五色温泉の帰り道と、月四回の定期枠
八月の上旬。
北海道は、まだ厳しい暑さが続いていた。
ニセコ五色温泉の硫黄が肌に残り、心地よい疲労が身体の芯にある。珠子の運転するCX-60は、緑のワインディングを軽快に下っていた。
窓から入る熱い風が、ヨウの黄金の髪をさらさらと揺らす。レベル九十九の絶世の金髪美少女――中身は四十九歳の元高校教師である。
「はぁ〜、いい湯だったな。魔物退治でかいた汗も、プレッシャーも、全部吹き飛んだぜ」
ヨウが助手席で思い切り背伸びをする。Tシャツが持ち上がり、重力に逆らって形を保つ規格外の巨乳が、暴力的に揺れた。
運転席の珠子は、その光景を横目でチラリと見て、ほんの少しだけ頬を染めた。
前回、ヨウから「呼ぶときはヨウ。友達みたいに話してくれ」と固く言われている。エージェントのクールを少し緩めて、年相応のタメ口を試している最中だった。
「お疲れ様、ヨウ。初めての実戦だったのに、さすがだね。私の出る幕、ほとんどなかったよ」
「おう。お前の案内がうまかっただけだ。なぁ珠子、昼飯食って帰ろうぜ。俺、この近くに美味い蕎麦屋を知ってんだよ」
「蕎麦? いいね、ヨウ。案内して。私、温泉のあと、必ずお腹空くんだ」
「任せろ。珍しく韃靼蕎麦を出してる店なんだ。普通の蕎麦よりルチンが多くてな、独特の苦味がある。出すところ、なかなか少ないんだよ。俺、あの大人の苦味が昔から好きでさぁ」
絶世の金髪美女が目を輝かせて「大人の味」と語る姿は、あまりにもアンバランスだった。けれど珠子にとっては、その不器用で男臭いボヤキこそが、愛おしいヨウそのものだった。
「ふふっ。ヨウが好きなら、私もしっかり味わう。苦くても、残さず食べるから」
店は、ヨウの記憶どおり、風情ある和風の小さな蕎麦屋だった。平日の午後で、客は少ない。店主が一瞬だけヨウの容姿に目を見開き、すぐにプロの顔へ戻す。
運ばれてきた韃靼そばは、普通の蕎麦より色が暗い。ヨウは豪快に音を立ててすすった。
「ズズッ……ズズズッ! くぅ〜っ、これだよこれ! このほのかな苦味が、疲れた身体に染み渡るぜ!」
ざるはあっという間に空になる。珠子は、そんなヨウの食べっぷりを、宝物を見るような眼差しで見つめながら、自分の温かい方を啜っていた。
「すごい食べ方。でも、見てると私まで美味しくなる。……あむ。ん、苦い。でも香ばしくて。ヨウが好きな理由、分かった気がする」
「だろ? 甘いもんより、こういうのが残るんだよ。祭は『おっさんの味覚』って笑うけどな」
「私は、嫌いじゃないよ。ヨウの好きなもの」
ヨウは咳払いして、湯を飲んだ。美少女の顔で、完全におっさんの間合いである。
昼食を終え、二人はニセコの道の駅周辺へ車を走らせた。
ヨウの足は、『高橋牧場』のスイーツショップの前で止まった。ショーケースの中に、こんがりと焼き色のついた一口サイズのチーズタルトが、箱にぎっしり並んでいる。
「……おいおいおい、これ絶対美味いヤツじゃねぇか」
ヨウはガラスに張り付くようにして、生唾を飲んだ。
「買わないの、ヨウ? 目が、すごいよ」
隣に並んだ珠子が、少しだけ困ったように、でも優しく訊く。ヨウはガックリと肩を落とし、深いため息を吐いた。
「……金が、ねぇんだよ」
戸籍上は死亡扱い。無職。妻のパート代に頼る極貧生活である。
「祭のやつ、毎日夜遅くまでバイトしてクタクタになってるからさ。これ買って帰ってやったら絶対喜ぶと思うんだけど、俺の財布じゃキツくてさぁ。……ハァ、情けねぇ」
自分の不甲斐なさに落ち込むヨウを見て、珠子は静かに微笑んだ。バッグを開け、ずっしりした茶封筒を取り出す。
「ヨウ。もう今日の仕事は終わったから、これ、渡しておくね」
「ん? なんだこれ。……なっ!?」
