魔王の本音と、堺町通りのラーメン
八月の上旬。
ジリジリと肌を焦がすような太陽が、小樽の街を容赦なく照らしつけていた。
北海道の短い夏とはいえ、お盆を目前に控えたこの時期は、うだるような熱気とセミのやかましい鳴き声が街中を支配している。
港町特有の湿気を帯びた海風が、時折アスファルトの熱を和らげようと吹き抜けるが、それでも日向を歩く人々の額には滲むような汗が光っていた。
安アパートの八畳の居間。
窓を少しだけ開けていても、運河の方から吹き込む風は生温かく、涼を取るには心許ない。
首を振る古い扇風機のモーター音が「ミィィィ」と単調なリズムを刻み、気休め程度の風を部屋の中に循環させていた。
「……んあぁ、よく寝た」
昼頃になって、大暮ヨウはゆっくりと重いまぶたを持ち上げた。
魂がクレアの身体に定着して、もう数週間になる。
最初は違和感だらけだったこの暴力的なまでに豊かな巨乳の重みや、寝返りを打つたびに首筋にまとわりつく長い金髪の感触にも、悲しいかな少しずつ慣れてきてしまっていた。
大きく伸びをすると、華奢な肩の関節がわずかに鳴る。
寝起きの気怠さを引きずりながら、ヨウが薄目を開けてリビングの方に視線をやると、そこには奇妙で、しかしどこか微笑ましい光景が広がっていた。
ちゃぶ台の前で、元魔王アイリーンが真剣な顔でノートを広げている。
彼女は、かつて異世界を恐怖の底に陥れたバケモノ級の強者だ。
しかし今は、その長い脚を窮屈そうに折りたたみ、小さな鉛筆を不器用に握りしめながら、ぶつぶつと何かを呟いている。
見れば、アイリーンの横には、珠子に買ってもらった最新のスマートフォンが置かれていた。
画面に映っているのは、動画共有サイト『YouTube』の料理チャンネルや、レシピサイトの『クックパッド』だ。
彼女は、ひらがなやカタカナの勉強を終え、すでに小学生レベルの漢字の書き取りにまで進んでいた。
わずか半月ほどで、もうスマホを使いこなし、自分で勉強まで始めている。
(……すごいな。マジで真面目に勉強してやがる)
元教師だったヨウでさえ、その吸収力には舌を巻いていた。
アイリーンは、キッチンにある小さな冷蔵庫を開け、中から一本のオレンジ色の野菜を取り出してきた。
そして、スマホの画面に映るレシピと、手元の野菜を交互に見比べながら、鉛筆でノートに文字を書き込んでいる。
「に……ん……じ……ん。……にんじん。ニンジン。人参」
手にした野菜の表面を指でなぞり、重さやひんやりとした感触を確かめながら、一つ一つの音を丁寧に口に出して覚える。
異世界にも似たような植物はあったのだろうが、現世の言葉と物質をリンクさせるための、彼女なりの地道な努力だった。
(祭とちゃんと話したいって言ってたのは、伊達じゃないんだな)
ヨウが感心しながら身を起こし、小さくあくびをしたその時。
アイリーンの猛禽類のようなオッドアイ(右目が赤、左目が青)が、ピクリと動いた。
気配察知の能力は、魔王時代から健在である。
彼女はパッと振り返り、ヨウが起きたことに気がつくと、顔をパァッと輝かせた。
「ゴシュジンサマ! オハヨウゴザイマス!」
アイリーンは、ちゃぶ台から立ち上がり、長い髪を揺らしてヨウの元へ駆け寄ってきた。
「オキマシタカ? 何が、食べたいですか?」
まだたどたどしい、カタコトの日本語だった。
ヨウは、自分の頭をガリガリと掻きながら、面倒くさそうに片目を閉じた。
「あー、おはよう。……ってか、お前、念話で良いだろう。俺とお前の間には『下僕印』のつながりがあるんだから、心で通じるじゃないのさ。いちいち声に出さなくても」
『ダメデス! 日本語で、お願いします!』
