学歴ゼロの二十歳と、裏の仕事への誘い
ジリジリとアスファルトを焦がすような、本格的な夏の陽射しが小樽の街に降り注いでいた。
朝の八時。安アパートの玄関で、パンプスを履き終えた祭が、振り返って太陽のような笑顔を向けた。
「じゃあ、行ってくるね! 今日も惣菜屋からの、夜はイタリアンだから遅くなるよ!」
「おう、気をつけてな。無理すんなよ」
『オクサマ! イッテラッシャイ!』
ヨウとアイリーンが手を振って見送る。
バタン、とドアが閉まると、アパートのリビングには再び扇風機のモーター音だけがミィィィと響くようになった。
『あ、い、う、え、お! か、き、く、け、こ!』
ちゃぶ台の前では、アイリーンがノートパソコンの画面に齧り付くようにして、YouTubeの知育アニメーションに合わせて日本語の発音練習をしている。
深紅の長い髪を揺らしながら、オッドアイを真剣に輝かせているその姿は、かつて世界を恐怖に陥れた魔王の威厳など微塵もない。
『ゴシュジンサマ! ワタシ、ニホンゴ、ジョウズニナリマシタ!』
「ああ、そうだな。片言だけど、意味は通じるようになってきたぞ。偉い偉い」
ヨウは、適当に相槌を打ちながら、アイリーンの頭をぽんぽんと撫でた。
ふと見上げると、天井の隅で、二つの光の玉がプカプカと揺れていた。
『ガハハハハッ! いやぁ大暮さん、今日もいい絵ですねぇ! 次は「元勇者、就職活動に挑む」でいきましょう!』
『カッカッカ……学歴ゼロの二十歳。数字が取れますねぇ』
「……いい加減にしろ」
ヨウは、ちゃぶ台をドンと叩いた。
「こっちは生活かかってんだよ! もう顔見せるな! 勝手に撮れ!」
一瞬の沈黙のあと、女神と天使たちの声が、あっけらかんとそろって返ってきた。
『じゃ〜勝手にやる』
ふっと、二つの光の玉が消えた。それきり、頭の中に響く笑い声も聞こえなくなった。
「……ったく」
しかし、ヨウの碧眼は、手元にある一枚の紙を重苦しい表情で見つめていた。
珠子が用意してくれた、新しい戸籍の写しと、仮の身分証明書。
そして、コンビニで買ってきた白紙の『履歴書』である。
(……困った)
ヨウは、ボールペンを握ったまま、おっさん特有のしかめ面で深く息を吐き出した。
(学歴が、無い……っ!)
四十九歳の元高校教師である大暮陽の魂は、大学までしっかり卒業している。
だが、現在彼が入っているこの身体――『大暮ヨウ(二十歳・女性)』という新しい戸籍の人間には、過去が一切存在しないのだ。
高校どころか、中学校、いや小学校まで、幼稚園すら卒業していない!
履歴書の学歴欄が、見事なまでに真っ白なのだ。
「……これじゃあ、まともな事務職とか、接客業の面接なんて受かるわけがねぇ。面接官に『二十歳まで何してたんですか?』って聞かれて、『異世界で魔王と戦ってました』なんて言えるかよ!」
ヨウは、ガリガリと頭を掻き毟った。
だが、いつまでも祭のパート代に寄生しているわけにはいかない。愛する妻にこれ以上の苦労をかけるのは、男の……いや、元男のプライドが許さない。
ヨウは、スマホ(珠子名義)を取り出し、求人サイトを必死に検索した。
検索条件は『学歴不問』
『未経験歓迎』
『即日勤務可』。
すると、いくつかの職種がピックアップされてきた。
【建設・土木作業スタッフ:未経験からスタートでき、働きながら資格取得や技術の習得を目指しやすい職種です!】
【製造・工場系(ライン作業など):特別な経験や学歴が求められない求人が多く、安定した勤務形態を選びやすい傾向があります!】
【清掃・メンテナンス・物流:日常の作業をコツコツと続けられる人材が評価されやすく、人手不足の業界でもあります!】
「……なるほどな。頭脳労働じゃなく、肉体労働か」
ヨウは、自分の白く細い腕を見下ろした。
見た目は折れそうなほど華奢な絶世の美女だが、中身はレベル99の勇者のチートボディである。
重機を素手で持ち上げるくらいのバカ力と、どれだけ動いても疲れない無限のスタミナが備わっている。
「上等だ。俺は元々、ボクシングも合気もやってた体育会系だ。全部やってやるわ!」
ヨウは、鼻息を荒くして求人サイトの応募ボタンをタップしまくった。
