書き置きのない朝と、天狗山ジョギング騒動
八月の上旬。
北海道の短い夏とはいえ、この時期の小樽は日中になればうだるような厳しい暑さに見舞われる。だが、早朝の空気だけは別格だった。
時刻は午前五時。
本州であればまだ薄暗い時間帯かもしれないが、緯度の高い北海道の八月は、すでに太陽がしっかりと顔を出し、白み始めた空から真新しい光を街に投げかけている。
開け放たれた窓からは、石狩湾から吹き込む涼やかな海風が入り込み、薄いレースのカーテンを優しく揺らしていた。
遠くで、漁に出る船のくぐもったエンジン音と、カモメの鳴き声が微かに聞こえてくる。
小樽の閑静な住宅街にある安アパートの八畳の居間。
オレンジ色の常夜灯だけが点された部屋の畳の上で、大暮ヨウはパチリと目を覚ました。
「……んあぁ?」
寝起きのぼんやりとした頭で身じろぎしようとしたヨウは、自分の身体が巨大な万力にでも挟まれたかのように、ピクリとも動かせないことに気がついた。
視線を巡らせると、右側からは愛する妻である祭が、ヨウの胸元に顔を埋めるようにしてがっちりと抱きついている。
若返りの魔法で十代のピチピチになった肌から伝わる、心地よい温もりと、石鹸の甘い香り。
そして左側からは、元魔王・アイリーンが、ヨウの腰に長い脚を絡ませ、大型犬のようにすりすりと頬を擦り付けて抱き着いていた。
「……おいおいおい、暑苦しいな」
昨夜は二人に挟まれ、一晩中激しく身体を重ね合わせた。
男の……いや、四十九歳のおっさんの魂としては完全にノックアウトされ、泥のように眠りに落ちたはずだった。
しかし。
ヨウは、自分の身体の奥底から、無尽蔵のエネルギーがこんこんと湧き上がってくるのを感じていた。
(……マジかよ。あれだけ動いたのに、身体が全然重くないぞ)
これが、アイリーンが言っていた『ハイヒューマン(高位人族)』という、神に近い種族の力なのだろう。
レベル99の勇者クレアの肉体は、一晩の激しいセックス程度の疲労など、ほんの数時間の睡眠で完全にリセットしてしまうチート級の回復力を備えていたのだ。
(すげぇな。アニメや漫画みたいに、『ステータスオープン!』とか頭の中で唱えたら、目の前に半透明のウィンドウが出てきて、自分の体力とか魔力とかが数値で完全に把握できたら良いのにな……)
ヨウは、四十九歳のおっさんらしからぬ、くだらないオタクのような妄想をしながら、そっと右手を上げた。
ウィンドウは出ないが、自分の内側に満ち満ちている莫大な魔力は、感覚としてしっかりと掴むことができる。
「とりあえず、このベタベタをなんとかするか」
昨夜の激闘の痕跡で、三人の身体は汗と愛液で濡れそぼり、むせ返るような淫靡な匂いが充満している。
ヨウは、二人の眠りを妨げないように小さく指を鳴らした。
「『清浄なる風』」
ポワンッ、という微かな光と共に、淡い風が三人の身体を包み込んだ。
一瞬にして、肌に張り付いていた不快な汗や汚れ、そして部屋に充満していた匂いが嘘のように消え去り、洗い立てのシーツのような清潔な香りが漂う。
「おー、綺麗綺麗。便利だな、この魔法」
ヨウは満足げに頷いたが、ふと祭とアイリーンの白い肌を見て、顔をしかめた。
二人の首筋や胸元、そして太腿のあたりには、昨夜ヨウが理性を飛ばしてつけた、赤や青のキスマーク(愛撫の跡)が痛々しいほど無数に残っていたのだ。
「いかんいかん。祭は夕方からバイトがあるし、アイリーンだってこんな跡だらけじゃ可哀想だ」
ヨウは再び頭の中の『スキルの海』を検索した。
(えーと、体力回復と、身体に残った痕を消す魔法。腫れや鬱血なんかも治せる回復魔法ならいけるだろ。……あった、これだ)
「『中級範囲回復(エリア・ミドル・ヒール)』」
淡い黄金色の光の粒が、寝室全体に降り注ぐ。
光が肌に触れると、二人の身体に刻まれていた赤い痕跡が、まるで消しゴムで消されたかのようにスーッと消滅していった。同時に、二人の寝息がさらに深く、穏やかなものへと変わる。
体力の底の底まで、完全に回復した証拠だ。
「よし、完璧だ。……さてと」
ヨウは、祭とアイリーンの腕をそっと解き、音を立てないように布団から抜け出した。
時刻は五時半を回ったところ。
(この時間なら、外に出ても目立たないか。……実は、ちょっと走りたくなってたんだよな)
ヨウは、自分の手足を軽く伸ばした。
ハイヒューマンの肉体は、有り余るエネルギーを消費したがっている。いや、一晩中ベッドの上で激しく動かしてはいたのだが、それはあくまで『夜のスポーツ』だ。
元プロボクサーであり、合気武道の達人でもある四十九歳の体育会系の魂が、朝の清々しい空気の中で、健全なスポーツをして汗を流したいと疼いていたのだ。
「走るとなれば、まずは着替えだな。……スポーツブラも欲しいところだが」
ヨウはクローゼットを開けた。
現在は、祭が一緒に選んでくれた、しっかりとしたホールド力のあるブラジャーをつけている。
この暴力的なまでの巨乳を支え、かつ敏感な先端を優しく保護してくれる、一番フィットするお気に入りのブラジャーだ。
