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『リリムと贖罪』  作者: 黒猫
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第三戦 他人との距離



 今日のスズは、少し憂鬱ゆううつな気持ちだった。なぜなら、彼女が苦手な体育の授業があるからだ。



 今日は晴天で、うだるような暑さだ。その炎天下で、彼女が、ジャージの上着を脱いで校庭を走っても、ただ全身が疲れるだけだった。

 すでに、水色のTシャツ姿になっているスズは、時々、同じクラスの男子の視線に気づく。



 だが、彼女は、なぜ、そんなに見てくるのか? と、脳内では疑問しかなかった。

 そして、数メートル先になびく白髪はくはつを見る。彼女の頬の辺りの短い髪毛先が、くるんとなって、彼女の柔らかそうな頬にかかっている。



 スズは、きっと彼らも、彼女に夢中になっているのだろう、と、思い込んだ。



 ユキの白い陶器とうきのような肌が、あらわになっているからだ。特に太ももの辺りはまぶしそうに見える。



 スズが別な場所に目を向ければ、輝いている銀色の建物が見えた。

 ノヴァ日本支部だ。

 それは、地上から地下三十階までを貫くように造設されている。





 珍しく髪をまとめたユキが走り終わったあとで、スズもゴールする。

 ユキは、両手を膝につけたスズに水筒を差し出す。



「あ、ありがとう……」



 スズは水筒の吸口にくちびるを付けてそれをあおると、手の甲で口を拭った。



「ん?」



 彼女が視線に気がつき、首をめぐらす。

 男子はおろか、同じクラスメイトの女子までもが、自分を羨望せんぼうひとみで見ていた。



「みんな、どうしたの?」



 全員は校庭に各々座っていた。だが、そのときは皆そろって、首を横にして振った。



「え。わからないんだけど? ねえ、どうして?」



 スズは、丸眼鏡まるめがねをかけている村石むらいしシノに、腕を組んで詰め寄る。

 シノは、その眼鏡をカチャリッと押し上げる。



「スズさん。本当に体育、苦手なの?」



「それだったら、シノのほうが足速いじゃん」



「え、そう?」



 不思議そうに答えるシノに、スズは、そうだよ、と、首肯しゅこうする。



 スズの百メートル走の記録は、十二秒三十だ。ちなみに、シノの記録は、十三秒八〇だ。



 スズは不満げに言う。



「シノのほうが足速いのに」



 すると、少し低い声が、スズに飛んでくる。



「そうか? みんな興味津々なんだよ」



「あ……シュン。そっちどうだった?」



 スズが話せる男子生徒の一人である、波澄はすみシュンだ。

 ちなみに彼は、ノヴァ・ドイツ支部に所属している、エミリアのいとこである。そして、エミリアは、カエデのことが友人として、とても大好きらしい。



 クラスメイトたちは、スズの存在を測りかねていた。

 だが、実はスズが、同じく転校生のユキと仲がいい。そして、転校初日にヘリコプターで現れた謎の青年、山田やまだハルトの派手な登場に、皆、心を奪われていたのだ。

 しかも、スズは親切なので、彼女と密かに、仲よくなりたいというクラスメイトが多いのだ。



 スズは、そのまま視線をユキに向ける。そして彼女は、口角を上げた。



「真白さん、何秒だった?」



「わからない。でも、記録係のヒトが、十一秒とか言ってた気がする」



「うわー……。真白さん、足速いねー……」



 ユキは、スズから返された水筒に口を付ける。



「ちょっ!? 待って待って、真白さん!」



 全員が、どうした? と、一斉にスズを見る。体育担当の教師までもが、彼女を心配する。

 スズは、人差し指を水筒に向ける。



「それ……」



「これ?」



 ユキはその水筒を、片手で少し持ち上げる。

 すると、彼女は、再びスズに近づく。



「スズ、喉乾いたの? これ飲む?」



 彼女は少し躊躇ちゅうちょして、胸の前で両手を振る。



「いや——」



 だが、うだるような暑さは、彼女のき出しの健康的な肌を焼いたので、飲むことを承諾した。



「ありがとう。真白さん」



 スズはみんなの視線を避けるように体ごと移動して、水筒に口を付けた。

 彼女はその授業中、なんだか気まずかった。



 スズが驚いて声のする方向を向くと、そこには陽気ようきに手を振る人影がいた。



「スズ! お疲れさま」



「アオくん? 何してるの?」



 スズは、てててっと、校庭の端に近づく。



「学校帰り。僕、今一人だから」



「あれ? 久遠さんとハルトは一緒じゃないの?」



 アオは、うん、と、首肯する。彼は左肩にカバンのベルトをかけていたが、それを肩にかけ直す。



「僕だけ早く帰ってきたからね」



 彼は十五歳——本来なら中学三年生の年齢で高校には通学できないはずなのだが、ハルトの計らいで高校に通学している。

 ちなみに、アオは、カエデとハルトの通学する『滝海高等学校』に通学している。ハルトは、早退する対応が面倒くさいと、ため息をついているらしいが。



「多分、みんなもそのうち帰ると思うよ。ところで今、何してるの?」



 アオが問いかけると、スズは苦笑する。



「体育。外で走ってたんだ、苦手だけどね」



 彼女はうなじに手を当てる。

 アオはスズに近づいてきたユキに目を向けると、少し目を丸くさせた。



「あれ? ユキさん、髪、ってるじゃん」



 アオは、ガシャガシャと、丈の低いフェンスを乗り越える。しかし、それは、スズが想像していた華麗な姿ではなかった。

 ユキは、アオの答えに首肯する。

 アオは平常な顔だった。



「いつも結っていればいいのに……邪魔じゃないの?」



「今日は外で走るって事前に聞いてたから、縛っただけ」



 アオは、へえ、とうなずくと、スズに目を細める顔を向ける。



「ていうか、スズ……今の僕のフェンスの乗り越え方、絶対、一跨(  また)ぎで乗り越えるって思ったでしょ?」



「うん。あ、ごめん」



 スズはまた、うなじに手を当てる。

 アオは、形の整った眉をひそめる。



「見た目で、こいつ、かっこいいなって思っても、フェンス一跨ぎできないだけでダメなやつだって思われても、僕、嫌なんだけど?」



 アオはため息をつく。



「ま、そんな人いないか。ねえ、スズはできるの?」



「え? 私? 無理無理できないよ?」



「興味本位で聞いただけだから、無理強いはしないよ。……あっ、カエデ!」



 歩道を歩いていたカエデは、すぐには、アオに気づかなかった。彼女が読書をしながら、そこを歩いていたからだ。

 少しの間、アオが激しく手を振っていると、カエデは三人に気づく。



「何話してたの? アオ?」



 アオは、口を囲うように左手を添えた。



「気になる? 一跨ぎでフェンス乗り越えてくれたらいいよ」



 カエデは、文庫本を革製のカバンにしまう。



「……でも、これ、ミスしたら危なそうよ?」



 カエデは丈の低い金網を指さした。それに、彼女はスラックスなので、指定制服に穴が空いたりすれば、学校側になんと説明すればいいのだろうか、わからなかったからだ。

 しかし、アオは相変わらず、カエデに向かって手招きをしている。



「いいから」



 アオはひと言そう言うと、スズの肩を自分の肩に引き寄せる。

 すると、スズは、口を開けて驚いた。



「わっ? え?」



 それに、カエデは、形の整っている眉をひそめる。



「ん……」



 カエデは、スズに対するアオの行動が不満だったのだ。だから、彼女は、先程、眉をひそめた。



 その様子を見てアオは、スズとの距離を離した。



 カエデが金網の向こう側にカバンを置くと、チリンッ、と、何かの微細な金属音がする。



 スズが彼女の置かれたカバンを見ると、金色のストラップがついていた。猫が魚をくわえている、可愛らしいストラップだ。



 彼女は、近くの通行人に会釈をすると、カエデは途端に走り出す。

 彼女はフェンスにつかんだ左手を中心軸にして、左足を踏み出し、金網を一跨ぎで乗り越えた。



 一方、スズたちがいる中学校のグラウンド側からは、主に女子生徒の黄色い声援が聞こえる。



 グラウンドに着地したカエデは、姿勢がふらつきそうになると、一、二歩つんのめったが、なんとか体勢を持ちこたえた。



「とっとと。セーフ……」



 そして、彼女はアオを睨む。



「これでいいかしら?」



 スズは思わず、わあ、と、感嘆の声を発する。



「すごいよ。かっこいい。久遠さんって、かっこよくてすてきなんだね」



 カエデは少し驚いて、輝く瞳で満面の笑みを見せるスズを見た。

 スズはそんなカエデを見て、首をかしげるが、今はカエデの華麗かれいな着地に、彼女自身、喜びを隠せなかった。

 アオは、そのカエデの華麗ともいえる着陸に「変わり者」の司令を思い出した。



(くそっ。なんであいつが……)