***
数日後。
「……やめた。もう全部やめた」
ヨウは、小樽運河沿いの公園のベンチに座り込み、力なく項垂れていた。
西日が、彼の美しい金髪をオレンジ色に染めている。
結果から言うと、面接は全て即日採用だった。
履歴書が真っ白だろうがなんだろうが、一七五センチの絶世の金髪巨乳美女が「体力には自信があります!」と笑顔で言えば、面接官(おじさん)たちは全員鼻の下を伸ばして「明日から来たまえ!」と即決したのだ。
しかし、現場は地獄だった。
まず、土木作業の現場。
ヨウはダボダボのニッカポッカとヘルメットを被って現場に出たのだが、そのスタイルすらも、パリコレの新作発表会のように完璧に着こなしてしまった。
ヨウがスコップを持って汗を拭うたびに、規格外の巨乳がブルンと揺れる。
その結果、周りのガテン系の男たちが全員仕事そっちのけで見惚れてしまい、重機を壁にぶつけたり、足場から落ちそうになる事故が多発。
現場監督から「大暮ちゃんがいると現場が回らないから、日当払うからもう帰ってくれ」とクビを宣告された。
次に、食品工場のライン作業。
白衣とマスクと帽子で全身を隠したから大丈夫だと思ったのが甘かった。
隠しきれないフェロモンと、作業着を内側から突き破らんばかりの胸の質量に、男性従業員たちが次々とヨウのラインに集まってきて、生産効率がガタ落ちしたのだ。
さらに最悪だったのが、お局のパートのおばちゃんたちだった。
「ちょっとアンタ! 男に媚び売ってんじゃないわよ!」
「あんたがいると職場の風紀が乱れるのよ!」と、強烈な嫉妬と嫌がらせの嵐。
ヨウは「俺は何もしてねぇよ! ただ黙って弁当箱にミニトマト入れてるだけだろ!」と抗議したが、女の嫉妬は理屈ではない。結局、いたたまれなくなって自分から辞めた。
最後の、ビルの清掃作業。
これもダメだった。ヨウがモップをかけているだけで、まるでミュージックビデオの撮影かのように絵になりすぎるのだ。
通行人の男たちがわざわざ足を止めて群がり、「お姉さん、連絡先教えてよ」
「モデルやらない?」とひっきりなしにナンパしてくるため、全く掃除が進まない。
「……男がウザい! 女の嫉妬もウザい! 俺からは、何もしてない! ただ真面目に仕事しているだけだぞ!」
ヨウは、ベンチで天を仰いで絶叫した。
「派遣会社の担当には『君はトラブルメーカーだ』って言われるし! 違う、周りの人間が勝手にトラブルを起こしてるだけだ! このファンタジーボディのせいで!」
絶世の美女すぎるが故の、現代社会での圧倒的な生きづらさ。
このままでは、どんな職場に行っても同じことの繰り返しになるのは目に見えていた。
「ハァ……。やっぱり、まともな事務職とか、接客でも落ち着いたところに行かないとダメだ」
ヨウは、スマホの画面を見つめた。
そのためには、やはり『学歴』が必要だ。真っ白な履歴書を、何とかしなければならない。
「……そうだ。高等学校卒業程度認定試験、いわゆる『高認』を取ればいいんだ!」
ヨウの碧眼に、一筋の光が差した。
高認試験に合格すれば、高校卒業と同等以上の学力があると認定され、履歴書の学歴欄に書くことができるし、大学受験の資格も得られる。
「俺は四十九歳の中年だが、これでも元高校教師だぞ。高校レベルの全教科なんて、ちょっと復習すれば余裕で満点取れるわ!」
ヨウは、スマホで高認試験の日程を検索した。
現在は七月末。今年の第一回試験の出願は終わっているが、第二回試験の出願は七月下旬から九月中旬まで行われ、試験本番は十一月にある。
「よし! やってやるわ! とりあえず、今の試験範囲に合わせた教科書と過去問の参考書を……」
ヨウは、ネット通販のサイトを開き、必要な参考書をカートに入れていった。
合計金額、約二万円。
さらに、受験料として収入印紙代が八千五百円かかる。
「……」
ヨウの指が、スマホの画面上でピタリと止まった。
「……金が、ない」
現在のヨウの全財産は、珠子に渡されたスマホと、財布に入っている小銭数百円だけである。土木作業で貰った日当は、アイリーンがスーパーで特上肉をカゴに入れまくったせいで一瞬で消え去った。
「祭に……お願いするか?」
