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『リリムと贖罪』  作者: 黒猫
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第二戦 『ステップを合わせて』

 この物語は、十三歳(中学生)の橘スズちゃんが、パイロットとしての存在を自問しながら、平和維持組織のノヴァ日本支部の室長の青年や、パイロットたちと協力する話です。



 ハルトの自室の扉越しに、抑揚よくようのない合成音声が響く。フェイトだ。



 一基だけあるコンピュータは、実は、一基の中に三基の能力を持っている。ディケー(正義)・エウノミア(秩序ちつじょ)・エイレネ(平和)だ。



『総員戦闘態勢。繰り返す。総員戦闘態勢』



 ハルトは、左腕に上着を挟みながら、自室の扉を開ける。

 眼前には、慌ただしく対応しているオペレーターたちが大勢いる。そこは、指令室だ。

 彼は横幅十メートルもある巨大なメインディスプレイを見て、すうっと息を少し吸った。それから、彼は、いつもより声を張る。



「ウーゼは?」



 すると、ウーゼ開発研究主任の女性が、スピーカーからよどみなく答える。



『三〇〇秒で、準備が完了します』



 彼女に応えたハルトは、上着を着て、いつもどおり、背もたれが付いているワーキングチェアに座った。



「了解。はやし主任」



 暗灰色のオペレーター服の中でも、指令室の二階デッキで目立つ、桜色のジャンパーを羽織った、紺色のつなぎ服の女性はうなずく。



 しかし、指令室には、読んでいた文庫本を閉じた少年がいる。

 一色いっしきアオだ。



「あのさ、僕、パスしていい?」



 ハルトはその彼の言葉に、がくっと肩を落とす。



「あのな、一色パイロット。総員戦闘態勢なんだ。この総員って、全員って意味なんだからな?」



 灰色の瞳が流れるように、黒と赤色の瞳を見る。

 アオは鋭い声で言う。



「嘘でしょ、それ」



 そのあとの彼は、とぼけるように肩をすくめた。



「そしたら、なんで、彼女は行けないの?」



 そして、急に、アオは思い出したように声を上げ、左手の手のひらに右手の握りこぶしを重ねた。



「そっか。0号機は現在、強制停止中だったんだっけ。あー、そっかそっか」



 プロトタイプ・ウーゼ0号機担当パイロットは、白髪はくはつ真白ましろユキだ。



 ハルトは、アオが座るワーキングチェアの背もたれをもろ手でつかみ、自分の椅子の近くまでキャスターを移動させる。

 そして、ハルトは、アオの前に腰を降ろした。



「あまり茶化すな、アオ。今は緊急事態なんだし、それに、俺だっていつまでも、おまえたちをかばっていられないからな?」



「それもそうだね。ありがとう、山田室長」



 ハルトは、パーソナルコンピュータに灰色の瞳を向けると、つぶやく。



「調子狂うやつ……」



 それに対して、アオは、小さく首をかしげた。



「ん? なんか言った? 室長?」



「別に」



 ハルトはぶっきらぼうに言うと、首を巡らせた。どうやら、誰かを探しているようだ。



「林主任。林主任はいるか?」



 彼女は、はい、と、首肯しゅこうする。

 今日の彼女は、メインディスプレイからスピーカー越しに話しているのだ。



『あの、室長? ひとつだけ、うかがっても?』



「いいが……珍しいな」



 サクラははつらつとしている性格だが、大人なので、職務と自分のプライベートの分別をわきまえている。

 その分、彼女はプライベートでハルトに質問をしまくり、そのたびに、彼から生返事をされるのは日常茶飯事だ。



『本当に、0号機パイロットを出撃させるんですか』



 肩までの茶髪を持つ主任は、ハルトに問う。



「ほかに人員がいるとでも思うのか? 一色パイロットはともかく」



「だから、なんで僕を、いちいち目の敵にするのさ?」



 ハルトはアオが横から口出しすると、左手の人差し指を立てて口に当てる。



「ちょっと静かにしてろ」



 アオはワーキングチェアの上であぐらをかき、唇を尖らせていた。まるで、年相応の少年のように。



「室長が言ったんです」



 ハルトは、そんな彼を横目で見る。



「おまえな……」



 主任は、スピーカーを通した声で話を続けると、ハルトはメインディスプレイに顔を向ける。



『諸外国では、ウーゼパイロットをいまだ募集しています。なので、海外からでも……』



 確かに、日本は現在、四名のパイロットと同数のウーゼを運用しているので戦力的に十分だと、汐波司令は判断している。

 しかし、イギリス(ノヴァ本部が存在する)、アメリカ(現在、二名の少年が在籍中)、ドイツ(エミリアとほか三名が在籍)、日本以外の国——特にアフリカ地域では、ウーゼパイロットやノヴァ・アメリカ支部職員の人員を募集しているのは確かだ。



 ハルトは、灰色の瞳を細める。



「しかし、適合者が現れるのはまれだ。パイロットがそろうのだけでも、手放しで喜べるだろう?」



 そして、彼は、厚さの薄いひび割れた唇を噛む。疲労のためか、彼の唇は乾燥していた。



「……それに、あの簡易試験では合致しなくても、ウーゼパイロットとして適合していた、という事例も過去にあったらしいな」



 アオは、消し炭色のインサートスーツを着た手のひらで、青年の肩を軽く叩く。



「それって、適合者がイレギュラーだったってこと? 誰なの? そのヒト」



「さあな。俺は知らない」



 ハルトも過去に、それを受けたことはあった。

 長野県諏訪市の出身者でも県外の出身者でも、場所に関わらず、テストに見事パスした者は、ウーゼに搭乗できる。逆に、テストでよい結果が現れなかった者は、ウーゼに搭乗しなくてもよい、〝普通の人生〟を謳歌おうかできる。



 ハルトも過去に、『ウーゼ選抜簡易試験』を受けた。彼が受けた年齢は、十一のときだった。



 しかも、その年は、最悪の年だった。



 なぜなら、その年の二〇十四年・三月二十四日に、『第二次大災害』が起こったからだ。

 人類のほぼ全てが死に絶えた日でもある。



 ハルトの試験の結果は、反応なしだった。つまり、彼は〝普通の人生〟を謳歌できるのだ。

 しかし、数年前にウーゼを点検する際、ハルトが乗り込んでいたコックピットの上部ハッチがいきなり閉まった。



 そして、ウーゼは起動した。



 ハルトがコックピットの中から、操作を行っても、起動したウーゼは、反応しなかった。

 これは、突発的な事故だったと言えるだろう。

 しかし、本人は、あまりそのときのことを覚えていないらしい。

 そのとき、彼を診察した女性医師によれば、脳が何かの拍子に、勝手に記憶を思い出さないように、封印したらしかった。



「もしくは、『ウーゼ選抜簡易試験』を受け、パイロットに選出されたものの、〝適合率が低下した〟とか」



 ハルトは言い終えると、焦げ茶色の髪を持つスーツ姿の女性に、灰色の瞳を向けた。

 今の発言は、アカネの過去に触れるものだ。

 アカネは艶のある茶色の瞳でハルトを見たが、彼を見ただけだった。彼女は、腕組をしながら一同を見回して報告する。



「現在、未確認物体の熱エネルギー反応は、関東近海から依然侵攻中。恐らく、エンジェルよ」



 彼女は、目元を細める。



 エンジェル襲来したのは、今日で二度目だ。一日に、エンジェルが二度も襲来する日はなかなかないのだ。



 皆はそろって、姿勢を正した。ノヴァ日本支部でも最高の職位に当たる司令がみずから報告をしているからだ。

 アカネと距離が近い者は、彼女のほうを向いた。

 指令室一階デッキにいる、ほぼ全てのオペレーターは、ディスプレイやスピーカー越しに、『了解』と、アカネにこたえる。



 座っているハルトも立ち上がると、体をアカネに向けながら応えた。



「承知しました。司令」



 そのあとすぐに、スピーカー越しのオペレーターの声が被る。



『現在、CPOエルシーオー循環器の酸素は——』



 それから、アカネは、ほかのオペレーターに問いかけるため、きびすを返して去ってしまう。

 少ししてから、かすかに、一階の指令室デッキから、ウーゼのことなどを確認をするアカネの声が聞こえてきた。

 ハルトは、アカネに少し気圧けおされたが、安堵あんどして、部下に問いかける。



はやし主任。今度のパイロットテストは、任せてもいいか?」



 林サクラは、桜色のジャンパーを上下着脱可能か紺色のつなぎ服の上からまとっていた。彼女はほがらかに微笑ほほえんで、うなずく。



「はい。了解しました」



 彼女は、パーソナルコンピュータの画面を凝視ぎょうししたまま報告をする。



「各パイロットの医療検査は異常なし。2号機パイロットも、シナプス汚染は基準値内です」



「了解」



 返事を返したハルトは、ふっと、顔を上げた。

 メインディスプレイには、エンジェルが拡大され、端には、CPO循環器やウーゼのシステムが映っている。

 室長がそれを見ると、CPO循環器は正常に稼働していた。彼は、アオの1号機(改2)以外は、ウーゼも三機とも起動できるようだと確認を終えると安心した。



 ハルトは、平和もいいが、指令室の室長としての仕事が忙しいと、考える間もなく、気が紛れると考えている。



 そして、何より、学校で過ごすときよりも、仕事をしているほうが目が回るほどに忙しいが、それだけで一日があっという間に終わってしまう。

 あくびをしながら廊下を歩き、休み時間に次の授業を考えることよりも、目が回るほどに忙しいが、指令室でこの都市の平和を維持しているほうがよっぽどいい、と、彼はたまに思う。



 彼はまたパーソナルコンピュータに向き直ると、曲げた指の節を唇に当てた。

 そして、過去の戦闘をまとめたファイルをマウスでダブルクリックして、その中にある『エンジェル戦闘報告書』を開く。

 しかし、彼の目に飛び込んできた情報は、まったく違ったものだった。つまり、職員が、報告書の電子化を終わらせていないらしかった。



 彼は脳裏に、今日は、悪運でもついているのか、と、そんな思いをよぎらせた。

 パーソナルコンピュータの液晶画面には、ハルトの報告書が映る。



 それは、ハルトが自分で示唆していた、ウーゼの点検のために、搭乗した後日に作成されたものだ。



——なお、被験者・第XX号、Y・Hは、イレギュラーな存在と思われる——



 ハルトは内心、ため息をついた。



(イレギュラー、か。それは俺も知りたいよ)



 アオも、パーソナルコンピュータの液晶画面を覗き込む。そして、右手の曲げた人差し指を顎に当てる。



「ふうん……なんだ、内緒話っていうことか」



「おまえ……どこまで知ってる?」



 アオは、パーソナルコンピュータの画面を指さす。



「これは、今知ったよ。ていうか、この試験やったことないな。僕は直接、乗り込んだから」



 ハルトが、何かをひらめいたように灰色の瞳を見開くと、アオは不敵ふてきに笑った。



「ね? 室長。君のためになった?」





 スズ、ユキ、カエデの三人は、更衣室でインサートスーツに着替えていた。

 二人と反対側のベンチに座るスズは、ふと、疑問に思ったことを口に出す。



「真白さんと久遠くおんさんは、さっきの非常召集で支部に来たよね? でも、私が最初に会ったとき、久遠さんだけウーゼに乗ってたけど……」



 スズが手首のエアーボタンを押すと、深緑色のインサートスーツの空気が抜ける音がして体に沿う。



「おお……これがインサートスーツ? へえ、なんかすごい」



 スズは、まるで嬉しそうに自分の手首を見回す。

 肩の部分には、大きくて丸い灰色の金具が付いている。



 スズのインサートスーツの背中には数字が入っており、スズが〝ウーゼ5号機の適性者〟だと示すものだ。



 パイロットは、体の全神経と接続することができるインサートスーツを着用している。

 各パイロットの思考を読み取れる、思考言語認識機能もインサートスーツに付けられており、人間でいえばちょうど頚椎けいつい付近をぐるりと囲むようになっている。

 ふいに、スズは、質問をした彼女たちを見ると、カーテン越しの彼女たちはエアーボタンを押す。

 スズは気まずくなり、彼女たちから目をそらした。



 小さく空気が抜ける音がすると、カエデの、暗灰色あんかいしょくのインサートスーツが沿う。

 彼女の黒髪も揺れ動く。髪は胸までの長さだ。

 カエデの両手首すぐの場所の外側と、両二の腕の辺りには、チューブをつなげるための金具が付けられている。



 ウーゼとチューブをつなげると、本人は言った。あなたがノヴァ支部に来る前に改良されたとも、彼女は言う。



 これは、カエデだけのインサートスーツの特徴らしい。



 ユキが、静かな声で話す。



「私はウーゼには乗るな、って言われているの」



 その彼女の横で、カエデは静かに話を聞いている。

 無言のままのカエデは、自分から一歩を引くスタイルを今も貫いているのだ。

 スズは首をかしげる。



「えっ? どうして? 確かに、ハルトに説明されたけどさ……なんか納得できないよ」



 戸惑とまどうスズを彼女が説明をする。彼女のくるんとした毛先は、頬にかかっている。



「私が乗っていた0号機は、まだ強制停止中だから」



 スズは、聞き慣れない単語に疑問を持つ。



「強制停止中? その0号機は動かせなかったの?」



「うん。実験中に破壊再生したから」



「破壊再生? それって——」



 スズはユキを見るが、再び視線をそらす。

 彼女は頭の奥で嫌なことをまた思い出してしまい、ひとつ浅いため息をついたが、すぐにユキに尋ねた。



「教室で会ったときの怪我けが? 大丈夫なの?」



「それはあなたに会う前だから、もう平気」



 今度はカエデが、説明の補足をする。



「彼女の怪我は回復してるわ。安心して」



「そうなんだ。よかった」



 カエデの影のシルエットが、くるりとスズに背を向ける。



「あ、待って、今行くよ。久遠さん」



 カエデの足音が遠ざかって行くと思われたが、突然、彼女は止まった。



「どうしたの?」



 カエデがこぶしを握ると、ギチッと、インサートスーツの衣擦れの小さな音がする。



「いえ。なんでもないわ」



 少しかぶりを振ったカエデは、そのまま先を行き、自動扉が、シュコンッと閉まった。



(行っちゃった……何か言おうとしてたのかな?)



 ユキは決意した表情でまっすぐ前を見る。



「……私が死なせない」



 スズはユキを見て、少し驚いた表情をする。



 それと同時に、スズには、何か嫌な予感がしたような気がしたが、気のせいだと思い込むことにした。



(今の、どこかで聞いたことあるような? でも、どこで?)



 スズの思考は、ユキの言葉によって、中断させられた。



「行こう」


 スズはその言葉が気になりつつも、ワンテンポ遅れて返事をした。


「あ、うん」


 彼女とともに自動扉から廊下に向かう。



「ていうか、真白さんは乗っちゃダメなんじゃないの?」



 そう彼女が言うと、白髪の少女は首を緩やかに横に振る。彼女の肩から胸までの白髪が、美しい一枚布のように、さらさらと流れる。



「スズが心配だから、内緒で乗る」



 ユキは、厚さの薄い唇に人差し指を当てて平然と言ったので、スズは、曖昧あいまいな相づちしか打てなかった。



「はあ……」





 5号機プログ内のコックピットでは、開かれたディスプレイから、次々に、サクラなどのオペレーターの声が聞こえる。



『プログ、固定完了しました』



 スズは、コックピットに両足を伸ばして座り、ユキは左隣で、その背もたれに手を添えて立っていた。

 スズは、ちらりと彼女を見上げるが、ユキは正面を瞳に捉えている。



(真白さん、やっぱり、どこかで会ったことあるかも……? いや、気にしすぎか……)



 ディスプレイから、若い女性オペレーターの声が聞こえる。



『5号機の思考言語を、日本語に設定』



 それに応えて、主任の声が聞こえた。



『了解。CPO注入開始』



 スズは彼女の声に反応をする。



「え……?」



 だが、彼女が、視線を下に向けたときには、CPO機械音とともにプログ内にたまっていく。



「うわっ!?」



 スズが息を吸おうとしたが、CPOは容赦ようしゃなく肺の中に押し寄せてくる。

 彼女はそのたびにせき込む。



(これがCPO? もしかして、久遠さんも窒息するの?)



