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異世界で魔王を倒したら、金髪碧眼の美少女になって日本に帰ってきた件  作者: もも


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届いた参考書と、上を向いて歩こう

八月の中旬。


塩谷海岸での騒がしくも楽しかった一泊二日のキャンプを終え、珠子のCX-60に送られて小樽の安アパートへと帰り着いた一行。


車のトランクから荷物を下ろし、珠子に「またな!」と手を振って別れた後、大暮ヨウは重い荷物を抱えて階段を上り、自宅の玄関のドアを開けた。


「あーっ、着いた着いた! やっぱり家が一番落ち着くね!」


妻の祭(マツリ)が、サンダルを脱ぎ捨ててリビングのフローリングにペタリと座り込む。


その横で、荷物の大半を『収納魔法(アイテムボックス)』にしまって運んできた元魔王アイリーンが、ホッと息をついた。


「ウミ、トテモ楽シカッタデス。デモ、身体ガ、ベタベタシマス」


「そうだな。昨日の夜に匂いは消したけど、やっぱり潮風と砂のゴワゴワ感は魔法じゃどうにもならなかったからな。……よし、まずはシャワーだ」


ヨウがタオルを取り出そうとすると、祭がパッと顔を輝かせた。


「賛成! じゃあ、三人で一緒に入ろう!」


「……は?」


ヨウは、持っていたタオルを落としそうになった。


「いやいやいや、ちょっと待て。うちの風呂、お前わかってるだろ? アパートについてるような、激セマのユニットバスだぞ!」


ヨウの抗議はもっともだった。


四十九歳のおっさん魂が入っているヨウの現在の肉体は、身長175センチのモデル体型。


そこに、158センチの小柄ながらトランジスタグラマーな祭と、180センチの圧倒的長身を誇る魔王アイリーンが加わるのだ。


どう考えても、あの狭い空間に大人三人が入るスペースなどない。


「いいからいいから! みんなで洗えば水道代の節約にもなるでしょ!」


「そうだとしても限度があるだろ! 俺は後でいいから、お前ら二人で先に入ってこい!」


「ダメデス! ゴシュジンサマト、一緒ニ、シャワー! 行キマス!」


アイリーンが、ヨウの背後からガシッと両腕をホールドした。


レベル150の魔王の腕力である。レベル99の勇者であるヨウとはいえ、不意打ちでロックされては逃げられない。


「おい、離せ! アイリーン、お前は俺の下僕だろ!」


「ハイ! 下僕デス! ダカラ、ゴシュジンサマノ、お背中、流シマス!」


「ほら陽、観念しなさい!」


祭がヨウの足を引っ張り、アイリーンが背中から押し込むという、完全なる連携プレイ。


ヨウは「うわぁぁぁっ!」という情けない悲鳴と共に、狭いバスルームへと強引に引きずり込まれてしまった。



***



「狭いっ! 暑いっ! くっつくな、お前ら!」


シャワーの温水が降り注ぐ中、ヨウは身動きが取れずに叫んだ。


予想通り、三人で入ったユニットバスは、まさに寿司詰め状態だった。少し動くだけで、誰かの柔らかな肌や、暴力的なまでの巨乳がムニュッと押し付けられてくる。


「アハハハッ、陽、暴れないでよ。はい、シャンプーつけるよ!」


祭が、ヨウの黄金の髪にシャンプーを泡立て、ゴシゴシとマッサージするように洗い始めた。


「ゴシュジンサマ! 私ハ、お身体、洗イマス!」


アイリーンは、ボディーソープをたっぷりと泡立てたスポンジを手に、ヨウの背中から前に手を回してきた。


「おい、アイリーン! そこはおっぱいだ! 俺のおっぱい手洗いするな!」


「エッ? デモ、ココガ一番、大キイデス。念入リニ、洗ワナイト……」


アイリーンの長い指が、ヨウの規格外の双丘を泡まみれにして、揉むように洗う。


女の身体になっているとはいえ、敏感な部分を触られれば、超絶感度を誇る勇者ボディは容赦なく反応してしまう。


「ひゃうっ……! バカ、力強いって! それに、アイリーンの胸も俺の背中に当たってんだよ!」


「フフッ。マツリサマノ言ウ通リ、一緒ニお風呂、楽シイデスネ!」


アイリーンは、完全に祭に懐ききっており、祭の言うことなら何でも聞く忠犬と化している。


「俺がご主人様だぞ!」とヨウが文句を言う間もなく、今度は下の方から手が伸びてきた。


「じゃあ、私は陽の下の方を洗ってあげるね〜」