ヨウは、頭を抱えた。
今でさえ、自分とアイリーンの二人分の食費や光熱費が増え、祭のパート代を圧迫しているのだ。
祭は「陽が生きてるだけで幸せ」と言って笑ってくれるが、彼女が毎晩、湿布を貼りながら疲れ切って眠りにつく姿を、ヨウは知っている。
「……ダメだ。これ以上、祭に負担をかけられるわけがねぇ」
男として……いや、夫として、これ以上妻に金銭的な無心をするのは、魂のプライドが許さなかった。
ヨウは、スマホの連絡先を開いた。
そこに登録されているのは、祭と、もう一人だけ。
『葉室珠子』。
「……情けねぇ。かつての教え子に、金を無心することになるとはな……」
ヨウは、ギリッと唇を噛み締めながら、通話ボタンをタップした。
プルルル……というコール音が数回鳴り、すぐに電話が繋がった。
『はい、先生。どうしましたか?』
スピーカーから、珠子の凜とした、しかしどこか弾むような声が聞こえてくる。
「あー、珠子か。俺だ。忙しいところ悪いな」
『いえ、大丈夫ですよ。アイリーンさんがまた何か魔法でトラブルを起こしましたか?』
「いや、アイリーンはYouTubeでひらがなのお勉強中だ。……あのな、珠子」
ヨウは、周りに誰もいないことを確認してから、声をひそめた。
「恥を忍んで、切羽詰まったお願いがあるんだ。……俺に、金を貸してくれないか?」
『……お金、ですか?』
「ああ。俺、履歴書が真っ白だから高卒認定試験を受けようと思ってさ。でも、参考書代と受験料がどうしても足りないんだ。祭にはこれ以上負担かけられないし……。土方やっても、変な男が寄ってきてすぐクビになっちまって……」
ヨウが早口で情けない言い訳を並べていると、電話の向こうから、珠子のクスッという小さな笑い声が聞こえた。
『先生のそのお姿なら、無理もありませんね。……お金の件は、分かりました。口座がまだないので、今日直接アパートにお持ちしますよ。三万円で足りますか?』
「本当か!? 助かる! ありがとうな、珠子。必ず、絶対に出世払いするから!」
ヨウがホッと胸を撫で下ろしていると、珠子の声のトーンが少しだけ真剣なものに変わった。
『先生。もし、すぐにお金が必要だというなら……一つ、提案があるのですが』
「提案?」
『はい。私に借金をするのではなく、先生自身で稼ぎませんか? ……魔物退治の仕事を、私と一緒にどうですか?』
「…………は?」
ヨウは、スマホを耳に当てたまま、目をパチクリと瞬かせた。
「ま、魔物? 退治? お前、それ……」
『はい。葉室家の裏の仕事である、怪異退治です。最近、小樽の近郊で厄介な魔物が巣食っていまして、私一人では少し骨が折れそうだったんです。先生のその勇者の力があれば、安全かつ迅速に解決できます。報酬も、即金でかなり良い額が出ますよ』
ヨウの背筋に、ゾクッとしたものが走った。
「おいおいおい……! 魔物って、異世界だけの話じゃなかったのかよ!? こっちの世界(地球)にも、そんなファンタジーなバケモノがいるのか?!」
ヨウが驚愕して叫ぶと、珠子は淡々と答えた。
『ええ、いますよ。先生たちの世界ほど派手ではありませんが、人の負の感情や自然の淀みから生まれる『怪異』と呼ばれる魔物が。……どうですか、先生?』
ヨウは、ゴクリと唾を飲み込んだ。
平和な現代日本で静かに暮らそうと思っていたのに、まさかここでも魔物と戦う羽目になるとは。
だが、背に腹は代えられない。
祭を助けるため、そして自分の新しい人生を切り開くための高認試験の資金を得るためだ。
「……分かった。やってやるよ」
ヨウは、碧眼に鋭い光を宿し、決意の声を上げた。
「俺はレベル99の勇者だぞ。その魔物とやらを、ボコボコにして稼がせてもらう!」
『ふふっ。頼もしいですね、先生。では、今夜。詳しい話をアパートにお持ちします』
電話が切れる。
ヨウは、スマホを握りしめ、小樽の夏の空を見上げた。
「……おいおいおい。俺の人生、本当にどうなっちまってんだよ」
四十九歳の元高校教師。
絶世の美少女勇者の身体。
そして今度は、現代日本での魔物退治。
ヨウのボヤキは、カモメの鳴き声と共に入道雲の彼方へと消えていくのだった。