 その日も、壮年の家内いえうちショウは、暑い季節が続いているというのに、スーツ姿で煙草をくゆらせていた。

 だが、それを無意識にアスファルトの歩道に落とすと、フェンスを一跨ぎで乗り越えた。

 なにやら、彼は、老人と話しているようだったが、やがてアオの所に帰ってきた。



「あのおじいさん、カバン盗まれそうになったんだってよ」



 アオは、司令が無意識に落とした煙草を、小型の携帯灰皿に入れる。

 それから、彼は、あまり関心がないように言った。



「ふうん。人助けですか。それでちょっと遅くなったんだね」



 アオは、買った棒アイスを口に含むが、それは無残にもショウに奪われる。



「もーらい」



「あっ! それ、僕の——」



 また、彼が言い終わる前に、ショウは棒アイスを奪うという、少年のような行動をした。



「あーあ……僕のアイス」



 そして、彼は、肩を落とすアオの頭に上着をかけた。



「何するのさ?」



「暑いだろ。それ被ってろ」



 アオは、ちぇっ、と、言うしかなかった。確かに太陽がじりじりと、アオの肌を焼いている。

 だが、その少年の両手には、カップのアイスがプラスチックスプーンとともに置かれる。



「何? これ」



「熱中症になりたくないなら、これ食べろよ」



 アオは、はいはい、と答え、ひと口食べる。

 彼は先程遅くなったのは、コンビニエンスストアでこれを買っていたのだろうと思うと、それも含めて、アオはなんだか、ショウが腹立たしかった。

 だが、少年は、ん? と、小さく首をかしげる。



「甘い?」



 ショウは当然とでもいうように、答える。



「そりゃ甘いだろ」



 アオは、ううん、と、首を横に振る。



「昔より味が濃いし、それに、甘くなってる」



「なあ、アオ、運信じるか?」



「僕は信じてもむだだから、信じないよ」



 ショウはアオと初めて会ったときのように、煙草を棒アイスに持ち替えて振る。

 そしてまた、いたずらをした子どものように、口角を上げて笑った。



「じゃあ、この当たり棒はあげられないな」



 その言葉どおり、彼が奪った棒アイスには「あたり」と書いてある。

 アオはカップアイスに手をつけながら、不満げに漏らす。



「なんだよ? それ? 不公平じゃないか。あんたもどこかの王様みたいだね」



 そして、アオは語尾を吐きてるように言うと、またカップアイスを食べた。

 ショウがいつものように、へっ、と片頬を上げて笑うと、アオは、ハッとしてショウを見上げる。

 少年は唇を尖らせる。その視線は、またもやカップアイスに落ちていた。



「ったく……この三十路みそじが」



 アオがぼやくように言うと、ショウは自分の上着の上からアオの頭を撫でる。



「うるせえよ。十五歳」





 アオは、誰かに腕をつかまれた感覚で今に引き戻された。



「やあ、カエデさん。どうしたの?」



「行くわよ」



 カエデはアオの腕をつかんで、正門に向かっていたが、くるりと振り返ると、スズとユキに手を振った。



「スズ。ユキ。じゃあ、またあとでね」



「うん。ありがとう、カエデ。アオくん」



 アオは手を振り返す。


「ばいばい。スズ、ユキさん」





 昼休みに、スズは、クラスメイトから質問攻めにされて全員に詰め寄られた。

 スズは、大勢の視線から逃げるようにするが、彼女は小首をかしげる。



「ええっと……何が聞きたいの?」



 すると、男子生徒の一人が、身を乗り出す。



「さっきの美少年&(アンド)美少女のことだよ! 忘れたのか?」



 スズは思い出すように、右斜め上に視線を向ける。



「忘れてないよ。アオくんと久遠さんだよね」



「かっこよかったよな? あの着地!」



 スズが、うん、と首肯すると、今度は女子生徒が問いかけた。



「ねえ、たちばなさんって、さっきの彼とどんな仲なの?」



「友だちだよ」



「ええ……じゃあ、あれなんだったの?」



 スズは、曲げた左手の人差し指を顎に当てる。



「んー……私にもよくわからなかったけど、多分、久遠さんにフェンスを跨いでもらうためのあおり文句、とかかな?」



 しかし、彼女は、机上に置かれた革製のカバンを見つめる。



「でも、これ忘れてったよね? ……久遠さん」



 カエデは先程着地する前に、スズたちがいたグラウンド側に革製の通学カバンを置いたのだ。それをアオを連行する際に、彼女が置き忘れたのだ。



 アオを彼女が連行した、というのは、文字通り、彼女がアオの腕をつかみ、そのまま彼が離れないように、正門まで引きずられるような形になっていたからだ。

 そして、彼は、カエデにデリカシーのない発言をしたので、彼女にすごく怖い目で睨まれながら、半ば引きずられるように正門に連れていかれていた。



 男子生徒は、ふむ、と、つぶやきながら、顎に伸ばした親指と人差し指を当てる。



「気になるな……中身」



 女子生徒が、彼の肩を軽く叩く。



「それも気になるけど」



 スズは、あ、と、小さく声を上げた。

 一際、の光に照らされて輝いているものが、カエデの革製のカバンに付けられていたからだ。

 それは、銀色のリングに、輝くものの先をくくられている。



「これ、ストラップ付いてる」



 スズは猫が魚をくわえる銀色のストラップを凝視する。



 窓際の席に座っていたユキは、彼女の机上のカバンに気づくと、スズに答える。



「スズ。これ、チャームだと思う」



 彼女は、右手の細い人差し指をチャームに指さす。



「チャー……? ああ、これ?」



 スズは猫のかたどったストラップを見る。これはストラップではなく、チャームというらしい。



 しかし、スズには、大して違いがわからなかった。



「へえ……きれいだなあ、これ」



「ねえ、スズさん。あのときのこと聞きたいな。ほら、この間のプールのときのこと」



「ああ……そういえば、プールあったね。ていうか、よく覚えてるね、朝井あさいさん」



 その日は、プールの授業があった。

 スズはプールから上がり、水中キャップと眼鏡を外すと、一人でプールサイドに座るユキのそばに座った。

 ユキは白い水着を着て、体育座りをしているが、スズに顔を向けた。



「あ……スズ。どうかしたの?」



「おしゃべりしに来たんだ、真白さん」



 その名目もあるが、スズには、プールサイドに座るユキが一人でいるのが、なんとなく彼女の目についたからだ。

 スズは、水色の水着を着ている。そして、彼女は、ユキと同じ格好の体育座りをする。



「ねえ、その水着買ったの?」



「これ? サクラに、買わないとダメですよ、って——要するに、強い押しに負けたの」



「うわ……大変だったね。でも、水泳の授業で、自由に水着着られるのはいいね。釧路くしろだと、水泳の授業あんまりなかったから」



 北海道は冬の時期が長いので、夏は、小学校のクラス単位で行われる、市民プールに行くしか機会がないのだ。

 ユキは、それにうなずいた。



「サクラとの買い物は、学べることがたくさんある。私、休日は制服で行動してたから、サクラに、買ったほうがいいって叱られた。サクラは服のセンスがいいの」



 スズはずっと体育座りをしているのもつらいので、両足を左側に寄せた。彼女が楽な座り方だ。



「真白さん。今日はよく話すね」



 彼女は、そう? と首をかしげる。



「スズもそれ、自分で選んだの? よく似合ってる」



 スズは、はにかんだ笑顔を見せる。



「あ、ありがとう」



 ユキは無言で、こくりと首肯する。



「それに……スズは話しやすいから。ナギサと一緒」



「おか……」



 スズは、唇を真一文字に引き結んだが、ため息をついて、気を取り直す。



「ねえねえ、本とか読む?」



 彼女が尋ねると、ユキはこくりとうなずく。

 また彼女は、ユキに尋ね返した。



「どんな本?」



「いろいろ見る。聖書や、恋愛の本とか」



「へえ、結構、ジャンル広いね。ていうか、真白さんって恋愛の本見るんだ。見ないかと思った」



「そう?」



 ユキは少し考える。



「スズが、私の違う一面を知らないだけ」



「そうだよね。……なんか、真白さんって深いこと言うよね?」



「このプールのように?」



「何それ?」



 スズはくすくすと笑う。

 ユキは、プールで遊ぶクラスメイトたちを眺める。

 今は授業が終わり、自由時間だ。

 色とりどりの水着を着ている女子たちは、互いに水をかけ合って甲高い声を出し合っている。または泳ぎの競争をしている。

 泳ぐ彼女たちは、今日、アイスクリームをかけて競争をしているみたいだが、スズとユキは食べたことはない。

 彼女たちに聞いたところ、甘いスイーツらしい。スズもユキもそれをおいしそうだと思うが、食べる機会がないだけだ。



 男子たちは、そんな彼女たちを遠巻きに見ているだけだ。



「アイスって、おいしいのかな?」



「食べ過ぎると太るかも」



 ユキがまたひと言言うと、スズはまた、くすくすと笑った。



「それなら我慢しなくっちゃ」



「食べ過ぎなければ平気。それに、甘いものはおいしい」



「真白さん、甘いもの好きなんだね」



 ユキは緩やかに、首を横に振った。



「私、好きな気持ちが、あまりわからないの。だから、その気持ちを素直に言えるスズは、私はすてきだと思う」



 スズはふと、ユキがどんな気持ちでこの光景を眺めているのか、知りたくなった。

 ユキは小さく口を開いた。



深淵しんえんは底がわからない。だから、おそろしい」



 スズは笑うのをやめると、不思議そうに言う。



「それ、何? 聖書の話?」



 ユキは、スズの黒髪に手を置いた。



「真白さん……」



 スズは赤くなった頬を隠すように、顔をうつむかせた。彼女は美人なユキに髪を撫でられる間、その行為が恥ずかしかったのだ。



(真白さんって、私のこと、ちっちゃい子か何かだと思っているんじゃない? って、時々、思うんだけど……)



 スズは、彼女を見た。



「真白さん……頭撫でるのやめてくれない?」



「嫌なの? わかった」



「いや、そうじゃなくて……」



 スズがもろ手を振ると、ユキは小首を傾げた。



「私のこと、ちっちゃい子だと思ってない?」



「幼いときでも、今も、スズはスズ。あなたは素直なままなの」



 スズがうつむくと、彼女の鎖骨が見えた。ユキはカエデと同様、体が細いのだ。



 そして、スズは、プールを見た。

 クラスメイトたちは、プールで泳ぐことを楽しんでいる。



「スズ。あなたは、みんなと一緒に泳いできて」



 スズはプールを見てから、ユキに顔を戻す。



「なんで? せっかくだから泳ごうよ」



「スズはなぜ、私と行動したがるの? 私は遠巻きに見られるだけ」



「ええ、そう?」



 スズは考えるように唸って、真顔で言う。



「あれは、真白さんがきれいだから、みんな見てるんだよ」



「少し前から、みんなスズも見てる」



「ん? あ……」



 スズがプールに顔を向けると、ユキが言ったとおり、クラスメイトたちが二人に視線を向けている。



「ね? ほら、真白さん。みんな見てるんだよ」



 スズは勢いよく立ち上がった。



「ねえ、一緒に泳ごうよ」



 ユキは無言になる。



「真白さん?」



 スズは困ったように、ボソリとつぶやく。



「やっぱ、ダメだったかな?」



 ユキは普段より長く考えたあと、立ち上がった。

 彼女は白髪はくはつをくくって、スズを見た。

 そして、彼女は突然、プールに勢いよく飛び込んだあと、上がってきて、ぷはっ、と息を吐いた。



「うん。誘われるのも悪くない。スズも来る?」





 スズは自席で、目線を斜め下に向けた。



「ていうか、それ、そのあと私がおぼれたよね?」



 ユキは、乱れた白髪を手ぐしで直している。



「スズが誘ってくれてよかった」



 スズはくすくすと笑った。



「髪、ボサボサになっちゃってるよ」



「ん……」



 ユキは真顔になると、不思議そうに尋ねた。



「スズ、よく笑ってる。なぜそんなにおかしいの?」



「違うよ。真白さんが面白いからだよ」



「面白い?」



 ユキはまだ手ぐしで髪を撫でつけている。



「髪、全然直らない……」



 スズはふっと笑うと、リュックサックの中を探したが、それから、残念そうにユキを見る。



「あ、ごめん。私、くしもってないや」



 張りがあるが、今は静かな声がスズに呼びかけた。



「あるよ、スズさん」



 声のぬしはシノだ。シノは、茶色いのくしを手に持っている。みるからに、木彫りで、しかも高級そうなくしだった。



「え? いいの? シノ? 借りていい?」



 シノは丸眼鏡を押し上げると、にこやかに笑みを、その顔に浮かべた。



「どうぞ」



「ありがとう、シノ。うわあ。これ、きれいだね」



 シノから借りた、くしの持ち手には、小さく花柄がられている。

 スズは、ユキにくしのことを説明しようとしたが、椅子に座った彼女は、早くといてほしそうだったので、あまり説明せずに彼女の髪をいた。

 彼女は、透明なピルケースを取り出す。



「ん……それ、飲まきゃダメなのかな?」



 スズが問うと、ユキは首肯した。そのあと、彼女は、水とともに錠剤を飲む。

 シノが不思議そうに彼女に話しかける。



「ねえ、ユキさん。どこか体の調子悪いの? 風邪?」



「平気、シノ。これは、一日のどこかで飲めばいいから。今日は午後忙しいから、今飲む」



「……何かあったら、言ってね?」



「平気。シノもスズも、いいヒトだから」



 シノはくすりと微笑ほほえむ。



「わかった」



「ねえ、真白さん? 今日、なんかあったっけ?」



 ユキはスズに顔を向けたあと、まばたきをする。



「スズ。聞いてないの?」



「え? うん」



 スズは首肯した。



「このイベントは、楽しみなヒトもいるみたい」



 そう言うと、ユキは立ち上がり、座っているスズのその黒髪に触れる。



「うん。いい」



 スズは、自分の増えた二束の髪に触る。



「なんか縛ってもらった……。ありがとう、ユキ」



 ユキは、ふるふると首を横に振る。



「ん? どうしたの?」



「お礼はいい。スズ、似合ってる。すてき」



 スズは、ユキからのひと言に言葉を詰まらせた。

 シノも口角を緩め、ふふっ、と笑う。



「スズさん、おさげ似合うね」



「えっ? そう? ……嬉しいな」



 スズがはにかむ表情をすると、シノを含めた女子たちは、さらに、かわいい、と、口々にはやし立てた。

 




 ほぼ同時刻。

 ノヴァ本部。その本部がある場所は、イギリスだ。

 ハルトは、いつになく緊張した顔をしていたので、隣に座るアオも、そわそわと妙な緊張感をいだいていた。そして、彼は、隣の椅子に姿勢よく座る、黒いスーツ姿の室長に耳打ちする。



