出張前夜の準備と、女神級メイク
八月の中旬。
小樽の安アパートの八畳の居間には、遅めの朝食を終えた三人の和やかな空気が漂っていた。
「……あー、食った食った。ごちそうさま」
ちゃぶ台の前で、大暮ヨウは満足げにぽんぽんと自分の平らな腹を叩いた。
相変わらず暴力的なまでの巨乳が、腹を叩く振動に合わせて揺れた。
「お粗末様でした! はい、食後のハーブティー淹れるね」
エプロン姿の妻・祭が、キッチンで立ち上がり、ポットのお湯をティーカップに注ぐ。
カモミールとミントが混ざったような、スッキリとした良い香りがリビングに広がった。
「マツリサマ! 私モ、覚エマス! ハーブティーノ、淹レ方!」
その祭の隣には、元魔王アイリーンが、目をキラキラさせてぴったりと張り付いていた。
祭がお湯を注ぐ角度や、蒸らす時間を、食い入るように見つめている。
「ふふっ、アイリーンは本当に勉強熱心だね。お湯は少し高いところから、空気を含ませるように注ぐと香りが立つのよ」
「ハイ! 空気ヲ、含マセル……メモシマス!」
キャッキャと笑い合いながらキッチンに立つ二人を見て、ヨウはちゃぶ台に肘をつき、目を細めた。
(あいつら、本当に仲が良いな……。年齢も種族も全然違うのに、まるで本当の姉妹みたいだ)
かつてはフライパンを振り回して嫉妬していた妻と、世界を恐怖に陥れた魔王。それが今や、互いを思いやる家族になっている。
その光景に、ヨウは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「はい、お待たせ。陽の分と、アイリーンの分ね」
コトリ、とちゃぶ台に置かれたハーブティーのカップ。
ヨウは一口すすると、ホッと息を吐き出して、少しだけ真面目な顔を作った。
「なぁ、二人とも。ハーブティー飲みながらでいいから、ちょっと聞いてくれ」
「ん? どうしたの、陽。改まって」
祭が小首を傾げ、アイリーンもカップを両手で包みながらオッドアイを瞬かせる。
「実はな、珠子から頼まれてる裏仕事の件なんだけど……急ぎで、三〜四日ほど出張になりそうなんだ」
「三、四日も!?」
「ゴシュジンサマ、オウチニ、帰ッテコナイノデスカ……?」
祭が驚き、アイリーンがシュンと耳を伏せた犬のように悲しそうな声を出す。
「おう。小樽近郊じゃなくて、少し遠出になるらしくてな。珠子の車で移動しながら、霊脈の管理とか怪異退治をすることになる。……で、相談なんだけどさ」
ヨウは、気まずそうに自分の金髪をポリポリと掻いた。
「俺、中身がおっさんだからさ……『女の旅行』で、何を持っていけばいいのか、サッパリわからねぇんだよ。着替えのTシャツとパンツだけあればいいか?」
「ダメに決まってるでしょ!!」
ヨウのボヤキに、祭が食い気味に突っ込んだ。
「陽は今、絶世の美少女なの! おっさんのお泊まりセットと一緒にしないでよ! ……もう、しょうがないなぁ。私が荷造り手伝ってあげるから、ちょっと待ってて!」
祭はパタパタと寝室へ向かい、小さめのボストンバッグと、いくつかのポーチを持ってきた。
「まずは基礎化粧品でしょ、日焼け止め、それにヘアケア用品! それから……あ、そうだ、これも一応持っていってね」
祭がポーチの一つから取り出したのは、ピンク色のパッケージに包まれた『生理用品』だった。
「……えっ?」
ヨウは固まった。
(いやいや、待てよ。クレアの身体はハイヒューマンだ。生理なんてないはずだぞ……)
そう説明しようと口を開きかけたが、ヨウはハッと時計を見た。
時刻はもうすぐ、祭が昼の惣菜屋のバイトに出かける時間だ。
ここで説明を語り出したら、絶対に時間がかかる。バイトに遅刻させてしまう。
「……分かった。持っていくよ」
ヨウが渋々頷くと、祭は真剣な顔で言った。
「陽、中身が男だから、これの使い方、全然分からないでしょ? 今のうちに教えてあげるから!」
「はぁ!?」
祭は有無を言わさず、ヨウに実地で使い方をレクチャーし始めた。
アイリーンも「フムフム、人間ノ、血ノ処理術デスネ!」と真剣にメモを取っている。
「わ、わかった! わかったから! ……あー、もう、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……!」
四十九歳のおっさんの魂が、絶世の美少女の身体で、妻と魔王から生理用品の使い方をレクチャーされる。
羞恥心で顔から火が出そうだったが、文句を言えばまた長引くので、ヨウはひたすら沈黙して従った。
「よし、これで完璧! ……あとは、メイク道具ね!」
祭が、次に取り出したのは、ファンデーションやアイシャドウ、リップなどが詰まったメイクポーチだった。
「いや、祭。化粧品なんて持っていっても、俺、使えないぞ。やり方わかんねぇし」