「とりあえず今はこれでいいか。今度、ランニング用のジャージとスポブラも買ってこよう。……意外とジャージって高いんだよな。今は節約しなきゃいけねぇし」
ヨウはボヤきながら、クローゼットの奥から、自分が男だった時代……四十九歳のおっさんだった頃に着ていた、古い黒のジャージのズボンを引っ張り出した。
ウエストはブカブカだが、紐をきつく縛ればなんとかずり落ちない。
「どれどれ……って、おいおいおい」
ヨウは、姿見の前で自分の姿を見て、盛大にツッコミを入れた。
180センチあった男時代のジャージのズボンを、175センチの現在のクレアの身体で履いているのだ。当然、裾が余って引きずるかと思いきや……。
「足の長さ、ピッタリじゃねぇか……!」
ヨウは愕然とした。
なんだか、前の自分がどれだけ短足だったのかをまざまざと思い知らされた気分だ。いや、違う。このクレアの身体が、人間離れした異常なまでに脚長で、モデル体型すぎるのだ。
「ハァ……悲しくなってくるぜ。上は……これでいいか」
黒い、汗をかいても透けない厚手のTシャツを見つけ、頭から被る。
長い黄金の髪を後ろで一つに束ね、スニーカーの紐をギュッと結んだ。
「よし。行くか。……コースは、そうだな」
ヨウは窓の外を見た。
小樽の街の背後にそびえる、天狗山。
標高532メートル。冬はスキー場として賑わい、夏は小樽の街と石狩湾を一望できる絶景スポットとして有名な山だ。
「山だな。天狗山の山頂までジョギングするぞ!」
ヨウは、寝ている二人に気づかれないよう、そっと玄関のドアを閉め、朝の小樽の街へと駆け出した。
***
早朝の小樽の街は、静寂に包まれていた。
観光客で賑わう運河沿いも、堺町通りも、この時間だけは地元の人々だけの静かな時間が流れている。
「ふーっ、はーっ……!」
ヨウは、一定のリズムで呼吸を整え、着地の衝撃を柔らかく逃すことを意識しながら、緩やかな坂道が続く小樽の街を駆け抜けていった。
気持ちいい。
元プロボクサーとしての足運びが身体に染み付いているが、アスファルトを蹴るたびに、チート級の筋力がバネのように身体を前へ前へと押し出してくれる。
男だった頃、現役時代でさえ感じたことのない、圧倒的な身体の軽さだ。
国道を越え、徐々に傾斜がきつくなっていく天狗山の登山口へと差し掛かる。
ここから山頂までは、九十九折りの急な上り坂が続く。普通の人間なら、ジョギングで登るなど息が上がって倒れてしまうようなルートだ。
しかし、レベル99の勇者の肉体は、全く悲鳴を上げない。
それどころか、心拍数が上がることで全身に血が巡り、細胞の隅々までが歓喜の声を上げているようだった。
「はっ、はっ……! 最高だぜ、この身体!」
ヨウは、額に薄っすらと汗をにじませながら、山の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
針葉樹の青臭い匂いと、土の匂い。小鳥のさえずりが、静かな山道に響いている。
木々の隙間から差し込む朝日が、黄金に輝くポニーテールをキラキラと照らし出していた。
やがて、視界が開け、天狗山の山頂・展望台へと到着した。
時刻は六時半を回ったところ。
「うおおぉぉ……っ!」
ヨウは、展望台の柵から身を乗り出し、眼下に広がる絶景に感嘆の声を漏らした。
朝日に照らされた小樽の街並みが、まるで箱庭のように広がっている。
赤や青の屋根が連なる市街地の向こうには、小樽港に停泊する船の姿があり、さらにその奥には、キラキラと輝く石狩湾の群青色の海がどこまでも続いている。
空は抜けるような青空で、遠くには暑寒別岳の連峰までがはっきりと見渡せた。
「気持ちいい……! やっぱり、自分の足で登って見る景色は格別だな!」
ヨウが大きく深呼吸をしていると、背後から視線を感じた。
振り返ると、早朝登山を楽しんでいる地元の年配のハイカーや、カメラに三脚をセットしている初老の男性など、数人の姿があった。
山頂の人は多くはないが、皆一様に、目を丸くしてヨウを見つめていた。
(……そりゃそうか。こんな金髪のモデルみたいな美女が、息一つ乱さずに山頂まで走ってきたら、驚くわな)
ヨウは、悪目立ちしないようにペコリと軽く会釈をすると、その美しすぎる笑顔に、ハイカーのおじいちゃんが顔を真っ赤にしてフリーズしてしまった。
「さてと、景色も堪能したし。そろそろ帰るか」
ヨウは、軽くアキレス腱を伸ばし、再び来た道を下り始めた。
往復で約二時間。適度な疲労感と、爽快な汗。
心身ともにリフレッシュしたヨウは、足取りも軽くアパートへの帰路についた。
***
時刻は七時半。
すでに太陽は高く昇り、じりじりとした夏の熱気がアスファルトから立ち上り始めていた。
ヨウは、アパートの階段をトントンと軽快に駆け上がり、自分の部屋のドアノブに手をかけた。
「ただいまー。ちょっと走りに行ってた……」
ガチャリ、とドアを開けた瞬間。
「陽ッ!!!」
「ゴシュジンサマァァァッ!!!」
ドスドスドスッ!という凄まじい足音と共に、リビングの奥から二つの影が弾丸のようなスピードで飛び出してきた。
「おわっ!?」
ドンッ!!