「あのさ……なんで、僕たち、本部に招集されてるのさ?」



 十六歳の室長は、金ボタンが並び、左前のボタンを開けている。

 そして、今のアオも、一応、黒いスーツ姿だ。

 ハルトは嫌そうにため息をついてから、前髪を直す。



「俺は、日本支部への反発心から、支部への内部告発やらなんやらでの招集」



 彼が思い出そうとするように目線を上に向けると、墨のように暗い天井がその灰色の瞳に映る。

 そして、彼は、小首を傾げた。



「おまえは、ええと……なんだっけ?」



 アオは、ハルトの両肩を激しく揺さぶる。



「頼むよ。室長? これ下手したら、パイロット三名も、僕たちと同じく追及される可能性あるんだからね」



 ハルトは、揺さぶられている頭をどうにか立て直した。



「だから……わかってるから、その手を離せよ。ここで終わらせる気はない。まだ俺は、わかっていないんだ」



 ハルトは唇を噛み、灰色の瞳を議長席に向けた。



「何も」



 アオもそちらに顔を向けてから、またハルトに顔を戻す。そして、嘆息をつき、赤色が混じった黒い瞳で、年若い室長を見る。



「それって言い換えれば、〝ほんの一部は理解できてる〟ってことでしよ?」



「答える義務はない。あ、思い出した、アオ。おまえは、エンジェル疑惑と、最近、俺の部下に聞き回っている件について答えなくちゃならないんだよ」



 アオは唸って、頬をかく。



「なんで、よりによって、答えづらい質問ばかりなのかな……」



 両開きの扉が開くと、数人の男性が入ってきた。

 その中で、角縁かくぶち眼鏡めがねをかけたイギリス人は、議長席に座ると、慇懃いんぎんとした態度で話し始めた。



「初めまして、山田室長。私はグーテン・ウェールズだ。君の所属は、ノヴァ日本支部の指令室室長で合ってるかね?」



「はい。そうです」



 ハルトは口には出さなかったが、いささか驚いた。なぜ、国連本部会議の議長自らが、わざわざ日本支部の、しかも、室長と一パイロットの聴取のために、この本部におもむいたのかがわからなかったからだ。



「あの、失礼ですが、この本部の司令とお顔立ちがよく似ていらっしゃるのですが……」



 ハルトがグーテンに問えば、老年の議長は、にべもなく答えた。



「ああ。私の愚息ぐそくだ」



 ハルトは、議長が司令を嫌っているのか? と、その考えが一瞬頭をよぎったが、すぐに、社交辞令だろうと考え直した。

 ハルトが、彼が実の息子を嫌っていると一瞬迷ったのは、グーテンが「愚息」と言葉を発したとき、ほんのわずかに顔をゆがめたからだ。

 しかし、ハルトが脳内で、グーテンの家庭事情の記録を振り返ってみても、内縁の妻、そして、実の息子や娘との仲は良好、としか考えつかなかった。

 ハルトは首肯する。



「そうなんですか。それで、私たちを招集なさった理由について、お話しいたします」



「それもいいが……先程、ある女性と日本語で翻訳をしながら、ビデオ通話をさせてもらってね。

 興味深かったよ、一色アオ——いや、〝アダム〟」



 アオは眉をひそめた。



「その女性ってさ……まさか、〝彼女〟じゃないよね?

 僕のことを知ってるのは、ごく限られた人間——そのうちの一人は、〝彼女〟だ」



「〝彼女〟とは?」



「知らぬ存ぜぬで通されると思ってるの? 〝真白ユキ〟さんだよ」



 アオは怒りのあまり、自席から立ち上がりざまに、議長席のほうに一歩踏み出した。

 だが、室長が、それを手のひらで制止させる。



 すると今度は、ハルトが立ち上がる。彼の黒い革靴が、カッと、床を鳴らした。



「失礼ですが、議長——こちらからの誓約書どおりでは、〝彼女の安全を保証する〟と、記載されていたはずですが?」



 グーテンは、議長席に深く座ると、肘掛けにもろ手を置き、それを腹部の前で組む。



「安全は保証した」



 ハルトは後ろ手を組みながら、議長席に進み出る。



「パイロットの安全保証——室長の立場からですが、誠に感謝しております」



 それから、彼は普通礼をした。そして今度は、灰色の瞳をグーテンに向ける。



「グーテン議長。話を変えてもよろしいですか? 私事わたくしごとですが、私は日本支部の内部告発には一切関与しておりません。なので、告発をしようと画策かくさくしてはおりません。

 それになにより、その証拠を元にした既成事実はありません。以上です」



 ハルトの口上こうじょうを聞いたグーテンは、ただひと言発しただけだった。



「まるで報告書のようだな」



 年若い室長は顔色ひとつ変えず、議長に問う。



「ご不満でしょうか?」



「いいや。しかし、まだ疑いは解けていない。室長。君と、一色のな」



 ハルトはグーテンの威圧にも意を介さず、先程と同様、重ねて問いかけた。



「そうでしょうか? 一色パイロットも私と同様、まったく、そのような既成事実はありません」







 授業が終わった、その日の放課後。

 スズ、ユキ、カエデの三人は、サクラに言われた。



「これからの作戦のために、ぜひ、皆さんにやってほしいことがあるんだ♪」



 ちょうど、ハルトが、グーテンに対して淡々と、そして、一歩間違えれば、彼自身が解職となるような発言をしたときだ。





 スズとユキとカエデの三人は、支部から約十キロメートル離れたマンションが立ち並ぶ、高台の場所に向かった。彼女たちはサクラを先頭に、『林』と表札が書かれた部屋の玄関に立ち止まっている。

 スズは、美しい文字で書かれた表札を、ぼんやりと見ていた。



(ここ……サクラさんの家だよね? 多分だけど……)



 サクラがガチャッと、玄関の扉が開けると、かかとが低いヒールや白いスニーカーを靴棚の中にしまう。



「ごめーん。今、片付けるね?」



 スズが遠慮がちに言う。



「あの、お邪魔します……」



 カエデは、黒のスニーカーを脱ぎながら答える。



「邪魔するわ」



 彼女が、スニーカーを脱ぐと、胸までの黒髪が揺れる。

 彼女は、紺色の制服の上着を着用していた。上着の隅で「東」と四個の輪が重なるように、銀色に光っているのは、滝海高等学校の校章だ。

 彼女はワイシャツに、紺色の棒ネクタイを巻いている。

 スズは、カエデは、スカートをくのかと思っていたが、それは予想を大きく外していた。なぜなら、彼女は、棒ネクタイと同色のズボンを履いていたからだ。スラックスというらしい。

 ここまで思い出したスズは、あ、と、小さく声を上げた。



「ごめん、久遠さん。はい。これ」



 スズは右手に持っていた革製のカバンを、カエデの目の前に持ち上げる。



「あ……これ、どこで?」



「グラウンドに置いてあったのを、クラスメイトの人が見つけてくれたんだよ。それで、なんとなく、私が預かることになって……」



「ありがとう」



 スズは、ぱちくりとまばたきをした。彼女は、あまりと礼を言われ慣れていないのだ。



「あ……うん」



 そのあとの彼女の顔は、柔和にゅうわな、はにかむ笑顔になった。

 その笑顔に、カエデは唇を軽く噛む。カエデの大切な人たちに、スズの笑顔が非常によく似ていたのだ。

 ユキは静かに、みんなのあとに着いていく。

 そこから、左側にあるリビングに三人は案内される。

 まだ、引っ越しの片付けが終わっていないらしい。

 ダンボール箱が山積みになり、潰していない箱には、私服や、支部に関係しているような書類が隙間から見えていた。

 三人は、テーブル席に座るようにサクラに促された。

 彼女が周りの物を片付けをしているのを、三人はそれぞれ見ていた。

 だが、気まずくなったスズが、彼女に手伝いを申し出る。

 スズは、自身の髪を黒いゴムで縛ろうとして、自身の増えた二束の黒髪に触れた。



(あ、真白さんに縛ってもらったから、もう縛らなくてもいいのか……なんか毛先が、うなじに当たってるけど)



 スズとカエデは、ダンボール箱を潰す作業を頼まれると、指につく焦げ茶色のガムテープを引きがしてから、ダンボール箱を畳む。

 ユキも、三人を見ながら作業を淡々と進めるが、指にガムテープがベタベタと剥がれなくなった。

 それを剥がそうとすると、何か髪に痛みを感じるが、何かはわからなかった。

 ようやく、後ろで何かが起きていると感じて、スズたちがユキに振り返る。サクラが心配をしながら、彼女の髪につく、しだれ桜のようなガムテープを慌てながら気にしていた。



「痛そう……ねえ、大丈夫?」



 ガムテープが、気づかぬうちにユキの髪についていたみたいだった。

 さすがに、ユキは、ガムテープを剥がすときは痛そうに少しだけ顔をしかめる。彼女は、抜けた数十本の自分の髪がついたガムテープをじっと見た。

 スズが言う。



「真白さん。平気?」



 ユキは、こくりとうなずいた。だが、いつもより元気がなさそうに顔をうつむかせる。

 サクラが、髪の毛をくくる黒色の髪を縛るゴムを持ってくると、ユキに手渡す。



 ユキは尋ねる。



「それは何に使うの?」



「この髪ゴムで、ユキの髪を結ぼうかなって。さっきみたいになったら痛いかなって思ったんだよねー」



「うん」



 サクラが考案したユキの髪を縛るためのじゃんけん大会がなぜかおこなわれ、四人の中で真っ先にチョキを出して負けたスズが、ユキの髪を縛ることになった。

 スズはいまだにおさげ髪だ。髪はまだ、二束に増えている。

 なぜ、髪をほどかないかというと、ユキに縛ってもらったのに、ほどくのはなんだかもったいない、と、彼女は思っているからだ。それに、他人に自分の髪を縛ってもらう行為が単純に嬉しかったのだ。



 スズは前の家では、なかなかしてほしいことを躊躇ちゅうちょして言い出せなかった。しかし結局、春風はるかぜオウカに、なんでも言いなさい、と言われた。それに、トシヤさんにも似たようなことを言われたことがある。

 そんな母親代わりの、オウカにスズは髪を縛ってもらったことがある。だがそのときは、三つ編みにされた。彼女はそのまま登校した。それから、結局、自分には三つ編みは似合わないと自分自身で思い、それ以来、ひとつにまとめた髪しか縛れなかった経緯がある。

 ちなみに、その日から学校では、一時期話題になったので、クラスメイトの女子からは、やいのやいの口々に、かわいい、と言われて、スズは、顔から火が出そうなくらい、とても恥ずかしい思いをした経験があった。



 とりあえず、スズは、ポニーテールにユキの髪を縛ろうと考えた。

 さらさらな白髪を、さらに、くしで整えながら髪ゴムでくくる。



「このくしは、シノから借りたくしとまた違う形をしてる」



「うん。シノのは、木のくしに花柄にってあってきれいだったね。でも、こっちのくしはきやすいって人気らしいよ」



 その出来上がりを見た二人は、喜んだり、感心したりと、色々な反応をしてくれた。

 サクラは微笑ほほえましそうに褒める。



「二人とも似合ってるじゃん。ユキ、とてもすてきだよ」



 カエデも彼女に応えて、首肯する。



「ええ。そうね」



 そう言ったカエデだったが、ふいっと顔をそらした。

 スズはホッとしていたが、縛り方が上手、や、丁寧、などで、いつの間にか女性陣の注目の的になっていた。

 彼女たちの対応をするのは大変だった。

 ユキも、自分の髪が変化しているので、心なしかなんだか嬉しそうに見える。

 サクラが気を使ってくれたのか、あとは私がやります、と言われるまで、さほど時間はかからなかった。

 それから、サクラはテーブルを布巾で軽く拭き、マグカップを用意をし、それに冷たいお茶を次々と入れる。

 サクラがカエデに尋ねる。



「カエデさんは水でいいの?」



「ええ。いいわ」



 スズは会釈をして目の前に置かれたお茶を、カエデは水をすする。



 彼女たちは、サクラから説明を聞いたが——隣同士に座ったスズとカエデの驚いた声がそろって響く。



『え?』



 ユキは、スズの真正面の席に座っていた。そして、スズとカエデの驚いている二人を無言で見ていた。

 彼女は、会話には参加をしなかった。

 ユキは冷たいお茶をすすり、そのひんやりとした美味しさに少し驚いていたみたいだ。

 彼女は、無言でお茶をすすっている。



「私も住むんですか? 二人と一緒に?」



「なぜ私が? それにユキも、一緒に住まないといけないの?」



 カエデは、わからないという表情をしながら腕を組んでいる。

 スズは少し不安そうな表情だ。

 サクラは、両手で持っていたダンボールをテーブルのそばに下ろして椅子いすに座り、カエデを諭す。



「ねえ、カエデさん。慣れないという気持ちはわかかるんだけど、これもスズちゃんたちとの仲を深めるためなんだよ。

 それに単純に、楽しそうじゃん? ね?」



「いえ、ね? と言われても……でも、私にその必要はないわ。

 私とユキに生活する計画なんて含まれていなかったものね」



 サクラは、少し不安げな顔になる。

 スズは、あれ、と、思う。



「けどさ——」



 カエデはサクラの言葉をさえぎって言う。



「誘いは本当に嬉しかったわ」



「待ってよ。カエデさん」



 サクラの制止も聞かず、カエデは、ガタッと席から立ち上がり、玄関へと向かった。



「スズ、ユキ。カバンありがとう。じゃあ、また」



 玄関まで彼女を追いかけてきたサクラは、やはり不安そうにカエデに問う。



「お願いだから、少し考えてみない?」



「ごめんなさい。サクラ。あなたの言うこともわかるわ。でも……スズは、計画に巻き込めないの」



 彼女が玄関の扉を閉めるまで、スズは彼女を目で追った。



(何か言えばよかったかな……?)