アイリーンは、念話ではなく、あえて自分の口を動かして強く主張した。
「マツリサマと、お話し、したいです。だから、日本語、話す、練習。ゴシュジンサマも、協力、シテクダサイ!」
「……はぁ、わかったよ。練習な。偉い偉い」
ヨウは、アイリーンの真面目さに絆され、仕方なく日本語での会話に付き合うことにした。
「腹は減ってるけど、作るのも面倒だしな。俺が寝てて食べなかった朝飯の残りがあるだろう? それで良いよ」
ヨウが言うと、アイリーンは少し気まずそうに目を泳がせた。
「有りません。残り、私が、食べました。……もう、お昼、です!」
「全部食ったのかよ! お前、相変わらず燃費が悪いというか、胃袋がブラックホールだな……。じゃあ、戸棚にカップヌードルがあったっしょ? あれでいいよ」
「有ります。カップヌードル」
アイリーンは、戸棚からお馴染みの白いカップ麺を取り出してきた。
しかし、彼女はそのパッケージを不思議そうに見つめ、首を傾げた。
「あの、ゴシュジンサマ。この『ヌードル』って、ラーメンとは、違うのですか?」
「うん? ラーメンと……まぁ、簡単に作れるラーメンだな。お湯を入れるだけで食べれるやつだ」
「簡単、以外のラーメンとは……YouTubeに、出てくる……これ、ですか?」
アイリーンは、スマホの画面をヨウに向けた。
そこには、湯気を立てる濃厚なスープに、分厚いチャーシューや味玉が乗った、本格的なラーメンの動画が再生されていた。
食レポをしているYouTuberが、「最高ですね!」と満面の笑みで麺をすすっている。
その動画を見た瞬間、ヨウのおっさんの魂に火がついた。
「あああ……そういえば、お前がこっち(地球)に来てから、まだラーメン食わせてなかったな!」
ヨウは額に手を当てた。
異世界からやってきたアイリーンに、現世の美味しいものを食べさせてやりたいとは思っていたが、何しろお金がなかった。
外食らしい外食といえば、先日、珠子に連れられて札幌へ行った際に奢ってもらった鰻屋『かど屋』くらいだ。
しかし、今は違う。
珠子からの魔物退治の報酬である封筒が、まだタンスの奥に少しだけ残っているのだ。
「まだ、この間のお金がある。ラーメンくらいは大丈夫だな……。よーし、お前、よくその動画見つけたな!」
ヨウがブツブツと独り言を言っている間、アイリーンはヨウの次の言葉を待ち、まるでお座りをして待つ大型の愛玩動物のように、ジッとオッドアイを輝かせて待機していた。
ヨウは、勢いよく立ち上がった。
「これからラーメンを食べに行くぞ!!! 久しぶりの外食だ!!!」
その言葉に、アイリーンは『ワァァッ!』と歓声を上げ、パチパチパチッと盛大に拍手をした。
「ヤッタァ! ラーメン! ラーメン!」
アイリーンは飛び跳ねて喜んだ後、ふと真面目な顔になり、ヨウに尋ねた。
「ゴシュジンサマ。外食、ラーメン。……どんな、服装ですか?」
言うが早いか、アイリーンは虚空に手をかざし、得意の『収納魔法』を展開した。
空間に黒い穴が開き、そこから何かがとめどなく溢れ出してくる。
「これですか? それとも、これですか?」
アイリーンが取り出したのは、魔界の王侯貴族が着るような、金糸の刺繍が施された漆黒のイブニングドレス、ソフトボールほどもある巨大な宝石が連なったきらびやかなネックレス、そして、見るからに歩きにくそうなピンヒールの高価な靴だった。
「……おいおいおい」
ヨウは、アパートの畳の上に広げられたファンタジー全開の超高級品の山を見て、盛大にツッコミを入れた。
「そうだよな……すっかり忘れてたけど、お前、異世界では魔界を統べる魔王で、王様だったんだよな。服装の基準が狂ってんだよ」
「私は、魔王でした。……王様、でしたけど……」