 そのとき、優しい声色が、パニックになっているスズに声をかけた。



「平気」



 スズの目の前に、吐き出された大きな泡が、ごぼりと立つ。



 5号機のディスプレイから、オペレーターの声が響く。



『セカンド・コネクト異常なし』



『——三十四・一パーセント、誤差は〇・〇三です』



 そのあとに、ウーゼがコネクトを接続完了した機械音が、ヒュウウウウンッ、と制動する。

 最初、スズの耳に聞こえたのは、オペレーターが報告をする声だった。



『CPO循環器は異常なし。酸素システムの濃度は、七十パーセントを維持』



 後方で静かに、フィィィィンと、網つきふたの中でタービンを回しているCPO循環機の稼働音も聞こえる。

 そのあとは、静かな声だった。



「——ズ? スズ?」



 続けて、りんとした声も聞こえてくる。



「あなた平気? 大丈夫?」



(……あれ? ……久遠さん?)



 目をまばたきさせたスズが話すと、まだ少しだけ、こぽりと、白い泡が立っていた。

 白いものが、スズの目につく。それらは、胸元の細長いリボン、二の腕の膨らんだ袖のデザイン、太ももの辺りを緩慢かんまんに揺れるスカートだ。



 そんな白いワンピースを着ている人物は、スズの中では、一人しか見当たらない。真白ユキだ。



「よかった。平気?」



 スズは彼女に問いかけられ、目をぱちくりとさせた。



「な、なんで……ここにいるの? 真白さん? もしかして、幽霊ゆうれいなの?」



 先程、0号機が強制停止中だと言う理由で、ユキはそのウーゼに乗れないと話していたはずだ。

 それに何より、彼女は白いインサートスーツを着用していはずなのに、今の彼女の格好は、白いワンピースだ。



 スズの顔は途端に青ざめた。それは、ユキが突然現れただけではなく、スズの両親が亡くなった〝実験〟に現れた少女の格好と、今のユキの格好がまったく同じだからだ。



 だが、スズに問われたユキは、緩やかに首を横に振った。

 スズが話すと、いくつもの小さな泡が彼女の口から吐き出される。



「ああ。違うんだ……」



 スズのほおに赤みが戻った。彼女は安堵あんどしたのだ。

 彼女の顔は無表情だったが、彼女なりに心配をしているように見えた。



「あ、ごめん。真白さん。久遠さんもごめん」



 ユキは、ふるふると、首を横に振って否定した。彼女が着ている白いワンピースの胸元も、ふわふわと揺れる。

 カエデも、ディスプレイ越しのスズを見て、少し安堵する。

 金属音がケージ内に鳴り響くと、2号機と5号機が発射位置に固定された。



『2号機・5号機は、射出ターミナルに固定完了』



 主任からディスプレイ越しの声を、三人は聞く。

 スズはうつむき、髪の後ろを少しく。



(心配させちゃったな……)



 シャコンッと、2号機からのディスプレイが閉じられるが、すぐにディスプレイに切り替わる。

 カエデの声が聞こえた。



『2号機、起動』



 ヴヴンッと鈍い起動音がケージ内に響き、2号機が固定され、激しく火花を散らしながら射出をされる。

 凄まじい速度で加速をし続け、地上へと向かって行った。



(びっくりしたな……真白さんに心配させちゃったし、久遠さんにまで……)



 さっきよりは落ち着いたが、内省しているスズは、ユキを目で追う。



「あのさ、真白さん?」



 ユキは、先程の無表情とは打って変わって、少しきょとんとした表情になる。



「……どうしたの?」



「さっきの、私が死なせないって、あれ、聞いてもいい?」



 ユキは一度、うつむいたが、決意を含めたような声を発する。



「……私、あなたを死なせたくない」



 しかし、2号機からディスプレイが開かれる。



『あれは……? きゃあっ!?』



 砂嵐のあと、ブツッと、接続を強制的に切られ、2号機のディスプレイが映らなくなった。

 スズは、ディスプレイに呼びかける。



「久遠さん?」



 ユキも彼女と同じく、ディスプレイに呼びかけている。



「カエデ? カエデ? ——返事がない。さっきの様子からして、何かあったのかも……」



 そのあとのユキは少し考えていたが、5号機ディスプレイのコマンドを立ち上げにかかる。

 その作業中のユキを、スズは見ながら、少し不安そうに唇を噛みしめる。



「それって大丈夫じゃないよね? 早く行かないと」



 その一方で、スズは、ユキがディスプレイを押す仕草を見て、不安な気持ちとは裏腹に、再び安堵していた。



(ホントに人間なんだ……ああ、いやいや、こんなこと思ってたら失礼だよね?)



 ユキは、ディスプレイのコマンドを目で追いかけ、右手の人差し指で、それを横に滑らす。そして、彼女は、ディスプレイに表示された説明を一度も噛むことなく、口の内でつぶやく。



「5号機内の酸素は、現在、七十五パーセントからゼロコンマ一上昇中。CPO循環器は、七十パーセントを維持」



 彼女はディスプレイに呼びかけた。



「指令室」



 頭の中には、緊急時のマニュアルを思い浮かべながら、続けて、すらすらと応答を求める。



「2号機パイロット・久遠カエデとの連絡を至急要求。2号機——」



 代わりに、すぐ目の前のディスプレイから、〈2号機パイロット・久遠カエデと連絡不能〉という表示がされた。

 彼女は、少し目を大きく見開く。



「え? 久遠さん?」



 ユキは、スズ、と、5号機パイロットを促す。

 スズはうなずく。



「う、うん」



 そんなスズを横目に、ユキは真剣な顔になる。

 二人は、すぐに5号機を起動させる。



『ウーゼ5号機、起動』



 ヴヴンッと、鈍い起動音がケージ内に響くと、固定された5号機は激しく火花を散らしながら、射出をされていく。

 スズは、突然のことで驚いたが、目をつぶってなんとか耐える。



 5号機の巨躯きょくが地上に現れると同時に、鈍い音がコックピット後方から聞こえた。

 すぐにディスプレイから、男性オペレーターの報告が届く。



『5号機、地上に射出!』



 続けて、主任が報告をする。



『最終安全装置、解除!』



 報告をし終えたあと、5号機の肩や腰を固定していた装置が、バシュッと、ミサイル発射のような短い音をたて、解除された。

 続けて表示されたディスプレイには、〈レベル・レッド〉と表記してある。

 スズは不思議そうに、目の前に現れたディスプレイを見つめた。



「〈レベル・レッド〉?」



「エンジェルが襲来したときに現れる、ディスプレイ表示」



 スズはまるで納得したように、何度か首肯をする。



「へえ、そうなんだ……?」



 〈レベル・レッド〉は、エンジェルがこの都市に襲来したときに現れるディスプレイ表示だ。

 また、〈レベル・グリーン〉は、エンジェルを警戒時や相手側の抵抗が無いときなどに使用されるディスプレイ表示である。



 途端、ビー、ビー、と、二回短い音を出し、コックピット前方に急に開かれたディスプレイが、何かを警告する。

 スズは、ディスプレイの文を読み始めた。



「久遠カエデが搭乗するウーゼ2号機は、真白ユキ——リリム——および、たちばなスズが搭乗するウーゼ5号機の半径十五メートル以内に、時速八十キロメートルで高速移動中——」



 だが、スズは、文章は読めるのだが、意味があまりわからずに不思議な表情をする。



「これ、何?」



 スズは、プログの内部に首を巡らす。



(私と真白さん以外、誰もいないはずなのに……)



 再び、薄赤いCPOが、こぽこぽと泡立った。

 ユキが、厚さの薄い小さな口でつぶやくと、スズは問いかける。



「え? 真白さん、何か言った?」



 スズが、上に広がった大きな影に気づいた。



「ん? え? あれ、2号——」



 そのときには、2号機の黒い巨体が5号機に向かっていた。

 スズの驚きを隠せない顔と大声が、コックピットに響く。



「わぁああ!?」



 ユキも、表情には出さなかったが驚いた。

 2号機と5号機が、激しくぶつかり合う。

 2号機の腰の部分を受け止めるようにして5号機は下になり、2号機の左足を絡めるようにして抜けなくなった。

 震度二のような揺れが起こると、2号機のコックピットに座るカエデは、顔をゆがめながら強打した背中に感じる痛みに耐えていた。



『……いったた…………』



 高機能なフィードバック——つまり、思考を返す力の強さは、ウーゼの感覚を全てパイロットに伝える伝達により、ウーゼが物をつかむ感覚や痛みも感じることができる。その力は強ければ強いほど、よいとされている。

 CPOシーピーオーは、パイロットに酸素補給が可能な酸素ガス、正式には、パイロット接続専用酸素ガスだ。



 ただ、主な成分は、酸素が割合の半分以上を占めているので、空気と同じように循環をしなくてはいけない。



 コックピット後方にあるCPO循環器が稼働を止めてしまうと、肺が酸素不足になり、息が苦しくなったりする。ほかの可能性としては、脳内に充分な酸素がいかなくなり、頭痛と、倦怠けんたい感が襲ってきたりする。



 また、酸素不足が長時間続いてしまうと、パイロットが気絶をしてしまう。



 たとえ、どんなにパイロットが泣き叫ぶ激痛や、我を忘れそうになりそうな激しい感情でも、そのパイロットの状態に合わせた思考を解析し、反映させる。

 そのための、戦闘に特化した服装と、パイロット接続専用酸素ガスだ。



 スズは、強く目をつむっていたが、薄目うすめを開ける。



「ねえ、二人とも、大丈夫?」



 すると、カエデから返事が来た。



『ええ……平気よ』



 スズの左隣から、ユキの声も聞こえる。



「私も平気。あなた、怪我は?」



 そう言ったユキは、スズのほうを振り向く。

 スズは、そんなユキに戸惑とまどいながら答える。



「うん。平気だよ。大丈夫」



 また、シャコンッ、と、ディスプレイが開かれると、サクラの声が二機のコックピットに響く。



『皆さん、退却してください!』



 カエデの悔しそうな声が、2号機のディスプレイから聞こえた。



『今のなんなのかしら……エンジェルのくせに』



 スズは疑問に思いながら、カエデに少し萎縮いしゅくして、ふと考えてしまう。



(もしかして、エンジェルが苦手なのかな? ……でも、敵——)



 ふいに、ユキがスズに尋ねた。



「スズ、5号機を動かせる?」



「あ、うーん。多分だけど……やってみるよ」



 途端、金属音がコックピットに響く。

 スズが急に動かした5号機は、2号機とがんじがらめになり、身動きが取れない状況になっている。

 スズは座ったままだったが、前方に体を大きくのめらせそうになった。



「わっ」



 彼女の一本にまとめられた黒髪も揺れ動く。その黒い瞳は、驚きで見開かれていた。



「!」



 5号機が、ヴヴンッと、動きを止める。



「あー、危なかった……」



 スズは大きく息をついたが、ユキに尋ねられる。



「平気?」



「うん。大丈夫」



 カエデからも、ディスプレイで返答がきた。



『二人とも、平気? 今度は私のほうからも動かしてみるわ』



 カエデは操作を続け、5号機の上となった2号機を動かそうとするがダメだった。

 ディスプレイ越しのカエデは、ため息をついた。



『あなたたちからも動かせる?』



「え? これは、できないと思うよ。助けって呼べるかな?」



『ええ。少し待って』



 カエデは2号機の上半身を起こすようにすると、プログを射出し、ハッチを開けると外に出る。

 スズは、ズームされた彼女を視認する。

 彼女は日本語で『ノヴァ日本支部・2号機パイロット』『久遠カエデ』と名前を識別されていた。彼女が動きを見せるたびに、左側に表記をされている丸いオブジェクトは追う。



 カエデは、ウーゼに付属されている固定電話で助けを呼んだようだ。

 彼女は受話器を置くと、5号機をちらりと見る。

 映像が自動的に切れ、勝手に切り替わった外部スピーカーで、カエデは二人に呼びかけた。



『ハルトに助けを呼んだわ。これから、護送ヘリが来るそうよ』



 再び、スピーカー越しに、主任の声が聞こえる。



『2号機・5号機を確認。これより、回収します』



 上空には、二機のヘリコプターが回転翼で突風を吹かせていた。

 ヘリコプターに乗り込むときのユキは、三人の黒スーツの男女に付き添われていた。

 だが、スズとカエデも、別なヘリコプターに乗り込む。

 その三人とは別に、こちらに近づいてきた女性職員は、スズとカエデに気づくと、女性職員は、親しげに会釈する。

 ユキは連れ立っているほかの支部関係者らしき人物ともに、ヘリコプターに乗り込んだ。

 女性職員はやわらかな笑みを浮かべたまま、スズたちに話しかける。



「お疲れさまです。スズさん。カエデさんも」



「え? サクラさん? どうしたんですか?」



 スズが締めようとしたシートベルトは手が離されると、座席に金属音を鳴らして置き去りにされ、まるでヘッドホンの形をした航空機用ヘッドセットも、脇に置かれた。

 そして、彼女は、開け放たれているヘリコプターの横開き扉に近づいてかがんだ。

 スズにとっては、サクラがいつもより頭半分ほど低く見える。



「ちょっと、仕事のついでに足を延ばしにきました」



 サクラはそう言いながら、乗り込んだ。



「突然すみません。林です。一名追加でお願いします」



 サクラは後ろを振り返る。ヘリコプターのパイロットに、出発時間を少し遅らせることを了承してもらう。



「すみません、カエデさん。確認をしてもいいですか?」



「ええ」



 サクラはカエデの頚部けいぶに着けられたチョーカーの確認を、持っていたタブレット端末に打ち終えた。



「失礼します」



 一度、サクラがチョーカーに触れると、ピピッと、作動音を小さく鳴らした。

 そのあとは、ピ——ッと、作動音を鳴らしたりしたが、タブレット端末を彼女が操作したりすると、その音はやんだ。

 確認をされている間は、カエデは無言で彼女に従った。

 サクラはそのあと、ヘリコプターのパイロットに、出発の指示をそれとなく出した。

 それぞれのヘリコプターのパイロットが支部に報告をし、二機のヘリコプターが出発する。

 2号機と5号機が、小さく遠くなっていく。



 その後、二機は、ルート147(イチヨンナナ)に回収をされた。

 八本のボルトが回転しながら、ルート147(イチヨンナナ)の重厚な扉を、バシュウウッ、と閉じる。



 スズは、心に晴れない不安感を持ちながら、カエデの頚部に装着されているチョーカーを見た。

 それは黒光りしていて、差し色に入っている赤いラインが、妙に艶めいている。

 それを見ているスズは、得体の知れない、心臓の鼓動が早まるような不安に襲われるばかりだった。

 彼女は無意識に、握った拳を、胸の辺りに当てた。

 だが、それは、彼女の心臓の鼓動が、体の内側から太鼓を鳴らしているように感じられるだけだった。



 その不安を言葉にしようものなら、スズは今、ここで言ってはいけない言葉を吐きそうになるのだ。

 得体の知れない不安感ばかりが、彼女の体にけられた布団のように、重く、重く覆っていく。





 アカネは、国連軍会議室に直通している固定電話の受話器を置き、次々に、部下の名前を呼び始める。



「山田室長、林主任も、今から私と一緒に来て」



 ハルトは、背筋を正しながら立ち上がる。



「はい。司令」



 パイロットたちと一緒に戻ったサクラも、アカネに向かって、立ち上がりざまに敬礼をする。



「承知しました」



 アカネは横目で、ハルトの隣を見る。



「……一色パイロットも興味があるのなら来て」



 ワーキングチェアであぐらを組んでいたアオは、微笑んで敬礼する。



「ぜひ」



 部下を引き連れたアカネは、作戦会議室の扉を開ける。

 暗い部屋だったが、彼女が部屋の電気をつけると、パッと明るくなる。

 一同は一瞬、目がくらんだ。

 同時に、ちょうど電源がついたテーブルディスプレイが稼働し、フォンッと、映像が切り替わったと同時に、画面が暗くなる。



 アカネは、テーブルディスプレイから目を離すと、部下たちを見つめる。



「エンジェルは?」



「はい」



 ハルトは、『A2(エーツー)爆弾での攻撃報告』の分厚い資料を見ながら、アカネの質問に答える。



「約三十分前、A2爆弾で十五パーセントの攻撃に成功しました。しかし、完全に殲滅せんめつさせるには、やはり、ウーゼが必要です」



 アカネもほかの書類を見つめながら、部下たちとともに確認をする。もちろん、部下だけではなく、パイロットもいるのだが。

 そのパイロットである、一色アオが口を開いた。



「汐波司令。このA2なんとかで、エンジェルを十五パーセントだけ攻撃出来ただけなのに、ウーゼって必要ですか?」



「そうよ。足止めには成功。A2爆弾では効かなかったと言いたいのね。室長」



 アカネが艶のある茶色い瞳を室長に向けると、ハルトは、はい、と、首肯する。



「多数の抗議の公文に、国連上層部からも正式な文書が届いています。また、日代ひしろ大尉たいいから、司令宛てに文書が届いています。ご覧になりましたか?」



「ええ。いざとなれば、私たちのせいということね」



 アカネは目を細め、ため息をついた。



「山田室長。これも必要ないわ」



 ドササッと、テーブルディスプレイの上に資料が山積みにされる。

 一同は、それに呆気あっけに取られた。

 一番上には、『ウーゼ2号機および5号機による戦闘被害報告』という題名がつけられていたが、ほかの資料が山となり、アカネの前に置かれている。

 アカネがその資料を置いたとき、彼女が思わず立ち上がるほどに、彼女の端正な顔立ちは見えなくなっていた。



 ハルトが気まずい顔をしながら、最敬礼の謝罪をする。



「申し訳ございません。それは、私が処理をしておきます」



「謝罪は必要ないわ。全て不必要な文書や公文よ」



 ハルトは、不思議そうな表情をした。アカネが、この山積みにされた文書などをこの短時間のうちに全て読み終えたのか、と、考えたからだ。



「全て、ですか……。承知しました。勝手ですが、こちらは処理をさせていただきます」



 ハルトは、資料を自分のほうに引き寄せた。

 アカネ以外は、ちらりと、近くのごみ箱を見るが、乱雑に捨てられている文書の中には、英語やドイツ語などの外国語で書かれた文書もある。

 要約すると、次の文書のように、同様の文書や抗議文の文字が羅列られつしている。



——汐波しおなみ司令率いるノヴァ日本支部の活躍はとても光栄だが、0号機及び、5号機パイロット並びに、2号機パイロットの三名による衝突被害は看過できない。早急さっきゅうに対処の進言を申し上げる——