 だが、彼女は、なぜだか言えなかった。



(行っちゃった……)



 サクラは話題を変え、ユキに話しかける。



「じゃあ、ユキは、ここで住むのはどう?」



「平気」



 ここまでは、普段の彼女らしい答えだが、ユキは続けた。

 三人は、少しわからない表情で、ユキを一斉に見る。

 ユキは、なぜ見られているのかわからないが答えた。



「でも、スズもカエデも仲よくなってほしい。私も、みんなと仲よくなりたい」



 サクラが口角を上げて微笑む。



「ユキ……大丈夫だよ。きっと仲よくなるから」



 サクラは、スズにもニコリと微笑む。



「あ……あの、長居してすみません、サクラさん。じゃあ、私はもう行きますね」



「え? ああ……ちょっと、待ってよ。どこ行くの? スズちゃん?」



 スズは、言われた意味がわからなかった。



「え? どこにって、支部に戻りますけど……? だって、久遠さんもいなくなっちゃいましたよね?」



 サクラは、こほん、と、せき払いをした。



「スズちゃんも、ここに一緒に住むんだよ」



 スズはその場で少し固まった。本当に、サクラが何を言っているのかわからなかったからだ。



(え? え? 何それ? 私聞いてないんだけど?)



「……え? それって……決定ですか?」



 サクラは二人を見ながら、話を続ける。



「そういうこと。室長に掛け合ってみたら、スズにもいい経験になるだろ、って、快諾してくれたんだー」



 スズは遠慮がちに、サクラに尋ねる。



「ちなみに、それって、立場が上の方が決定を下したんですか?」



「そうだよー」



 サクラは、のんきにうなずいた。



「手続きの書面では、司令と室長に私から押印をお願いしたからね」



 サクラは、不思議そうな顔になる。



「もしかして、室長から部屋が変更されたって聞いてなかった?」



 スズは呆然としながらうなずく。



「はい……。な、なんでなんですか? 私の帰る家が……」


 スズは口を開けたまま、サクラに顔を向ける。



「ここになるんですか?」



「私は、楽しみだなあ」



 サクラは片手を口に当てて、えへへっ、と微笑む。



「……あの、真白さんも、私たちと一緒に住むんですか?」



 スズはユキをちらりと見る。

 ユキはこちらを見ているが、彼女の考えていることはあまりわからない。

 サクラはのんびりと答える。



「ダメ?」



「ダメじゃないんですけど……でも、部屋はどうするんですか?」



「スズさんとユキは個室ですね。私のことは、あまり気にしないでください」



「わかりました……。あの、お風呂の準番とかはどうするんですか?」



 サクラは、うーん、と少し考え込んだ。



「では、また、じゃんけんはどうかな?」



「あ、はい」



「じゃあ、行くよ? 最初はグー、じゃんけん、ポン!」



 スズはチョキを出して、ユキはパーを出し、サクラはグーを出した。

 その後も、じゃんけんをして、サクラが一番目になった。

 二番目になったスズは、彼女に尋ねる。



「あの、そういえばさっき、久遠さんのことで何かあったんですか?」



「ああ……カエデさんね。カエデさんは、もともと、あまり人付き合いが得意じゃないんだよ」



 スズは、へえ、と、彼女に少し興味を持った言い方をする。

 サクラは神妙な顔をしながら、その言葉を続ける。



「でも、とても優しいんだよ。自分のせいで、周りの人を傷つけたくないんだってさ」



 スズは何も言えないまま、二人を見ることしかできなかった。

 三番目になったユキは、またお茶をすする。彼女は、お茶の少し苦みのある味と冷たい温度を気に入ったみたいだ。

 携帯電話が突如とつじょ鳴ると、サクラは自動扉に向かった。



「じゃあ、私はもう行くね。何か足りないものがあれば携帯で言って。これ、ユキの私物が入っているダンボールだよ」



 ユキはサクラからダンボールを受け取って、こくりとうなずく。



「少し重いので、気をつけてね」



「わかった」



 彼女が二人に、小さく手を振る。



「じゃあ、またあとで。スズちゃん、ユキさん」



 ガチャッと、玄関の扉が閉まる。



「仲よくか……うまくできるのかな?」



 スズは首をひねった。



「カエデは、私のことが嫌い」



(真白さんは、嫌われているんじゃないよ)



 スズは、軽く唇を噛む。



「そうかな? でも、私のほうが苦手じゃないかな?」



「どうして?」



 彼女はユキに急に問われて困ったが、自分の思いのままに答える。



「わからないけど、避けられてる気がする……」



 スズは、あることを脳裏のうりに思い出していた。



 数日前。

 スズは廊下で、黒髪の少女を見かける。



「あの、久遠さん——」



 スズが声をかけようとする前に、カエデは廊下を歩いて去ってしまう。



「行っちゃった……」



 その三日後。

 スズは、ケージの受付にいるサクラに尋ねた。



「あの、サクラさん。久遠さんって……」



 サクラは入室ログインを打っていたパーソナルコンピュータから目を離し、スズに話しかける。



「あ、今はパイロットテスト中だけど……どうしたの? スズちゃん?」



 スズはサクラに話しかけられて、少しピクッとしたが、目をうろつかせる。



「私、なんだか久遠さんに避けられてる気がして……」



「避けられてる感じ?」



 サクラに問われたスズは、後ろの髪をかきながら、遠慮がちに言う。



「……気のせいですかね。すみません」



 サクラは首を少し横に振り、スズのフォローをする。



「ううん。大丈夫。話せるきっかけを探せばいいよ。カエデさん、本好きだから、そこからとかいいかもね」



 スズの回想はユキに謝る気持ちで支配をされ、中断される。

 スズは、気を取り直す。



「あ、ごめん。変なこと言って」



 ユキは、ただひと言つぶやいた。



「……思い出すから」



「何を?」



 ユキは、スズの問いかけを遮るように話題をそらす。



「スズは奥の部屋と左の部屋、どっち?」



「えっと、真白さんは?」



 彼女はそのふたつの部屋を眺めたあと、少し悩んでからぽつりと言った。



「奥」



「わかった、私は左の部屋使うよ。じゃあ、また」



「うん」



 バタンッと、今しがた自室となった扉のドアノブを、スズは閉める。

 そのあとは窓ガラスのカーテンをそっと開ける。

 そのロックが小さな音がしたあと、窓ガラスを横開きに開ける。

 スズはため息をついたあと、ベッドに腹ばいになって倒れ込む。

 彼女は、少し枕に顔をうずめた。そして、無意識に、自分の左手を見つめる。



「とても優しいんですよ……か。じゃあ、なんで避けてるの? 久遠さん……」





 扉からぼんやりと、ノックが薄く聞こえる。

 すでに自分の体温で温まった布団の中で背中を丸めているスズは、もう一度、扉のノック音を聞く。



「……スズ?」



 扉の向こうから、かすかにユキの声がしたときには、スズの頭は、ぼんやりと起きた。



(真白さんの声……?)



 寒気を感じていたスズは、まだ眠いまぶたをこすりながら扉へと向かう。



(いつの間にか、寝てたのかな……?)



 スズがあくびとともに、ドアノブに手をかけて扉を開ける。

 自分よりも少し背の小さいユキが、ちょこんと立っていた。

 スズは驚き、ぱちくりと瞬きをする。



「真白さん。どうしたの?」



「眠ってたの?」



 スズはうなずいた。



「多分、いつの間にかだと思う」



 少し身震いをした彼女の後ろでは、カーテンがひるがえり、やっと気がついた彼女は窓を閉めに行く。



「食事」



「え?」



 スズがキッチンへと向かうと、流し台にフライパンや菜箸などが置いてあり、それは、すでに洗ってあるようで、テーブルの上にあるのは、二人分の食事だった。



「これ、真白さんが作ったの?」



 ユキは、こくっとうなずき、ふせんを貼った料理本をスズに見せる。



 彼女は少し呆気あっけにとられた。



「? ——スズ、食べないの?」



「あ、うん。食べるよ」



 二人はダイニングテーブルに向かい合って椅子に座ると、ほぼ同時に手を合わせる。



「いただきます」



 ユキは無言だったが、両手をきちんと合わせた。

 スズの目の前にあるのは、ご飯に卵焼きだ。

 彼女はそれを少し眺める。



(おいしそう。ていうか、料理作れるんだ……なんか、意外だな……)



 そう思いつつも卵焼きをひと口食べると、温かい温度とふわりと香る匂いが口の中で広がる。



(あ、醤油と、なんか出汁が入ってる?)



「これ、おいしいね」



 ユキはこくりとうなずく。



「よかった」



 スズはうなずき、少し伏せ目になったユキの顔を見るが、それはいつか会ったあの白髪の少女に、どこか似ていた。

 だが、自分自身の心臓が嫌に大きな音を鳴らす。





「謝らなくていい」



 リリムは、スズの頭を撫でようと手を伸ばしてくる。

 スズは息が詰まった。両親が消えたように、私も消えるのだろうか、と、彼女は考えた。

 スズが彼女の手を避けるようにすると、カエデにぶつかった。



「ご、ごめんなさい……」



 頭の中では、疑問が浮かんでいた。





(なんで? なんでまた思い出すんだろ……?)



