夜の作戦会議と「異常な記録」
珠子の運転するCX-60が滑り込んだのは、羊蹄山の雄大な姿を望む、豪奢で落ち着いた佇まいの高級温泉旅館だった。
エントランスには打ち水がされ、打ち鳴らされる鹿威しの音が、涼やかな風情を醸し出している。
「おおーっ、すげぇ立派な宿だな! こんなとこ、俺の稼ぎじゃ一生泊まれないぜ!」
フロントのロビーに足を踏み入れた大暮ヨウは、高い吹き抜けの天井と高級感あふれる和モダンの内装を見回し、おっさん丸出しのテンションで歓声を上げた。
その中身とは裏腹に、青いサマードレスを纏った金髪碧眼の美しい姿が動くたび、すれ違う宿泊客たちがハッと息を呑んで振り返る。
「ヨウ、あまり大声を出さないで。目立つから」
チェックインの手続きを終えた珠子が、ルームキーを手に戻ってきた。
「おう、わりぃわりぃ。で、俺の部屋はどこだ? 鍵、こっちにくれよ」
ヨウが当然のように手を差し出すと、珠子はピタリと動きを止め、無表情のままルームキーを自分の胸元に引き寄せた。
「……ないわよ」
「は?」
「ここで、二人で泊まるの」
「……え?」
ヨウの碧眼が限界まで見開かれた。
「ヨウと私、二人で同じ部屋に泊まるの」
「いやいやいやいや! ダメだろう!!」
ヨウがロビーの隅で、声のトーンを落としながらも激しく身振り手振りをしてゴネ始めた。
「俺はな、見た目はこんな金髪美少女でも、中身は四十九歳のおっさんなんだぞ!? しかも既婚者だ! かつての教え子の、こんなピチピチの女の子と一緒の部屋で寝泊まりなんて……倫理的に絶対アウトだろ!」
「ピチピチって……表現が昭和ね」
珠子は冷静にため息をつき、ピシャリと言い放った。
「いい、ヨウ。今の倶知安・ニセコ方面は大繁忙期なの。組織のコネを使っても、この一部屋を押さえるのが限界だったのよ。それに、周囲から見れば私たちは『同年代の女性の友人同士』にしか見えないわ。護衛の面から言っても、絶世の美女を一人で別部屋にする方がセキュリティ的に危険。……何か、不服?」
エージェントとしての正論のフルコースでぶっ叩かれ、ヨウは完全にぐうの音も出なくなった。
「……わかったよ」
諦めて肩を落とすヨウの背中を見つめながら、珠子はツンとした表情の裏側で、心臓が爆発しそうなほどの歓喜の悲鳴を上げていた。
(やった……っ! ヨウと、同じ部屋でお泊まり……っ!!)
ギュッとルームキーを握りしめる珠子の手には、じっとりと汗が滲んでいる。
初恋の先生と、夜までずっと一緒の空間にいる。しかも、あの無防備で規格外な容姿のまま。
百合的な意味ではなくとも、大好きな人の無防備な姿を独り占めできる事実に、珠子の乙女心は少女漫画の主人公のようにドパァン!と花吹雪を散らして乱舞していた。
***
通されたのは、いぐさの香りが心地よい、広々とした和室だった。
窓の外には羊蹄山の裾野が広がり、絶景を独り占めできる贅沢な空間だ。
「よっしゃあ! やっぱ日本の宿は和室に限るぜ!」
部屋に入るなり、ヨウはテンション高く声を上げた。そして、何の躊躇いもなくサマードレスに手をかけ、バサッと脱ぎ捨てた。
「ひゃっ……! ち、ちょっとヨウ、急に脱がないでよ!」
「ん? 旅館に来たら、まずは浴衣に着替えるに決まってるだろ。俺、旅館の浴衣大好きなんだよなー。リラックスできるし」
そう言って、ヨウは備え付けの浴衣を羽織り始める。
(見ちゃダメ、見ちゃダメ……! 先生の着替えなんて、いくら女の身体でも直視できない……っ!)