アイリーンは、手にした豪華なドレスをポイッと畳の上に放り投げ、少しだけ寂しそうに、けれど穏やかな表情でヨウを見た。
「私、今が幸せです。……王は、大変でした。最強だからって、王としての資質や、適正、性格など、全部含めて、私を魔王にするのは、おかしいです」
「アイリーン……」
「私、無理にドS、してました。悪い魔王、演じてました。粛清も、嫌! 殺すのも、嫌! みんな、仲良くすれば良いのに……って、ずっと、思ってました」
その言葉には、長い間、孤独な玉座で抱えていた苦悩が滲んでいた。
しかし、アイリーンはすぐに顔を上げ、パッと花が咲くような明るい笑顔を見せた。
「でも、今は違います! ゴシュジンサマと、マツリサマは、私の推しです! お2人の愛は、素晴らしい。美しい! 私は、お2人の足元で、平和に暮らせるだけで、最高の幸せなのですぅ!」
片言の日本語の中に、隠しきれない熱い思いが溢れている。
ヨウは、そんなアイリーンの健気さに胸を打たれながらも、照れ隠しに笑った。
「はいはい、ありがとうね。お前の気持ちは十分伝わったよ。……でもな、ラーメン屋にそんなドレスで行ったら、大惨事になるんだよ。スープの汁が飛ぶし、そもそも小樽の街中で浮きまくる。俺が着てるみたいな、普通のシャツとジーパンでいいよ」
「シャツと、ジーパン……?」
「ああ。祭がこの間、俺たちに買ってくれた服があるだろ。俺たち、素材が絶世の美人なんだから、そんなラフな格好で十分すぎるほど映えるんだよ」
「わかりました!」
アイリーンは素直に頷き、シンプルなTシャツとタイトなジーンズに着替えた。
180センチの長身と、暴力的なプロポーションがデニムに包まれると、それだけで海外のスーパーモデルの休日のような、洗練されたオーラが漂った。
「よし、行くぞ。少し歩くからな。車ないからな〜」
「どこ、行きますか?」
「『利光』ってラーメン屋だ。あそこの白湯スープは絶品なんだよ」
アパートを出て、夏の陽射しの中を歩き出す。
すぐに、アイリーンがヨウの右手にスッと自分の手を絡め、しっかりと手を繋いできた。
「おいっ……お前、なんで手なんて繋ぐんだよ。子供じゃないんだから」
ヨウが文句を言おうとすると、アイリーンはヨウを見下ろし、オッドアイを細めて、とびきり嬉しそうな、甘い笑顔を向けた。
「ヨウオネエサンと、お出かけ。嬉しいです」
その純粋すぎる笑顔に、四十九歳のおっさんの魂は完全に絆されてしまった。
「……はぁ。まぁ、いいか。はぐれたら面倒だしな」
ヨウは、まんざらでもない様子で、アイリーンの手を握り返した。
二人が歩いていくのは、小樽の観光名所である『堺町通り』だ。
古い商家や洋館が立ち並び、ガラス細工の店の軒先で鳴る風鈴の音や、どこからか聞こえてくるオルゴールの音色が風情を醸し出している。
お盆休み前ということもあり、大勢の観光客でごった返していた。
しばらく歩いていると、アイリーンが不思議そうに首を傾げた。
「ヨウオネエサン」
「ん?」
「さっきから、皆さん、私たちを見ています」
「気にするな」
「……私、変ですか?」
「いや。お前と俺(クレア)が並んで歩いて、目立たないと思う方がおかしい」
「そうですか?」
「そうだよ」
実際、目の前の人混みが、まるで見えない力に押し分けられたように左右へ割れていくのだ。
175センチの金髪巨乳美少女と、180センチの赤髪オッドアイの美女が手を繋いで歩いているのだから、無理もない。
その圧倒的な美しさとオーラは、すれ違うすべての人々の視線を釘付けにしていた。
(……なんで道がモーゼみたいに割れてんだよ)
ヨウが心の中でツッコミを入れていると。
パシャッ、パシャパシャッ!