 スズが箸をおざなりにした手や、彼女の今のつらそうな表情は、ユキには不思議に思えた。

 気になったユキは、スズに尋ねてみた。



「スズ。どうしたの?」



 スズは、顔をうつむかせながら眉と唇の端を少し下げている。



「ううん。なんでもないよ」



 壁時計が、秒針をカチコチと鳴らす。

 スズは黙った彼女をふいに見ると、ユキは顔をうつむかせていた。



「真白さん? どうしたの?」



 ユキはおもむろに、その小さな口を開いた。



「……ソウマに会ったことがあるの」



(それって——お父さんの名前⁉)



「な、なんで⁉」



 スズが勢いよく席から立ち上がると、プラスチック食器の金属音がした。

 その勢いのまま、スズはユキの細い肩を強くつかむ。

 ユキは少し驚きながら、スズを見つめる。



「ねえ、教えて! どこでお父さんと会ったの⁉」



 ユキの話にすがるスズに対し、彼女はひとつ呼吸をすると、話を始めた。



「ソウマに会ったことがあるの。でも……」



 ユキの言葉はそこで詰まった。

 彼女は迷っているらしかった。

 スズは、ユキの肩をつかんでいた、もろ手をそっと離した。

 スズは、今はユキへの心配もあったが、それより、自分の両親の話を聞きたい気持ちを優先してしまった。



「でも……?」



 スズは、ユキに尋ねる。



「でも……助けられなかった」



 そう言ってユキはうつむいた。長く白い髪がはらりとなる。

 スズの喉は、すでに乾いていた。



「どうして……どうして、真白さんが助けられなかったの? なんで?」



 ユキは、うつむいた顔を上げて少し驚く表情をする。だが、スズは、なぜユキが驚くのかわからなかった。

 スズには、そんなユキの表情は初めてで、また頭の中に疑問が次々と浮かんでいた。

 今度のユキは、少し顔をうつむかせて唇を少し噛む。



「〝実験〟」



 一瞬、何も音が聞こえなかった。

 スズは息を飲んで彼女の言葉を繰り返そうとするが、いまだに喉が乾いていて、唾を飲みこんだ。

 また言葉を詰まらせながら、ユキに問いかける。



「実験……なの? なんで、どうしてあのとき、リリムは私を助けたの?」



 再び訪れた沈黙のあと、ユキは続ける。



「あなたを助けたかったから」



「私を? でも…………」



 スズを遮ってユキは続ける。



「私は、存在が消えてもいい。だから」



 それからのユキは、誰かに話すようにつぶやいた。



「ダメ。あなたは消えてはいけない。ごめんなさい」



 ユキの唇は、小さく言葉を紡ぐ。

 スズには、その〝ごめんなさい〟は、どこかはかなげで泣きそうな声に聞こえたような気がした。目の前の少女が〝真白ユキ〟ではなく、知らない彼女に見えた。



「真白さん?」



 ユキは、まっすぐスズを見る。

 少し伏せ気味だったユキの瞳が、スズの瞳に焼き付く。

 彼女の瞳は赤だ。燃える炎のような赤い色、もしくは宝石のような色だ。



「ん? どうしたの?」



 スズの疑問に答える間もなく、ユキはまぶたを閉じた。

 彼女は、グラリと倒れた。時間は数分だったが、スズには数時間に感じられた。

 驚いたスズは、慌てて、ユキの体を抱きとめた。

 彼女は必死に、ユキに呼びかける。



「真白さん? ねえ、真白さん? 誰か……誰か呼ばないと……」



 スズは、ユキを半ば支えながら右手で携帯電話を取り出すと、指令室にかける。

 電話の相手は、スズだと気づいた。



『もしもし。スズちゃん、どうしたの?』



 スズは、サクラの返事がしてから、すぐに伝える。



「サクラさん、真白さんが意識を失って」



『え? どんな風に倒れたの? どこかに頭は打ってない?』



「はい、頭は打ってないです。さっき、グラッて倒れたんですけど、その前に——」



 ユキが少しふらついて左手で頭を抱えながら立ち上がると、スズは安堵する。



「サクラさん。真白さんが目を覚ましました」



 スズの予想では、サクラは喜んでくれると思ったのだが、そのあとの彼女の声は不思議そうだった。



『え? 本当?』



「え?」



 スズは首を少し傾げた。



(何かあったのかな? なんで?)



『でも、一応心配だから、そっちに向かうね』



 スズは胸を撫で下ろす。



「はい。ありがとうございます」



 スズは、携帯電話の通話ボタンを押して切った。



「真白さん、大丈夫?」



 スズは、立ち上がったユキの両肩を支える。

 彼女は、赤い瞳でスズを見た。しかし、彼女には、その瞳が、どこかうつろろに思えた。

 スズの目の前にいる彼女は、自分の体を、じろじろと見慣れないように見回した。

 彼女は、制服の灰色スカートの裾を、太もものところまでたくし上げようとしたが、それは、スズが慌てて止めた。

 彼女は無言で、スズを見る。

 眼前の彼女は、スズに興味を失ったのか、今度は、深紅しんく色のネクタイをもの珍しげに見ている。

 それから、彼女は、ダイニングテーブルやキッチンに首を巡らせている。

 スズは、彼女に声をかけようかと迷っていた。



「…………」



 彼女は冷静な声で、呆気にとられているような、不思議に思っているような少女に、確認をおこなうように声をかける。



「あなた…………スズ?」



 スズはうつむいたまま、ふと、名前をつぶやいた。



「……リリム…………」



 彼女は眼前の光景を、信じられないという風に、その双眸を見開いていた。



(でも、私はあのとき、死んでもよかったんだ…………)



 スズは、少しこぶしを握る。



「〝特別なウーゼの子〟。スズ——あなたは生きて」



 スズは勢いよく、リリムを見る。

 彼女の瞳は、彼女の心を透かしているような、赤い色だった。

 


 周囲に鳴り響く警報。避難を叫ぶ人々の声。

 目の前にある割れたガラスの窓を、自分から覆うようにたたずんでいるリリム。

 リリムが言葉を発すると、轟音ごうおんがスズの耳に響く。



『消えなさい。神の子よ。あなたに原罪を』



 ヒュウッ、と何かが風を切った瞬間、ウーゼに螺旋状のものが腹部から背中にかけて深々と突き刺さる。

 スズは突如として吹き荒れた突風に、両腕で自分の顔を覆っていた。



「何、今の……」



 スズはよろめいたが、近くに座り込んだ。彼女は、つんいになり、トイレに体を引きずるようにっていくと、嘔吐おうとする。

 肩で大きく息をしながら肺に空気を入れようとしたが、スズは激しくせき込む。

 玄関の扉が開くと、サクラが現れた。

 スズは、恐る恐るリリムを見上げる。

 リリムは透明な瞳で、スズを見つめていた。

 サクラは、スズの背中に手を伸ばす。



「スズちゃん! ねえ、大丈夫?」



 だが、スズは顔面蒼白がんめんそうはくで首を振り、ビクッと体を震わせて、荒く呼吸を繰り返す。

 サクラに支えられながらスズが出ていくと、玄関の扉が、バタン、と閉まる。



 リリムは、今しがた浮かんだ思いを消し去るかのように、頭を左右に振る。

 そして、彼女は、ぽつりとつぶやく。



「彼女にとって、過去はとても深く……もう二度と思い出したくないもの」



——まるで、自分に言い聞かせるかのように。

 ポタタッと、こぼれ落ちた液体が床を濡らした。

 リリムがそれに気づき、思考を言葉にする。



「これは……?」



(初めて……いいえ。見たのは、あの実験以来ね)



 しかし、リリムは、顔をうつむかせたまま、誰に言うわけでもなく言葉に出す。



「ソウマとナギサを救えなかった……。だから、これは、私のつぐない」



 リリムは優しい声で話す。彼女は、首を横にそっと振った。



「だから、泣くことで私の心を癒す。そして忘れればいい」



 リリムは、すうっと息を細く吐く。



「私の、誰かの、つらく苦しい思い出が、いつかヒトに話せるようになるまで」



 彼女は、カエデの唇の端を上げる微笑みを、頭の奥に思い浮かべる。

 透明な瞳の裏には、顔をうつむかせたままの女性が映る。



「私は、私たちを一人残らず皆殺しにしたいと、今でも思っているの?」



 彼女の脳裏には、炎がはぜる音と、番人と言う男の声が蘇った。



 番人は、黒紫色の槍の石突きを地面に立てた。



「私はおまえを追い出し、楽園ここを守るという任務をつかさどっている」



 そして、番人は、ユキを見下ろすようにめつけた。



「おまえは、〝原罪げんざいちから〟を持つようになったのだからな」



 ガラン、と甲高い音が鳴る。



「槍……」



 ユキが驚いたように声を発すると、番人は燃え盛る楽園を見た。今まさに、地面に大樹が倒れようとしている。



「おまえ……あの炎と同じ瞳だな」







 スズは、暗闇で、誰かの声を聞いた気がした。

 だが、すぐに、すさまじい警報が周囲に響き渡る。



『緊急事態発生。繰り返す。緊急事態発生』



 少年の声が、大声で周囲に避難を呼びかける。



『総員緊急避難! 繰り返す! 総員緊急避難! ウーゼの近くにいる職員および、研究員はすぐに全員離れろ‼』



 最後の声はかすれて、マイクが壊れそうになったみたいだが、そんなこともお構いなしだった。

 再び警告音が鳴り響くと、警報アナウンスが周囲に響く。



『緊急停止システム発動。繰り返す。緊急停止システム発動』



 スズの目に見える周囲には、割れた窓ガラスの破片が散らばり、赤い体液で、鉄のような匂いが彼女の鼻についた。



(これは、夢……だよね? もしかして、あのときに戻った? ううん。そんなはず、そんなはずは——)



 少しの気持ち悪さと、だんだん浅くなる呼吸。

 ひどい頭痛、生気がない彼女のうつろな目。

 ぐるぐると、彼女の頭を支配をするようなめまい。



「ねえ、あなた……どうかしたの?」



 スズは、聞こえてきた声に思い当たる。



(この声、リリム?)



「リリム? そうなの?」



 スズはうつむいた顔を上げ、一人の少女を見上げる。



「いいえ。違うわ」



 リリムは冷静な声で、彼女の問いをきっぱりと否定をする。

 スズは、わからなくなった。



「え?」



(リリムじゃないとしたら、じゃあ……一体、誰?)



 そのリリムの声は、彼女が聞き覚えのある静かな声になり、彼女はスズに手を差し伸べる。



「行こう。スズ」



(え? 真白さん……?)



「真白、さん? どうして……?」



「どうして? 私は私。私があなたを、絶望へと導いてあげる」



(——絶望? なんで急に、そんなことを言うの?)



「え……真白さんが、何を言ってるのかわからないよ?」



「では、あなたにとって、私の存在は何?」



(存在……?)



 スズは手で、ごしごしと目を拭うと立ち上がり、彼女の顔をまっすぐ見た。



「私にとって、真白さんは大切な人なんだ」



——だが、彼女の返事は思いもよらぬものだった。



「スズ。私が、あなたの願いを叶えてあげる」



「え? 願い? 何それ。真白さん、私は——」



 スズは、彼女がまるで、愛おしそうに自分の顔に手を添えた——と思ったときには、するりと、彼女の左手が自分の首に回される。



(な——)



「何するの? まし——」



 驚きながら、ユキに反論しようとしたスズは、長いまつげから上目遣いで自分を見つめる赤い瞳にかれる。

 思わず、まぶたを強く閉じた。



 スズがまどろんでいた夢は、そこで途切れた。



(⁉)



 彼女は勢いよく体をベッドから起こす。そして、胸の辺りを自分でつかむと、制服のワイシャツがシワになる。



(び、びっくりした……!)



