韃靼蕎麦と三十万と、朝までの夫婦
小樽の安アパートに戻ると、ヨウは早速動き始めた。スマホで高卒認定試験の参考書をカートに入れ、ポチッと購入する。受験料の収入印紙代、八千五百円は別の小さい封筒へ。
ちゃぶ台の隅に置き、マジックで『いんし さわるな』とひらがなで書いた。
背後から、影が這い寄る。
『ゴシュジンサマー……』
ノートパソコンの前で日本語を勉強していた魔王アイリーンである。うねる深紅の髪を床に引きずりながら、ヨウの背中にすがった。
『ワタシ、おべんきょう疲れましたぁ……甘えたいですぅ……』
豊満な胸が背中に押し当たり、甘ったるい念話が脳に直接落ちる。
「おー、よしよし。よく頑張ったな」
ヨウは振り返り、アイリーンの頭をポンポンと撫でる。オッドアイが細められ、喉の奥からゴロゴロと猫のような音が鳴った。
(本当に、愛玩動物だな、こいつは……)
そう思いかけて、ヨウは想像を一度取り下げる。
もし自分が異世界へ行って、言葉が全く分からなかったら。看板が読めず、金の単位が分からず、夜の暗さに怯えるなら。今のアイリーンは、その状態で五十音に齧りついている。
レベル一五〇の力を使えば、この街など半日で跪かせられる。それをしないで、現代日本に適合しようとしている。
「お前は偉いな、アイリーン。よく頑張ってるよ。本気で言ってるぞ」
掌が、角の根元あたりを優しく通る。アイリーンのオッドアイから、ホロリと大粒の涙が落ちた。
『ご主人様……! 私、褒められて嬉しいですぅ……!』
『私、前の世界でご主人様が帰った後に、勇者に殺されかけて、こっちの世界に逃げてきて……助けてもらえて』
『そして、前の世界での「魔王」という重い役目から解放されて……私、今が一番幸せです!』
「そうか。お前が幸せなら、それが一番だ。泣くなよ。角、出しそうになってんぞ」
『ダサナイ! ダシタラ、オクサマ、フライパン! コワイ!』
「正解だ。よく分かってるじゃねぇか」
ガチャリ。
「ただいまーっ!」
底抜けに明るい声と一緒に、祭が帰ってきた。昼は惣菜屋、夜はイタリアン。一五八センチの小柄な身体に、巨乳と大きな尻。
疲れ切って玄関にへたり込みながらも、笑顔だけは落としていない。
「おう、祭! おかえり。お疲れさん」
ヨウはすぐに妻をソファへ座らせ、今日の巡回、報酬、月四回、高認の話を、順番に説明した。嘘はつかない。珠子が裸を見られた話と、手を握られた話は削った。
教師の判断である。
それから封筒を取り出す。珠子から受け取った三十万。そこから参考書代と受験費用を引いた額だ。
「祭、見てくれ。今日の仕事の報酬だ。本当は高認の残り全部渡すって言ったんだけど、俺の費用を少し引かせてもらった。でも、充分な額だろ?」
祭は目を丸くして、札束を見つめた。
「陽……っ。陽が、私のためにお仕事してくれたの? 本当に?」
「当たり前だろ。今までお前に、苦労ばっかりかけてきたんだからな」
祭は涙ぐみながらも、中から二十万円だけをスッと抜き取る。残りの差額を、ヨウの手に優しく押し返した。
「ううん。私、この二十万で十分。充分すぎるよ。残りの差額は陽が持ってて。免許の資金とか、色々要るんでしょ? 勉強も、これからでしょ」
「祭……」
「ありがとう、陽。私ね、陽が生きててくれるだけで幸せなのに。……えへへ、ちょっと泣きそう。もう、陽ったら」
「泣くなよ。ブタっぱなになるぞ」
ヨウは照れくさそうに笑い、買ってきた箱を取り出した。