遠巻きに、何人かの観光客がスマートフォンやカメラを向けてきた。
「外国の人? モデルかな……」
「すっごい美人……」
ヒソヒソとした感嘆の声が漏れる。
「……ヨウオネエサン。あの人たち、何をしていますか?」
アイリーンが、戸惑ったように周囲を見回した。
「写真撮ってるんだよ」
「写真……?」
「珍しいものを見ると、記録したくなるのが人間ってもんだ」
ヨウがそう説明しても、アイリーンのオッドアイは鋭く吊り上がり、わずかに殺気が漏れそうになっていた。
魔王としての本能が、無遠慮に自分たちを狙う視線に敵意を抱いたのだ。
「怒るな、アイリーン。仕方ないんだよ」
ヨウが、繋いだ手をギュッと握って制止する。
「仕方ない、ですか? 無礼、です」
「いや、俺だって、こんな規格外の美女二人が歩いてたら、写真は撮らないにしても絶対に見るよな。目立って当然の身体なんだから、無視してやり過ごすしかないんだ。笑顔、笑顔」
ヨウの言葉に、アイリーンは渋々殺気を引っ込め、ツンとすました顔で歩き続けた。
観光客の喧騒を抜け、運河の方へ、そして海の方へと進んでいく。
潮の香りが強くなり、カモメの鳴き声が空に響く。
賑やかな通りからは少し外れた、寂れた道へと入った。
「見えたぞ。あれだ」
ヨウが指差した先には、『なると軒』という中華料理店のそばに、ぽつんと置かれたプレハブのようなコンテナハウスがあった。
その一軒に、『拉麺 利光』という暖簾が風に揺れている。
「ここだ! ここのラーメンが美味いんだよ!」
暖簾をくぐり、狭い店内に入る。
カウンターと小さなテーブル席がいくつかあるだけの、小ぢんまりとした、しかし熱気に満ちた空間だった。
豚骨と鶏ガラ、そして魚介の混ざり合った、食欲をそそる強烈な香りが漂っている。
「いらっしゃい!」
厨房から、店主の元気な声が飛んできた。
「おっ、大将——」
ヨウは、おっさん時代の常連だった癖で、思わず店主に親しげに手を振りそうになった。
しかし、ハッと我に返る。
(いかんいかん! 俺、今のこの身体(クレア)でここに来たのは初めてじゃねぇか! いきなり馴れ馴れしくしたら不審者だ!)
ヨウは慌てて手を引っ込め、少しすました顔を作って、空いていたテーブル席にアイリーンと共に座った。
「おすすめは、パイタンスープの塩か、醤油だ!」
ヨウがメニューを見ながらアイリーンに言うと、アイリーンは不思議そうに壁に貼られたお品書きを見つめた。
彼女はひらがなやカタカナは読めるようになったが、崩した筆文字や難しい漢字はまだ読めないのだ。
「ヨウオネエサン。パイタン……とは、どんな味、ですか? 塩と、醤油は、どう違いますか?」
アイリーンは、指をさしながら、一つ一つの味の違いをヨウに尋ねた。
ヨウは、塩のさっぱりとした中にあるコク、醤油の香ばしさなど、おっさんのラーメン知識を総動員して、アイリーンに分かりやすく(そして熱く)説明した。
少し時間がかかったが、ついに注文が決まる。
「すいませーん!」
ヨウが店員を呼ぶ。
「俺はパイタンの塩、大盛りで。それから、コイツはパイタンの醤油、大盛りでお願い」
注文を取りに来た女の店員は、金髪の絶世の美女から飛び出した「俺」や「コイツ」という男臭い言葉遣いに、一瞬目を丸くして固まってしまった。
「あ、えと……か、畏まりました! パイタン塩大盛りと、醤油大盛りですね!」
店員は、少し顔を赤くしながら厨房へと下がっていった。
(……やっぱ、この容姿で『俺』とか『コイツ』は、違和感バリバリでダメかもしれないな。でも、今更『私』なんて言えねぇしなぁ)
ヨウが苦笑いしていると、やがて二つの湯気を立てる丼が運ばれてきた。