指の隙間からチラリと見えたヨウの身体は、同性の珠子ですら目を奪われるほどの完璧なプロポーションだった。真っ白な肌に、柔らかな曲線。
浴衣の襟元から覗くうなじの艶かしさに、珠子の胸は高鳴りっぱなしだ。
「よし、着替え完了! ほら、珠子も早く着替えろよ。夕飯の前に温泉行こうぜ」
「わ、わかったわよ。……向こう向いててね」
珠子も平静を装いながら、少しだけ期待を胸に服を脱ぎ始めた。
細身でありながら、日々の鍛錬で無駄なく引き締まった身体。
ふと、後ろを向いていたはずのヨウが、ポツリとこぼした。
「……へぇ。珠子、すげぇ引き締まってるのに、乳もお尻もちゃんと大きいんだな」
「なっ……!?」
「いや、健康的に鍛えられてていい体してるって、スポーツマン目線で純粋に褒めてるんだよ。適度に筋肉もあって骨盤もしっかりしてるし、完全に安産タイプだな、お前」
悪びれもせず、純粋な感嘆の声を上げるヨウ。中身はおっさんだからこその、ストレートすぎる賛辞だ。
「バ、バカっ! セクハラよ、ヨウ! 教え子に向かって何言ってるの!」
珠子は顔を真っ赤にして怒鳴り、慌てて浴衣を羽織った。
しかし、その口元は微かに綻んでいた。
(安産タイプ、安産タイプ……っ! ヨウに褒められた! 女の子として見られてる……っ!)
怒っているフリをしながらも、内心ではガッツポーズをして大喜びする珠子だった。
***
大浴場へ向かう暖簾をくぐり、脱衣所を経て湯船へと向かう。
広々とした大浴場や露天風呂には、外国人観光客も多く、大変な賑わいを見せていた。
(へへへ……女湯ってすげぇな。まさにパラダイスじゃねぇか)
ヨウは、おっさんの本能を全開にして、湯煙の向こうに見え隠れする女性たちの身体をエロい目で見回そうとした。
しかし。
「……ん?」
ヨウは、強烈な違和感に気づいた。
自分が周りを見ているのではない。周りの『全員』が、自分を見ているのだ。
「Wow... Beautiful...」
「太美了……簡直像天使……」
「진짜 예쁘다……모델인가……?」
「うわっ、あの金髪の人、すっごい綺麗……」
英語、中国語、韓国語、そして日本語。
様々な言語での賞賛と驚嘆のざわめきが、波紋のように浴場全体に広がっていく。
ヨウの一挙手一投足に、世界中の女性たちの視線が釘付けになっているのだ。
(お、おいおいおい……なんだこれ、見られるばっかりで全然落ち着かねぇぞ……!)
ヨウは、無数の視線に晒され、お湯の中で小さく縮こまってしまった。自分の容姿を持て余す、四十九歳のおっさんの悲劇である。
そんなヨウの横で、珠子はなぜかツンと胸を張っていた。
(ふふん。どうですか皆さん。この世界一綺麗で魅力的な人は、私のヨウ(先生)なんですよ!)
まるで自分の自慢の恋人を見せびらかすかのように、珠子は密かに誇らしい気持ちでいっぱいになっていた。
「ヨウ、背中、流すわよ」
「おっ、悪いな。頼むわ」
洗い場に並んで座り、珠子がヨウの背中に石鹸の泡を乗せる。
キュッ、キュッ。
滑らかな白い肌を、珠子の手が丁寧に滑っていく。
(……先生の背中。こんなに華奢で綺麗になっちゃったけど、でも……)
手に伝わる温もりを感じながら、珠子の心臓はトクトクと早鐘を打っていた。大好きな人の背中に触れている。ただそれだけで、どうにかなりそうなくらい幸せだった。
「あ〜……極楽、極楽」
ヨウが、うっとりと目を閉じて声を出した。
「なんかさ、こうやって教え子に背中洗ってもらうのって、すごく嬉しいかもな。俺には子供がいないけど……もし娘がいたら、こんな感じなのかな〜って」
ドキンッ。
珠子の手が、ピタリと止まった。
「……む、娘?」
「おう。俺がおっさんのままで、お前くらいの年頃の娘がいたらさ。こうやって温泉で背中流してもらえたら、親父としては最高に幸せだろうなって」
ヨウは、完全に無自覚だった。純粋な親愛の情と、教師としての温かい目線。
しかし、珠子にとっては、乙女心を全力で撫で回されたようなものだった。
(む、娘って……! 私、そんな子供じゃないわ! でも……『最高に幸せ』って言われた……っ!)