 アカネは、ため息混じりに話す。



「むしろ、そのような、役に立たない兵器を造る彼らと話し合いをしたいわ。〝エンジェル攻撃兵器〟の正式名称を持つ兵器なのに」



 先程、話題に上ったA2爆弾や、昨日、誤発射されたA2ミサイルは、全て〝エンジェル攻撃武器〟の正式名称でくくられる。

 〝エンジェル攻撃武器〟とは、そもそも、エンジェルの攻撃に有効な武器をさし示す。エンジェルは、通常兵器の攻撃などでは一切効かないからだ。



 アオは、きょとんとした様子で話を聞いていたが、彼はアカネに問う。



「じゃあ、僕も効かないってことかな?」



 しかし、彼女は、それには触れずに話題を変えた。



「ところで、先の戦闘についてどう思うの?」



 アオは眉根をひそめる。



(ホントは全部知ってるくせに……意地が悪いよ。アカネ)



 ハルトは持っていたタブレット端末を、アカネに渡してから答える。



「2号機パイロットが攻撃を行った際、エンジェルが分離をしたので苦戦をしたと思われます。それによって、コアも甲と乙、そのときに分離となっています」



 アカネは顎に手を軽く当て、考え込んだ。



「つまり、エンジェルは二体で一体、融合分離をするのね。コアも分離するということは、エンジェルが一体に戻るときにはコアもひとつになる、ということかしら? 室長?」



「先程の戦闘データから判断されました」



 アカネはそれを見ながら、話を続ける。



「そう。サクラ、ウーゼは?」



「2号機は背部はいぶと両腕、表面装甲の損傷を修復中です。換装はフルピッチで行っていますが、三時間はかかります」



 ハルトが続きを補う。



「5号機はいつでも起動させられるように、現在、地上迎撃のジー型装備で冷却中です」



 G型装備は、地面の意味を持つ、グラウンドの頭文字から取られている。



「それで、エンジェルはどこまで侵攻しているの?」



 サクラが応えた。



「はい。現在、諏訪すわ湖で自己修復中だと思われます」



 地上の諏訪湖は、この長野県にある湖だ。現在は、『第二次大災害』により、色が白くなっているが、どこかの架空の湖によく似ているらしい。

 ハルトが、サクラの説明を補う。



「ですが、七日後には自己修復が完了、再び、支部に侵攻すると考えられます」




 部下が司令に説明を行う隣で、ハルトは、顎に左手の曲げた人差し指を当てている。



(2号機単機だけでは、太刀打ちできないか……。いっそ、空輸するか? いや、狙い撃ちされれば元も子もないな)




 アカネはサクラの説明を聞き終えると、ひと言つぶやいた。



「諏訪湖ね……」



 引き続き、ハルトが答える。



「ほかの場所も考えられますが、負傷をしているため、この場所だと」



 サクラが、アカネに提案をうかがう。



「汐波司令。ウーゼでの攻撃方法は、交互に攻撃を行いますか?」



 アカネは、首を振らずに否定する。



「いえ。指令室でバックアップをさせて」



 ハルトはそこで、何かがふと頭の中をよぎった気がした。



(そうか。単騎だけだからか? 例えば、2号機と5号機が、同時にエンジェルのせん滅をするとかか?)



 しかし、彼はさまざまな損害や、その補填の賠償を考慮すると、鈍い頭痛が起きそうになった。



 アオは、考え込む室長の顔を覗き込むと、今度はサクラに話しかける。

 今の彼に話しかけても、鬱陶うっとうしそうに、邪魔をするな、と言われそうだからだ。



「ねえ、林主任。僕の一号機(改2)は出撃させなくていいの?」



 サクラは少年からの疑問に、最初、不思議そうな顔をした。



「え? あ、すみません。私、ウーゼのことはよく知らないんです。だから、今回の作戦は司令か室長に聞いてみてください」



 彼女が申し訳程度に会釈をすると、彼はうなずく。



「ふうん。そっか……あんなに部品いじるの好きだったのにね」



 彼女は、ふふっと笑う。



「ですね」



 アオは、左手の曲げた人差し指の節を顎に添える。



「そっか。じゃあ、あとは、0号機と2号機と5号機の三機になるね」



 アオは肩をすくめる。



「まあ、僕はあまり出番ないけど……」



 そして、また彼は、顎に右手の人差し指を当てた。



「ウーゼの同時攻撃ってのも、方法としては、時間をかけずに攻撃できそうだけどね」



 アオは室長の青年に向かって、口の端を上げるニヤリとした、意味ありげな笑みを浮かべた。



 ハルトは、とある作戦を思いつくと、うつむいた顔を上げる。



「何か思いついたかしら? 山田室長?」



 アカネに問われたハルトは、一瞬、一斉に見られた。

 そのときは、少し緊張気味だったが、ある決意をした。



「司令。この作戦なら、エンジェルを殲滅させることが確実な方法と考えられます」





 スズ、ユキ、カエデを含めた三人は、サクラとともに、作戦会議室にいた。



 アオは、今回の作戦には不参加らしい。



「僕、調べたいことあるから、楽しんどいて」



 彼は、ひらりと片手を振ってそう言っていた。



 暗い会議室は、テーブルディスプレイだけが、煌々(こうこう)と、彼らを下から照らしている。

 サクラから作戦を聞いた彼らは、驚いた。

 スズが、驚いて尋ねる。



「え? それって……」



 いつも冷静なカエデも耳を疑い、同じく聞き返す。立案された作戦が、彼女たちにとって突拍子もなかったからだ。



「それは本気なの?」



 サクラはファイルを見ながら、もう一度、三人に内容を報告する。

 フォンッ、と、機械音が鳴り、中央にあるテーブルディスプレイに、二人の少女のようなエンジェルが映る。



「あのエンジェルは、攻撃をしたときに分離をしても、お互いを補っています。なので——」



 テーブルディスプレイが、また機械音を鳴らすと、画面が暗くなった。



「ウーゼ二機による完ぺきなユニゾン。今はこれしかありません」



 スズは、不安と困惑が入り混じる表情でサクラに聞く。



「でも、ユニゾンって、何をするんですか?」



 スズの脳裏には、アイドルグループが、マイクを手に持ち、その美声をテレビの画面越しの視聴者に届けている情景が思い起こされる。



 サクラは持っていたファイルをテーブルに置くと、タブレット端末を取り出し、計画決定案をテーブルディスプレイに同期させる。



 サクラは、左手で持っているタブレット端末を、右手の人差し指で左から右へ滑らせながら彼女たちに見せた。



「エンジェルが一体に戻るとき、コアもひとつになります。なので、二名で完ぺきな動きをして、コアの同時二重攻撃をはかります」



(ん?)



 スズは、呆気あっけに取られた表情をした。



「ダンス、ですか?」



 彼女がそう聞くと、サクラが愛想笑いをして答えた。



「はい。当日までにダンスのリズム感だけを覚えておいてください。実を言うと、ほかに出されたアイデアの中では、これという方法がありませんでした……」



「いえ」



 スズは首の後ろに手を当て、つぶやいた。そして、ちらりと、横目で床を見る。



(二人で、ってことは、誰かとペアを組んでやるってやつかな? でも、ダンスは、やったことないし……)



 スズは、諦めたような安堵をするような表情をする。

 しかし、手を控えめに挙げたのは、2号機パイロットの久遠カエデだった。


「私がやるわ。ところで、あなたがウーゼのバックアップを取ってるのよね? それとも、私は、ほかのウーゼに乗れないとでも?」



「ううん、そういうわけじゃないよ。けれど、室長が、単独では無理だって、おっしゃっていたんです。それに……」



 サクラは、カエデをちらりと見たが、彼女はそれを気にしてはいないようだ。

 サクラは言葉を続ける。



「約二時間後に、2号機の修復は完了しますが、カエデさんは無理をしないでください。休養も大切なことなんです」



 四人の中で流れるわずかな時間の沈黙のあと、スズが口を開いた。



「あの……」



 それから、彼女は、胸までの黒髪を持つ少女を見る。



(久遠さんに無理をさせないようにしないと。今回は怪我はなかったけど、最初の会ったときみたいに、エンジェルに突っ込んで行ったりしたら……嫌だ)



 だが、カエデは、スズを横目で見ながらカエデを見るが、すぐに彼女から目線を外す。



「ええ。わかったわ」



 彼女は首肯し、そのあと、考え込むように、左手を顎に添える。



「……その間、私は、パイロットテストでもしようかしら?」



 サクラは安堵をしたものの、気がかりそうにカエデに問いかける。



「体は平気なんですか?」



「そうね、先程の身体しんたい検査でも異常はなし。それに、シナプス汚染は、基準値を超えていなかったわ」



 スズは、シナプス汚染という言葉に、少しドキリとする。



(シナプス汚染って、確か、パイロットへの精神的異常——だよね?)



 スズは顔を曇らせた。

 昨日、サクラが説明してくれた言葉の数々が、彼女の心を曇らせたのだ。



(ウーゼは私たちの適合率が高いほど動かしやすい。だけど、最悪の場合は——死亡する可能性が高い、って……)



 スズは少しうつむく。



(私もいつか、そうなるのかな?)



「平気よ」



 スズは、ふとカエデを見る。

 なぜ彼女がそう言ったのか、わからないからだ。



「大丈夫ですよ、スズさん」

 カエデに続けて言ったサクラは、人差し指を立てる。



「そんなことが起こらないように、今日も2号機を修理したら検査するし、5号機もちゃんと動いているよ」



 ユキも、まっすぐ彼女の顔を見て、静かな声で答える。



「平気。まもるから」



(…………)



「あ、すみません。暗い話しちゃって……」



 スズは髪の後ろを搔く。

 サクラが言う。



「ううん。心配してるんだよね? ユキとカエデさんのこと」



 スズは、少し目を見開いて驚き、うなずいた。



「……はい」



 カエデの表情からは読み取れないが、彼女も少し心配そうにする。

 彼女は腕を組んだ。



「でも、2号機に損傷を負わせてしまったわ」



 カエデは唇をぎゅっと結ぶと、呆れたようにひとつため息をつく。



「あいつらは、のうのうと生きてるというのに……」



(やっぱり、嫌いなのかな?)

 スズはカエデに対してそう思うが、話題を変えようと、彼女に話を振る。



「ねえ、久遠さんって、ダンス得意?」



 スズに聞かれたカエデは、どうして? という顔をする。



「なぜ突然、そんなことを聞くの?」



 スズは、しまった、という表情をする。



「私、ダンスやったことなくてさ」



「そうなのね」



 カエデは、少しだけ脱線した話を戻す。



「で、私は、何をすればいいのかしら?」



「一生懸命振り付けを覚えるから、私にダンスを教えてほしいんだ。お願い」



 スズは両手を合わせて、カエデに頼む仕草をする。

 カエデは少し考えてから、サクラに聞く。



「サクラ。私もやったことはないけど、私でもできるの?」



 サクラは、はい、と、首肯した。その表情は穏やかだ。



「七日後までに、できるだけ早く覚えれば平気だよ。それに、みんな覚えるの早いから、大丈夫。私が保証するよ」



 茶髪の彼女は、そう穏やかに呼びかける。

 カエデが、ふとユキを見ると、彼女は、なんだか楽しそうな表情をしている。

 スズもユキに気づく。



(あれ? 真白さん、なんだか楽しそう?)



 だが、スズは、ほとんど変化しないユキの顔に、楽しそう、という確証が持てなくて困ってしまう。

 サクラは、また人差し指を立て、穏やかに呼びかける。



「では、スズさんとカエデさんのペアで決定だね」



 スズとカエデは、返事をハモる。



『はい』



 スズがカエデを見れば、彼女は、こくりとうなずく。

 スズは、返事がハモったことにより、少し気まずくなって彼女に苦笑いをした。

 サクラは微笑んで、うなずいた。



「うん。いい返事! 早速決まってるねえ」





 シュコンッと、部屋の扉が開く。  

 彼女たちの目の前には、ふたつのベッドがあった。

 スズは、不思議そうな表情をしながら聞く。



「ここが部屋ですよね?」



「うん。そうだよ。スズちゃん」



 のんきにサクラが答え、彼は話を続ける。



「でも、ベッドがふたつなんですけど……」

「そうりゃそうだよ。この部屋で過ごすんだから」



 途端に、スズは、きょとんという顔をした。


「はい……?」



 サクラは、先程よりも真剣な声で内容を伝える。



「スズさんとカエデさんのお二人には、これから七日間、この部屋で一緒に生活をしてもらいます」



 スズは、面食らったような表情をしていた。



「え? 一緒にって、それ本気なんですか?」



 カエデは不思議そうな表情で、会話を聞いていた。

 ユキはあまり表情を出さないが、頭の中では疑問が浮かび上がっている。



「ちなみに、あと七日しか時間がありません」



 二人は、サクラに爽やかな微笑みで言われる。

「これは命令だよ♪ 二人とも、楽しんでねー♪」



 スズは内心、サクラへの少しの不満と、カエデとの生活が始まる緊張で、いっぱいいっぱいだった。



(く、久遠さんと……?)



「主任」



 カエデが呼びかけ、三人はサクラを見る。

 スズは、カエデの、その凛とした声に肩を震わせたから、よほど緊張していると思われた。

 サクラは、カエデに問いかける。



「どうかされましたか?」



「この部屋で過ごすのは、私たちだけなの?」



 サクラは、左手でファイルを持ち、もう片方の手で二人を手のひらで指しながら言う。



「ええ。あ、大丈夫ですよ。ユキさんにも、部屋を用意していますから」



 カエデは、ユキにちらとでも目線を送らずに、話を続ける。



「彼女もだけども、スズは、私たちとは初対面なのよ?」



 スズはユキを見る。



(……真白さんも、大丈夫なのかな?)