「ほら、今日はご褒美だ。高橋牧場のチーズタルト。一口サイズで、三人で食える」
「わあ、高橋牧場! これ、一口で食べやすいんだよねぇ。すっごく美味しいやつ! 箱買いなんて、初めて見たかも」
祭がパクッと一つ放り込み、幸せそうに頬を押さえる。アイリーンも念話を飛ばしながら、次から次へと口へ運ぶ。
『ンンーッ! アマイ! チイサイ! パクパク!』
「おいおい、俺の分も残しておけよ。お前の胃袋、魔王かよ。……魔王か」
『ゴシュジンサマノブン、ノコス! ヤクソク!』
濃厚なチーズが、労働のあとの身体に染みる。ちゃぶ台の上に、温かい笑顔が溢れていた。
夜が更ける。
祭がシャワーを浴び、ネグリジェ姿で寝室のベッドへ潜り込む。ヨウも隣に横たわり、妻の柔らかい温もりを感じた。下腹部の奥底から、男としての本能が突き上げてくる。
ヨウは、モジモジしながらお伺いを立てた。美少女の声でそれを言うのは、何回やっても恥である。
「なぁ、祭。……その。久しぶりに、お前とエッチしたい。疲れてるなら、無理はさせねぇ」
祭は少し困ったように、でも甘く微笑んだ。
「うーん……私も陽としたいよ? したいんだけど、今日は立ち仕事で本当にクタクタで。……疲れてるけど、いいかな。陽がしたいなら、私もしたいし」
肩をすくめた次の瞬間、ハッと思いついたようにヨウを見る。
「あ! 回復魔法って、あるんでしょ? 勇者様」
「勿論だ。俺の魔法にかかれば、お前の疲れなんか一瞬で飛ぶ。全てを回復してやるぞ」
ヨウは祭の身体の上に手をかざす。頭の中にスキル名が何千と並ぶ。
『ハイ・ヒール』
『フルレストア』
『セレスティアル・リカバリ』。
効果が一目で分からない。名前を捨てて、聖なる魔力そのものを流し込んだ。
「いくぞ……全回復だ」
カァァァァァッ。
寝室が黄金の光に包まれ、レベル九十九の魔力の二割が、ごっそり持っていかれる。額に汗が浮かぶ。
光が収まったあと、祭の身体に奇跡が起きていた。
「すげぇ……祭、膝の古傷、完全に落ちてるぞ。肌もぴちぴちだ。十代の女子高生に戻してやった」
「ええっ!? 嘘っ、本当だ。身体がすっごく軽い。目の下の影、ない。指の皮、つるつる。……ちょっと待って、若すぎない? 鏡見たら、泣くかも」
「やりすぎたか。二十代前半、くらいに収めときゃよかった」
「いまさらよ。もう、陽ったら。……責任、取りなさい。ちゃんと、ね?」
祭の声が、甘いのに、お願いだった。ヨウの長い脚が一度だけ揺れる。
「陽? 顔色、白いよ。無理してない?」
「大丈夫だ。お前が十代の肌で眠れるなら、安い」
ヨウは一五八センチの妻を両腕にすくい上げた。お姫様抱っこである。モデル体型の細腕でも、レベル九十九の筋は微動だにしない。
祭は「きゃっ」と短い声を上げ、ヨウの首に両手を回して、くすぐったそうに笑った。
「やだ、お姫様抱っこ? 新婚の頃みたい。あの頃の陽、よく転んでたのに」
「今は転ばねぇよ。レベル九十九だ」
「ふふっ、頼りになる旦那さん。ベッド、いこ?」
ヨウは祭をダブルベッドの中央へ下ろし、自らも覆い被さった。エアコンの低い唸り。薄いカーテンの向こうに、小樽の街灯。
新婚当初のように、優しく、そして情熱的に、愛撫が始まる。
唇を、十年の記憶どおりに重ねる。ちゅっ、と小さく始まって、舌が入り、息が混ざる。んむっ、ちゅるっ。
祭の吐息がヨウの口に落ち、ヨウの美少女の声が、おっさんの熱を乗せて返す。
