魔王の受験資格と、宝物庫の真の聖剣
八月の中旬。
洗面所での洗顔をアイリーンに全力で阻止され、ヨウは仕方なく、祭とアイリーンの手によって施された「完璧なメイク」を維持したまま、リビングのちゃぶ台へと戻ってきた。
四十九歳のおっさんの魂には、顔の上に何かが乗っているようなペタペタとした感触がどうにも落ち着かない。
「ったく……顔洗うのもダメとか、どうなってんだよ。息苦しいぜ」
ブツブツとボヤきながら、ヨウは参考書を開いた。
その向かいでは、アイリーンが広げたドリルに向かって鉛筆を走らせている。
だが、彼女の猛禽類のようなオッドアイは、問題集とヨウの顔を、数秒おきにチラチラと往復していた。
「……ゴシュジンサマ、大好き」
ふと、アイリーンの口から甘い声が漏れた。
鉛筆を持ったまま、完全にヨウの美貌に見惚れてしまっている。
「大好きだったけど……もっと、もっと、大好きデス……」
「おいっ!」
ヨウは参考書をパタンと閉じ、呆れ顔でツッコミを入れた。
「お前なぁ! 心の声が全部言葉に出てるぞ! 気持ちはわかった、ありがとうな! でも今は勉強に集中しろ!」
「アウッ……! 畏まりマシタ……!」
ビクッと肩を揺らしたアイリーンは、慌てて視線をドリルに戻し、カリカリと鉛筆を動かし始めた。
ヨウはため息をつきながら、アイリーンの進み具合を覗き込んだ。
「……おっ」
ヨウは目を丸くした。
アイリーンが解いているのは、すでに小学校高学年レベルの漢字や算数の問題だった。
こっちの世界に来てまだわずかな期間しか経っていないというのに、異世界で魔界を統べていた頭脳は、凄まじいスピードで現世の知識を吸収している。
(……このペースなら、もしかして)
ヨウの脳裏に、あるアイデアが浮かんだ。
今年、自分が受ける予定の高卒認定試験。もしかしたら、この元魔王も一緒に受験できるのではないだろうか。
(アイリーンには、珠子が裏のルートで作ってくれた戸籍と身分証がある。年齢は俺の一つ下の19歳だし条件は満たしている、こいつも受験資格はあるはずだ)
「アイリーン。お前、すごいな。えらいぞ」
ヨウは手を伸ばし、アイリーンの深紅の髪を優しく撫でた。
不意に撫でられたアイリーンは、ヨウが何を考えているのかよくわかっていない様子だったが、大好きなご主人様に褒められたことが嬉しくて、ふにゃりとだらしない笑顔を浮かべた。
「エヘヘ……アリガトウゴザイマス!」
ヨウは手元のスマホを開き、高卒認定試験の日程を改めて調べた。
今年度の第2回試験(秋試験)の出願期間は、7月22日から9月12日まで。まだ間に合う。
試験日は11月だ。
手続きも、スマホで願書を取り寄せ、必要書類と収入印紙を揃えて簡易書留で郵送するだけと、それほど複雑ではない。
(よし、俺とアイリーンの二人分、まとめて出願しちまうか。一緒に勉強した方がモチベーションも上がるしな)
ヨウは、スマホの画面をタップし、手際よく二人分の資料請求を完了させた。
「……うん。やっぱり、金がいるな。しっかり稼がないとダメだ」
ヨウは気合を入れ直し、通話アプリを開いて珠子に電話をかけた。
数回のコールの後、すぐに出る。
『はい、ヨウ。どうしたの?』
「おう、珠子。急ぎの出張の件なんだけど、俺の予定は大丈夫だ。いつでもいけるぞ」
『本当!? ありがとう、助かるわ。……あの、もしヨウの都合が良ければ、これからでも良いかな?』
「ああ、大丈夫だ」
『分かった。それじゃあ、これからアパートに向かいますね』
電話を切り、ヨウは手早く祭宛に「これから出張に出る」とメールを打った。
そして、タンスの奥から現金を取り出し、生活費としていくらかをちゃぶ台の上の封筒に入れた。
「アイリーン、俺が留守の間のお金、ここに置いておくからな。無駄遣いするなよ」
「ハイ。マツリサマト、大切ニ使イマス」
アイリーンが頷く。
ヨウは立ち上がり、寝室に置いてあった自分の大きなボストンバッグを肩に担ごうとした。
「……ん?」
アイリーンが、ヨウの大きなバッグを見て不思議そうに首を傾げた。
「ゴシュジンサマ。今頃ナンデスガ……収納魔法で、収納しないのですか?」
「へっ? 俺にもできるのか、それ?」
ヨウが驚いて聞き返すと、アイリーンは、日本の壁の薄いアパートで大きな声を出すのを避けるためか、正確に伝えるためか、直接ヨウの脳内に念話を送ってきた。
『ハイ。収納魔法は生活魔法の基礎ですから。容量は魔力量に比例します。異世界の普通魔法使いの人間なら小さなバッグ程度ですが……勇者の魔力なら、家一軒くらいは丸ごと入るんじゃないですか? 私でも、このアパートくらいのスペースはありますよ』
「マジか……!」
『ちなみに、収納空間の中は時間の流れが停止しているので、熱い料理は熱いまま、生鮮食品も腐りません。ただし、生きている動物や人間を入れることはできない仕様になっています』
便利な仕様に、ヨウは目を輝かせた。
早速、目を閉じて自身のスキルの海へと意識を潜らせる。
(検索、検索……収納魔法……あった!)