 少ししてユキが、こちらを見返す。

 ユキの、きょとんと、不思議そうな表情が彼女の目に映る。

 サクラは、彼らを見つめる。



「一緒に寝起きして、ご飯を食べて、一緒にダンスをするだけです」



 カエデの黒い瞳には、スズが少し不安そうな顔をしているようだったが、うなずく仕草が見えた。

 スズは、サクラに返事をする。



「わかりました」



「そう。もう私は、先に行くわね」



 そう言ったカエデは、早速と言わんばかりに、洗面所に姿を消した。



「あ……うん。久遠さん」



 律儀りちぎに返事を返すスズに対して、ユキは無言で、カエデの背中を見送っていた。



 そのあとのスズは、サクラに、少しうかがうように尋ねた。



「あの、サクラさん。明日って、何時に集合ですか?」



「明日は、ええと……」



 サクラは持っていたファイルをパラパラとめくる。



 洗面所から蛇口の金属音や続けて、水を流す音が聞こえる。

 カエデは洗面台の蛇口を緩めて、早速、歯みがきをしているようだ。



 サクラは、ファイルをめくる手をふと止めると、スズとユキの二人を見ながら説明する。

 カエデも聞いてるはずなので、彼女は時々、洗面台を目で追った。



「七時集合だね。スズちゃん、カエデさん、二人とも時間に遅れないでね? 何かあったら、電話をしてよ。私、真っ先に駆けつけるから」



 サクラは、電話のところで、と言ったとき、紺色のつなぎ服の左ポケットから、自分の携帯電話を取り出して二人に見せ、またポケットに携帯電話を戻す。



「多分、道が少し複雑で迷うと思うけど、音源も明日渡すよ。これから毎日かけてね?」



 スズは、はい、と答えた。



 カエデは歯をみがく手を止めて、返答をする。



「わかったわ」



 スズは、サクラに挨拶をする。



「わかりました。おやすみなさい、サクラさん」



「はい。おやすみなさい」



「おやすみなさい、主任」



「うん。カエデさん、楽しみだね♪ じゃねー♪」



 サクラが、小さく手を振って去って行く。

 ユキもその彼女のあとを追うように部屋を出ていくと、共同部屋の自動扉が閉まる。



 その途端、部屋は静かになった。

 スズに緊張と不安があったのか、急に全身にだるさが襲いかかってきた。

 靴を脱いでベッドに倒れ込むが、体を起こす。



「くお——」



 スズは部屋を見回すが、カエデの姿は、先程いた洗面所にもどこにも見当たらなかった。


「あれ? いないのか……」



 そのまま、スズは、ベッドに座った自身の下に敷かれていた羽毛布団の中に、もぞもぞと潜り込む。



(それにしても、久遠さんと二人きりって、えーと、何話せばいいのかな? あ、私の名前、なんで知ってたんだろう……?)



 スズは、羽毛布団から体を起こし、のそのそと洗面所に行くと、蛇口を緩めて水を飲む。

 鏡には、不安そうなスズの顔が映る。だが、彼女は、すぐに目線を蛇口に向ける。



(それに、あのとき、リリムがいたような気がするけど、どうして、真白さんと同じ白い髪なのかな?)



 彼女は、ぐるぐると考え事をしていたが、またため息をついた。

 浮かない顔のスズは、ガラリと、脱衣所の扉を開けるが、横開きの扉に手をかけたまま立ち止まる。



「えっ……」



 カエデが全裸のまま、その場所に立っていたのだ。

 スズは先程、カエデが見当たらなかったのは、この脱衣所の扉の奥にいたからだ、と納得したと、同時に体を動かせなくなった。

 彼女が、この扉を閉めればいいのは当たり前だ。そうすれば、カエデはタオルで濡れて艶めいている髪を拭くことができるし、スズも、カエデの体の特徴を記憶しなくて済むのだ。

 だが、しかし、スズがカエデに一声かけてから、扉を閉めるべきなのか、それとも声をかけずに、無言で閉めればよいものか、と、今まさに、変な考えごとをしていたからだ。



 カエデは、頭をタオルで拭いていたあとなのか、それを首からかけていた。そして、無言のまま、タオルから細い手を離す。

 彼女のふくよかな胸は見えなかったが、彼女の体から伸びる、すらりとした四肢ししは、自然にだらりとなっている。

 カエデはいつものとおり、無表情な顔と、まっすぐな黒い瞳でスズをじっと見つめる。

 何? という顔で、視線を彼女に向ける。



 スズはほうけていたが、すぐに驚き、喉から声を出そうとする。



「ご、ごめん! 私、ホントに、何も見てないからっ!!」



「え、あ——」



 カエデは、開き戸に手を伸ばしかけた。



 スズは赤面をしながら、自分とカエデをへだてる扉を、慌てて、バタンッと勢いよく閉めた。

 それから、彼女は、自分の胸を、ぎゅうっと強く押さえると、頭を抱えて、ずるずるとその扉に背を引きずって、嘆息とともに座り込んでしまった。



(まずい、まずい、まずいって!? いや、いくら女の子でも、いや、真白さんは女子で、私も女子だけども……。これは、ダメなイベントだってー!?)



 スズの頭の中は、ぐるぐると渦を巻きながら困惑をし、大きく早鐘になっている自分の心臓の動悸と、いつもより少し荒い呼吸が耳に聞こえた。



 頭の中に、先程のカエデが思い出される。当然、全裸のカエデだ。

 スズは、ゴクリと唾を飲み込む——しかし、すぐに頭を左右に激しく振る。あんなにきれいな人間を、スズは見たことがなかったのだ。



 厚さが薄い唇に、少し先が尖った小鼻。黒い、まるで墨のような色をした瞳。

 それに、たかのような凛々(りり)しいまなじり。手足の小ささも、鼻と同じく小ぶりだ。

 彼女は同じ年頃の若い女性にしては、すらりとした四肢と、ふくよかな胸を持っていた。

 そして、彼女の腰の位置は、スズよりも少し高かった。

 聞くところによると、彼女は、身長が百六十センチメートルあるらしい。



(と、とりあえずさっきのは、考えないようにしよう。うん、そうだよね)


 スズが、自分を落ち着けるために深呼吸をした、そのとき、脱衣所から鈍い物音がすると、彼女は声をかける。


「久遠さん?」



 最初からカエデの返事がなかったので、気になったスズが扉を開けると、ワイシャツ姿のカエデが床に倒れていた。



「ねえ、久遠さん、大丈夫?」



 スズはカエデの細い両肩を揺すると、背中に自身の手を差し込んで、抱き抱えるような体勢にさせる。

 カエデは、一瞬だけまぶたを開け、再び閉じた。



「よかった……」



(でも、これ、どうしよう……)



 少し唇を結んだスズは、慎重に立ち上がると、そのままベッドに運び、カエデに羽毛布団をかける。



「びっくりした……。でも、久遠さんが無事でよかったよ」



 スズはサクラに一報を入れると、彼女は駆けつけてくれた。

 スズがお礼を言うのもそのままに、彼女は簡単な診察を終えると安堵した。

 スズは透明なコップに水を汲んで、サクラに渡した。

「ありがとね。スズちゃん」



「その……大丈夫なんですか?」



 サクラはニコッと笑った。



「うん。大丈夫。多分、軽いめまいがしたと思うだけだから大丈夫そうですね。頭は打ってなさそうなので」



「あ……そうなんですか。でもそれって、久遠さんにはよくあるんですか?」



 サクラは顎に手を当てる。



「めまい? ううん、ないけど……」



 しかし、否定した彼女は、すぐに首を横に振る。



「でも、倒れるのは、たまにあるかな」



 サクラは、カエデをちらりと見た。



「きっと今回は、体温が上がったせいで、血圧が下がったみたいだね。お風呂上がりだったみたいだったし」



 彼女は付け加えた。



「そんなに心配しなくていいよ。スズちゃん」



 サクラはまた、自動扉から出て行った。





 スズが脱衣所で制服を脱ぎ、シャワーの蛇口を緩めてお湯を出す。

 その顔はうつむいて、どこかに瞳を向けている。


 シャワーの水と、ごぽり、と、排水口に吸い込まれていく音が、湯気に包まれた浴槽に響く。



 スズは、黒いTシャツと灰色の半ズボンに着替え、脱衣所の扉をガラリと開ける。そして歩きながら、首にかかったタオルで髪を乾かす手を止めた。



(どこかで会ったこと、あるのかな?)



 タオルから手を離し、カエデの様子を見ようとベッドに近づく。



(でも、どこで……?)



 カエデは、すやすやと穏やかな表情で眠っている。

 左側を向き、彼女は利き手の左手に、右手を上に重ねていた。



(寝てる、のか……邪魔しないでおこう)



 スズは、そのとき、手首をつかまれた気がして、カエデを見る。


 すると、彼女がスズの手首をつかんで、枕に顔をうずめていた。



 スズにとって、こんなカエデは初めてだったので、何も声をかけられない代わりに、ただ、カエデの手首につかまれたまま、立ちすくむしかなかった。



(久遠——)



「行かないでください。橘司令……ナギサ主任……」



 スズはカエデの手を離さないまま、ベッドの近くに座る。

 カエデはいまだに、眠ったままだ。



(……)



「なんで、お父さんとお母さんの名前、知ってるの?」



 彼女は、口の中でつぶやいた。

 スズはため息をつき、まぶたがまどろみ始めると、夢の中へ行った。



 スズの目の前には、白髪の少女がいる。



(白い髪……)



 スズは目の前の少女を見たとき、ふとそう思った。

 白髪の少女は無言で、しゃがみ込んでいた。

 スズが地面のように思えた白いものは、彼女が手を動かすたびにゆらゆらと揺れた。



「え? 地面が揺れてる? というか……これは何? 水、なのかな? もしかして、ここって海?」



 彼女は、ただ、名前をひと言呼んだ。



「スズ」



 だが、スズが知っている眼前の彼女からは、いつもの静かな声だった。

 スズは戸惑った。



(え?)



「誰?」



(でも、この感じ……知ってる?)



 スズの思考を感じ取ったように彼女は立ち上がった。

 水面みなもも揺らぐことがなく、静まった。

 両腕をだらりと下げた彼女が、くるりと、こちらを振り返る。

 すると、彼女の赤い瞳が、スズを槍で射抜いたときのように見つめる。



(え、なんで……)



 スズは彼女を見た途端に、息を飲んだ。



「リリムはユキなんだ……」



 彼女はもろ手のこぶしを握った。彼女は、自暴自棄になっていたのだ。



「なら、あのとき、私のとこなんて助けてくれなくてよかったのに。あのとき、私も一緒に巻き込まれればよかったんだ」



 スズに、リリムと呼ばれた彼女は、首を小さく左右に振ると、スズの肩に手を添える。



「いいえ。スズ。あなた自身が、生きることを望んでいるから」



 スズはユキから逃げるように目をそらして、白い地面を見た。

 彼女は激しく、首を横に振る。



「ううん、違う、違うよ。そんなこと私、望んでいないよ。私は、ただ……!!」



 スズは、急に体にだるさを覚え、よろける。



(え……)



 だんだんと目の前が暗くなり、立てなくなると、その場に座り込む。

 ひゅうひゅうと、自分の喉が嫌な音を鳴らし、頭と肺が痛くなる。





 スズは、誰かに少し揺さぶられたような気がして、ハッと目を覚ます。

 背中に寝汗をかいたスズが、ベッドを見上げる。

 すると、ワイシャツ姿のカエデが座っていた。



「……久遠、さん?」



 両足を左に寄せる格好になっている彼女の黒い瞳は、じっと、こちらを見つめている。



「あなた、泣いてるわ」



「え? あ……ごめん」



 スズは謝りながら目をこする。

 だが、彼女は、ふと、カエデの黒い瞳を見つめる。

 スズは、なぜ自分がカエデの瞳を見ているのかわからずに、理由を探そうとする。



(あれ? なんで久遠さんのこと、見てるんだろう? そんなつもりなかったのに……)



 カエデが、不思議そうな表情になる。



「なぜ、私を見つめるの?」



「ごめん。そんなつもりなかったんだけど……」



 宝石のような、美しいカエデの瞳が、ときおりまたたきながら、スズをまっすぐ見つめる。



「きれいだ」



 独り言をつぶやいたスズに対して、カエデは、再び、きょとんとする。

 先程、きょとんとしていたカエデの顔が、ますます、わからない、という顔になる。

 だが、彼女と親しい人物以外は、ほとんどわからない顔に変わる。

 スズは両手を振りながら、慌てて否定する。



「あ、いや、あの、違うんだ。その——」



「どうして違うの?」



 問答のような、カエデの答えられるような、そうでも無いような質問に、スズは、なんだか気恥ずかしくなり、頬を赤くさせる。



「スズ。あなた、熱でもあるの? 顔が赤いけど」



「えっ? ちょっ——」



 スズが続きを言う前に、カエデは、スズのひたいに自分の手をつける。



「あ、熱ないのね。よかったわ」



 カエデは安堵すると、まぶたを瞬きさせる。



「あ、あの? えっと、あの」



 スズは少しの間、ウロウロと目線を斜め下に向けながら、カエデに対する次の言葉を探していた。

 だが、彼女の口からは、謝罪の言葉しか出てこなかった。彼女は、謝る癖があるのだ。



「久遠さん。昨日は、ごめん……」



 だが、カエデは、素知らぬ顔だった。



「何が?」



 スズは、しどろもどろにつぶやく。



「その……だから、昨日のことなんだけど……ホントにごめん」



 彼女は、ぺこりと頭をさげる。



 スズは、人に嫌われたくないという思いが強くなるときがある。今もそうだ。彼女は昨日の醜態しゅうたいを、カエデに謝罪したのだ。



 カエデは、自分の胸に手を当てながら言う。



「いいのよ。だって、あれは、私の体を見てしまった——それだけでしょう。それよりも、なぜ私は、ベッドにいるの? スズ?」



「えっと……」



(これ、言ってもいいのかな?)



 スズは答えに躊躇ちゅうちょしていたが、カエデが先に言う。



「もしかして、あなたが私を運んでくれたの?」



「うん」



 スズは、控えめにこくっとうなずく。



「ありがとう。助かったわ、スズ。さ、行きましょう。集合時間は七時からだけど、練習しましょう」



 スズは、うん、と、うなずく。彼女の口角は自然と上がっていた。彼女は、カエデにお礼を言われて嬉しかったのだ。



「あ。少し待ってて、スズ」



 カエデに呼びかけられたスズは、ん? と、首をかしげる。



 カエデは、コップに注いだ水で、チェストに置かれた薬飲む。



 スズは、市販の薬なのだろうか、と思ったが、そのあとのカエデの様子からして、市販の薬ではないだろうと考え直した。



 カエデがその薬を服用したあと、彼女の様子がおかしかったからだ。

 彼女のその黒い瞳は、まるで何も見えていないようなうつろな瞳だった。



「大丈夫? カエデ?」



 彼女は、こくっと首肯する。



「ええ。平気よ」



 自動扉から廊下に出た彼女たちは、カエデを先頭に二人でしばらく歩く。

 少し、カエデの後ろを歩くスズは、また言葉を探す。

 脳裏に、昨夜の夢に出てきたリリムを思い出してしまったせいで、顔を少しうつむかせたが、思い切ってカエデに問いかけた。



「ねえ。なんで真白さんは、リリムに似てるの?」



 カエデは、波に言葉がかき消される海辺にいるように何かをつぶやいた。

 だが、彼女は、カエデの言葉を聞き返すためにピタリと立ち止まる。

 雰囲気から、カエデが自分の知らない何かを知ってるような気がした。



 カエデは、初めて出会ったときのように、スズを見なかった。



 スズには、今のカエデの表情は見えなかった。



「彼女は、そのリリムではないわ」



 だが、スズには、聞いてはいけない秘密を知ってしまったような気がした。

 しばらくの間、二人は、会話をわさなかった。



 練習部屋に到着した二人のあと、自動扉からバインダーを片手に持ったサクラが、ほがらかに言う。



「おはよう、みんな。調子どう?」



 スズは、サクラに向かって会釈えしゃくをする。



「おはようございます。サクラさん」



「あれ? もしかしてスズちゃん、なんか元気ない?」



 サクラに言い当てられたスズは、少しギクリとして言葉を迷う。



「え、えっと……いえ、別に……」



 スズは、首の後ろに手を当てる。



(なんで……)



 サクラは、スズの顔を心配そうに見る。



「あの?」



「え?」



「顔色悪いけど……大丈夫そう?」



 彼女は、パタパタと両手を振る。



「これは、その、なんでもないです」



「何かあったら、医務室に行ってね?」



「あ、はい。ありがとうございます。あの、サクラさん。昨日は、音源を渡すって言ってましたけど」



「はい。これがその音源だよ。音源は、今みんなのケータイに送るね——っと」



 各々の携帯電話から、小さい着信音が聞こえる。

 二人には、一通の音源のm5エムファイブディーが送られてきた。



「それと、はい。こっちがダンスのプリントだよ」



 サクラから、人数分のプリントを渡される。

 スズは受け取る。



「ありがとうございます」



 サクラは、注意事項をみんなに伝達する。



「みんな、くれぐれも無理しないでね。水分補給は大事だよ?」



 サクラは、小さくブイサインをする。

 カエデもプリントを受け取る。



「プリント、ありがとう」



「ううん、私からもお礼を言わせてよ、カエデさん。ご協力感謝いたします。困ったら私に、なんでも相談してね」



 サクラは、着信が鳴った携帯電話の液晶画面を見て、驚いてつぶやく。



「室長からだ。そういえば、何かファイルを届けるのあったような……」



 サクラは、顎に手を当てた。



「あ……じゃあ、みんな。頑張ろー!」



 だが、彼女が慌てて出ていくと、自動扉は閉まった。



 様子がいつもどおりではないようなスズを、カエデはちら見する。

 カエデは、なぜスズの様子が違うのか、彼女にその理由を聞きたいだけだ。



「スズ?」



「え? 何、久遠さん?」



「顔色悪そうだけど、今朝のことで、何かあったの?」



(今朝……)



 スズの回想は、彼女自身が脳内で強制的に消し去ったことにより、中断される。



「いや、あの、ないよ! ホントに何もないから!」



 カエデは、少し無事そうな表情をした。



「あ……そう?」



 その一方で、スズは内心焦っていた。



(ど、どうしよう。あ、そうだ)



 スズは慌てて、カエデに顔を向けて見る。

 カエデは左手を顎に当てて何かを考えていたようだったが、また不思議そうな表情をした。



「スズ。あなた、私のことを、きれい、って言ってたわね」



「え? ああ……」



 スズは、うん、と、首肯する。



「それは言ったけど……あの、久遠さん?」



(なんでそんなこと、言うのかな?)