ネグリジェの肩紐をずらし、回復魔法で新品になった肌を掌で撫でる。肩。鎖骨。肋骨のライン。十年一緒に寝てきた女の凹凸を、手のひらで確かめるように。
「んっ……陽の手、大きい。今は細いのに、触り方だけ昔のまま。……好き、この撫で方」
「十年間、毎晩触ってた場所だろ。忘れてなんか、いない」
右手が前に回り、豊かな胸を包む。若返った分、感度まで新品だった。
先を指で転がすと、祭の背がすぐ反る。ヨウは片方を口に含み、ちゅっ、と吸う。
「んあぁっ……胸、だめ。今日の肌、敏感すぎる。……陽、そんなに吸ったら、私、先にイキそう」
「先にイけ。俺が、見ててやる」
「やだ、恥ずかしい。……でも、やめないで」
ちゅうっ、と強く吸い、もう片方は指で転がす。祭の腰が、びくん、と浮いた。
ヨウの自分の胸もTシャツの中で擦れ、超絶感度が誤発して、短い嬌声が漏れる。
「っち……俺のほうまで反応してんじゃねぇか。この身体、マジで壊れ物だ」
「陽の声、女なのに、中身は夫のままだね。……可愛い。いや、格好いい。どっちも」
ヨウは苦笑して、ネグリジェを腰まで捲る。大きなお尻。太腿の内側。その奥を、布ごしに指がそっと撫でる。
「んぅっ……そこ、優しく。久しぶりなんだから」
「分かってる。急がない。お前を壊したくない。俺は、お前を愛したいだけだ」
指が布の内側へ滑り込む。くちゅっ、と湿った音がした。合気で培った「相手の力を読む」感覚が、そのまま妻の弱いところ探しに転用されていた。
「あ゛っ、そこ、そこ……ひぅっ。陽の指、意地悪」
「ここか。それとも、ここだ」
「両方、だめ。声、出ちゃう。……んくっ、んあっ、音、してる……」
くちゅ、くちゅくちゅっ。祭の脚がヨウの腰に絡み、甘い悲鳴が連続する。ヨウも、祭の太腿に腰を押しつけて、擦れるだけで腰が震えた。
二人の熱は、最高潮に向かう。キスが深くなり、祭の手がヨウのお腹を下り、夫を探す。
――何もない。
男の形がない。
ヨウの腰が、空振りした。美少女の顔が、シュンと悲しみに沈む。
「……ねぇ、ないんだ。俺、お前を抱くものが、ない」
「えぇ〜……前みたく、私と繋がってよぉ。指も気持ちいいけど、陽の、欲しいの。お願い。新婚のときみたいに、奥まで来て」
おねだりだった。甘く、正直で、妻の声だった。ヨウは、美少女の顔のまま、四十九歳の正直を置いた。
「あれは、俺の魔法じゃねぇんだ。アイリーンの魔法で、一時的に男の身体を作ってもらってる。俺は、そういう術を持ってない。ごめん」
沈黙が、一拍。祭の黒い瞳が、ヨウを見て、それから扉のほうを見た。怒りより先に、理解が来た。
「……そっか。それで、前はアイリーンがドアの隙間から覗いてたのね。魔法をかけてくれたから」
「ああ。そうなんだよ。アイリーンに頼んでいいか?」
「……良いわよ。私からもお願いするから。アイリーン、おいで? 怒らないから。お願いがあるの」
間髪入れず、扉が内側から開いた。鍵をかけていない。かけていても、魔王には意味がない。
アイリーンが、おどおどした顔で半身だけを出す。角は出ていない。オッドアイだけが、寝室の暗がりで違う色に光る。
『……オ、オクサマ。……ワタシ、ハイル? イイ?』
「いいの。入って。私がお願いするの。陽に、前みたいに男の人の身体になれる魔法、かけてほしいの。私たち、繋がりたいから。お願い、していいかな」
陽が念話で祭の頼みを訳してやると、アイリーンの肩が下がった。恐れが歓喜に変わるまで、一秒もかからない。