ヨウの碧眼が、カッと見開かれた。福沢諭吉が束になっている。三十万はくだらない。
「お、おい珠子! なんだよこの大金! もらいすぎだ! 俺はただ、お前の案内に従って、ちょっと魔法をぶっ放しただけだぞ!?」
元高校教師の倫理が、全力で拒否する。珠子は一歩も引かず、凜とした瞳でヨウを見た。タメ口の中に、プロの覚悟が混ざる。
それでも、声は怒鳴りではなかった。
「もらいすぎ、じゃないよ。正当な報酬。裏の仕事は、これで命を落とす人もいるんだから」
珠子は封筒を、ヨウの胸にそっと押し戻す。
「ヨウが見てくれた、あの黒いヘドロ。放置すると人に憑くの。憑いた人は、事故で済めばまだいい。死ぬ人も、実際にいる。今日ヨウが一撃で消してくれた群れ、私ひとりだったら半日はかかってた。危ない目も、見てた。……受け取って。お願い。ヨウが受け取ってくれないと、私のほうが困るよ」
ヨウは一瞬、言葉を失った。美少女の顔をしかめて、長く息を吐く。
「……ありがとう。お前の気持ち、確かに受け取るよ。仕事があったら、いつでも手伝う。俺にはまだまだ金が必要だからな。高認の試験も受けなきゃいけねぇし」
ヨウが正直に打ち明けると、珠子の顔がパァッと明るくなった。
「うん。月に四回ね。定期の枠、ヨウ用に空けておく。それと、どうしても手が足りないときも呼ぶよ。いい? 無理はさせないから」
「おう、助かる。なんせ、あの安アパートから早く抜け出したいし、祭を楽させてやりたいんだ」
ヨウの言葉には、妻への愛情がそのまま乗っていた。
「車の免許も取り直さなきゃなんねぇし、金がかかる。金が貯まって車を買えたら……祭もアイリーンも、それにな珠子。お前も一緒に、旅行に連れて行きたいんだ。いつも世話になってるお礼にな」
ヨウが不器用に笑うと、珠子の心臓がドクンと跳ねた。
「旅行……! いいね。私、すごく楽しみにしておく。ヨウが連れてってくれるなら、どこでも行きたい」
喜びを抑えきれず、その直後に、少しだけ寂しそうな顔になった。
「でも、ヨウ。私、裏の結社の仕事があるから、北海道からあまり遠くへは出られないの。本家もうるさいし。……だから、道内旅行にしてね。絶対だよ、ヨウ。ワガママ、言ってる?」
「ワガママじゃねぇよ。お前が来れねぇ旅行なんて、意味ねぇ」
ヨウは、大人の余裕でニヤリとしたつもりが、美少女の顔だとただ優しいだけになる。
「おう、善処するよ。珠子」
「……うん。よかった。ふふっ、よかった」
臨時収入を得たヨウの行動は早かった。
「よーし! 金が入ったとなれば話は別だ! すいません、この一口サイズのチーズタルト、箱買いで!」
小さなタルトがぎっしり詰まった箱を、嬉々として抱える。さらに売店でソフトクリームを二つ買い、一本を珠子へ押しつける。
「ほら、食え。おごりだ。溶けんぞ」
「わっ、冷たい。ふふっ、ありがとう。いただきます。ヨウが選んでくれるの、嬉しいな」
夏の青空の下。金髪の絶世の美女と、黒髪ロングの清楚な美少女が、並んでソフトクリームを舐める。傍から見れば女子会である。
中身は、元担任と元生徒だった。
「……うまいな。ミルク濃い」
「うん、濃い。ヨウ、鼻についてるよ。動かないで。拭くから」
珠子がハンカチで鼻先を押さえる。ヨウは「自分でやる」と言いかけて、やめた。ただ、顔をそむけた。
「タルトは家で三分する。お前の分は別箱にしといた。手土産も渡さねぇで帰ったら、教師失格だろ」
「気を遣わなくていいのに。……でも、嬉しい。私、こういうの、あんまりもらったことなくて」
「友達ゼロだったんだろ。まずはタルトから増やせ」
「ヨウは、友達、なの?」
「……友達でいいだろ。それ以上の話は、ソフトクリーム溶ける前にやめろ」
珠子はコーンの後ろで、小さく笑った。




