い目を見ますよ。ペース配分は先導する私に合わせること。いいですね?」
珠子は、自身のザックの胸ベルトをカチャリと締め直しながら、エージェントとしての冷徹な声で念を押した。
しかし、その実、珠子の内心は昨夜の出来事を思い出して、耳の先まで真っ赤になりそうなほど動揺していた。
(昨日の夜、結局私からヨウに抱きついて寝ちゃったんだよね……。朝起きたら、ヨウの方が私をガッチリ抱きしめてて……もう、心臓が口から飛び出るかと思った……っ!)
そんな乙女の激しい動揺を微塵も感じさせないプロのポーカーフェイスで、珠子は登山靴の靴紐を最終確認する。
「さあ、行きますよ。現在の時刻は午前六時。今日の真狩コースは比較的登りやすいと言われていますが、それでも山頂付近までは片道四〜五時間はかかる長丁場になります。無理は禁物です」
二人は登山口のゲートをくぐり、朝日が差し込む深い森の中へと足を踏み入れた。
***
登山開始から二時間が経過し、時刻は午前八時を回った。
周囲はエゾマツやトドマツの深い針葉樹林から、ダケカンバやナナカマドの広葉樹林へと変わりつつあった。
木漏れ日が登山道に美しい斑模様を描き、セミの鳴き声と野鳥のさえずりが心地よく響いている。八月中旬とはいえ、森の中はひんやりとしていて気持ちがいい。
しかし。
「はっ、はっ……、ふぅ……っ!」
ヨウの息は、五合目を過ぎたあたりから予想以上に早く上がっていた。
「……おい、珠子。なんか、思ったよりキツいな、これ」
ヨウは、トレッキングポールに体重を預け、額に浮かんだ玉のような汗を手の甲で拭った。
レベル99の勇者クレアの肉体は、無尽蔵のスタミナと岩を砕くほどの筋力を持っているはずだ。それなのに、足腰には妙な疲労感が蓄積し、息が上がっている。
前を一定のペースで歩いていた珠子は、立ち止まって涼しい顔で振り返った。
「だから言ったじゃないですか。登山は、筋力や体力だけで登るものじゃないんです」
珠子の足取りは、羽のように軽く、そして一切の無駄がなかった。
「ヨウは、力が強すぎるがゆえに、一歩一歩の踏み込みで地面を無駄に蹴ってしまっているんです。それと、足場選び。浮石に体重をかけたり、段差の高いところを無理に筋力で越えようとしたり……。そういう小さなエネルギーの浪費が、積もり積もって大きな疲労になるんですよ」
「うっ……言われてみれば、確かに」
「重心は常に身体の中心に置くこと。靴の裏全体で地面を平らに捉える『フラットフッティング』を意識してください。それと、呼吸は足の運びに合わせてリズミカルに。歩幅は小さく、一定のペースを保つのがコツです」
珠子の的確なアドバイスを受け、ヨウは元プロボクサーとしての身体操作の勘を働かせ、足の運びを修正し始めた。
(なるほど……力任せに地面を蹴るんじゃダメなんだ。自然の傾斜とリズムに合わせる。合気武道の『力を流す』精神と同じだな)
少しずつ歩き方がスムーズになり、呼吸が落ち着いていくヨウを見て、珠子は感心したように目を細めた。
(やっぱり、ヨウはすごい。圧倒的な力を持っているのに、それに驕らず、教えられたことをすぐに吸収できる。……そういう素直で真面目なところ、先生だった頃から本当に大好き)
「おう、なんか急に楽になってきたぞ! サンキュー、珠子。お前、本当に頼りになるな!」
ヨウがニカッと満面の笑みで振り返る。
「……っ。当然です。これでもプロですから」
珠子は、胸の奥がキュンと跳ねるのをごまかすように、ツンと顔を背けて再び歩き出した。
***
六合目付近。標高が一三〇〇メートルを超えたあたりで、森の空気が一変した。