『ヨロコンデェェッ! フタナリマホウ、カケル! ゴシュジンサマ、オクサマ、アイシアッテ!!』
ポワァァン、と紫の光がヨウの下腹部へ沈む。熱。脈。
布の内側で、何もない場所が急速に持ち上がり、熱く、重くなる。勇者の身体に継ぎ足された、魔王の禁術。しかも、おっさん時代とは比べものにならない立派さで。
「任せろ。祭、いくぞ!!!」
ヨウは祭の脚の間に腰を落とし、ゆっくりと沈めていった。回復魔法で若返った身体は、きつく、熱く、十年の記憶より正直だった。
「んあぁぁっ……! 大きい……っ、陽の、こんなに。……ゆっくり、ゆっくりね」
「分かってる。十年ぶりに、お前のところに帰るんだ」
二人とも、声を失った。繋がっている。夫と妻として。魂と身体が、やっと同じ方向を向いた。
「陽……っ、奥まで、いる。嬉しい。ちゃんと、夫だ」
「お前の中、熱い。俺のこと、ちゃんと覚えてる」
腰を引いて、また沈める。ぱんっ。また。ぱんっ、ぱんっ。
最初は遅かった。新婚の夜の速度を、四十九歳の魂が覚えている。祭の豊かな胸が上下に大きく揺れる。
ヨウの胸も、覆い被さったまま祭の胸に重なり、汗で滑る。女の身体で妻を抱く背徳と、中身は夫婦であるという救いが、同時に音になる。
「んあっ、んあっ、陽、深い。……昔と、ちがう。……ひぅっ」
「お前が、さっき俺を指でイかせそうにしたせいだ。感度、おかしい。お前に締められるたびに、俺のほうまでイキそうになる」
「いいわよ、イきなさい。一緒に。……んくっ、奥、そこ、だめぇ」
ぱんっ、ぱんっ、ぎしっ、ぎしっ。濡れた音と、ベッドの軋みと、二人の息が重なる。ヨウの金髪が祭の顔に落ち、碧眼と黒い瞳が至近で重なる。
キス。ちゅるっ、んむっ。唇でも、身体でも、呼吸を奪い合う。
「陽の声、女の子なのに、動き方は旦那さんのまま。……おかしい、頭が、おかしくなる」
「お前の声も、いつもよりエロい。俺をイかせた妻の声だ」
そのとき、部屋の端でアイリーンが指を鳴らした。空気が、一枚膜を張ったように変わる。空間魔法。
外への音が死に、中の音だけが残る。
『トザシタ。コエ、モレナイ。ワタシ、ミテル、イイ? ガンミ、シタイ』
「ガン見って言い方、やめなさい……って、今はいいわ。見てて。私たち、ちゃんと仲良しなんだから」
ヨウがボヤいても、祭は許した。アイリーンは部屋の隅に座ったまま、オッドアイを見開いている。愛する二人が抱き合う姿を、推す者の顔で見つめる。
魔法の光が薄くなるたびに、すかさず指を鳴らし、紫を足す。消させない。途切れさせない。
『ツイカ! モット、アイシテ! サイコウ! オシ!』
「推すなって……頭に入るだろ。……祭、締まる、んっ」
「アイリーン、見てていいから。……陽、止めないで。奥、奥ばっかり。ひぅっ、好き、陽の、好き」
祭の脚を肩に担ぐ。角度が変わり、いっそう深く届く。ずんっ、ずんっ。
全回復された二十九歳の身体は、絶頂のたびに壊れず、すぐ次を欲しがる。シーツが色を変えていく。
「あ゛っ、そこっ、深いっ……ひぎぃぃっ」
祭の背が反る。合気の達人の身体が、快感の前ではただの女になる。喉から甘い悲鳴が連続する。
ヨウの女の身体も同時に跳ねる。男の身体と女の身体、上下両方で果てる奇妙な頂点。美少女の嬌声と、おっさんの魂の嗚咽が、一つの喉から出た。
「イク、イクっ、陽、イクぅぅっ。一緒、一緒に。お願い、全部、ちょうだい」