ヨウが意識を集中させると、目の前の空間にポッカリと黒い穴が開いた。
ヨウは、肩に担いでいた大きなボストンバッグを、その穴の中にヒョイと放り込んだ。バッグは音もなく吸い込まれ、空間の穴はスッと閉じた。
「……すげぇ。本当に消えた」
ヨウは感動しながら、ふと一つの疑問を抱いた。
(この中って、俺が入る前の『勇者クレア』の持ち物とか、残ってないのかな?)
再び意識を集中し、収納空間の中身を探ってみる。
だが、そこには先ほど入れたボストンバッグがあるだけで、他には何もなかった。
(何も無いか……ちょっと伝説の武具とか期待したんだけどな。まぁ、そりゃそうか。この身体は、こっち(地球)で女神が改めて作り直した新品の器だもんな)
ヨウが少し残念そうにしていると、隣でアイリーンがゴソゴソと自分の収納魔法を展開し、中を探り始めていた。
「イタッイ……!」
アイリーンが小さく悲鳴を上げ、空間の穴から一本の長剣を引きずり出した。
銀色に輝く、装飾の美しい直剣。しかし、それを握るアイリーンの白い手は、ジュッと嫌な音を立てて少し火傷を負っていた。
「おい、大丈夫か! 『小回復』!」
ヨウは慌ててアイリーンの手に回復魔法をかけた。火傷はすぐに消え去る。
「なんだよ、これ?」
「『真の聖剣』デス」
アイリーンは、忌々しそうにその銀色の長剣を指差した。
「魔ノ者ノ、天敵ノ剣デス。ゴシュジンサマ、お持チクダサイ」
「なんで魔王のお前が、そんな勇者の武器を持ってるんだよ?」
ヨウが不思議そうに尋ねると、アイリーンは少し胸を張り、自慢げに鼻を鳴らした。
「勇者ガコノ『真の聖剣』ヲ持ッタラ、私タチ魔族ニ勝ち目ハ無イノデ……人間ノ冒険者タチヲ大金デ大量ニ雇ッテ、勇者ヨリモ先ニ手ニ入レタノデス! クレア達ガ持ッテイタノハ、コレヨリ二ツモランクガ落チタ、ただの聖剣だったのですよ! えっへん!」
「……お前、ちゃんと魔王してたんだな」
「嫌々デスけどね。デモ、魔族ノ命運ヲ握ル立場デシタカラ、自分ニデキルコトハヤリ切ッタ自負ハアリマス!」
アイリーンは誇らしげに語った後、急に顔をしかめて剣をヨウに押し付けた。
「アァ、ソンナ事ヨリモ、早ク収納魔法デ持ッテイッテクダサイ! 聖剣カラ漏レ出ス力ダケデ、チリチリ痛インデスヨ!」
「あ、ああ、悪い。収納!」
ヨウが念じると、真の聖剣はヨウの収納空間へとスッと吸い込まれた。
「ホカニモ、真の聖ナル鎧ヤ、盾モ、全部持ッテマス! 真のシリーズ、全部コンプリート済ミデス!」
「……そんだけ徹底的に妨害して、装備も奪ってたのに、あの勇者パーティには勝てなかったのか? あいつら、どんだけチートだったんだよ」
ヨウが呆れて言うと、アイリーンの顔からスッと血の気が引いた。
「チートデスヨ……。何度モ何度モ言イマスガ、真正面カラ戦闘デ勝テルチャンスハ、一パーセントモアリマセンデシタカラネ……」
当時の絶望と、変態勇者パーティの異常さを思い出したのか、アイリーンはブルブルと震え出し、そのままヨウの胸に泣きつきながら抱きついてきた。
「ヨシヨシ、怖かったな。もうあいつらは追ってこないから安心しろ」
ヨウは、大型犬を宥めるようにアイリーンの背中をポンポンと叩いた。