「スズ、あなた熱でもあったの? そういえば、顔が赤かったけど……」



 カエデは腕を組みながら、不思議そうな表情をした。



「平気なの?」



 今のスズは、確かに顔は赤いが、熱はないようだった。

 再び、スズは両手を、ぶんぶんと振りながら否定する。



「あー……いや、だから、それは、その……久遠さんと距離が近かったからで……」



 スズが困ったように言葉を詰まらせた。そのとき、カエデもスズを見る。



「多分、あなたが言いづらそうにしてたのは、私の裸を見たから? でも気にしないで。今朝も言ったけど、私は平気よ」



「久遠さん!? あれは……その……そう、ホントに事故なんだよ!」



 スズは胸の前でもろ手を振りながら、顔を青ざめていた。



(やっぱりまずいよね? でも、久遠さん、気にしてないみたいだけど、心の中では〝最低ね〟とか? どうしよう……)



 ユキはカエデに、平然と尋ねる。



「スズ、カエデの裸見たの?」



 カエデも、気にしない風にうなずいて答える。



「ユキ。あれは事故よ。誰にも、特に、ハルトとサクラには言わないで。あの部屋にはカメラついてなかったわよね? それならいいわ」



 二人の会話が進む中、スズはただ戸惑っていた。



「あ、あの、その……」



 しかし、そんなスズにとって、ユキから出た言葉は意外なものだった。



「私、飲み物買ってくる。スズはどう?」



「え? あの、真白さん?」



 スズはユキを見るが、なぜかユキは、罰が悪そうに顔をそらした。



 人形のようにきれいな、色白の肌。

 鼻筋は通っており、赤い瞳がうつむき加減のまま、ぼうっと、前を向いている。

 カエデの瞳とは対象的に、ぼんやりと電光に照らされた、肩と胸までのきれいな白髪。

 前髪は、真ん中と横髪に分けられている。長い髪の毛先は、くるんと内側に巻いている。



 はかなげだが、スズには、どことなく見覚えがあるユキの顔が、スズの瞳に映る。

 それは、スズの気のせいかもしれなかった。先程、カエデに「あのリリムではない」と否定されたからだ。



「あ、あの——」



 自動扉が閉まると、スズは遠慮がちにその扉を見る。



(なんて言えばいいんだろう……)



 スズは、なんとなく気まずくなり、話題を変えた。



(なんか、話題……)



「カエデさん、体調は大丈夫?」



 スズは昨日のことを聞くと、カエデは、こくりとうなずいた。



「よかった……」



 スズは、ふとカエデを見つめる。



 健康的なスズの肌よりも、少し白い肌。

 鼻筋はユキと同じく通っており、鼻先は少しつんと、上を向いている。黒い瞳がうつむき加減のまま、ぼうっと、前を向いている。



 黒は黒でも、カエデの瞳は墨のような色に、スズには見えた。

 ぼんやりと電光に照らされた、胸までの美しい黒髪。それは手入れされ、艶々としている。

 前髪は、分けられていない。

 長髪の毛先は、ユキのように、くるんと内側に巻いておらず、さらさらと白砂のように、流れるばかりだ。



 カエデの印象は、凛と静かな雰囲気だ。だが、スズには、ユキと同じようにどことなく見覚えがあるカエデの顔が、スズの瞳に映る。



 カエデは、なぜスズが見つめるのかわからなかった。



 スズは、カエデの黒い瞳を見る。



「きれいだね。その目」



 カエデはスズの言葉を繰り返し、確認をするように返す。



「きれい?」



 カエデは、きょとんとしているらしい。



(あれ? また変なこと言ったかな?)



 スズは、一瞬、間の抜けたなんとも言えない表情をしながら、自信がないように言葉を探して答える。



「うん。そうだと思うけど……」



「そう? 考えたことも——」



 そこで、カエデの凛とする声が止まった。

 彼女自身、記憶の中にある男女が優しげに微笑んだときと、目の前のスズが一瞬だけ重なり、驚いた。



 スズが、慎重に尋ねる。



「どうしたの? 久遠さん?」



 カエデは、ゆっくりと、首を横に振った。



「……いえ。それにしても、あんな風に、扉を乱暴に閉めなくてもよかったんじゃないの?」



 スズはうなじに手を当てる。これは、彼女の癖だ。



「ご、ごめん、久遠さん。慌ててたから。それに……」



 彼女は、脳に焼き付いたカエデの裸体をいとも簡単に思い出すと、かぶりをぶんぶんと振った。



 その体の線はとてもしなやかだった。

 カエデの緩やかな胸のふくらみも、彼女の締まった腰も、黒髪をタオルで拭いていた、すらりと伸びた腕も、重心を支えている足も、まるで彫刻のような美しさだった。



 自動扉が再び開くと、ユキが、両手にペットボトルを持って現れた。



「真白さん」



「落ち着いた?」



 スズは、少し遅れてうなずく。


「うん。もう大丈夫だよ」



「そう。これ、あげる」



「ありがとう」



 スズは、ユキからペットボトルに入った水を受け取る。

 ユキがカエデにペットボトルを渡したとき、カエデは一瞬、目をそらした。



 カエデの黒い瞳は、紫色に変化する。



(あれ? 目の色が、変わった?)



「久遠さん?」



 カエデの瞳は、一瞬、紫色になったが、ゆっくりと戻った。

 カエデはうつむきながら、震えた声を出す。



「いえ。平気よ」



「でも——」



 だが、カエデは、スズの言葉を遮る。



「少し、休めば平気だから」



「うん。わかった……」



 カエデは出ていくと、再び、シュコンッと、自動扉が閉まった。



(大丈夫なのかな?)





 数時間後。

 スズは疲れきっており、膝に手を当て、荒く呼吸をしていた。

 しかし、床に座り込んで仰向けになると、淡い電光がついた天井を見る。



(全っ然、できない……)



 スズが、ため息をつきながら天井を見ていると、その瞳にユキが映った。



「スズ」



 スズは、ユキのほうに顔を向けた。



「あ、真白さん、疲れてない?」



 彼女は起き上がる。



「少し……」



 結局、カエデは、数時間経っても戻ってこなかったのだ。その代わりとして、ユキがこの場所に残っている。


「そっか、あと六日しかないから、私も頑張らないと」



 スズは片膝を立てながら、ペットボトルのキャップを開けて水を飲む。



 再び、自動扉が開くと、青年が戻ってくる。



「ハルト」



「林主任なら今は医務室にいる。カエデも一緒だから、安心してくれ」



 スズはハルトの、カエデと名前呼びに内心、感心した。



(仲いいのかな?)



 彼女はそう、ぼんやりと思った。



「あの、さっき、顔色悪そうだったから、大丈夫かなって……」



「安静にしていれば大丈夫だって、主任が言ってた。そんなに心配するなよ」



「よかった……」



(大丈夫なんだ……)



 スズに近づいたユキは、スズが持っているプリントのあるところを指でさして助言する。



「ここは右足のあと、左足からステップを踏む」



「え? そうなの? ごめん。真白さん」



 スズが謝るのは、癖だ。



 スズの目の前のユキは、彼女のプリントを見つめながら少し考え込んだ。



「私、お手本見せたほうがいいのかな?」



「いいの?」



 ユキが承諾するのは、スズが思ってもみなかった反応だった。

 ユキは、こくりとうなずいた。

 ハルトは、携帯電話を操作していたが、赤い瞳に、灰色の目を向けた。



「ユキ。そんな、人にお手本とか見せるタイプじゃないだろ?」



「え、そうなの? 真白さん?」



「スズは平気。それに、みんなも」



 彼女はハルトに目線を向けていたが、スズに顔を戻す。



「私、頑張る」



 ユキはプリントから目を離すと、少しだけ唇を引き締めた。



(えっと、難しいところは——)



「真白さん、ここからいいかな?」



 ユキに間違いを指摘された少し前のところを指でさす。



「うん。スズ——」



 呼びかけられた彼女は、え? となったが、ユキに近寄った。



 スズの携帯電話から、音源の音楽が鳴る。

 ハルトから聞いたことは、指令室室長がクラシック音楽を今回のダンス用に改変した音楽らしい、とのことだった。



 スズはそれに耳を傾けながら、ユキのダンスを横で見つめた。

 とは言っても、一緒に踊っている状態だ。



 さっきユキが、お手本を見せると言ったが、彼女は続ける。



「どこを間違えるのか、実際に見ないとわからない。だから、もう一度、踊ってほしいの」



 彼女は、真剣な瞳で彼女にそう言う。



(すごいなー、真白さんは……あ、ここだよね? 私がつまづいてるところ。さっき言われたとおり、左足からなんだ……)



 スズは、ぼんやりと考えていたせいで、またステップを間違えた。



「あっ」



 スズは、今は、右手と左足を上に上げなくてはいけなかったのに、先程の間違えたステップを直そうとして、今度は、左手と左足を一緒に出してしまった。



(また、間違えた……)



 スズは、申し訳ない表情をユキに向けて、うなじに手を当てる。



「ごめん。間違えちゃった」



 ユキは、無表情で答える。



「平気」



 気まずそうなスズは、少し遠くの青年に呼びかける。



「あ、ねえ、ハルト。いったん音楽止めてくれない?」



「ああ、携帯触ってもいいか?」



 スズはうなずく。


「うん」



 ハルトは青いファイルに目を向けていた。しかし、彼は、彼女の携帯を手を取り、曲を止める。



「さっきのところまで巻き戻そうか?」



「うん」



 青年は、スズを手招く。



「ああ、ちょっといいか? スズ」



 スズは彼の隣に駆け寄ったあとは、少し見上げながら答える。ハルトは、スズよりも背が高いのだ。



「あ、うん。ねえ、ハルト。ダンスどうだった?」



 ハルトは、真面目にダンスの復習をしているユキをちらっと見る。



 ユキは、すらりとした四肢を、子鹿のように跳ねたり、その動きを止めたりしている。



 ハルトは、何かをファイルに書き込んだ。



 スズは、なぜ、ハルトが支部にいるのかわからずに戸惑っていた。

 どう見ても彼は、職位が高そうなきっちりとした黒い服を身にまとっている。それに、首の襟部分には、銀のピンが光っていた。



 スズは、ハルトを無遠慮に、じろじろと見る。

 そのうち、彼は、スズに顔を向けた。



「ん? どうした?」



「え?」



 スズはきょとんとしたが、胸の前でもろ手を振る。



「あ、ううん。なんでもない」



 ハルトは顎に手を当てたが、片手でファイルのページをる手を止めた。



「だいぶ曲に体を合わせられるようになったな。テンポも曲に合ってるし……あとは、間違いを意識すればしようとするほど、そっちに気が散るからな」



「そっか」



「ユキはカエデの代打だけど、四、五時間くらいで、この完成度はいいな」



「そう? ありがとう、ハルト」



 ハルトは驚いたような顔をすると、ぶっきらぼうに答えた。



「いや、別に……」



 ハルトはなぜか、ため息をついた。そのあと、彼は、強引に話を変える。



「そうだ。カエデは、明後日あさってから復帰するらしい。よかったな」



 スズは、安堵した表情をする。

 ユキも今は、左手と右足を伸ばしていたが、ピタリと止まった。

 両手と両足を下げたユキは、ホッとしていた。



「よかった、カエデ」



 ハルトは、スズのプリントを見ながら尋ねる。



「ところで、スズはどこが難しいんだ?」



 スズは立ち上がり、人差し指をプリントの上に滑らせる。



「あ、えっと……」



 曲が終わると、スズはぼんやりと思った。



(あ……曲、終わっちゃったな)



 ユキはその場にたたずんでいたが、スズに近寄る。



「真白さん」



 スズは、自分に近づいてきたユキに顔を向ける。



 ハルトは、二人に呼びかけた。



「じゃあ、さっきのところからだな」



 スズは律儀に、彼に首肯する。



「あ、うん」



「じゃあ、行くぞ」



 ハルトは、スズの黒い携帯電話から先程の楽曲を流す。

 スズには、まだ覚えきれていないところはあるみたいだったが、なんとなくコツをつかめたみたいだった。



「すげえ。息ぴったりだな……」



 ハルトの顔は、少し嬉しそうな表情をしているようだった。





 昼まで練習をしたあとの二人は、廊下を歩いていた。

 だが、スズの足取りは少し重い。つい、彼女は、ため息とともに言葉を吐き出す。



「疲れた……」

(でも、褒められたな……)



 どことなく微笑んでいるスズを、ユキは不思議そうに見つめる。



「真白さん? どうしたの?」



「嬉しそう」



「え? そうかな?」



 スズは、ホントに? という表情で少し考える。



「そう見える」



 しかし、スズの目に、ユキが少し心配をしているような、曇った表情が映る。



「真白さん?」



(久遠さんのことかな?  ハルトは、明後日から復帰するって、言ってたけど)



「もしかして、久遠さんのこと? よかったら私も一緒に、お見舞いに行くよ。ちょうど行きたかったし」



 ユキはこくりとうなずく。



「確か、医務室って、ここの近くだよね?」



 スズは少し先に指をさすと、ユキはうなずく。



「————よ! 嫌!」



「落ち着いて、カエデさん!」



(!? 今の声って……)