「ちょっ、祭! 俺の股間を手洗いするな! お前、どこ触って……っ、あひぃっ!」


祭の容赦ない泡攻撃に、ヨウの足からガクンと力が抜けそうになる。


「立てなくなるわ! いい加減にしろ、お前ら! 反撃してやる!」


ヨウがシャワーヘッドを奪い取り、二人に冷水を浴びせようと息巻いた、まさにその瞬間だった。


ピンポーン。


アパートの玄関から、来客を告げるチャイムの音が響いた。


「あ、誰か来た」


「宅配便かな? 昨日ネットで頼んだものがあるのよ。陽、出て!」


「なんで俺が!? お前が出ろよ!」


「私、今頭アワアワだもん! 陽はもう流したでしょ、早く早く!」


祭に背中を押され、ヨウは仕方なくバスルームから押し出された。


急いで身体の水分をバスタオルで拭き取り、脱衣所のカゴにあった自分のパンティと、ダボッとした大きめの白いTシャツだけを急いで身につける。


ブラジャーをつける暇などなかった。濡れた金髪から水滴を滴らせながら、ヨウは玄関のドアノブに手をかけた。


「はーい、今出まーす」


ガチャリとドアを開けると、そこには、真夏の暑さで汗だくになった若い宅配便のドライバーが立っていた。


手には小さな段ボール箱を持っている。


「お、お届け物で……っ!?」


ドライバーの青年は、顔を上げた瞬間、目を限界まで見開いて完全にフリーズした。


無理もない。


目の前に現れたのは、誰もが振り返るような絶世の金髪美女。しかも、お風呂上がりらしく髪から水滴を滴らせ、下はパンティ一丁。上はノーブラの白いTシャツという、あられもない姿だったのだ。


Tシャツの薄い生地からは、暴力的なまでの巨乳のシルエットと、先端の形までがくっきりと透けて見えている。


「あ、ご苦労様です。ここに印鑑押せばいいですか?」


中身が四十九歳のおっさんであるヨウは、自分の今の格好がどれほどの破壊力を持っているか、全く自覚していなかった。


無造作に伝票にハンコを押し、段ボール箱を受け取る。


「あ、あ、あのっ、ありがとうございましたっ!!!」


ドライバーの青年は、顔を茹でダコのように真っ赤にして、まるで弾かれたように背を向けた。


そして、逃げるようにアパートの階段を駆け下りようとして――。


ドガラガッシャァァァン!!


見事に足を踏み外し、階段を盛大に転げ落ちていった。


「お、おい! 大丈夫か!?」


ヨウが慌てて玄関から顔を出すと、下から「だ、だだだ大丈夫ですぅっ!」という裏返った声と共に、猛ダッシュで走り去るトラックのエンジン音が聞こえた。


ヨウは、手にした段ボール箱を見つめながら、深いため息をついた。


「あー……そうだよな。こんな格好の絶世の美女が現れたら、そりゃあ驚くわな……。悪いことしたな〜、反省だ」


自分の身体の威力をようやく理解したヨウは、玄関のドアをそっと閉めた。



***



リビングに戻り、ヨウは受け取った小さな段ボール箱を開封した。


「おっ、来た来た!」


中に入っていたのは、分厚い高卒認定試験の参考書と、過去問題集のセットだった。


昨日、海辺からネットで注文しておいたものが、もう届いたのだ。


「よし、これで勉強できるぞ!」


ヨウが嬉しそうに参考書をパラパラとめくっていると、ポタッ、と乾いていない金髪から水滴が落ち、真新しいページにシミを作ってしまった。


「あっ、やべっ!」


ヨウは慌てて参考書をテーブルに置き、タオルで頭をガシガシと拭きながら、バスルームの方へと向かった。


中からは、まだ祭とアイリーンのキャッキャと楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


ヨウは、脱衣所のドアをバンッと開けて文句を言った。


「おい、お前達のせいで、ドライバーさん階段から落ちたぞ!」


すると、シャワーを浴びていた祭が、振り返ってケロリとした顔で言った。


「えー? そんな格好で出る陽が悪いんじゃないの」


『マツリサマノ、言ウ通リデス!』


アイリーンまで、祭に同調して頷いている。


「お前は俺の下僕だぞ! なんで祭の味方ばっかりするんだよ!」


ヨウはプリプリと文句を言いながら、脱衣所の鏡の前に座り、ドライヤーのコンセントを挿した。


スイッチを入れると、ブォォォンと熱風が吹き出してくる。


(……あー、暑い。夏のドライヤーって、マジで地獄だな)