「でも、俺にこんな長剣なんて使えるかな? 合気武道で刀の扱いはある程度分かるけど、西洋の直剣はどうなんだ?」
「勇者クレアノお身体デスヨ? 魔法ハ使エテイルジャナイデスカ。検索スレバ、剣術モ出テクルハズデス」
言われてみればその通りだ。
ヨウは再びスキルの海を検索した。
(剣術……聖剣技……あった。なるほど、身体の動かし方とか、技のイメージが頭に直接流れ込んでくる感じか。これなら大丈夫そうだな)
「よし、今度広いところで試してみるわ。ありがとうな、アイリーン」
ヨウはアイリーンの頭を撫でた。
「俺は出張に行ってくる。お前は留守番中、しっかり勉強頑張れよ。それと、俺がいない間、祭のことを守ってやってくれ」
「ハイ! マツリサマハ、私ガ絶対ニ守リマス!」
アイリーンが力強く頷く。
出発の準備が整い、ヨウはいつものようにTシャツとジーパンに着替えようと手を伸ばした。
しかし、アイリーンがそれをサッと遮った。
「ゴシュジンサマ! 今日は、珠子ト選ンダコッチの服ヲ着テクダサイ!」
アイリーンが引っ張り出してきたのは、先日札幌に行った際、珠子に買ってもらった「青いサマードレス(ワンピース)」と「青いツバ広の帽子」だった。
さらには、四人でお揃いで買ったブレスレットまで用意されている。靴だけは、裏仕事で動くことを考慮して、歩きやすい白いスニーカーだ。
「珠子モ、絶対ニ喜ビマス!」
「まぁ、珠子が喜ぶなら……これだけ世話になってるからな。でも、俺に似合ってるのか?」
ヨウが少し気恥ずかしそうにワンピースに袖を通し、帽子を被ると。
「……ッ!!」
アイリーンは、両手で口元を覆い、本気の感涙を流して崩れ落ちた。
「ゴシュジンサマ……美シすぎデス……! 服ハ何デモ似合イマスガ、今日ノメイクト合ワサッテ、女神様ノヨウデス!」
「お、大げさだろ……」
すると、アイリーンは真剣な顔つきになり、ヨウの足元にスライディング土下座をした。
「ゴシュジンサマ! 一生ノオ願イデス! ポーズヲ、ポーズヲトッテクダサイ!」
「はぁ!? 嫌だよ、恥ずかしいだろ!」
「オ願イシマスゥゥッ! 一生ニ一度ノワガママデス! オ願イデスゥゥッ!」
畳に頭を擦り付けんばかりの土下座。
そのあまりの必死さに、ヨウは深くため息をついた。
「ハァ……わかった、わかったよ。少しだけだぞ」
「ヤッタァァッ!!」
アイリーンは弾かれたように立ち上がると、スマホを構えた。
ヨウは顔を真っ赤にしながら、不器用にスカートの裾を少しだけ摘まみ、はにかむように微笑んでみせた。
パシャパシャパシャパシャパシャッ!!
「おいっ! 連写すんな!」
「次! 帽子ニ手ヲ当テテ、少シ上目遣イデ!」
「こうか……?」
「最高デス!! 次、少シ流シ目デ!」
パシャパシャパシャパシャッ!!
「おいっ! やりすぎだろう!」
「今ナラ、アノ堺町通リデ、観光客ガご主人様ヤ私ヲ写真ニ撮ッテイタ気持チガ分カリマス! 美シイモノヲ写真ニ収メル……記録スル! コレハ、正義デス!!」
「……お前、完全にこっちの世界(オタク)に染まってきたな……」
激写の嵐の中、ヨウは呆れ半分、諦め半分でツッコミを入れた。
窓の外からは、夏の終わりの爽やかな風が、賑やかなアパートの部屋に吹き込んでいた。