「お待たせしました!」
目の前に置かれたのは、濃厚なスープに、大きなチャーシュー、メンマ、ネギが乗った、見るからに食欲をそそる一杯だった。
「おおおっ……! 美味そう!」
「イイ匂い、デス!」
「いただきます!」
「イタダキマス!」
ヨウは、箸を割るなり、凄い勢いで食べ出した。
まずはスープを一口。
「美味い……! 相変わらず美味いな! 旨味が凝縮された濃厚なパイタンスープに、塩のキリッとした味! やっぱ、ここの塩は最高だ!」
ヨウは、一人でブツブツと食レポをしながら麺をすする。
「逆に、透き通った清湯スープなら、あっちの『晄進』が美味いんだよな。小樽はラーメンのレベルが高いぜ……」
ふと前を見ると、アイリーンが箸の扱いに苦戦していた。
彼女はまだ日本の箸文化に慣れていないのだ。長い指で不器用に箸を握り、麺を数本ずつ持ち上げては、音を出さないように、西洋料理を食べるような上品な仕草で口に運んでいる。
「美味しい……! 美味しい、美味しいデス!」
アイリーンは、その味に感動したようで、何度も何度も「美味しい」とリピートしている。
魔界の宮廷料理など泥水に等しいと思えるほどの、衝撃的な旨味だったのだろう。濃厚な熱いスープに、アイリーンの白い額にはうっすらと汗がにじんでいる。
しかし、そのおとなしい食べ方に、ヨウのラーメン魂が黙っていなかった。
「アイリーン、違うぞ。ラーメンは、そんな風に上品にお行儀よく食べるもんじゃないんだ」
「チガイマス、か?」
「ああ。ラーメンってのはな、こうやって……ズズズっと、音を立ててすするんだよ! 熱い麺と一緒に、空気も一緒に吸い込むんだ。そうすることで、スープの香りが鼻に抜けて、何倍も美味く感じるんだぞ!」
「音を、立てて……?」
ヨウは、アイリーンに手本を見せた。
箸で麺をたっぷり持ち上げ、唇をすぼめて、勢いよく吸い込む。
「ズズズーッ! ハフッ、ズルズルズルッ!」
金髪の絶世の美少女が、おっさん顔負けの豪快な音を立てて麺をすする。
それを見たアイリーンも、見様見真似で麺を持ち上げ、すすろうと試みた。
「ズ、ズズ……ブフッ! ケホッ、ケホッ!」
慣れない吸い込み方に、アイリーンは少しむせてしまった。
しかし、彼女のオッドアイがパッと見開かれた。
「あ……! 本当、です! 空気も、一緒に……香りが、フワッて、来ます!」
上手く音は立てられないものの、「空気と一緒に食べる」という感覚は完全に理解したらしい。
そこからのアイリーンのペースは早かった。
「ズズッ……ズルルッ! 美味しい、こっちの方が、美味しいデス!」
二人して、額からダラダラと汗を流しながら、夢中になってラーメンをすする。
狭い店内に、美女二人の豪快なすする音が響き渡る。
やがて、ヨウは麺をすべて平らげた。
しかし、丼の中には、まだ濃厚なパイタンスープがたっぷりと残っている。
ヨウは少し悩んだ後、おもむろに店員を呼んだ。
「すいません、ライスお願いします!」
「はい、ライスですね!」
運ばれてきた白いご飯。
ヨウは、迷うことなくそのライスを、残ったパイタンスープの中へとドボンと投入した。
「おおっ……」
さらに、ヨウはライスに付いてきた『チーマヨ』(チャーシューマヨネーズ)を手に取り、スープに浸かったライスの上にたっぷりと回しかけた。
「よーし、おじやみたいになったぞ。これが美味いんだよ!」
ヨウは、レンゲでスープをたっぷり吸い込んだライスとチーマヨをすくい上げ、大きな口を開けて頬張った。
「美味いっ! 炭水化物に炭水化物、そして脂質! まさにわんぱく食いだ! 男飯! 背徳の味がするぜ!」