ヨウは、鏡に映る自分の姿を見つめた。


黄金に輝く、腰まで届きそうなほどの長い髪。男だった時はずっと短髪だったから、風呂上がりはタオルで拭いて自然乾燥で終わりだった。


しかし、このクレアの身体の髪は、量も多くて長い。乾かすだけでも一苦労だ。


「なぁ。この髪、切るか? ショートカットも似合うと思うんだけど」


ヨウが何気なくバスルームに向かって声をかけると、シャワーの音がピタリと止まった。


「バカじゃないの!?」


祭が、血相を変えて脱衣所に飛び出してきた。


「せっかくの、こんなに綺麗な金髪のロングヘアなのに! 切るなんて絶対ダメ! もったいない!」


『ダメダメ! ヤダヤダヤダヤダ!!!』


アイリーンまで、泡だらけの姿で飛び出してきて、猛烈に首を横に振っている。


「ゴシュジンサマノ髪、月ノ光ミタイニ、綺麗デス! 切ルナンテ、許シマセン!」


二人のあまりの剣幕に、ヨウはドライヤーを持ったまま硬直した。


「わ、分かりました……。いってみただけです。切りません」


ヨウが降参すると、二人はホッとしたようにバスルームへと戻っていった。


ヨウは再び鏡を見つめる。


頭を軽く振り、黄金の髪をなびかせてみる。確かに、濡れていても光を反射して輝くこの髪は、芸術品のように綺麗だ。


(この美しさは、維持しなきゃダメなのかね〜。でも、毎日これ乾かすの、面倒くさいんだよな……)


熱風を当てながら、ヨウはふと、あることを思い出した。


(そういえば……魔法だ。昨日、海で匂い消しの生活魔法を検索した時に、たしか髪を乾かすような魔法もあったはずだぞ)


ヨウは、ドライヤーを止めて目を閉じ、自分の内側にある勇者のスキルの海へと意識を潜らせた。


頭の中に、膨大な魔法のリストがスクロールしていく。


(検索、検索……乾燥、髪、温風……あった! これだ!)


ヨウは目を見開き、自分の髪に向かって指をパチンと鳴らした。


「『温風乾燥(ドライ・ブリーズ)』!」


ポワンッ、という軽快な効果音と共に、ヨウの頭の周囲に、心地よい温かな微風が巻き起こった。


その風は、髪の毛の水分だけを魔法的に蒸発させ、たった数秒で、ヨウの黄金の髪をふんわりと、サロン帰りのようにサラサラに乾かしてしまったのだ。


「おおおっ! すげぇ! 一瞬で乾いた!」


ヨウが歓声を上げていると、風呂から上がってきた祭とアイリーンが、その光景を見て目を丸くした。


「えっ!? 陽、今の何!? もう乾いたの!?」


「ハイ! 魔法デス! 髪ヲ乾カス魔法デス!」


「これ、すっごく便利じゃない! 私にもやって! アイリーンにも!」


夏のドライヤーは、女性にとって大きな悩みの種だ。せっかくお風呂で汗を流してサッパリしたのに、ドライヤーの熱気でまた汗をかいてしまう。


しかも、祭もアイリーンも髪が長いため、乾かすのに膨大な時間がかかるのだ。


ヨウは、得意げに笑って二人に魔法をかけた。


「温風乾燥!」


二人の長い髪も、一瞬にしてフワフワのサラサラに仕上がった。


「わぁぁっ、すごい! サラサラ! 暑くない!」


「ゴシュジンサマ、スゴイデス! ニンゲンの魔法、便利デス!」


大喜びする二人を見て、ヨウも「だろ?」と鼻高々だった。


自分自身も、あのドライヤーの地獄から解放された喜びは大きい。ヨウは、忘れないように急いでスマホのメモ帳を開き、『温風乾燥(ドライ・ブリーズ)』の名前をしっかりと書き込んでおいた。