今まで賑やかに聞こえていたセミや野鳥の声が、まるで不自然な結界に入り込んだかのように、ピタリと止んだのだ。
「……止まって、ヨウ」
先頭を歩いていた珠子が、片手を挙げて静止の合図を出した。
彼女の表情から先ほどまでの穏やかさが消え去り、八咫烏のエージェントとしての鋭い眼光が周囲の森を睨みつけている。
「どうした、珠子。魔物でも出たか?」
「いえ……霊脈の気配です」
珠子は、登山道から少し外れた、ハイマツと熊笹が生い茂る仄暗い斜面へと足を踏み入れた。ヨウも警戒しながらそれに続く。
珠子は目を閉じ、懐から和紙でできた呪符を取り出して、人差し指と中指で挟むように構えた。
「『視よ(みよ)』」
短く呪文を唱えると、珠子の瞳の奥に薄っすらと青い霊力が宿った。術者の視覚を拡張し、大地のエネルギーの流れを可視化する『霊視』の術だ。
「……おかしいですね」
「何がだ?」
「霊脈が流れているのは間違いないんですが……普通の霊脈とは決定的に違います。通常、山の霊力というのは、地表や木々の根を伝って、網の目のように浅い部分を流れるものです。でも、ここの霊脈は……」
「ここの霊脈は?」
「『地下深く』です。私たちの干渉を完全に拒絶するかのように、地の底深くを、とてつもなく巨大な一本の奔流となって流れているんです。私の霊視でも、青い光の帯が遥か地下を走っているのを感じるのが精一杯です」
珠子が術を解き、困惑したように地面を見つめた。
ヨウも自分の足元を見るが、当然ただの土と岩があるだけだ。
「それって、ヤバいことなのか?」
「わかりません。ただ、自然の摂理からは大きく外れています。……ヨウ、あそこを見てください」
珠子が指差した先。
熊笹に半分埋もれるようにして、巨大な『石』が鎮座していた。
大人が三人で手を繋いでようやく抱えきれるかどうかというほどの巨岩だが、自然に転がってきた岩ではない。
表面は分厚い苔に覆われているものの、明らかに人工的に平らに削り出された痕跡があった。
しかし、文字は一つも刻まれていない。神社の鳥居や祠、アイヌのイナウ(木幣)のような、現代の我々が知る宗教的・文化的な意匠とは全く異なる、無機質でありながら圧倒的な存在感を放つ石塊。
ヨウは近づき、その苔むした石の表面にそっと触れた。
「……冷たい。それに、なんか……すげぇ古いな。いつからここにあるんだ、これ」
「学術的な年代測定をしたわけではないので推測の域を出ませんが……アイヌ文化の痕跡とは明らかに異なります。もしかしたら、縄文時代か、あるいはそれ以前の文明のものかもしれません。断定はできませんが……」
珠子はタブレットを取り出し、石の形状とGPSの座標を記録した。
「この巨石が、地下の霊脈と何らかの関連を持っているのは間違いありません。ただの道標なのか、地下の奔流を抑え込む封印なのか……」
「得体が知れないな。けど、なんだか……不思議と怖い感じはしない。悲しいような、ものすごく静かな感じがするぜ」
中身はおっさんであるヨウの鈍い感性でも、その巨石から発せられる悠久の時の重みと、ある種の寂寥感を感じ取ることができた。
***
さらに標高を上げ、九合目付近。時刻は午前十時半。
森林限界を完全に超え、周囲を覆っていた背の高い木々が姿を消し、ゴツゴツとした火山岩と高山植物の群落へと変わった。
「おおおぉぉっ……!!」
不意に視界が大きく開け、ヨウは感極まって声を上げた。
眼下には、緑豊かなニセコ連峰のパノラマと、パッチワークのように広がる倶知安の街並みが一望できる。
上空には雲一つない青空が広がり、遠くには日本海の水平線までが太陽の光を反射してキラキラと輝いて見えた。
「すげぇ……! こんな絶景、テレビでしか見たことなかったぞ! 自分の足でここまで登ってきたってのが、また最高だな!」