「ここは……」



 ソファには書類が山積みになっていた。

 棚には、薬瓶とおぼしきものがガラスの奥に陳列していた。



「医務室?」



 この場所は、ノヴァ日本支部内部にある医務室だ。そういえば、誰かに支えられてここまできた気がスズにはした。



「サクラさん、いないのか——」



(そういえば……)



 窓は、船の帆のようにカーテンがはためいており、窓ガラスが見え隠れしている。

 それを見たスズは、少し荒い呼吸をするが、呼吸を整えてから膝を抱えた。

 彼女は途端に、この場所から逃げたくなった。

 いつも自分は、嫌なことを思ってばかりだから。

 スズは、ベッドから立ち上がると、少しふらつきつつも扉に向かうが、立ち止まる。



「あ……久遠さん?」



 彼女の顔は見えなかったが、寝息は聞こえているので、とりあえず、スズはホッとする。

 彼女は、カエデの近くにあったチェストに書き置きをしておく。

 ソファに置いてあったカルテを見たが、ふいと顔をそむけた。

 シュコンッと、自動扉が閉まる。

 あとは、せみの声しか聞こえなかった。





 スズは廊下を歩いたが、突然、ピタリと止まった。

 廊下の床に、彼女の暗い影が落とされて映った。

 スズは、ふとその場に座り込むと、膝を抱えてため息をつく。



(まだ私が知らない真白さんや、久遠さんや、みんながいる……まだ私には、知らないことがあるんだな……)



 スズは、頭に何かを置かれると上を見る。



「うわっ⁉ な、何——冷たっ」



 スズは、支部の制服らしきものを着ている青年に、ペットボトルの水を頭の上に一瞬だけ置かれた。



「何、悩んでんだ、スズ? ほら。これ飲めよ」



 目の前の青年は、少し誇らしげな顔をすると、今度こそ、スズにペットボトルを差し出す。



「ハルト? あ、ありがとう」



 スズの隣にハルトは座り、スズは目で追った。



「あのさ、疲れてる?」



 スズが問いかけると、ハルトは驚いた顔をし、思わず頬をふっと緩ませた。



「え? どうしたの? ハルト?」



 スズに尋ねられたハルトは、ひとつせき払いをする。



「大丈夫だ。ただちょっと……疲れただけだから」



 そう言い終えたハルトは、左斜め上を見た。そして、あまり動じない彼がうんざりするほど緊張した、ノヴァ本部での聴取を、彼自身、脳裏によみがえらせる。

 ハルトはアオとともにノヴァ本部に向かい、結局、グーテンに厳重注意されただけだった。

 彼自身、よくもまあ、あの議長に口上だけの注意で済んだものだ、と考えた。最悪の場合、国連軍本部会議直々に、ハルトの解職を書状で伝達されると思っていたからだ。

 そんな室長の思案もよそに、スズは自分より三歳年上のハルトを眺める。



(サクラさんも、確か、指令室で働いてたよね?)



 ハルトは指令室室長と聞かされていたので、初めて彼の口から聞いたときは、高校生の彼がすでに職に就いていると知って、スズはとても驚いた。

 スズは一人で感心するように、ぼんやりと、黒スーツ姿のハルトを見ていた。しかし、年若い彼の目の下には、クマが浮かんでる。

 ハルトは、スズとの会話の内容を探るように、顎に左手を当てていた。



「あ、スズ。こないだのエンジェル、倒せてよかったな」



「うん……ハルトも知ってるんだね」



 スズは、ハルトが、この間のエンジェルを知っていることに、少しも疑問を思わなかった。

 すぐに、固定電話で話したことをふっと思い出したのと同時に、サクラが言っていたのを思い出した。



「あ、ハルトが決定案を書いたの? そうだよね?」



 スズが遅まきながら思い当たると、彼女の持っていたペットボトルが、鈍い音をたてて床に落ちた。スズから、手の力が抜けたからだ。



「もう少し簡単なのにしてよ。なんであんな難しいのにしたの?」



「いや、二人ならできると思ったんだよ」



 ハルトは、ペットボトルを拾う。



「ほら」



 スズは残念な顔をしたあと、ぶすくれた。



(できると思って? ええ、難しかったのに……)



「ありがとう。でも、なんとかだけどね……」



「もしかして、すねてるのか?」



「別に」



 ハルトから顔をそむけたスズは、ペットボトルのキャップを開けて水を飲む。



「あ! ていうか、私に、サクラさんたちと同居するって言うの、忘れてたでしょ?」



 ハルトは思い当たった顔をすると、黒髪をかいた。



「わ、悪い。忘れてた。というか、スズ」



 ハルトは、肩を落とした。



「出会って数日の女子のベッドを間違えたなら、しょうがないけどさ。それでもさすがに、寝たりはしないからな?」



 げほげほとせき込んだスズは、また大声を出しそうになった口を閉じ、驚いた顔をハルトに素早く向ける。

 スズは半分、聞きたくない、と思っていたが、震えた声で尋ねた。



「それ、なんで、なんでハルトが知ってるの?」



 一瞬、ハルトは、別の方向を見ると驚くが、すぐに、スズのほうに顔を向き直す。

 スズは小首を傾げて、彼に問う。



「ハルト?」



「ああ、ごめん。で?」



 途端に、彼女は、機嫌が悪そうな顔をした。



「さっき、どこ見てたの?」



「いや、なんでもない」



「あ、あのさ。さっき、夢の中で、ハルトが出てきたような気がするんだ」



「え? ああ……お、おう……」



 ハルトは驚いたように首肯すると、恥ずかしそうに襟足をかき、歯切れが悪くさせて先を進める。



「それで? その……夢の中の俺は何をしてたんだ?」



「忘れた。けど、なんか叫んでたよ。多分、あれは実験のときだと思う……」



 スズは語尾の声をいつもより小さくさせて、顔をうなだれた。

 ハルトは無言で、彼女の背を撫でる。今度は、スズがそれに驚いたが、彼にされるがままになっていた。

 彼女はか細い声で、彼にお礼を言う。



「ありがとう……」



 急に左手を離したハルトは、口に手を添えて、誰もいないはずの曲がり角に呼びかける。



「ユキ。嫌われてないって。だから、早く来いよ」



「え?」



 スズが見ると、ユキが壁に手を添えながら立っていた。



「い……いつから?」



 ユキは少し驚いているような、恥ずかしそうな表情をする。



「……スズが私のベッドを間違えたって、ハルトが言ってたところから聞こえてた」



(つまり、つまり、さっきのことを真白さんに全部聞かれてたってこと⁉)



「……ねえ、ハルト?」



「ん?」



 スズは、ハルトにあきれたように大声を出す。



「ん?  じゃないよ! なんで言ってくれなかったのさ? 意地悪のつもり⁉」



「いや……言ったら、面倒くさいことになるだろうな、って、思ったから……」



 スズは、ハルトの肩を激しく揺さぶる。



「そういうことは、先に言ってよ⁉」



 ハルトは両手を胸の前に出して、落ち着け、という姿勢をとっている。

 彼の右手首に着けられた、銀ベルトの腕時計は高級そうだった。それは、白いアラビア数字が円上に規則正しく並ぶ、青い文字盤だった。



「わかったわかった。悪かったって。もうしない」



 スズは、ハルトの肩を揺さぶるのをやめ、訝しげに首をかしげる。



「ホントに?」



 ハルトは、ああ、と言った。



「その時計、高そうだね」



 スズは唇を尖らせたまま、ハルトの高級そうな腕時計に目をやる。



「ん? ああ、これな。もらったんだ。プレゼント」



 だが彼はどこか寂しそうに言ったあと、その高級そうな時計に向かって悪態をついた。



「——たく、あの人、ホントに世話のやける人だったな……。まあ、前の室長だよ」



 それから、彼は、近づいてきたユキを見る。

 ユキは状況が落ち着いたと判断したのか、スズの隣に座る。



「スズは、この間から私のことを避けてるから、嫌いなのかなって思った」



 ユキが体育座りをすると、少し背中が丸まり、その両手は膝の少し下で組まれる。



「え? 嫌い?」



 スズは、ユキの不思議そうな表情を見る。



「違う?」



「うん。違うよ? それに、なんで、私が真白さんを避けるの?」



「スズは、ここ数日どこに行ってたの?」



 スズは、髪の後ろをか(か)きながら答える。



「5号機なんだ。でも、あのあと、こっぴどく怒られちゃって……」



 ユキがまた尋ねる。



「あのあと?」



 ユキは、ウーゼに搭乗している回数を把握していないスズに対して、ウーゼ開発研究主任代理(はやしサクラ)が搭乗する回数が多すぎると叱りつけた、と話を聞いた。

 サクラは現在、『ウーゼ開発研究主任』であるサクラと同じで、共に研究員を志望していた。そして、彼女は、ウーゼの開発や研究を中心に行う主任の代理になった。

 ちなみに、林サクラは、特技がある。それが右記に挙げた、ウーゼの知識量やその応用だ。それらなら、彼女の右に出る者はいないとされているほど、彼女の知識は奥深い。

 もし、ウーゼ検定というものがあるならば、彼女は世界中の研究員とも張り合えるかもしれないのだ。



 スズは髪をかきながら、視線をうろつかせている。彼女自身、叱られる雰囲気も気まずさも慣れないのだ。



「ごめん……」



 ハルトが怪訝けげんそうな顔をした。



 スズは髪を搔く手をとめ、彼に尋ねた。



「え……どうしたの?」



 ハルトは、左手を顎に当てる。



「そういや、報告書に記載されている5号機の搭乗回数がやけに多いな、なんて思ってたんだが……そうだったのか」



「あ……ごめん」



「いや。スズでよかったよ」



 だが、ハルトは少し不思議そうな顔になる。



「でも、十三回なんて、よっぽどだよな」



「え? 十三回?」



「本当に知らないのか?」



 スズは、不思議そうな表情をしながらだがうなずく。

 ハルトは少し髪をガリガリとかいた。



「搭乗回数」



 それから、スズに指をさして彼の顔を見た。

 ハルトにつられて自分自身を指さしたスズは、気まずさからギクリとなったが、また首を触る。

 スズは、ユキをちらりと見てから目をそらす。



(やっぱり、リリムと似てるけど……でも、真白さんは、どこかリリムとは違うな……)



 スズは、前につぶやいた彼女を少し思い出していた。



「スズは温かい。私の心も暖かい」



(私は、真白さんやみんなのことを知らないって気づいたんだ。久遠さんも……)



「ねえ、久遠さん、大丈夫なのかな?」



「大丈夫って?」



「あ……私がいるとすぐ部屋出ていっちゃうし、ほら、この間だって、具合悪そうだったし……」



「スズ。それ、気にしすぎじゃないか? なんつーか、人の気持ちを優先しすぎてるよな」



 スズは一瞬驚いたが、膝を抱えて顔をそむける。



「それもいいけど……でもそれって、いいことなんてないからな?」



(いいこと? 何が?)



「なんで?」



「疲れないか? それ」



「え……?」



 ハルトの顔は、いつもより真剣だった。彼は、眉をひそめているわけでもなく、ただまっすぐに、スズを見ていた。



「ずっと引きずってるのは、疲れないか?」



「……考えちゃうんだ。どうしても」



「そっか」



(……)



「真白さん、ハルト。久遠さんって、どんな人なの?」



「エンジェル嫌いな、努力家の2号機パイロット」



「カエデは、どこか心が暗くなる表情をしてるときがある。だから私は、カエデの力になりたい」



(やっぱり、私は、久遠さんのことを知りたい)



「ちょっと、行ってくる」



 ハルトは立ち上がったスズを見る。



「ああ、わかった」



「うん。ありがとう、二人とも」





 スズがどこかへ向かったあと、ユキが口火を切った。



「どうしてスズは、私のことを、嬉しい、なんて言うの?」



「そんなこと聞いてどうするんだよ……多分、そう思ったからとか?」



 ハルトは立ち上がったが、また、ユキの近くに座る。



「ユキは、あいつのことどう思ってるんだ?」



「……会いたいけど、会いたくなかった。スズに謝りたいの」



「それ、謝ればいいんじゃないか?」



 ユキは、ふるふると首を振る。



「スズには言えない……まだ、実験のことを思い出すって、サクラが言ってた」



 ユキの呼び方に、ハルトは、あっ、となる。

 彼は、少し顔をうつむかせる。



「なあ、ユキ。苦しかったら言えばいいのに、って、思うことないか?