 スズはとっさに、ユキの手をとって走り出す。

 ユキは、初めてのことで少し驚きながらも、スズに従う。

 二人が急いで医務室の前に行くと、カエデの声は、はっきりと聞こえた。

 カエデは、サクラに両肩を押さえられているようだった。



「嫌いよ! 大っ嫌い!! あいつらは、のうのうと生きているくせに、どうして? なぜ、私は選ばれたのよ?」



 カエデは自分を諭しているサクラを睨みつけると、利き手の左手で彼女の右手を強く払う。



「離して!」



 サクラは右手を押さえたまま、窓際に追いやられる。

 スズはサクラに近づいた。



「大丈夫ですか? サクラさん」



「スズちゃん……私は大丈夫。それより、カエデさんを——」



 彼女は、ベッドのシーツを強く握り込んで首を振る。



「同情は必要ない」



 サクラは、払われた手を押さえたまま、反論をしようとする。



「でも……」



 サクラは、ふと、カエデに払われた右手を見ると、そこが赤くなっている。

 彼女は、後ろの机上にある注射器を手に取ると、カエデの左腕に刺す。

 カエデは、眉をしかめて少しうめく。



「うっ……」



「ごめんね、カエデさん。私は、カエデさんを心配してるんだよ。それでもダメかな?」



 その声は、いつもの凛とした声ではなく、何かを諦めたような声だった。



「あなた、知ってるんでしょう? 私のこと、何もかも……」



 カエデの体がぐらりと倒れそうな寸前、スズがそれを支える。



「あっ。久遠さん、大丈夫?」



 ユキはカエデを、じっと見つめている。

 その表情からは読み取れないが、ユキも、スズとカエデを心配していた。



 唇を噛み締めていたサクラは、医務室の自動扉が閉まると、二人に声をかけた。

 彼女は左手を右手に重ね、普通礼をする。



「ありがとう。スズちゃん、ユキ。でも、驚いちゃったよね?」



 サクラの顔は苦笑した顔になったが、その顔はすぐに笑顔になった。



「二人は、医務室に何か用事があったの?」



 スズが目をうろつかせる。



「えっと、久遠さんのお見舞いに来たんですけど……あの、大丈夫なんですか?」



 サクラは、なんともいえない苦しそうな表情をする。



「時々、つらい記憶を思い出してしまうみたいなんだよね」



 彼女は、カエデに払われた右手をさすった。



「私はその痛みを取り除くことはできないから、今みたいにされると……」



 彼女はふるふると首を振り、少しため息をつく。



「ダメだね。私」





 一方、ほぼ同時刻。

 アオは、指令室のパーソナルコンピュータを操作していた。スズたちの作戦に不参加だった彼は、彼女たちに言ったとおり、調べ物をしている。



 それを心配そうに見ているオペレーターが、ついにアオに尋ねた。



「あ、あの……俺、怒られるかな?」



 ここは指令室一階のデッキ、オペレーターたちが職務を行っている場所だ。

 そのせいか、いつもよりメインディスプレイが近くに感じられる。

 メインディスプレイは横幅十メートルだが、近くから見上げると、予想より大きく見えた。



 アオは、ワーキングチェアにあぐらをかいていたが、彼は首を横に振る。



「ううん。僕、パイロットだから大丈夫」



 しかし、そのオペレーターは苦笑する。



「いや、そういうことじゃなくて……」



 彼は、ワーキングチェアの背もたれに片手でつかむと、アオに耳打ちする。



「君、パイロットなんだろ? 単独行動してたらまずいんじゃないのか?」



 オペレーターはため息をつくと、周囲をうかがう。この場所にアオがいるおかげか、先程から、二人に視線が集まっているのだ。



「ほら、林主任に言われたけど、2号機パイロットは倒れたんじゃないか」



 アオは、オペレーターに流し目をする。赤い色が混じった黒い瞳が、オペレーターを射抜く。



「何? 職場のパソコンを使ったら、調べられるとまずいことでもあるの?」



 その壮年そうねんのオペレーターは、やけに声をひそめているし、語尾もにごしていた。



「いや、ないけど。履歴に君が操作したっていうことがバレるんだよ。ほら、君……」



 アオは、ついに嘆息をした。



「しつこいなあ。〝君はパイロットだから、DNAを医務室専用の資料室に保管されている〟でしょ? 言いたいことは」



 パーソナルコンピュータから、電子音が鳴ると、アオは笑みをこぼす。



「ビンゴ。来たきたきた……お? 『二〇十一年・十二月七日』『第二次大災害による出撃可能パイロット』」



 アオは、これだ、と首肯する。



「ん? なあ、九年前のことなんて調べて、どうするんだい?」



 アオはオペレーターに尋ねられると、赤色が混じった黒い瞳を細めた。そして、鋭い声で問う。



「どうする? まだわからないの?」



 オペレーターはアオの威圧に圧倒されると、唾を飲みこんだ。

 アオは先程のすごみの気配を消すと、口角を上げて笑う。



「このデータ貸してよ。ほかの資料もコピーしたいから」



「いいか? 『部外秘』なんだよ、それ。頼むから、絶対によそへは漏らさないでくれよ」



 アオはいかにも面倒くさいという雰囲気で、自分に釘を刺す彼を見た。そして、アオは無言のまま、USBメモリをそのパーソナルコンピュータに刺した。



 オペレーターは、アオが事前に、USBメモリを所持していた用意のよさに驚いていた。



「どうして、君たちパイロットは、扱いづらい人間——」



 男性オペレーターはため息をつくと、こめかみに手を当てた。



「いや、もうよそう……」



 再び、小さな電子音が鳴ると、パーソナルコンピュータは、USBメモリのコピー完了を示していた。



 アオは、パーソナルコンピュータの右下にある、USBメモリを安全に抜くアプリケーションを押してから、ワーキングチェアから立ちあがった。



「ありがとう」



 そして、彼は、ひらりと片手を振る。





 二日後。

 スズは制服のまま、5号機のコックピットですやすやと眠っていた。

 ただ、彼女の足は裸足はだしだ。

 パイロットテストでも、銃火器の操作の優先をする仮想世界での演習のときでも、よくウーゼに乗る。



 だが温かく、たゆたう感じが、頭に浮かぶのが妙に気になって、ここ最近、自分で試している。

 そして、今はなぜか、それがスズの名目となっている。



 自室のベッドで眠るよりここのほうがいいと、5号機コックピットで、うとうとと寝るのが、すっかり習慣となってしまっている。

 スズは、プログの天井を、ぼうっと見つめながら、両手をお腹の辺りで組んで考え込む。

 スズがあくびをすると、CPOがごぼっと泡立った。



「眠い……」



(なんで5号機って、こんなにも落ち着くんだろ?)



 スズは少し唸り、考えるが、スズは、なぜか寒気が背中から這い上がり、すぐに考えるのをやめた。

 彼女はため息をついたが、またまぶたを閉じ、肺に空気を入れる代わりに息を吸うとCPOを入れる。



(でも、懐かしい……この感じ)



 ふっと、何かがよぎり、あれ、となったが、また、スズは唸る。

 彼女はもう一度、今度は少し肺が苦しくなるまで、目いっぱい深呼吸をする。

 できるだけ、頭にさざめいている思考の声を考えないようにした。



 その最初のイメージは、ザザッ、ザザッ、と本当に小さなノイズで、シン、と音が消えた。

 自分を優しく包むような声が聞こえたような気がしたが、それよりも、次に全ての考えがかき消されて、その姿は鮮明になる。

 黒い長髪の少女がセーラー服の姿で、そして、無表情にこちらを見つめている。彼女は、ひと昔前の冬服だ。



 その黒髪の少女に、スズは見覚えがあった——というよりその顔は、二日前に見たことがあるばかりだ。



(久遠さん……?)



 しかし、すぐに、スズの顔は気まずい表情になる。



(でも、久遠さんといると、あれを思い出すからな……)



 だが、スズは、カエデのことで、しかも、恥ずかしい場面を思い出してしまう。もちろん、あの部屋のに付設されている脱衣所の扉越しで見た、全裸のカエデだ。

 スズは脱衣所と部屋を隔てる扉を閉めようかどうか悩んでいたが、そのほかに、カエデの姿が彫刻のように美しいと感じたからだ。美術館にある、彫刻だ。

 ぶんぶんと頭を振るが、ふと、背もたれに体を預けて、無機質なプログの天井を見つめる。



「のうのうと生きてるくせに。私はなぜ選ばれたの? なんて……」



 こぽっ、と、CPOの薄赤い泡が立った。

 こぽこぽと、薄赤い泡が立つ。

 すると、冬服の少女は、白髪の少女にしなやかなもろ手の指で首にかけられた。

 スズは勢いよくまぶたを開くと、拳を握り、眉根をひそめて唇を引き締める。

 彼女の深緑色のインサートスーツは、ギチッ、と衣擦れを起こした。



「私じゃ、何もできないっ……」



 コックピットに、ゴンッ、と、鈍い音が響く。

 スズは苦々しい顔で、コックピットの端を拳で叩いていた。

 スズは長く息を吐くと、インサートスーツの上から、胸元をかき抱くようにつかんだ。



「悔しい……」



 コックピットは、ただ、彼女の吐き出された言葉と、呼吸の音に包まれた。





 スズは片膝を立てながら、ため息をついた。

 四日前にカエデが言っていたことが、どうしても脳裏から離れてくれないのだ。なんとなく、考えてはいるが、スズの頭では、とんとわからなかった。

 しかし、カエデはエンジェルせん滅を率先して遂行すいこうしている。また彼女が、エンジェルを憎む理由はスズにも少しだけ見当がついていた。



 エンジェルが、自分たちを攻撃するからだ。その攻撃する理由はわからないが。



 今のカエデは、ユキのプリントを指さしながら、彼女ができないステップを教えているように見える。

 ユキは、何かを話したあと、どこかへ行ってしまった。



(仲はいいのかな? それとも私が、久遠たちにうまく話しかけられないだけ? ていうか、どうやって話せばいいんだろ……)



 スズは、カエデの頚部けいぶにある黒と赤のチョーカーを見つめる。



(そういえば、初めて会ったとき、久遠さんのあれをじっと見ちゃったんだよなあ)



 スズはその頚部のものを見るたび、どんよりとした気持ちになることがわからなかった。だが、おそらく、あの二日前のイメージが影響しているのだろう。

 カエデのことは、スズにはわからなかった。エンジェルを憎み、それをせん滅する。



 しかし、彼女は、



「選ばれなければよかった」



と、言っていた。おそらく、彼女はこう言いたかったのだ。



「私がパイロットに選ばれなければよかった」



 なぜカエデは、パイロットになった自分を後悔しているのに、それでも憎いエンジェルをせん滅するのか——スズには、相反する感情が彼女の中にあることで彼女の存在を測りかねていた。



「久遠さんって、どういう人なんだろ」



 スズがぽつりとつぶやいたとき、カエデが呼びかけた。



「スズ?」



「え? 何?」



 スズはカエデが今の言葉を聞き、何か尋ねてくると思ったが、カエデの反応は彼女が予想していたことと違った。



「やりましょう」



「ああ、うん。私と真白さんの番だね」



 スズは言いながら立ち上がり、数歩歩く。



「いえ。私とあなたよ」



「え?」



 彼女は、ピタリとその足を止める。



「さっき、ユキに難しいステップの見本を頼まれたの。だから、彼女の代わりに私がその場所を踊ることにしたのよ」



「で、私も必要?」



「ええ。隣に相手がいないと難しいもの」



「あの——」



 スズは、ユキの姿を探したが、彼女は部屋のどこにも見えなかった。



「あれ? 真白さんは?」



「休憩よ。そのついでに、私たちに飲み物を買ってくるって、さっき」



 カエデは、練習部屋の自動扉を見る。



「ああ、そっか。じゃあ、やろうよ。久遠さん」



 カエデの折りたたみ式の携帯電話から、音源が鳴る。彼女の携帯電話の色は、紫色だ。

 右手と左足を同時に上げた二人は、今度は、左手と右足を上げ、右手を下げ、左斜めに手のひらを向ける。

 スズは、カエデを横目で見ると、位置を変えてカエデの左肩に手を添えて右手を差し出そうとした。

 だが、カエデは、目を見開き、バッとすぐに彼女から離れる。

 スズは、その場で立ち止まった。

 音楽だけがスズの黒い携帯電話から響く。ちょうど、曲の佳境かきょうに入っているようだ。



「ごめん……久遠さん」



 スズに謝られたカエデは、顔をそむけて、ふるふると首を振った。



「ごめんなさい」



「ううん」



 スズも首を振った。だが彼女は、実際、カエデをどう扱えばいいのかわからなかった。

 彼女は、カエデを一人にさせようとする。



「じゃあ……」



 今のカエデは、いつもより凛とした声ではなかった。



「待って」



 カエデは、右手で左肘の辺りをつかんでいた。



「…………」



 スズは彼女に振り向くが、内心、いたたまれなかった。



 彼女は、その場から去りたかった。

 自分が、カエデを慰められる言葉をかけられるはずないと、彼女自身、思っていたからだ。



 自分は自分で、カエデはカエデだ。



 彼女のつらい気持ちに寄り添えることができないのに、なんと言葉をかければいいのか、スズは戸惑とまどっていた。



 カエデは、何かを言うのを迷っているようだった。彼女は、すがるような声だ。



「独りにしないで」



 カエデの今の表情は、スズには見えなかった。

 彼女は少し迷ったが、うなずいた。



「うん」



 カエデは無言で、そのまま壁際に座り込む。 

 スズも、カエデとの間を一人分離れて座った。

 スズがちらりと彼女を見ても、彼女は無言だった。



 スズの耳に、壁時計が静かに秒針を動かしている音が響いている。スズにとっては、時計の秒針が、やけにうるさかった。



 カエデは体育座りをしている。しかし、座り込んだ際に、カチャッと、頚部のチョーカーの金属音が鳴った。



 スズには、赤い線が入った、艷めく黒いチョーカーが、何か一種の美術品のように思われた。

 また、それが彼女には、美しく、そして恐ろしいものに見えた。



 スズは美術品は詳しくなかった。だが、黒と赤のそれが、『オフィーリア』の絵画、という言葉を彼女の脳裏に思い起こされたのだ。『オフィーリア』の絵画は、残酷だが、どこか目が離せないほどの美しさを持つ。



「そのチョーカー、前にサクラさんが確認してたよね」



 スズがダメもとで尋ねると、カエデは彼女に応えてくれた。



「いつもの作業よ。もう、慣れたでしょうね」



「慣れる?」



 カエデは、まるで思い出を振り返るようだった。



「最初、彼女は慣れなかったもの」



 スズはうなずく。



「そうなんだ」



「むしろ戸惑っていたわ。私たちを〝クロス〟に閉じ込めたほうが、こうするよりもずっと楽なのに」



 カエデはため息をついた。



「でも…………いつも逃げたかったわ」







 スズは、カエデとの共同部屋のベッドで、暗い電灯を見る。



「いよいよ、明日か……」



 つぶやいたスズは片手を見つめ、握って離す仕草を繰り返す。



「不安なの?」



 問いかけられたスズは、顔を、左側にいるカエデに向ける。



「うん……久遠さんは?」



 聞いたあとに、じわじわと、彼女の中にある不安が押し寄せてくる。

 カエデはひと言、平気よ、と、彼女に応えた。



「ねえ、体どこか悪いの? 医務室にいたよね?」



「……」



 そのときのスズは、彼女にかける言葉が見つからなかった。

 スズは、あ、と、口に出さずにあることを思い出すと、彼女に尋ねる。



「ねえ、久遠さん? なんで最初に会ったとき、私の名前を知ってたの?」



 スズは、カエデから顔をそむけてうつむく。

 すると、カエデも顔をそむいたが、彼女は謝った。



「ごめんなさい……」



(なんで、謝るの?)



「ううん。こっちこそごめん……」



 そして、彼女は、少しため息をつく。



「私、あなたに会ったことがあるの」



 スズはつかの間、何を言われたのかわからなかった。彼女の頭の中には、疑問符が浮かび上がるばかりだった。



「え……?」



 返事をしないのもよくないな、と、スズは思ったので、何かを言わないと、彼女は思い、何かを言おうとした。

 しかし、少し経ってから、すやすやと、カエデの寝息が聞こえてきた。



(どういうことなんだろう? うう、眠い。でも、トイレ行ってからにしよう……)



 スズは、ふらふらとおぼつかない足どりで、寝ぼけまなこをこすりながらトイレを済ませた。

 彼女はベッドに横たわると、そのまま、夢の中へ向かって行った。



 カエデは、誰かのか細い声を、まどろみの中で聞いた気がした。



(誰——?)



 彼女は、まぶたをうっすらと開けてみる。



(…………スズ?)



「ス——」



 カエデのベッドの向こうで、スズは眠っている。だが、彼女が何か夢を見ているのか、彼女の枕が少し濡れた。



「私、怖かったの。私、お姉さんが……」



 カエデはハッとしてその言葉を聞くと、スズのベッドに向かい、彼女を慰めるように、その背中に手を回した。



(私……何をしてるの?)