ヨウは、強風に金髪を激しく煽られながら、両手を大きく広げて雄大な景色を全身で受け止めた。
その美しい横顔は、大自然の風景に溶け込み、まるで神話の女神が降臨したかのような神々しさだった。
「……ええ。本当に、綺麗ですね」
珠子は、絶景ではなく、満面の笑みを浮かべるヨウの横顔を愛おしそうに見つめながらポツリと呟いた。
しかし、すぐに珠子の顔がエージェントの険しいものへと変わる。
彼女の視線の先には、羊蹄山の南東に位置するもう一つの巨大な山体――『尻別岳』の姿があった。
珠子は、懐から手のひらサイズの古い『羅盤』を取り出した。霊力の磁場や流れを正確に測るための呪具である。
呪文を短く唱えると、羅盤の特殊な針が激しく回転し始め、ピタリと尻別岳の方向を指し示した。
「……ヨウ。見てください」
「ん? どうした珠子、そんな怖い顔して」
珠子は、信じられないものを見るような目で、自分たちが立つ羊蹄山の山頂方向と、向かい合う尻別岳を交互に見比べた。
「あの尻別岳から……膨大な霊力が、この羊蹄山に向かって『流れ込んできて』います」
「流れ込んでる? それって異常なのか?」
「完全な異常です。通常、山というものは大地のエネルギーを集め、周囲の平野部へと『流れ出させる』源泉なんです。それが霊脈の基本中の基本です。なのに、この羊蹄山は……」
珠子はゴクリと息を飲み、言葉を紡いだ。
「尻別岳から放たれた霊力を、全て『吸い込んで』いるんです。まるで、巨大なブラックホールのように」
「吸い込んでる……」
ヨウは、足元の巨大な山体を改めて見下ろした。
これほど雄大で美しい山が、実は隣の山からエネルギーを貪り食う巨大な装置だというのか。
「……女の山、か」
ヨウが何気なく呟く。
「え?」
「いや。尻別岳と羊蹄山って、地元じゃ夫婦山って呼ばれてるんだろ? エネルギーを吸い込む女と、吐き出す男。……いや、エロい意味じゃなくてな! なんというか、生命の根本的なメカニズムみたいなものを感じるぜ」
ヨウの言葉に、珠子はハッとした。
「生命の、メカニズム……。地下深くを流れる強大な霊脈、そして、吸い込む山と吐き出す山……」
異常な霊脈の動き。それはまるで、二つの山を繋ぐ巨大な血管のようではないか。
その時だった。
バチッ……!!
「きゃっ!?」
珠子の悲鳴と共に、彼女の手の中にある羅盤のガラス盤面に、突然亀裂が走った。
羅盤の針が、狂ったように左右に高速で振れ始めている。
同時に、ヨウも肌が粟立つような感覚を覚えた。気温が急激に下がったわけではないのに、背筋に強烈な悪寒が走る。
空気が、重い。
「ヨウ、下山します! 今すぐに!」
珠子が顔を真っ青にして叫んだ。
「どうした!? 魔物が来たのか!?」
「違います! これ以上山頂に近づくのは危険です。霊的な引力……吸い込む力が急激に強まっています。こんな場所に留まっていたら、私たちの魂や意識ごと、山に引っ張られかねません!」
羅盤が警告する、急激な霊場磁場の異常変動。
これ以上は、人間の存在できる領域ではない。
「わかった! 急いで降りるぞ!」
ヨウは珠子の腕をしっかりと掴み、来た道を急ぎ足で引き返し始めた。
足元から響くような地鳴りは聞こえない。しかし、確かな「何か」が、二人の背後で巨大な口を開けているような、圧倒的な恐怖感がそこに残っていた。
***
その日の夜。
無事に下山し、倶知安の温泉旅館の自室に戻った二人は、座卓の上に地図を広げていた。
「……これが、今日私たちが観測した霊脈の流れです」
珠子は、地図上の尻別岳から羊蹄山に向かって、赤いペンで太い矢印を引いた。