 なんでみんな、何も言わないんだ? スズも、ユキも、カエデも……」



「自分のつらい思いを心の奥底に閉じ込めてしまえば、楽だから」



 ユキはハルトに顔を向けた。

 ハルトの顔は見えなかったが、彼女の心はどこか暗くなった。



「さっき、言ってたこと——それは、あなたもなの?」



 ハルトは、眉をひそめて言う。



「なんでそこで、俺が出てくるんだよ?」



「さっきスズに話しかけたのは、心が暗くて苦しくなったから? スズが過去に深い傷を負って、それを思い出したから?」



 ユキに問われたハルトは、驚いたあとで再びうつむいた。



「俺は、あのとき、助けに行っていれば死ななかったんじゃないか、って何度も考えた」



 ハルトは、拳をぎゅっと握って床に押しつける。



「ごめんなさい……私のせいでみんなが……」



 ハルトはユキの言葉を遮る。



「やめろ」



 ハルトは深いため息をついてから、無言でユキの頭を撫でる。

 ユキは少しの間従っていたが、やがて、ぽつりとつぶやいた。



「温かい……あの二人も、よくこうして私の頭を撫でてくれた」



「本当に、優しい人たちだったな」



 ユキはハルトの頭を撫でる。

 ハルトは眉をムッとさせたが、ユキは撫で続ける。

 やがてハルトは、少し眉を下げ、いつもの不満そうな表情ではない顔を覗かせた。



「なんで、俺にもカエデにも優しいんだよ?」



 ユキは少し考え、答えた。



つぐないだから」



 ハルトは、少し唇を噛んだ。



「……ユキ、知ってるのか? 人類再生計画のこと」



 灰色の瞳は、燃えるような赤い瞳を見据えた。



「じゃあ、俺は行くから」



 それから少しもしないうちに、灰色の瞳を持つ青年は、少女に思い出したように伝える。



「あ、アオは釘刺されたから、当分うろちょろと部下たちに嗅ぎまわったりしないだろ。俺ら怒られたんだよ。議長に」



「彼、とても怒っていなかった?」



「ああ……いや、とてもじゃないが、ユキに聴取したって議長から言われたときは、わりと怒っていたな」



「もう彼は、その施設を破壊できる力を持っていないということ?」



 その施設というのは、当然、イギリスに存在するノヴァ本部のことである。

 ユキがその意味を含めて尋ねると、ハルトは首を横に振る。



「それはわからない。力は抑えてるって言ってるけど……おまえは?」



 ユキもハルトと同じく、首を横に振るが、彼女の胸までの長髪がサラサラと流れる。

 それは、内廊下の天井の電光に照らされて、白い色をさらに際立たせていた。



「わからない。

 でも、私は大切な存在がなじられたり、暴力を振るわれたりしていると、とても嫌な気分になるから。

 そのときは使ってしまうかも」



 ユキはふいにハルトに向かって、顔を上げた。少女の可愛らしい顔には、それに見合うほどの美しい白髪はくはつが備わっている。

 しかし、彼女の口から出た言葉は、少女のものとは思えない、あまりにむごたらしく、そして、重々しいものだった。



「ねえ。私はこれからも人間を殺し、この手をさらに血にまみれさせるの?

 そのとき、途方もない人々が犠牲になる。

 それは、犠牲という文字がいけにえで形作られているから」



 犠牲という文字は、牛偏(  へん)、つまり、祭儀さいぎで使用されるいけにえだ。

 ハルトは苦々しく唇を引きしめた。

 これはまだうわさだが、部下のサクラが、汐波司令からの直接命令で何かを行っているらしい、と、彼は聞いていた。



 彼にうわさを持ち込んだ人物は、もちろん一色アオだ。



 ハルトは、あんなに議長に叱られたのに、りずにまだやってるのか、と、口をへの字にわずかに曲げた。

 少年はどこで買ったのか、カップアイスをふたつ持ってハルトの前に現れた。だが、ありがたくアイスを受け取ったハルトが、うわさに驚いたのは、そのあとだった。



 約五ヶ月後の十二月、おそらくだが、ウーゼのテストが行われるらしい。だか、しかし、それはこの日本支部では通常のことであった。



 重要なのはそのあとーーそのウーゼのテストが『全機体交換テスト』であり、さらに、新装備である『パイロット補助装置(仮)』が、そのとき、ウーゼのコックピットに組み込まれるというのだ。



 まだ、ハルトの耳に入ったばかりで、『パイロット補助装置(仮)』がどういうものかは、室長である彼も知らない。

 まだ疑惑ではあるが、これを知っているのは、きっと、司令の汐波アカネとウーゼ主任の林サクラの二名だけだ。

 これで、パイロットの予備は補充されたが、一抹の不安は、どうしても拭いきれないということらしい。

 ウーゼの基礎装備である長方形型のNコードのように、安定した長期の稼働を望められればいいのだが、このうわさの元凶、『パイロット補助装置(仮)』はそうもいかなかそうだ。



 医務室の自動扉が開いた。

 スズが、その方向を見ると、スーツ姿の青年が立っていた。彼は、カエデとスズに向かってくる。

 彼は、スズの隣にパイプ椅子を運ぶと座った。右手首に、銀ベルトの腕時計を着けている。彼が着けている腕時計は、白いアラビア数字に、青い文字盤の高級そうなものだ。

 ハルトだ。

 その彼の声は静かで、穏やかだった。



「まだカエデは寝てるのか? スズ」



 彼女はハルトを見て、うなずく。



「あ、うん」



「そっか」



 スズはカエデを見て、首肯する。



「うん」



 ハルトはベッド脇の茶色いチェストに、何かを置いた。

 それは文庫本だ。二冊ある。表紙がB5サイズでそろっている。しかし、その横幅は、分厚いものから薄いものまであった。



「ハルト。本好きなの?」



「まあ、俺も読むな」



 彼は、腕時計の銀ベルトを調整していた。彼の手首には、ベルトの締め具合がきつかったのだろうか。



「けど、こういうの、もっぱら好きなのはカエデだよ。置いておくと、いつの間にか、読まれて返ってくる。スズは? 本好きなのか?」



「うん。好きだよ」



「最近は、どんな本を読んだんだ? ミステリー? それか、純文学? ホラーなのか?」



「ホラーなんて、好きじゃないよ。ハルト。怖いもの」



 ハルトは吹き出したが、いまだにカエデが起きないので、笑いをこらえていた。



「俺もだよ。怖いよな」



 スズは図書室にいるように静かにしながら、もろ手を口に当てて驚いた。



「ええー? そうなの? 怖いものないかと思ってた」



「怖いものか。急に大きな音とか、後ろからお化けがでてくるとかか? ほかに怖いって言えば……」



 彼は考えるように、顎に左手を当てた。



「戦争はしたくないな」



 スズは、彼に同意するように首肯した。



「じゃあ、させないようにすればいいんじゃない? これって、すごく難しそうだけど」



「簡単だ。今から誰かが俺たちを洗脳させるか、人間が滅ぶかだよ」



「それ、できるの?」



 スズが苦笑して聞くと、ハルトは顔をそらした。



「できたら、やっぱり簡単に、俺たちが滅ぶよ。まあ、そんなこと絶対にさせないけどな」



「いいね、それ。ハルトっぽい」



 スズは笑ったが、独り言のようにぽつりとつぶやいた。



「私にもできるのかな?」



 ハルトは真顔になって、先程とは打って変わって真剣な口調になる。



「それをする覚悟さえあればな」



 スズはハルトの真剣さに圧倒されたが、唾を飲み込んでもろ手の拳を握る。



「じゃあ、私、頑張るよ。私たちが、みんなが少しでも、よりよく生きられるように、この世界をよくしたいな」



「よりよく?」



 ハルトが問うと、スズは、うん、と、首肯する。



「よりよくなんて、自分の感情で決まるんだから、そんなのいちいちスズが頑張っていたら、疲れるぞ?」



 それを聞いたスズは、少しだけ口を尖らせた。



「ハルトって、疲れるってばっかり言うね」



「いや、そればっかりじゃないからな? 自分の感情は自分で決めたいよ」



「ハルトって、冷静じゃないの?」



「さあ、そのときになってみないとわからないな。ただ……俺の歳の割には、色々なことがありすぎた。たとえば、この歳で仕事してること。あとは、見送った人がいること」



 ハルトは、左斜め下を見た。それから、彼は、カエデの横顔を見る。

 彼女は疲れているのか、よく眠っていた。それに、カエデの手には、あざらしきものが薄くできていた。どこかに、手をぶつけたのだろうか。



「それに……カエデは今、眠ってるけど、やたらと苦労が多いんだ。誰かが隣にいてやらないと、精神的にダメになる」



 そう言った彼は、灰色の目の下に少し濃いクマができていた。乾燥した彼の唇は、少しひび割れているらしい。

 スズは奥歯を噛んだ。



「ハルト。夜、眠れてる?」



「いや、最近ずっと眠れていないな」



 スズは思わず、眉根をひそめた。



「げ……ちゃんと寝てよ」



「寝てるよ。一応はな。だが、すぐに目が開くんだよ」



「なんか、お医者さんから、薬もらってそうなんだけど……」



 ハルトは灰色の瞳を、丸くさせた。



「なんでわかるんだよ? 女の勘ってやつか?」



 スズはまた、もろ手を唇に当てた。



「うっそ? ほんとに?」



「薬を処方されてもされなくても、眠れないからな。それに、仕事をしていると気が紛れる。読書しても、数学のこと考えてもだ。なんでも物事を考えていたほうがいい」



「その本、読んだ?」



 スズは、ハルトが置いた、茶色いチェストの二冊の文庫本に指さした。

 ハルトは、んー、と、短い襟足をかく。



「どうだったかな? 読んでいないかもしれないな」



 それから、彼はまた、カエデの眠っている顔を眺めた。

 そして、声をひそめた。



「よく寝てるな」



「きっと疲れてるんだよ。ハルトも寝たら? 隣のベッドで」



「わかってるよ。ありがとな、スズ」



 ハルトはそう言うと、おとなしくカエデの隣のベッドで仰向けになりながら、読書を始めた。







 こんこんと眠っていたカエデは、薄目を開ける。すると、驚いたようスズを見てから、彼女とつながれている右手を見た。



「……ずっと、ここに?」



 彼女は首を横に振る。



「ううん」



 そして、スズは、穏やかに話を切り出す。



「ずっとじゃないよ。目が覚めてよかったね、久遠さん」



「……そう」



 それから、スズはカエデの向こうのベッドを見た。

 ベッドの上で起き上がったカエデも、彼女につられて、そのベッドを見る。

 カエデが起き上がったとき、スズは彼女の手助けをした。



 二人はそろって、ふっ、と、微笑んだ。



 ハルトが、カエデの隣のベッドで、いつの間にか読書していた本を胸に落としていたからだ。そのまま、彼は眠りに落ちたらしい。

 利き手側の左腕を、枕の下の支えにして、その右腕は、文庫本の上に添えられていた。

 その顔は、まるで少年のような顔であり、それは彼にとって、年相応の顔とも言えた。



 カエデはぐっすりと眠っている彼を見て、スズに向ける顔とはまた違う、安堵するような顔をしていた。



 実際、カエデは安堵していたのだ。カエデはハルトが、やっと眠れたのね、と、考えていたからだ。



 スズだけではない。

 ハルトもカエデもユキも、誰もが心のどこかで傷をもっているのだ。



 それは、まるで、底が見えない深淵のように。



 スズは頬をかいた。



「あのさ……久遠さんって、本が好きなの?」



 なぜか恥ずかしそうにする彼女からの質問に、カエデは瞬きをした。

 彼女は、そうしたかと思えば、恥ずかしそうに小さな声で答えた。



「それも好きよ。でも、私はプディングも好きなの」



 スズはきょとんとする。



「何、それ?」



「プリンよ。でも、元々、甘くなかったそうなの」



「え? そうなの? へえ。詳しいんだね」



 カエデは、ふいと顔をそむけた。



「ええ……まあ」



「もう一個聞いていい?」



 カエデは首肯する。



「ええ。何?」



 スズは小首を傾げた。



「なんで、顔そらしてるの?」



 カエデはまた驚いたような表情をするが、今度は、頬を少し赤く染める。

 スズは、またきょとんとした。



「え? あの、私、何か変なこと言ったかな……?」



「私、褒められた経験があまりなくて……だから、素っ気なくなるのよ」



 スズはふっと頬を緩めるが、カエデは恥ずかしそうだった。



「あの……笑うのやめてくれない?」



「え? 笑ってないよ。久遠さん」



 スズは、ふふっ、と口角を緩め、曲げた人差し指の節を唇に当てた。



「笑ってるじゃない」



「ごめんごめん」



「ハルト。あなたもよ」



 カエデにとがめられたハルトは、右足をベッドの上で立てて、笑いをこらえていた。



「悪い。カエデ……」



 ついに彼は耐えきれず、



「はははっ……」



と、胸の上に文庫本を乗せたまま、こめかみを左手で押さえて、双眸を隠している。



「いや……ホントに悪い。黙っておく」



「あ、そうそう。ねえ、久遠さん。私の搭乗回数知ってる?」



 カエデは、顎に手を当てる。



「確か、五、六回かしら」



 スズは首を振る。

 ハルトはベッドの上で起き上がると、否定した。



「いや。十三回だ」



 カエデは面白くて、笑うように言った。

 カエデがスズたちパイロットと2号機に搭乗する以前、別なウーゼに搭乗していた。そのときのパイロットが自ら志願して搭乗した回数でも、十数回の回数は聞いたことがなかった。