 彼女の両親——ソウマとナギサのことは、よく知っている。

 彼女は、優しいヒトたちだと、彼らのことを思っていた。自分には、とてももったいないくらいだ。その娘のスズも、謙虚な性格で、人柄がいい。



 カエデは、遠い昔の記憶の中で、忘れられない約束がある。



 スズの母は、太平洋が見える展望台のベンチで笑っている。その笑顔は、出会った当初から何も変わらない、ヒトを穏やかな気持ちにさせる笑顔だ。

 彼女は、優しいそよ風のような声で言った。



「カエデ。自分のために生きて。私との約束よ」



 ナギサは、スズを自分に、そして、みんなに託してくれた。

 そのときのナギサは、少し困ったような顔をした。



「それと、お願いしてもいいかしら? ……スズのこと、頼んでもいい?」



 そして、彼女は、微笑みを浮かべた。カエデが出会ったときと変わらない、春風のような笑顔だった。



「かわいいのよ、あの子。きっと、みんなが好きになるわ」



 カエデは、枕を涙で濡らす眼前の少女を眺めていた。その彼女の面差おもざしは、幼い頃に戻ったみたいだった。



「あのヒトたちが残してくれたあなたを、みんなと一緒に、私が護る」



 カエデは、まぶたを閉じた。



(たとえ、私の存在が消えても)



 スズの体温がやけに温かく、あのときにひどく似ていた。

 カエデが〝実験〟の際に出会った、幼い女児だ。

 その容姿は、橘ナギサを思わせた。ナギサは、カエデがお世話になった、元ウーゼ開発研究責任者なのだ。

 だが、床で震える彼女は、その主任に似ていたが、顔を上げた一瞬、なぜか橘ソウマに似ている、と思った。ソウマは、ノヴァ日本支部の元司令だ。

 その後、彼女が二人の娘だと知ったとき、カエデはに落ちたのだった。

 だから、カエデは、スズを出会った最初から知っていた。そして、彼女を護ろうとするのだ。

 スズにとっては初対面だ。しかし、カエデにとっては、彼女と二回目の出会いだ。



 彼女の母である、ナギサからスズを託された——その願いもある。



 しかし、カエデがスズを護りたい理由は、ほかにある。



 あの日——つまり、〝実験〟の日、スズは平穏な日常の運命を全て変えられた。

 カエデはナギサからだけではなく、幼いスズに託された。



 スズは自分から、カエデを受け入れてくれたのだ。







 警報のアナウンスが、人々が避難をしていなくなった街中をこだまする。

 高速道路は、渋滞に巻き込まれた自家用車であふれ、何台ものヘリコプターや艦隊が、上層軍部の者から彼らを運ぶ。



『現在、非常事態避難勧告を発令中です。住民の方々は、お近くの指定シェルターまで避難をしてください。繰り返します。現在——』



 支部内でも、凄まじい警報が鳴らされる。



『総員戦闘態勢。繰り返す。総員戦闘態勢』



 2号機と5号機が固定を解除され、射出台に固定された金属音が、ケージに鳴り響いた。

 二機のディスプレイから、サクラの声が聞こえる。



『二人とも、準備はいいですか?』



 二人は当時に返事をする。



『はい』



 スズはうなずいたあと、彼女の名前を呼ぶ。

 そして、ディスプレイ越しのカエデはうなずいた。

 二人は呼吸を合わせて、前を向く。



『ウーゼ5号機、起動(ウーゼ2号機、起動)』



 ヴヴンッと、鈍い起動音がケージ内に響き、固定された二機は、激しく火花を散らしながら射出をされる。

 凄まじい速度で加速をし続け、地上へと向かって行った。

 続けて、主任が報告する。



『最終安全装置、解除!』



 コックピットの後方から、鈍い金属音がした。

 ウーゼの二機の肩や腰を固定していた装置が、ミサイル発射のような、バシュッと、短い音をたてて解除される。

 地上には、少女のようなエンジェルがいた。



(あれが、久遠さんを怪我させたエンジェル……あれって、人だよね? でも……)



 スズの少し迷っている顔からは、詰まった言葉の端が見える気がした。

 スズは、カエデにディスプレイ越しから呼びかけられてうなずく。



「う、うん」



 2号機と5号機は、ライフルで注意を引きつけようとするが、くしくもプロテクトにより跳ね返された。

 二機は、右腰に装備されてある鋭い棒を、四連続でエンジェルの彼女に投てきをする。

 エンジェルはアメーバのように、ズルンッ、と分かれた。



『よし、分離した!』



 ハルトがガッツポーズをする。



 だが、スズが聞いたのは、ため息をつき、呆れ声の〝少女たち〟だった。

 ほこりを払い、水色のワンピースを両手で整えたエンジェルが、言葉を発する。



「痛いわね」



「え? 今のは」



(あのときみたいな? でも、とにかく、やらないと!)



 5号機は続けて、五メートルのライフルでの攻撃をする。

 二体のエンジェルの眼前がんぜんで透明なプロテクトが張られると、金属音が鳴る。

 水色のワンピースを着ているエンジェルが問いかけた。



「ワタシたちを分離させて、どうしようというの?」



 水色と桃色のワンピース姿の彼女たちは、入れ替わり立ち替わり、スズを翻弄ほんろうする。

 桃色ワンピースのエンジェルが、横髪を手で払わせながら、軽蔑けいべつする。



「ワタシたちは、あのヒトに従ってるのに」



 スズが聞く。



「え? あの人って誰?」



 すると、今度は、水色ワンピースの彼女が答える。



「彼女は、ある人間を嫌ってるわ」



 続けて桃色ワンピースの少女が、遠回しに回答者を指名する。



「そう。知りたいなら、彼女自身の深淵しんえんを覗くことになる。アナタもそう思うでしょう? そこのお嬢さん」



 彼女たちは、彼らに片手を向けた。




「久遠さん! 来る!」



 スズが叫び、カエデもすぐに反応する。

 二機が防壁の後ろに隠れると、防壁はキャベツを切るように簡単に切れた。

 ディスプレイ越しのカエデは、少し目線を下にやり、つぶやいた。



『深淵はアカネ。それを照らす希望は、私たち人間のことよね?』



 桃色ワンピースの彼女が、カエデに感心を示したらしい。



「お嬢さんは、よくわかってるみたいね……」



 二人の少女の声が、重なる。



『でも——』



 二人の少女は、スズを同時に見つめる。



『アナタには、まだ全てを教えられない』



 二人のエンジェルはそう言ったが、スズにはわからなかった。



「何を——」



 スズが反論しかけたそのとき、彼女たちはスズを遮り、楽しそうにつぶやく。



『さよなら。〝特別なウーゼの子〟。それに〝おおかみのウーゼの子〟』



「狼? それ何? どうして、君たちがカエデのことを知ってるの? ねえ、教えてよ?」



 二人は、人差し指を口に持ってくる。



「秘密」



 その瞬間、彼女たちは背中合わせになると、アメーバのように分離をやめ、融合をする。

 ハルトが、ディスプレイから二人に指示を出す。



『二人とも、今だ!』



 スズが真剣にうなずいて応える。

 二機は勢いよく真上に飛び上がると、飛び蹴りを繰り出し、コアを破壊する。



「はぁあああっ!!」



 二機はアスファルト舗装の道路やビル街を削るが、まだコアは割れない。

 コアにはヒビが入ったが、まだ完全に破壊されていなかった。

 ようやく山の麓まで飛び蹴りを繰り出したとき、さらにコアはヒビを増幅させ、ガラスを割るような音をたてる。

 エンジェルはコアが破壊されると白い十字架となって沈黙をする。





 爆発の衝撃によって、2号機と5号機は七日前のようにひどく絡みあってしまった。

 スズは、コックピットの背もたれに深く体を沈められ、後ろにのけぞる。



「わっ!?」



 ディスプレイ越しのカエデも、驚いて声を荒らげた。



『きゃあっ!』



「いってて……久遠さん、大丈夫?」



 背中を強打し、それをさすったスズは、ディスプレイ越しのカエデに心配そうに声をかける。



『うん。平気』



 スズは、カエデの返事に、ホッと安堵した。



「よかった……」



(ていうかこれ……動けるのかな?)



 スズは、ディスプレイに、眉を下げた顔を向ける。



「ねえ、久遠さん? 動ける?」



『ダメね——動けないわ』



(あ、これ、ダメそうだな……)



「ちょ、ちょっと待ってて」



 スズは急いで5号機をなんとか動かしてから、カエデのところへ駆け寄り、プログのハッチ越しに、カエデに声をかける。



「大丈夫? 久遠さん?」



 カエデは、プログ射出用の操縦桿を引っ張り、バシュウウッと、ハッチを開ける。

 スズはプログの上によじ登ったが、体勢を崩しそうになり、途中で転倒しそうになった。



「スズ」



 コックピットに降り立ったあと、彼女に問いかける。



「え? どうしたの?」



「ありがとう。助かったわ」



 スズは、カエデをハッと見つめた。



「……スズ?」



 スズは少し放心したままだったが、カエデに声をかける。



「あ、ううん。なんでもないよ」



 スズはカエデに手を差し出すと、カエデはスズの手をとった。



「ねえ、久遠さん」



 彼女とともにハッチから体を出したカエデは、きょとんとした表情になる。



「色々と、ごめん」



「色々って? 私は気にしていないわ」



 カエデは平然と聞いてくるが、スズは恥ずかしそうに口ごもる。



「その……」



「なぜ謝るの? あなた、昨日の夜も謝ってたわね」



 再び、スズは、カエデをハッと見ながら言う。



「え? そうなの?」



「ええ、そうよ。あなた、泣いてたわ」



 スズは少しうつむく。



「この前から、私、謝ってばかりだね……」



(もう泣かない、って決めたのに……)



 カエデは、うつむくスズの心を読んだように否定する。



「謝らなくていいわ」



 彼女の黒い瞳の目尻が、ほんの少しだけ下がる。



「泣くのはあなたの心を和らげてくれるわ。だから平気よ」



 スズは、カエデに優しく頭を撫でられる。

 彼女は最初、ビクッと体をこわばらせたが、それは、今まで感じていた恐怖などではなく、不思議な安堵感だった。



(少しびっくりしたけど、なんか嬉しいな……あれ? 前にこんな風に、誰かに撫でられたような——)



 突然、ウーゼに付随している固定電話から着信音が鳴り出す。

 スズは肩を震わせて驚いた。



(電話だ。誰から?)



 隣にいるカエデが、電話の受話器をガチャッと取る。



「はい。はい。——承知しました」



 カエデは受話器を耳から離す。



「はい」



「え? 私に?」



「そうよ。あなたに」



(え? なんでなんだろう?)



 スズは彼女から受話器を受け取ると、遠慮がちに話し始める。



「あの、もしもし?」



『お疲れ』



 ねぎらう青年の声が聞こえてきた。

 その青年の声は、スズにとって聞き覚えのある声だった。



「え? ハルト? どうして?」



 ハルトはメインディスプレイで彼らを見つめながら、少し口角を上げた。



『二人とも。完ぺきだった』



 スズは、ふっと微笑む。



「うん」



(褒められた)



「スズ。あなた、優しくて温かいわね」



 スズは一瞬、真顔になったが、すぐに不思議そうな顔をする。



(ん、なんで急に、そんなことを言うの? 久遠さん? どういうこと?)



「ひとつ聞きたいのだけれど……あなた、なぜ昨日の夜に私のベッドに入って来たの?」



 スズの手から固定電話の受話器が抜け落ちると、黒い装甲に金属音を激しくたてて当たった。



「え?」



 二回目の問いかけたスズの返事は、少しうわずっていた。



「久遠さんにそんなことした? 私が?」



 カエデはうなずく。

 そのとき、ぶら下がっている受話器のノイズが混ざった。



『ガッ——ザザッ』



 受話器に気づいて、それを固定電話の金具に戻してから、スズは、慌ててカエデに否定する。



「多分、気のせいだから! そう、気のせいだから!」



 だが、そのスズの脳裏には、昨日のおぼろげな回想が思い出される。

 スズは、かぁっと、頬が熱くなるのを感じたが、カエデを見る。



「い、いや、あの! あれは違うよ、久遠さん! だって、気づかなかったんだってば!」



 カエデは、静かな声で、スズの言葉を確認するかのように繰り返す。



「気づかなかった?」



「そのときは、すごく眠かったんだ。だから、気づかなかったっていうか——」



 スズは言葉に詰まりながら、慌てて大声を出す。

 カエデは無表情だが、凛とした声で言葉を返す。



「私、必ず、あなたを護るわ」



 指令室にいるハルトは、内心、スズに興味を持った。カエデがスズに対し、保護対象として、彼女を認めたからだ。

 カエデは、ユキよりかは他人に興味がある。しかし、彼女が自らの意思表示ではっきりと、護ると宣言したのは、ハルトは初めて聞いたのだ。

 ハルトは、軽く左手の拳を握った。あの日のことをありありと思い出すと、彼は悔しかったのだ。



 あの〝実験〟のことを引きずっているのは、スズだけじゃない。〝ハルトたちも〟なのだ。



『ウーゼは回収するから、安心しろ。じゃあまた、あとでな』



 カエデの思いもよらない発言に、少し放心していたスズは首肯する。



「うん。またね」



 そこで通話は終了させられ、不通音がスズの耳に残る。

 カエデはスズの手をとって歩き始めた。



「あ、あの? 久遠さん?」



「暗い顔をしてたわ。元気がなさそうね」



「ああ、ううん。そんなことないよ」



「そう。よかったわ。あなたの手、温かいのね」



 スズは少し驚いたが、髪の後ろをかいた。



「あ……えっと、久遠さんの手、ちょっと冷たくていいよね」



 カエデはスズに振り向くと、小首をかしげた。

「う……」



 スズは頬が熱を帯びるのを感じた。思わず、ボソリと心の声を口に出す。

「か、かわいいなあ……」



「そんなに褒めないでもらえる? スズ……」



 スズは慌てて、胸の前でもろ手を振る。



「ああ。ご、ごめん、久遠さん。つい心の声が。聞こえてると思わなくて……。でも、久遠さん、かわいいよ」



 彼女は、ふふっ、と、口角を上げて微笑んだ。

 それから彼女は、スズにお礼を言う。



「ありがとう」



 スズも彼女につられて微笑み返すが、いつもより心臓の鼓動が早くなるのを彼女は感じた。



(うわー……なんか、こういうのって、恥ずかしい、かも……)



 スズはうなじにいつもより温かい手を当てると、再び差し出された、カエデのひんやりとする冷たい手をとる。



 また二人は歩き出した。

 今度は、気恥ずかしい雰囲気が、二人の間に流れた。



「あのさ……久遠さんって、頭とか撫でたことあるの? ほら、さっき、私の髪を撫でてくれたとき、手つきが優しかったな——なんて思って」



 スズはそれを思い出すと、恥ずかしそうに頬をかく。

 カエデは凛とした声だが、優しいトーンで言う。



「あなたの頭を撫でるのは、三回目ね」



 その返答に対し、スズはきょとんとした。



「え? そうなの? じゃあ今度、久遠さんと真白さんの髪、撫でてもいい? あ、ハルトのも撫でていいのかな? なんか、みんなの髪、ふわふわしてそうだなあ……」



 スズは、三人の髪を撫でる想像をすると、ニコリと笑った。

 カエデは無邪気な彼女を見て、唇を噛む。



「私、頭を撫でられた経験があまりないから、つい身構えそうで……」



「……じゃあ、降りたら、やってもいい?」



「——え?」



 今度は、カエデがきょとんとするが、スズは曇りがない黒い双眸で彼女を凝視する。



 スズは、お願い、と、頼みごとをしているようだ。

 それは、まるで、カエデとダンスをするときのように。



「いい?」



 カエデは一瞬だけ、ためらった。



「……ダメよ」



 その黒髪の彼女の答えに、スズは不満そうに、唇を尖らせる。



「ええ……」



 カエデはスズを抱き上げると、慣れた手つきでウーゼを降りていく。



「はい。着いたわよ」



 しかし、スズは、カエデの首に両腕を巻きつけていた。彼女は、今さっきまでカエデに横抱きにされていたのだ。



「ねえ、なんで? なんで、私、久遠さんに、その……お姫様抱っこされてるの?」



 カエデは、混乱するスズを、地面に両足が着くように安全に降ろした。

 そして、彼女は少し屈むと、スズに頭を差し出した。



(撫でてほしい……のかな?)