「尻別岳から吐き出された霊力は、地下深くを通って羊蹄山へと強力に吸い込まれています。そして……」
珠子は、羊蹄山の麓にある『ふきだし公園』などの湧水地を青いペンで丸く囲み、そこへ向かってもう一本の線を引いた。
「羊蹄山に吸い込まれたエネルギーは、山体内で何かを経由し、最終的にこの湧水地へと集束している。地図上で結ぶと……」
赤と青の線が繋がり、地図の上に巨大な『三角形』が浮かび上がった。
「羊蹄山、尻別岳、そして湧水地……。巨大なトライアングルだな」
ヨウが腕を組んで唸る。
「はい。そして、私たちが今日六合目で見つけたあの『古い巨石』は、ちょうどこの三角形の辺の真上に位置しています」
珠子が、地図上にバツ印を書き込んだ。
「偶然じゃないな」
「ええ。何者かが、意図的にこの巨大な霊的サイクルを利用している……あるいは、このサイクルそのものを作り出したのかもしれません」
「……誰が? アイヌより昔の連中がか?」
「わかりません。でも、もし明日、向かいの尻別岳でも同じような『古い石』が見つかれば、この仮説は確信に変わります」
珠子は、タブレットの電源を落とし、静かにヨウを見た。
「明日は、尻別岳に登ります。霊力を吐き出す『男の山』。そこで何が起きているのか、この目で確かめましょう」
「おう。任せとけ、珠子。俺がお前をしっかり守ってやるからな」
ヨウが、頼もしくニカッと笑う。
その無防備で真っ直ぐな笑顔に、珠子の心臓はまたしてもドクンと大きく跳ねた。
巨大な謎への恐怖よりも、ヨウと一緒にこの謎に立ち向かえるという事実が、珠子の胸を熱くしていた。
***
作戦会議を終え、二人は就寝の準備を整えた。
部屋の中央には、二組の布団が敷かれている。
「ふわぁ……。やっぱ登山は疲れるな。さっさと寝るか」
ヨウが大きく欠伸をしながら、自分の布団へと潜り込もうとして、ふと動きを止めた。
二つの布団の間には、人が一人通れるほどの隙間が空いている。
「あれ? 布団離れてるな。昨日って、くっついてなかったか?」
ヨウが不思議そうに首を傾げる。
「あっ……」
珠子は、顔から火が出るかと思った。
(しまった、今日はくっつけるの忘れてた!)
昨日、自分がこっそりと布団をくっつけたことを、ヨウは宿の人が最初からそうセッティングしたのだと思い込んでいたのだ。
「宿の人が間違えたのかな〜」
ヨウは全く疑う様子もなく、よいしょっと、自分の布団を引っ張り、珠子の布団にぴったりとくっつけた。昨日と同じ、隙間ゼロの距離。
「ほら、これでよし」
「そ、そうですね。間違えたのでしょう。うふふ……」
珠子は、引き攣りそうになる頬の筋肉を必死にコントロールしながら、曖昧に笑って誤魔化した。
しかし、布団の中でギュッと握った拳は、歓喜に震えていた。
深夜。
「……んんっ」
寝相の悪いヨウが、ゴロンと寝返りを打ち、昨日と全く同じように珠子の布団の領地へと侵入してきた。
ズスッ。ヨウの柔らかい身体が、珠子の背中にぴったりとくっつく。
(……ヨウが悪いんだから。ヨウがまたこっちに来たんだから、仕方ないわよね。それに、私も寝相悪いし)
珠子は、誰に対するものかもわからない言い訳を心の中で唱えると、ゆっくりと寝返りを打ち、ヨウの方を向いた。
そして、無防備に眠るヨウの身体に、そっと両腕を回して抱きしめた。
(……温かい。いい匂い。大大好き)
大好きな人の温もりと香りに包まれ、張り詰めていた登山の疲労と緊張が嘘のように解けていく。
明日の尻別岳調査への不安も、すべてこの腕の中に溶けていくようだった。
珠子は、ヨウの胸元に顔を埋め、幸せな微笑みを浮かべたまま、またたく間に深い眠りへと落ちていった。