「覚えろ!!!」
祭とアイリーンが、信じられないほどの剣幕で同時にハモった。
「ヒッ……わ、わかったわかった! 覚えればいいんだろ!」
「ゴシュジンサマハ、美シイノデス! モット、モット輝カナイト、ダメデス!」
アイリーンが鼻息を荒くして迫り、祭がヨウをちゃぶ台の前に座らせた。
「いい? 今日は私とアイリーンで、基本のメイクをしてあげるから。感覚で覚えてね!」
そこから、ヨウにとっては未知の領域である「メイク」が始まった。
「目を閉じて!」
「ちょっと上向いて!」
「唇ンーッてして!」
祭の的確な指示と、アイリーンの魔法のような手先の器用さで、ヨウの顔に次々と化粧が施されていく。
「おいおい、なんか顔がペタペタするぞ……」
「動かないで陽! アイライン引くから!」
十数分後。
「……よし、完成!!」
祭の声と共に、顔をいじられていた手が離れた。
ヨウが目を開けると、目の前には、なぜかワナワナと小刻みに震えている祭とアイリーンの姿があった。
「ど、どうしたんだよお前ら。そんなに震えて……」
二人の目には、なぜか涙まで浮かんでいる。
「……キ……綺麗……綺麗すぎるよぉぉっ……!!」
「アァァッ……ゴシュジンサマ……尊イデス……! 美ノ暴力デスゥゥッ!」
二人は、感動のあまり拝むようなポーズを取り、今にも泣き出しそうになっていた。
「おい、泣くなよ。どう言うことだよ?」
ヨウは首を傾げ、部屋の隅にある姿見の前に立ち、自分の顔を覗き込んだ。
「…………ッ!?」
ヨウは、鏡に映った自分の姿を見て、完全にフリーズした。
そこにいたのは、ただでさえ絶世の美女だったクレアの顔が、メイクによってさらに洗練され、神々しいまでのオーラを放つ『やばい美女』だった。
(……おいおいおい。なんだこれ。あれだ、異世界に飛ばされた時に会った、あのポンコツの女神(エリシア)……あいつくらい美しいぞ!)
透き通るような肌はより滑らかに、碧眼はアイメイクによって吸い込まれそうなほど深く輝き、桜色の唇は濡れたような艶を放っている。
「ヨ、ヨウ……これはダメじゃないか? スッピンの時でさえ、土方の現場とかで芸能人みたく男どもに囲まれたんだぞ。こんな顔で外歩いたら……これは、ヤバイ。マジでヤバイって!」
あまりの美しさに、ヨウ自身の語彙力がおかしくなっていた。
「きゃーーっ! 陽、こっち向いて! 最高に美人!」
「ギャーーッ! ゴシュジンサマァァッ!」
祭とアイリーンは、完全にアイドルを見るファンのように、スマホを取り出してパシャパシャと写真を撮り始めた。
「陽、陽! その顔で、私のこと抱きしめて!」
「ワタシモ! ワタシモ、抱キシメテクダサイ!」
「はぁ!? なんだよそれ!」
文句を言いながらも、ヨウは二人の熱意に押され、その美しすぎる顔で、祭とアイリーンを両腕にギュッと抱きしめた。
「「……ッ!!」」
抱きしめられた瞬間、二人はヨウの腕の中でブルブルブルッと激しく震え、極上の幸福感に浸っていた。
さらに、そのままの体勢で二人はスマホを構え、至近距離からヨウの顔をバシャバシャと撮りまくる。
「……陽……今度、その顔で……私を可愛がって……ね?」
「ワタシモ……ソノお顔デ、抱キシメテ欲シイデスゥ……ッ!」
祭が熱っぽい吐息を漏らし、アイリーンが懇願してくる。
二人はヨウの腕から離れると、嬉しさのあまりぴょんぴょん飛び跳ね始めた。
「お前らなぁ……本当にテンションおかしいぞ……」
ヨウが呆れ果ててため息をついた時、ふと時計の針が目に入った。
「あっ、おい祭! お前そろそろ惣菜屋のバイトの時間だろう!」
「えっ!? うわっ、本当だ!」
祭はハッとして、慌ててエプロンを外し、バッグを掴んだ。
「あー、残念! もっとその顔見ていたかったのに! ……いってきます!」
「おう、気をつけてな。珠子の仕事が急ぎで、今日これから出掛ける場合はメールするからな」
「はーい! 頑張ってね、陽!」
バタン、と元気よくドアが閉まり、祭が仕事へと向かっていった。
嵐のような騒ぎが去り、リビングにはヨウとアイリーンの二人が残された。
ヨウは、鏡に映る自分の凄まじい美貌をもう一度見て、ブルッと身震いした。
「……ダメだ。こんな顔で珠子に会ったら、またあいつが変に緊張しちまう。とりあえず、顔洗おう」
ヨウが洗面所へ向かおうと足を一歩踏み出した、その瞬間。
ガシッ!!
「……ダメです」
アイリーンが、ヨウの背後から両腕でガッチリとホールドし、低い、有無を言わさぬ声で止めた。
「ゴシュジンサマ。ソノお顔……モッタイナイデス。洗ウノ、絶対、ダメデス」
「えー……」
絶世の美貌を持て余す四十九歳のおっさんの、情けない声が、夏の昼下がりのアパートに虚しく響いた。