***



「お昼ご飯できたよー!」


祭の声で、ヨウとアイリーンはリビングのちゃぶ台へと集まった。


テーブルの上には、氷を浮かべた大きなガラスボウルに、たっぷりの白いソーメンが盛られていた。ネギとミョウガ、生姜の薬味が添えられ、涼しげな夏の風物詩といった風情だ。


「珠子ちゃんからもらった魔物退治の報酬、二十万は家計に入ったけど……ここ数日、水着買ったり海行ったりで、散財しすぎました」


祭が、エプロン姿で少し申し訳なさそうに手を合わせた。


「だから、今日からしばらくは節約メニューね!」


その言葉に、ヨウもアイリーンも文句は言えなかった。


確かに、ここ数日の出費は凄まじかった。家計の火の車を支えている祭に、これ以上負担をかけるわけにはいかない。


「いや、俺もアイリーンも自覚あるから。文句は言わないよ。それに、ソーメン好きだしな」


ヨウが言うと、アイリーンも力強く頷いた。


「ハイ! 私モ、贅沢、言イマセン! イタダキマス!」


三人で、ツユに浸したソーメンをすする。


「ズズッ……うん、美味い。冷たくて喉越しがいいな」


ヨウの現在の肉体は勇者ボディであるため、エネルギー効率が異常に良く、そんなに大量に食べなくても不思議と満足感がある。


しかし、問題は元魔王の方だった。


「ズルズルズルッ! オイシイ! 冷タクテ、ツルツルデス!」


アイリーンは、器用になった箸使いで、猛烈な勢いでソーメンを胃袋へと流し込んでいく。


あっという間にボウルの中のソーメンは底をつき、アイリーンは空っぽのガラスボウルを見つめて、ポロポロと泣きそうな顔になった。


「……モウ、無イデス……」


「お前、本当に胃袋どうなってんだよ……」


その悲しそうな顔を見て、ヨウは苦笑しながら、自分の器に残っていたソーメンをアイリーンの器に分けてやった。


「ほら、俺の分も食え。俺はもう腹一杯だから」


「ゴシュジンサマ……! アリガトウゴザイマス!」


アイリーンがパァッと顔を輝かせたのを見て、祭もクスッと笑って立ち上がった。


「しょうがないなぁ。アイリーンのために、追加でもう二束茹でてくるね!」


「マツリサマァァッ! 女神様デスゥ!」


キッチンへ向かう祭の背中に向かって、ヨウはボヤいた。


「おい祭! 節約って言ってたのに、お前はアイリーンには甘いよな!」



***



食後。


小樽の午後は、開け放たれた窓から入る風も熱を帯びていたが、アパートの中は不思議と静かで、穏やかな時間が流れていた。


ヨウは、ちゃぶ台の半分を占領して、午前中に届いた高認の参考書を開き、ノートにカリカリとペンを走らせていた。


四十九歳のおっさん魂とはいえ、元は高校教師だ。久しぶりの勉強に、少しずつ勘を取り戻していく感覚が心地よかった。


そして、ちゃぶ台のもう半分では、アイリーンがネットで無料ダウンロードしてプリントアウトした『小学生レベルの国語・算数ドリル』に向かっていた。


彼女の隣には、祭がつきっきりで座り、アイリーンの勉強を教えている。


「そうそう、ここは繰り上がりがあるから、十の位にイチを足すんだよ」


「コウ、デスカ?」


「正解! すごいねアイリーン、覚えるの早い!」


祭は、アイリーンが問題を一問正解するたびに、「偉い偉い」と彼女の赤い髪を撫で、タッパーに入った手作りのクッキーを一つ、アイリーンの口へと運んでやる。


「アーン。美味しい?」


「ハイ! マツリサマノ、クッキー、最高デス!」


「よし、じゃあ次の問題ね!」


その様子を、横目で見ていたヨウは、ペンを握る手にギリッと力を込めた。


(……なんだあの甘やかされっぷりは。完全に犬のしつけじゃねぇか。っていうか、俺も頑張って勉強してんのに、俺には頭撫でたりクッキーくれたり無いのかよ!!!)