 カエデはスズが思ってることをわかったかのようだ。



「さっき、あなたが私の髪を撫でるって言ったのでは?」



「ああ……ごめん。うん。そうだね」



 スズがカエデの頭を撫でると、黒髪が指どおりがいいことに気がついた。



「えっ!?」



 スズは、片手で口を覆う。



「めっちゃ髪サラサラだね! え。いつも、何使ってるの?」



 カエデは左手を顎に当てた。



「シャンプー……普通にスーパーで売っているものよ。私は『シルク』って言うシャンプーを使ってるわ。でも、そんなにいい?」



 彼女は小首をかしげた。

 スズは上気した顔で彼女を見る。



「うん。いい。めっちゃいい」



「あと……」



 スズは小首をかしげる。



「あと?」



 カエデは左側に顔をそむけた。



「こんなにも、触れられることって温かいのね」



 スズは彼女におのれの心臓を強くつかまれたような感じがすると、彼女をぎゅっと抱きしめた。



「え? あ、あの……?」



 カエデは、もろ手を上げていた。スズに急に抱きつかれたから、驚いたのだろう。

 スズは目をつぶりながら、カエデの耳元で叫ぶ。



「ごめん! でも、ぎゅーってさせて!」



「え……ええ。私でよければ……」



 しかし、スズは抱きしめているカエデ以上に混乱をしていた。



(うわ、めっちゃ、いい匂いするー! まじか!? 年上すごっ! あと、関係ないかもだけど、腰細いなあ……)



 スズは彼女の腰の細さに驚きながら、笑顔を作る。



「じゃあ今度、真白さんとハルトの髪撫でで、抱きしめる! もちろん、久遠さんも!」



 カエデは、ふっ、と、微笑んだ。



「あなたって、素直なのね」



「んん……口に出されると、なんかすごく恥ずかしいね——」



 スズはまた、カエデに横抱きにされる。



「あの……? 久遠さん?」



「落ちると危ないから、私の両肩をつかんで。それに、舌を噛むわよ」



「あ。ご、ごめん」



 スズは、カエデの両肩に腕を回した。彼女のうなじに、スズのもろ手が触れる。

 スズはずっと、カエデから顔をそらしたままだった。



「あのさ……歩けるから、離してくれない?」



「私、歩くスピード早いの」



「え、そうなの?」



「普通よ。あと……そうね」



 ひゅうっ、と、カエデとスズは黒い影に飲み込まれた。

 スズは三回目だが、まだ自分が影に飲み込まれることは、彼女にとっては慣れたものではなかった。



「素直に嬉しがられるのはいいわね。……ただいま」



 カエデが挨拶をした相手、ユキは床に座っていた。ノヴァ日本支部のこの部屋で、読書をしていたらしい。

 スズは、カエデの影の能力で彼女とともに、ユキのいるこの部屋に直行したということだ。



「おかえり。カエデ。それに……」



 ユキは赤い瞳で、ちらりと、スズを見上げた。



「スズはどうして、横抱きにされているの?」



 スズは首肯する。



「確かに。私もそう思う」



 この二人のやり取りを聞いていたカエデは、スズを素直に降ろした。



「おお……。あ、ありがとう。久遠さん」



 それから、スズは、ユキに近寄ってそのそばに座る。

 自動扉からノック音が聞こえると、低い声が聞こえた。



「帰ってきたのか。二人とも」



 スズは、スーツ姿のハルトにうなずく。



「あ、うん。そうだ、ハルト。久遠さんすごいね!」



 そして、彼女は彼に駆け寄る。



「ていうか、スズ、足大丈夫だったのか? 怪我してたのか?」



 ハルトに問われた彼女は、もろ手を胸の前で振った。



「あ、あれは……」



 彼女はうなじに手を当てて、苦笑する。

 カエデはスズと一人分空けて、右隣に立った。



「私の独断よ。ああしたほうが移動に効率的だと思ったの」



「ユキにはしないんだろ? ずいぶんと、スズに肩入れするんだな」



 灰色の瞳は、黒い瞳を見つめていた。



「あなたも私と同じように、彼女に肩入れをしてるでしょう? 昔、お世話になったヒトがいるから」



 カエデは彼の頬から手を離した。今度の灰色の瞳は、赤い瞳を凝視していたからだ。



「本当に間違えられない問題を間違えたのは、あの二人だ。俺も、おまえも、それをよくわかってるはずだ。おまえは何も悪くない。自分を責めるな」



 ハルトは、カエデに瞳を戻した。



「俺はわかってる。おまえは? カエデ?」



 彼はカエデに、理解するために何をする? と、問いかけているようだった。



「私はエンジェルせん滅を遂行する。それだけよ。あなたも許したら?」



 ハルトは、眉根をほんの少しだけひそめた。



「私も、あなたも、ときには問題を間違えることがあるわ。そうでしょう?」



 カエデはユキを見て、それから、また彼を見て、今度は顔をうつむかせた。



「ハルト。彼女は私たちと同じ。私たち、人間のために敵を倒してる。それだけでしょう?」



「スズもな」



「私は……そんな大した役割なんて……」



 スズは、細い手に両耳を当てられた。ユキの両手に耳を塞がれたのだ。



「おわっ……真白さん? どうしたの?」



 ユキが厚さの薄い唇を開いて、ハルトに何かを言っている。

 ハルトは、灰色の瞳をほんの少しだけ見開いた。そして、彼は、左手の親指と人差し指をこめかみに当てて、嘆息した。そして、自動扉越しから彼は出ていった。

 スズには彼の表情は見えなかった。なので彼女は、隣のカエデを見る。

 そこでユキは、やっと、スズの耳から両手を離した。

 カエデは唇を引き締めていた。スズにとって、その彼女の表情は、とても苦しそうに思えた。食べなくもないのに、食事を無理やり喉に押し込められる感覚に近いだろう。

 彼女は紙のように白い顔をしている。唇もほんのり色づいている桃色から紫色に近くなっている。



「ねえ、真白さん。医務室どこ? 久遠さん連れてく」



 しかし、カエデはスズに反論した。



「平気よ。一人で行けるわ」



「ダメだよ」



 スズは壁の表示を頼りにしながら、医務室へと向かう。

 医務室は左側にベッドが二台あった。反対側には、たくさんの書類が積み上がっていて座れないソファがあった。

 スズはカエデをベッドに座らせる。



「大丈夫?」



「ええ。あなたは?」



 彼女はパイプ椅子を、カエデが座るベッドの近くに持ってきた。

 引きずらずに持ってきたので、カタンッ、という音しかたてなかった。



「私? 私なら大丈夫だよ」



 彼女はカエデに、薄い毛布をかけた。



「ありがとう……」



 スズは首を横に振る。



「ううん。大丈夫」



 しかし、カエデは、重ねて問いかけた。



「本当に?」



 スズはオウム返しをする。



「本当にって?」



 カエデはそれには答えずに、寝返りを打った。



「いえ……なんでもないわ」



 スズはその辺にある本を手に取ってみると、ベッドの端に両肘をついた。

 彼女は声を絞って、鼻歌を歌った。



 しかし、カエデは、気になったことをスズに問う。


「あの、途中の、にゃにゃにゃ、って何?」



 スズはいつものように、うなじに片手を当てる。



「あ、ごめん。聞こえてた? 恥ずかしいな……」



 スズは頬をかいてから、また、うなじに手を当てる。



「たまに忘れると、こうやって言うんだよね」



 カエデは口角だけを上げた。



「あ。笑った。久遠さん、かわいいね」



「かわ……?」



 カエデは瞬きをした。



「あなた、またそんなこと言ってるの?」



 スズは、ふふっ、と、ぎこちなく笑って、握った拳を口元に当てる。



「久遠さん。ゆっくり休んでね」



 彼女はまた読書に戻った。また小さな声で鼻歌を歌っている。

 不規則な彼女の鼻歌の感覚が、カエデには妙に心地よかった。



 サクラは、ある人物に微糖の缶コーヒーをおごっていた。



「これだけでよろしいんですか? 私の対価は。アオさん」



 アオは黄色いパーカーに入れていた手を出すと、その微糖の缶コーヒーを彼女から受け取る。



「ありがとう。もちろん、これでも、すごく安いくらいだよ。よかった。あのオペレーターのパソコン借りたかいがあったな」



「最近、調べものが多いとオペレーターたちからも伺っています。どうしてですか?」



「それはさ……」



 アオは、微糖の缶コーヒーのプルタブを開ける。



「アカネが、ユキさんを嫌う理由を探ってるから。それにほかのことも」



 サクラは、青いバインダーを両手で強くつかむ。

 アオは、中の液体をゆらゆらと揺らすようにすると、ひと口飲んだ。



「まあまあおいしいね、これ。で、アカネがユキさんを嫌っている理由の原因は、二〇十一年の『第二次大災害による出撃可能パイロット』なんでしょ」



「はい。そうです。その資料では司令は、当時十五歳——カエデさんは、そのとき負傷しました」



 アオは返事をしながら、また微糖の缶コーヒーを飲む。



「ふうん。失礼だけど、林主任って、今何歳なの?」



「二十八歳です。九年前ですので……」



 彼女は思い出すように、右手の曲げた人差し指を口紅に塗られた唇に当てる。



「当時は十九歳でした」



「ん? へえ、そんなに若かったんだ。ここの職員って優秀なんだね」



 アオは赤色が混じった黒い瞳で、サクラを見る。



「……でも、カエデさんって、今どうして生きてるの? あれほどの〝事故〟だったのなら、死んでいてもおかしくなかったよね?」



 アオは考え込むように、左手の曲げた人差し指を顎に当てる。



「CPOは酸素ガス——主な成分は酸素です。それが入っていても、四個の、蓋付きの循環器が壊れれば、それでおしまい」



「はい。CPOは、〝パイロット接続専用酸素ガス〟の略称名です。カエデさんは三年間、コックピットに閉じ込められました」



「教えてよ? 林主任。三年間、閉じ込められたコックピットの中で生きた人間はいるの?」



「いえ、いません。しかし、当時の彼女は、昏睡こんすい状態にあった、と考えられています」



「そっか。ありがとう」



「いえ……」



 サクラは首を振ると、アオは缶コーヒーを飲み干す。



「じゃあ、今度は、イレギュラーの被験者について、誰かに聞こうかな? 教えてくれるの誰かな?」



「あの……」



 アオは、ん? と、サクラに顔を向ける。その彼女の顔は、少し青ざめていた。



「あまり室長に、負担をかけさせないであげてください。私が答えられる範囲なら、きちんと答えます」



 彼はため息をつくと、微糖の缶コーヒーをごみ箱に捨てた。



「今日はこれで引き上げるよ」



 アオは、つらそうな声で言った。



「ごめん、主任」



 アオは医務室の前を通り過ぎようとしたが、その中から聞こえた、ぎこちないスズの鼻歌に対して、カエデが穏やかな声で話す中の様子に気取られた。



「でさ……その本の展開が面白くてね?」



 と、スズが返す。アオには、よくわからなかったが、スズは好きな文庫本について、カエデと話しているらしい。

 すると、カエデは穏やかに笑う声が聞こえる。



「へえ、そうなのね?」



 それに、スズがうなずく声が、医務室の外にいるアオにも聞こえた。





 アオは、ユキを救わないといけない。それは神話ともいえる、楽園に発端がある。アオの失踪後、ユキは世界を放浪していたらしいと聞いた。



 その頃、アオはノヴァ本部で幽閉、その後、ノヴァ日本支部に身柄を引き渡されることになった。



 だが、この少年を出迎えたのは、当時、ノヴァ日本支部の中でも「変わり者」といわれていた家内いえうちショウだった。

 アオの印象は、肩までの黒髪を髪ゴムで束ねている、たばこ臭い男だった。

 護送ヘリコプターが屋上に着陸する。ここは、ノヴァ日本支部のヘリポートだ。

 アオがそこに降り立ったとき、風がなびいていた。



「……ホントに司令なの?」



 アオが、無礼にも思える態度で彼にそう尋ねると、彼は、なぜかアオに向かって尋ね返してきた。



「だよなあ。なんで俺なのかな?」



 手首に三重の手錠をかけられた少年は、なんだこいつ、と、目の前の歳食った人間に眉をひそめた。



 細長いたばこを吸ってるくせに、黒いスーツ姿に革靴を履いて、ヘリポートに現れた。また、この壮年の男性は、ネクタイまでしっかりと締めているのだ。それがアオには、なんとなく腹立たしかった。



 アオはいつもなら、自分の感情を冷静に受け止めるが、このショウに対する感情はいつも新鮮なものに、彼はのちのち感じた。



 通常、たばこを吸う人間は、ネクタイを緩めて第一ボタンを外すか、またはネクタイをどこかになくしている。

 大抵、だらしがなさそうな人間というのは、そういうものらしい。



 だが、しかし、そんな印象とは裏腹だったのが、アオの目の前にいる男の家内ショウだ。



 そして、アオは、この人間にかまっていられないというように、ため息をつく。



「あのね、僕、大罪人なんだけど。恐ろしくないの?」



「あ? 怖いに決まってるじゃないか。だから、これ」



 ショウは、たばこを右手の指の間にはさめる。すると、アオの前でそれを振った。

 アオは、たばこのくゆらす煙に少々せき込む。少年は、口を覆うように握った拳を当てるが、手首にかけられた三重の手錠がジャラジャラと鳴った。



「けむたいよ」



「悪い悪い。けどな、俺はこれ吸ってないと、君と話せないんでね」



「ヘビースモーカー?」



 ショウは、へっ、と、初対面の少年をからかうように、口をへの字に曲げる。



「適切な使用方法を守ってるんで、違うね」



 そして、ショウは背を向けた。



「行くぞ、少年」



 アオはその背に呼びかけた。



「一色アオ。僕の名前は一色アオだよ」



 だが、その背中はアオよりも大きかった。当然だ。

 ショウは、身長百八十センチメートル。アオよりも二十センチメートルほど差があるのだ。

 ヘリポートに、ショウが吸う、たばこの灰がほろほろと落ちていく。



「すぐ否定するのは、自分が正しいと思っている証拠だぞ。一色くん」



「それとも、そのたばこに執着しゅうちゃくでもあるの?」



「あのな、なんでもしつこく聞くんじゃねえぞ」



 ショウは、ノヴァ日本支部・屋上のヘリコプターの着陸場に、たばこを革靴で踏みつけた。そして、彼は、灰色の曇った空を見上げて、ため息を吐いた。



 細く長い彼の息は、生ぬるい夏の風に溶けていった。



「あっちいな。今日も」



 今日は八月の中旬で、夏の盛りだ。今年の八月で、最高気温四十二度は暑いらしい。



「その暑苦しい上着、脱いだら? 熱中症になるよ」



「少年、ホントに十五歳か?」



 ショウは、アオの落ち着き払った態度に疑問を持った。そして、先程の「たばこに執着」という言葉も。



「さっき、しつこく聞くな、って——」



 アオが言い終わらぬうちに、ショウは上着を彼に預けた。



「うわっ? 何さ?」



 ショウは子どものように口を聞かずに、さっさと屋上の扉から中へ入ってしまう。



三十路みそじのくせに……」



 アオが憎たらしくつぶやくと、そのつぶやきが聞こえていたのか、ショウはその手首をつかむ。



「うわっ? ちょっと……なんだよ?」



 ノヴァ日本支部の内廊下は、人でざわめいていた。見物人もちらほらいるらしい。

 アオは脇にショウの上着を抱えながら、眉をひそめ、不機嫌そうな顔で内廊下を歩いていたが、アオにはこの司令の背中は、威厳いげんと、それに何か背負うものがあるように見えた。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


 スズちゃんは、みんなのことを知りたいと思いながら、ほかのみんなは、他人にあまり話せない秘密を持っていたりするので、新米のスズちゃんに話すべきなのどうなのか、そこの調整が難しいんです……。

 一方、スズちゃんも、他人には話せない過去がありますので、本人も悩んでおります。

 一見、優秀な登場人物でも、実はとても悩んでいたり……など、人間関係の難しさを表せられたらいいな、と思っております。

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