「……私も、ヨウの背中洗うの、すごく嬉しい。娘じゃ、ないけどね」
珠子は、真っ赤に染まった顔をヨウの背中に隠すように俯きながら、ほんの少しだけ反抗するように力を込めて背中を擦った。
「ほら、今度は俺が洗ってやるよ」
ヨウが手ぬぐいを受け取り、珠子の背中を洗い返す。二人は温泉旅館の醍醐味を存分に味わった。
***
湯上がりの部屋食は、言葉を失うほど豪華だった。
北海道産の新鮮なウニやイクラの刺身、タラバガニの塩茹で、そして見事なサシの入った白老牛の陶板焼き。
「うおおぉぉっ! なんだこれ、美味すぎる! こんな美味い肉、俺の人生で食ったことねぇぞ!」
ヨウは、見た目の優雅さなどかなぐり捨て、おっさんのように豪快にビールを煽り、白飯をかき込んでいる。
「ヨウ、そんなに慌てて食べなくても逃げないわよ。ほら、口の横にタレがついてる」
珠子がクスクスと笑いながら、ナプキンでヨウの口元を拭ってやる。
「悪い悪い。でもマジで幸せだわ〜。美味しいもん食って、温泉入って。天国だな、こりゃ!」
無邪気に笑うヨウを見て、珠子も心がぽかぽかと温かくなるのを感じていた。
(ずっと、この幸せな時間が続けばいいのに……)
食後、星空を見上げる露天風呂にもう一度サッと浸かり、ヨウは「幸せすぎて溶けそうだ」と至福の吐息を漏らしていた。
そして、部屋に戻る前。
珠子は、「ちょっと自販機で飲み物買ってから戻るわね」とヨウに告げ、小走りで先に部屋へと戻った。
部屋の中央には、仲居さんによって敷かれた二組の布団が用意されていた。
しかし、その二つの布団の間には、人が一人通れるほどの隙間が空いている。
(この隙間は……いらないわね)
珠子は、顔を真っ赤にしながらも、素早い動きで自分の布団をズルズルと引っ張り、ヨウの布団にぴったりとくっつけた。
隙間ゼロ。これなら、寝返りを打てばすぐに触れ合える距離だ。
「ふぅ……」
満足げに息をついた直後、廊下からヨウの足音が聞こえ、珠子は慌てて何食わぬ顔で座椅子に座った。
***
すっかりリラックスモードになっていたヨウだったが、ふと、珠子が持参したアタッシュケースからタブレット端末を取り出すのを見て、姿勢を正した。
「……さて。ヨウ」
珠子の声のトーンが、一段低く、冷たく澄んだものに変わる。
恋する乙女の顔から、八咫烏のエージェントとしての『プロの顔』へのスイッチ。
「明日の本題、『後志霊脈の異常調査』について、作戦会議を始めるわ」
「おう。任せろ」
ヨウも、真剣な顔で頷く。
珠子はタブレットを操作し、組織から提供された古い資料の画像をヨウの前に提示した。
そこには、墨で書かれた古文書のスキャンデータと、現在の羊蹄山・尻別岳周辺の地図が重ね合わされていた。
「現在、羊蹄山周辺で観測されている霊力の異常な乱れ……。実はこれ、最近になって突然始まったものではないの」
「どういうことだ?」
「この資料を見て。江戸時代中期、そしてさらに遡って室町時代の記録にも、この地域一帯で『大地の気が逆流し、山が鳴動する』という記述が残されているのよ。つまり、数百年前にも全く同じ現象が起きている」
「何百年も前から……? じゃあ、何かの周期的な現象ってことか?」
「その可能性が高いわね。しかし、八咫烏が把握している資料には、その『原因』に関する該当の記録が一切ないの」