心の中で盛大に叫ぶヨウだったが、四十九歳のおっさんのプライドが邪魔をして、口に出して「俺にもクッキーちょうだい」とはどうしても言えなかった。


ヨウは、嫉妬の炎を勉強のモチベーションに変え、黙々と参考書のページをめくり続けた。



***



夕方になり、西の空が徐々に茜色に染まり始めた頃。


「じゃあ、イタリアンのバイト、行ってくるね!」


祭が、シックな黒い制服とエプロン姿に着替え、玄関でパンプスを履いた。


夕食は、祭が昼間のうちに作って冷蔵庫に入れておいてくれた、冷しゃぶサラダと作り置きの煮物だ。


「おう、気をつけてな。無理すんなよ」


「マツリサマ、イッテラッシャイマセ!」


ヨウとアイリーンに見送られ、祭は風のように仕事へと出かけていった。


アパートに残された二人。


ヨウは再び参考書に向かい、アイリーンは夕食の準備に取り掛かった。


「アイリーン、お前、すっかり家事の手際が良くなったな」


ヨウが感心して言うと、アイリーンはエプロン姿で胸を張った。


「ハイ! マツリサマノ、お役ニ立チタイノデ!」


アイリーンは、夕食の配膳を終え、二人で食事を済ませた後も、休むことなく働き続けた。


流し台で洗い物を片付け、ベランダに干してあった洗濯物を取り込み、アイロン台を出してシワを伸ばし、綺麗に畳んでいく。


その手つきは、魔界で玉座に座っていた頃の威厳ある姿からは想像もつかないほど、家庭的で、そして楽しそうだった。


アイロンをかけながら、アイリーンは上機嫌で鼻歌を歌い始めた。


「ウーエヲ向ーイテ〜♪ アールコオーウ〜♪」


「ナミダガ、コボレナイ、ヨォーニ〜♪」


それは、たどたどしい日本語で歌われる、日本の古い名曲だった。


「ん? アイリーン、お前その歌……どうしたんだ?」


ヨウがペンを止めて尋ねると、アイリーンはアイロンを置き、少しだけ真面目な顔をして答えた。


「マツリサマカラ、教エテモライマシタ」


「祭から?」


「ハイ。マツリサマ、言ッテマシタ。ゴシュジンサマが、病院デ倒レテカラ……毎日、苦シクテ、泣キソウナ時ニ、コノ歌ニ助ケラレタッテ」


アイリーンの言葉が、夕暮れの部屋に静かに響く。


「『大好きな歌』ッテ、私ニ、教エテクレマシタ」


その言葉を聞いて、ヨウの胸の奥が、ギュッと強く締め付けられた。


坂本九の『上を向いて歩こう』。


ヨウも好きな歌だったが、すっかり忘れていた。


祭は、いつも底抜けに明るく、冗談を言って笑っている。タフで、強くて、頼りになる妻だ。


しかし、ヨウが植物状態になっていた数ヶ月間。彼女は一人で、先の見えない不安と、絶望的な医療費の重圧に押し潰されそうになりながら、泣き言一つ言わずに働き続けていたのだ。


涙がこぼれないように、必死に上を向いて。


挿絵(By みてみん)



(……祭。お前、明るく振る舞ってるけど……本当は、すげぇ辛かったんだな)


ヨウの碧眼から、ツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。


美しい金髪の美少女の顔で、おっさんの魂が静かに泣いていた。


(俺が……俺がしっかりしないとな! 早く高認受かって、大学行って、真っ当な仕事に就いて……祭を安心させてやるんだ。もう二度と、あいつに上を向いて泣くのを我慢させたりしねぇ!)


ヨウは、ゴシゴシと涙を拭うと、再び参考書に向かってペンを握り直した。


その背中には、勇者としての力ではなく、一人の夫としての、揺るぎない決意のオーラが立ち上っていた。


「ゴシュジンサマ」


洗濯物を畳み終えたアイリーンが、ノートと鉛筆を持って、ヨウの隣にちょこんと座った。


「私モ、家事終ワリマシタ。勉強、シマス」


「おう。偉いな」


「後デ……少シ、勉強、教エテ下サイ。マツリサマミタイニ、頭撫デテ、クッキー、下サイ」


アイリーンが、上目遣いで甘えるようにオッドアイを瞬かせる。


「クッキーはねぇけど、頭くらいなら撫でてやるよ。ほら、どこが分からないんだ?」


「コノ、漢字ノ、読ミ方デス」


窓の外では、ヒグラシの鳴き声が止み、小樽の街に静かな夜の帳が下りようとしていた。


オレンジ色の西日が差し込む八畳の居間で、絶世の美女二人が肩を並べて勉強机に向かう。


少しだけ切なくて、でもどこまでも温かい、彼らの穏やかな夜の時間が始まろうとしていた。

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