「ああ、全部だ……んっ、締めるな。イク、イグッ」
ヨウの腰が大きく震え、祭の奥で熱が弾けた。二人は繋がったまま、しばらく動けなかった。
「あ゛……あぁ……熱い。……陽、愛してる。生きて帰ってきて、愛してる」
「祭。俺もだ。お前だけだ。身体がどうなっても、お前だけだ」
腰は、まだ止まらない。一回では足りない夜だった。再び沈める。ぱんっ、ぱんっ、ぱんっ。
祭の指がヨウの背を掻き、ヨウの唇が祭の涙を舐める。怒りも嫉妬も悲哀も、重なった肌の熱で溶けていく。
「んあっ、また、イク、またイクっ。陽のせい、陽のせいよぉ」
「お前が先に俺を壊しただろ。……責任、取れよ、祭」
「取ってるわよ。こうして、全部、受け取って。……んくっ、来て、また来て」
体勢を変える。ヨウが後ろから、祭の腰を両掌で支えて沈める。ぱんっ、ぱんっ。
若返った肌が汗で光り、黒髪がシーツに広がる。ヨウの金髪が背中に落ち、耳たぶを含む。ちゅるっ。
「この体勢、昔より深い。……陽の胸、私の背中に当たってる。変な感じ。好き」
「お前の身体、十年分、俺のこと覚えてる。締め方が悪質だ」
「悪質って言わないの。……んあぁっ、そこ、また」
二度目。シーツは、もう元の色には戻らない。
三度目はゆっくりだった。向かい合いに戻り、キスを途切れさせず、浅い動きで互いを撫で合う。夏の汗。髪の匂い。十年分の「ただいま」と「おかえり」が、言葉にならない吐息になって重なる。
アイリーンは追加の魔法を惜しまず、空間の膜を厚くし、時折自分の唇を歯で噛んで、声を殺した。鼻血を流さんばかりの勢いで、それでも部屋の隅から動かない。
『オオオッ……アイスル、フタリ、アイシアウ。サイコウ、オセルゥゥッ』
「んあぁっ、いきすぎ、身体、動かない。……陽、まだ、動くの。やだ、嬉しいのに、動かない」
「動く。お前が止まるまで、俺は止まらねぇ」
嘘だった。ヨウのほうも、魔力二割を削ったあとの肉体で、何度も上下に果てていた。腰の奥が震え、腕がベッドを掴んで白くなる。それでも、妻が「まだ」と言うなら、根性で応える。
祭がビクンビクンと震え、脚が絡んだまま落ちる。ヨウは最後にもう一度だけ深く抱きしめ、繋がったまま、その上で力尽きた。
アイリーンが、そっと魔法を維持する。
『……オメデトウ。ゴシュジンサマ。オクサマ。シアワセ。ワタシモ、シアワセ』
誰も、すぐには返事をしなかった。できないだけである。
朝。
小樽の空が白み、雀が鳴く。エアコンが、濡れたいシーツの上でだけ冷たい。
祭は、ヨウの腕の中でまだ動かない。十代に戻された肌が、朝の光で不公平なほど綺麗だった。ヨウも、金髪を枕に散らしたまま、腰の力を探して見つからない。
扉の外で、アイリーンがひらがなの歌を、小さめの音で流していた。空間魔法は、もう解かれている。
ヨウは、妻の鼻を、いつもの癖で二回だけ突いた。力が入らず、つまむところまでは届かない。
「……ブタっぱな、は、夜な。今は力、入らねぇ」
祭は目を開けず、喉の奥でだけ笑った。
「もう、陽ったら、バカ。……タルト、朝ごはんにしよ? 私、まだ動けないから、そのまま、ちょうだい」
「ああ」
「ふふっ。いいよ。今日くらい、甘えてもバチ当たらないよね」
満ち足りた夫婦と、魔法のサポートで力尽きた元魔王。
二LDKの一室だけが、二十万の封筒と、空になった魔力と、繋がったままの熱を残して、騒がしくも温かい新しい一日を待っていた。
(――続く)