ヨウが腕を組み、難しそうな顔でタブレットを覗き込んだ。
「原因がわからないから、わざわざ現地に行って直接確かめるしかないってわけか」
「ええ。私たちの任務は、明日、その震源地と推定されている霊脈の流れを直接視認し、データを持ち帰ることよ」
珠子は、地図上の『羊蹄山』と『尻別岳』を指差した。
「いい、ヨウ。明日の羊蹄山登山において、重要なことを一つ言っておくわ」
「なんだ?」
「『無理に頂上は目指さない』。私たちの目的はあくまで霊脈の調査であり、異常の起点を見つけること。もし、手に負えない『何か』に遭遇した場合、あるいは霊脈の乱れが危険域に達した場合は、即座に撤退するわ」
「わかった。命あっての物種だからな。お前の指示に従うよ」
ヨウが力強く頷くと、珠子はタブレットの電源を落とした。
薄暗い部屋の照明の中、珠子は少しだけ躊躇うように視線を伏せた。
「……ただ、気になる記録が一つだけあるの」
「気になる記録?」
「ええ。過去の文献に残された、奇妙な証言……。『山が、巨大な獣のように脈打つ音を聞いた』って。……ただの比喩表現かもしれないけれど、少し気味が悪くて」
「山が脈打つ音……」
ヨウは、窓の外の暗闇に沈む羊蹄山のシルエットをじっと見つめた。
その壮大な姿の奥底に、得体の知れない巨大な謎が眠っている。
「……まあ、行ってみればわかるさ」
「そうね。明日は早いから、もう寝ましょう」
部屋の明かりが消され、二人は布団に潜り込んだ。
窓の外からは、夏の虫の音と、風に揺れる木々のざわめきが聞こえてくる。
「おやすみ、珠子」
「……おやすみなさい、ヨウ」
ヨウは、布団に入って数分もしないうちに、スヤスヤという心地よい寝息を立て始めた。
一方の珠子は、暗闇の中で目をパッチリと開けていた。
なぜなら、ヨウの布団と自分の布団がぴったりとくっついているため、ヨウの温もりがシーツ越しに伝わってくるからだ。
(隣で、ヨウが寝てる……。手を伸ばせば、届く距離に……)
バクバクと五月蝿い心臓の音を必死に抑え込みながら、珠子はシーツをギュッと握りしめた。
自分からは、恥ずかしくていけない。
しかし、一時間ほど経った頃。
「……んんっ」
寝相の悪いヨウが、ゴロン、と寝返りを打ち、あろうことか珠子の布団の領地へと侵入してきたのだ。
ズスッ。
ヨウの柔らかい身体が、珠子の背中にぴったりとくっつく。
「ひゃっ……!」
珠子は声にならない悲鳴を上げ、全身を硬直させた。
(ヨウ、寝相悪すぎ……っ! こんなにくっついて……!)
どうしよう、離れるべきか。でも。
珠子は、暗闇の中でそっと息を吐き、言い訳を思いついた。
(……ヨウが悪いんだから。ヨウがこっちに来たんだから、仕方ないわよね。それに、私も寝相悪いし)
珠子は、自分にそう言い聞かせると、ゆっくりと寝返りを打ち、ヨウの方を向いた。
そして、無防備に眠るヨウの身体に、そっと、両腕を回して抱きついた。
(……温かい。いい匂い。……大好き)
大好きな人の温もりと香りに包まれ、張り詰めていた緊張が嘘のように解けていく。
明日の巨大な謎への不安も、すべてこの腕の中に溶けていくようだった。
珠子は、ヨウの胸元に顔を埋め、幸せな微笑みを浮かべたまま、あっという間に深い眠りへと落ちていった。