ヨウは、勢いよく飛び込んできた祭とアイリーンの二人に激しく抱きつかれ、危うく玄関の土間に尻餅をつきそうになった。
「ば、バカお前ら! 危ないだろ! それに俺、汗かいてるから……」
「陽! 陽、陽……っ!」
「ゴシュジンサマァ……! ドコニ、行ッテタノデスか……っ!」
二人の様子が、明らかにおかしい。
ヨウの身体にギュッとしがみつく祭の手は小刻みに震え、アイリーンに至っては、ヨウの肩に顔を埋めてグスグスと鼻をすすっている。
「おい、どうしたんだよ二人とも。そんなに焦って」
「だって……! 起きたら、陽がいなくて……!」
祭が、ヨウの胸から顔を上げた。
その目は真っ赤に充血し、ポロポロと大粒の涙をこぼしていた。
「携帯電話も、机の上に置いたままだったし……! 探してもどこにもいないし……!」
「私タチ、心配シマシタ! マタ、女神サマニ、異世界ニ、飛バサレタノカト……!」
アイリーンのオッドアイからも、滝のように涙が溢れ出ている。
二人の言葉を聞いて、ヨウはハッとした。
ヨウにとっては、ただの朝のジョギングのつもりだった。スマホを置いていったのも、走るのに邪魔になるからという、ただそれだけの理由だ。
しかし、祭とアイリーンにとっては違ったのだ。
祭は、ある日突然夫が倒れ、意識不明のまま数ヶ月間も目を覚まさないという地獄を味わっている。
アイリーンは、異世界で勇者に殺されかけ、全てを失ってこの世界に逃げてきた。
二人にとって、ヨウが突然目の前から消えてしまうことは、この世で最も恐ろしい『トラウマ』のフラッシュバックだったのだ。
携帯電話も持たず、書き置きもなく、突然いなくなったヨウ。
二人が起きて無人の部屋を見た時、どれほどの絶望と恐怖を味わったか。色々と最悪の事態を想像して、パニックに陥っていたのだ。
「……っ」
ヨウは、自分の配慮の無さに胸を痛め、二人を力強く抱きしめ返した。
「分かった、わかった。……ごめんな、二人とも。俺が悪かった」
ヨウは、祭の黒髪と、アイリーンの赤い髪を、優しく、何度も何度も撫でた。
「ちょっと身体を動かしたくて、天狗山までジョギングに行ってただけなんだ。お前達が気持ちよさそうに寝てたから、起こしちゃ悪いと思って……。黙って出かけて、本当にごめんな」
「バカぁ……っ。本当に、心臓止まるかと思ったんだから……っ」
「ゴシュジンサマノ、バカデス……っ」
二人はヨウのTシャツをギュッと掴み、顔を押し付けて離れようとしない。
ヨウは、少しだけ困ったように、けれど心の底からの愛情を込めて微笑んだ。
「これからは、どこに行く時も絶対書き置き残すし、携帯電話も持っていくよ。……だから、もう泣かないでくれよ」
ヨウが二人の背中をさすりながら言うと、祭はゴシゴシと乱暴に目元を拭って、プイッとそっぽを向いた。
「な、泣いてないわよ! ちょっと目にゴミが入っただけだもん!」
「アイリーン、泣いてマス! 大泣キ、デス!」
強がってツンデレを発動させる妻と、自分の感情に素直すぎる元魔王。
正反対な二人の反応に、ヨウは愛おしさが爆発しそうになった。
「はははっ。お前たちは、本当に……」
ヨウは、二人の頭をポンポンと叩いた。
「可愛いな!」
四十九歳のおっさんの魂からの、混じりっ気のない本心の言葉。
その言葉に、祭は顔を真っ赤にして「うるさいっ!」とヨウの脇腹を小突き、アイリーンは「エヘヘ……」と嬉しそうに目を細めた。
夏の朝の小樽。
汗と涙にまみれた玄関で、三人の騒がしくも温かい日常の一日が、また始まろうとしていた。