そのあまりにも美味しそうな様子を、向かいの席からアイリーンが、ヨダレを垂らさんばかりの勢いでジッと見つめていた。
「ヨウオネエサン……それ、何ですか……?」
「ん? 食うか?」
ヨウは、レンゲにスープをたっぷり吸ったライスを乗せ、アイリーンの口元へと運んだ。
アイリーンは、パクリとそれをくわえ込んだ。
「…………っ!!」
次の瞬間、アイリーンの口から、店内に響き渡るほどの声が漏れた。
「んんぅぅぅっ……! な、何これ……! 麺とは違う、お米の甘みと、濃厚なスープが……お口の中で、とろけますぅぅっ!」
「バカ! 声がエロいんだよ!」
ヨウが慌てて注意するが、本人は無自覚らしく、アイリーンは完全にラーメンライスの虜になっていた。
「ワ、私も! 私もライス、頼んで良いですか! ヨウオネエサン、頼んで、お願いお願いお願い!」
アイリーンが、身を乗り出して懇願してくる。
「わかったわかった! すいませーん、ライスもう一つ!」
アイリーンも、自分のパイタン醤油のスープにライスをドボンと投入した。
「いただき、マスッ!」
レンゲですくい、口に運ぶ。
「うーんっ……! あーんっ……! はふーっ……!」
塩とは違う、醤油の香ばしさと奥深いコク。それが白いご飯に染み込み、アイリーンの味覚を強烈に刺激する。
彼女は、まるで夢見心地のような表情を浮かべ、満足げな声を上げてライスを平らげていく。
「ふふっ……」
ヨウは、夢中になって食べるアイリーンの姿を見て、思わず含み笑いを漏らした。
異世界で魔王として孤独だった彼女が、こうして日本の小さなラーメン屋で、ただの一人の女として幸せそうにご飯を食べている。
それが、なんだか無性に嬉しかった。
「ごちそうさま、デシタ!」
アイリーンが、最後の一滴までスープを飲み干し、丼を置いた。
ちょうどお昼時になり、店は急に混み始めていた。
外には行列ができている。
「人気店だからな〜。長居は無用だ、会計するぞ」
レジに向かうと、店主がニコニコしながら二人を見ていた。
これだけ綺麗に、そして美味しそうに平らげてくれれば、作り手としても嬉しいのだろう。
ヨウもアイリーンも、満面の笑みで店主に応える。
アイリーンは、店主に向かって、覚えたてのカタコトの日本語で深々と頭を下げた。
「とても、とても、おいしかったです。とても〜!」
「ははは、ありがとうね! またおいで!」
「ご馳走様でした! ほら、他のお客さんの邪魔だ、行くぞアイリーン!」
ヨウは、アイリーンの腕を引っ張って、逃げるように店を出た。
夏の強烈な日差しの中、満腹になった腹を抱えながら、海風を浴びる。
アイリーンは、幸せそうにオッドアイを細め、ヨウの腕にギュッと抱きついた。
「ヨウオネエサン、私、ラーメン大好き、です!」
「ははっ、良かったな。また頑張って金を稼いで、連れてきてやるからな」
「はい! ……次は、マツリサマも〜、一緒、です!」
アイリーンの言葉に、ヨウは驚いたように目を丸くした。
美味しいものを食べた時、自分だけでなく、バイトに行ってる、祭のことも思い出してくれているのだ。
「わかったわかった。お前、本当に祭のことが大好きだよな。……もしかして、俺よりも好きなんじゃないか?」
ヨウが意地悪くからかうと、アイリーンは少しムッとしたように唇を尖らせた。
「違います」
アイリーンは、今度は迷うことなく首を横に振った。
「2人とも、同じくらい、大好き、です」
そして、アイリーンは小樽の青空に向かって、両手を大きく広げた。
「愛が、大きすぎるのでーす!」
その無邪気な言葉が、夏の海風に乗って、高く高く響き渡っていった。