「ええ? そうなの?」



 スズは気まずそうにうなずく。



「サクラさんにすごく叱られちゃったよ」



 彼女は手をもじもじさせる。



「サクラを怒らせたの? あなた」



「いや、そうなんだけど……。ていうか、久遠さん、嬉しそうじゃない?」



 カエデは驚いたあとで、少し左下に視線をそらす。



「そう、よね……あなたは、嬉しくないわよね」



「うん……」



 窓の外では、ヒグラシが鳴いていて、もう夕方だと感じさせている。

 ハルトはその灰色の瞳に、だいだい色を焼き付けた。



「ああ、もう夕方か……」



 スズとハルトの二人は、窓を見た。

 だが、スズは、またふいっと、それから顔をそらす。

 それを見たハルトは、彼女に問う。



「平気か?」



「え。あ……」



 スズは、目線を手に移したあと、首を振る。



「ううん、平気じゃないんだ」



「そう……」



 カエデは、掛け布団に視線をやった。



「そうだよな」



「私もよ。スズ」



 スズは、え、と意外そうに顔を上げて、独白のように話すカエデを見る。



「いつも、心にガラスが割れる音がしてるの」



「どうして?」



 カエデはまた斜め左下を向く。



「どうしてって……わからないの」


 彼女は、両手の指を組んで遊ばせる。



「でも、あの音……プロテクトに似てるわ。ほら、ピシシッ、って」



 カエデは、凛とした声で答える。



「易々(やすやす)と、他人に土足で踏み入られるみたいに」



 スズはその言葉を聞き、胸が少し痛くなった。

 ハルトも、心痛な顔をしている。



「俺、指令室に戻ってるよ」



 カエデはちょっと悩むように言葉を切ったが、その場の雰囲気にただよう悲痛な声で言う。



「……ハルト、待って」



「悪い。待たない」



 カエデは、自分の言葉を否定したハルトを追って、医務室を出て行った。

 スズはもどかしいような気持ちのまま、パイプ椅子からじっと動けずにいた。



 数分後。

 カエデは戻ってきた。

 先程よりも、苦しそうな顔をしている。

 スズはもどかしい気持ちのまま、新たに思った。



(ハルトと何かあったのかな?)



 カエデは先程の悲痛そうな声のまま、スズに問う。



「私、あなたが主任に叱られたって言ったとき、変だったわよね?」



 ふいに、カエデから問いかけられたスズはもろ手を振った。



「そんなことないよ」



 カエデは、厚さが薄い唇を軽く噛んだ。



「私の記憶にある主任の顔は、心配している顔ぐらいしか見たがことないから……自分でも変だと思うけれど、そんな風に、あなたを叱ってくれる彼女が嬉しいのよ」



「何か、あったの?」



 スズは、顔をうつむかせる。



「いや、言いたくないならいいんだけど……」



 スズは、ますます言葉に到底出せないもどかしさを心の中で積み上げていた。

 カエデは首を振る。



「……ごめんなさい」



 少しの沈黙のあと、彼女は続けた。



「いつか話せるようになったら……話しても?」



「うん。いいよ」



「いつかあなたの話も、ユキの話も、聞いてみたいわね」



 カエデは、穏やかな微笑みを口に浮かべる。

 スズは少し放心した。そして、あることに思い当たると、彼女は顔をうつむかせて、床に目を伏せた。



「あのとき——」



 それから、唇を少し強く噛みしめ、拳を強く握った。



「私は、何もできなかったんだ」



 彼女のそばにいるカエデは、両手を伸ばして握った拳を包む。



「……久遠さん?」



(え、何? どうしたんだろう?)



「私は、あなたのご両親を助けられなかったの」



「え?」



(助けられなかったって、また……)



「真白さんは、お父さんのこと知ってた。久遠さんも?」



 カエデは、スズの肩に手を置いた。

 その瞳は決意をしたように、固く揺らがなかった。



「スズ。私があなたを護るわ。たとえ、私の存在が消えても」



 スズは、彼女自身が自分に言い聞かせるような、決意した言葉と表情が、今のカエデを物語っている。



(消えてもって……久遠さん、どうして?)



「久遠さん、なんで私を……」



 スズの喉に、なまりのような重いものが詰まった。



(助けようとするの?)



「それは、私があなたを助けたいからよ」



 スズの胸に、カエデの言葉が重くのしかかってきた。

 まるで、彼女が自分の前から今すぐにでも消えようとしているようだった。

 頭に嫌な予感を感じたまま、彼女は唾を飲む。その言葉を意識しようとすると、なぜか胸の奥が少し痛くなった。



(……久遠さんが?)



 スズは、カエデに諦めることを促すようにつぶやく。



「私のこと、助けなくていいよ」



 カエデはスズの言葉を遮って、はっきりと否定するかのように言う。



「いいえ。私は、あなたを、ユキを——」



 突然、カエデの携帯電話が鳴ると、彼女は電話の通話ボタンを押した。



「はい。はい。わかりました」



 カエデは電話の相手に言い、再び、通話ボタンを切る。



「どうしたの?」



「定期検査よ」



「じゃあ、私は、先に部屋に戻るね」



 カエデは彼女を止める。



「待って。スズ。来てくれてありがとう」



「……うん」





 医務室への帰路に着くスズは、途中で合流したユキとなにげない会話を、時々していた。聞けば彼女は、医務室に寄る途中だと言う。スズが聞くところによると、彼女もカエデと同じく、定期検査の予定があるらしい。

 しかし、スズは、彼女の覚悟のような言葉を思い出し、ユキを横目で見て尋ねた。



「どうして、真白さんは、ウーゼに乗ってるの?」



 ユキは一瞬考え、答える。



つぐないだから」



「そうなんだ……」



「でも、あなたたちと出会って、嬉しいことが増えたの」



「私はあのとき、真白さんにも助けられたよ。ずっと真白さんに、ありがとう、って、伝えたかったんだ」



 ユキは少し驚くと、不思議そうにスズに尋ねる。

「今、伝えてるけど?」



 スズは気がつくと、はにかんだ。



「そうだね」



 また少し沈黙が訪れる。

 スズは話す内容を探したが、ふと口に出す。



「ありがとう。話、聞いてくれて」



 彼女は、ううん、と、首を横に振る。



「スズの話を聞くのは好きだから」



 スズは少し驚き、ワンテンポ遅れてうなずきながら、ユキに返事をする。



「あ……うん」



(好き、か……。初めて言われたな。そんなこと……)



「真白さん。戦争は嫌い?」



「私? 戦争を体験することが嫌いということ? それとも……戦争を起こす人間が、スズは嫌いなの?」



「両方。でも、戦争を起こす人はきっと何か理由があったと思うんだ。たとえ、戦争を起こしたとしても」



 ユキは自らの胸の前に、にぎったこぶしを置いた。



「本当に? スズ。それはあなたの心からの思いなの?」



「……本当に、最初から悪い人もいるかもしれない。でも、優しい人が悪事を起こしたら、それは何か理由があると思うんだ」



 スズはぐっと、拳を握った。



「私は、優しい人たちから逃げた。そう、逃げたんだよ。あの人たちの優しさが怖くて……逃げたんだ」



「スズ。私にはたくさん秘密がある。

 そのひとつは、昔、あなたを助けたリリムは、私。

 私は、ナギサたちを殺したの。つまり、私は殺されていい存在」



 スズは息を吸って、吐いた。それから、彼女は、こめかみに片手を置いた。彼女は長く息を吐く。



「私、真白さんを恨みたくない……誰かを恨んだまま、生きていたくないよ」



 医務室の自動扉が開くと、サクラは、パーソナルコンピュータから目を離した。



「スズちゃん。ユキと一緒に来たの?」



「あ、はい。途中で一緒になりました」



「そうなんだ。あ、そうそう。カエデさん、体調がよくなったよ。二人のおかげだね。ありがとうございます」



 サクラは普通礼をすると、スズは困っていたがとりあえず会釈をした。



「あ、いえ……よかったです」



「んふふ。もし、ユキを待つなら、近くに自販機で何か買ったらどうかな? この検査、十五分くらい時間がかかるんだよね」



(私は大丈夫だけど、真白さんはどうなのかな? 私は部屋に戻ろうかな)



「あ、いえ。でも、途中までって約束で。それに、部屋に戻らないと」



「わかったよ。それと、ユキのこと、ありがとう」



 サクラはユキを中へと誘導するが、スズはそれを止める。



「あの」



 サクラは、ユキに向けていた顔をスズへと向ける。



「ん?」



「さっきは、ありがとうございました。それに、ウーゼの話も。その……まだよくわからないんですけど、ありがとうございます」



 サクラはふっと微笑む。



「ううん、気にしないでいいよ」



「あの、じゃあ……失礼します」



 スズはユキが一瞥をして振り向くのを見た。

 再び、医務室の自動扉が閉まる。



(検査か……。どこか具合でも悪いのかな? そういえば、真白さん、学校休んでたときあったな。まあ、私もあるけど……)





 ガチャッと、玄関の扉が開く。

 スズは、マンションの一室に戻った。



「ただいまー……ん?」



 玄関には、黒いスニーカーがあった。

 彼女がリビングを覗くと、茶髪の女性が、ソファで薄いけ布団をかけて眠っていた。



(サクラさん、疲れてるんだろうな……)



 ダイニングテーブルには手紙とともに、ご飯と卵焼きと味噌汁が置いてあった。



「なんだろう? これ」



 カエデの字は小さかったが、達筆だった。



 〝親愛なる橘スズ様〟

 〝ユキから、あなたは家事を任されていると聞いたわ。

 いつもお疲れさま。

 あなたは教えるのが上手だから、きっとみんなもできるわ〟

 〝あなたの友人の一人 久遠カエデより〟



 ユキもカエデと同様に字は小さかったが、丸く可愛らしかった。



 〝スズへ〟

 〝二人と過ごせてよかった。ありがとう〟

 〝手紙って、心がこもってるから書いてみて、とてもすてきなものだとわかった〟

 〝真白ユキ〟



 スズは微笑むと、ダイニングテーブルの椅子に座った。



(わざわざ、作ってくれたのかな? すごいなあ)



 スズは手紙が気になり、それを裏返す。



(あ……)



 〝親愛なる橘スズ様〟

 〝お伝えしたいことがあるので、ここに追記いたします〟

 〝私は、たとえつらく悲しいことがあって、何も食べたくないとしても、命を食べることは大切だと思うわ〟

 〝あなたの友人の一人 久遠カエデより〟



(久遠さん……きっと、エンジェルが嫌いなのも、つらいことがあったのかな……)



 スズは、その追記をぼんやりと眺めた。



(久遠さんのことも、真白さんのことも、私は何もわかってなかったんだ)



 自室に戻ったスズは、ズボンの左ポケットから携帯電話を取り出す。

 携帯電話から五回目の呼び出し音がなったとき、相手は電話に出た。

 その凛とした静かな声は、彼女の耳の奥に届く。



『はい。久遠です』



「もしもし、久遠さん」



『スズ? 一体どうかしたの?』



「今、話してもいい?」



 カエデの足音が聞こえる。それに、自動車の走行音や、歩行者信号機のぴよぴよとの効果音も、彼女の黒い携帯電話から漏れる。



『ええ、平気よ。家に帰る途中だから』



(邪魔しちゃったかな?)



 スズは、少し微笑をする。



「手紙ありがとう。久遠さん」



 カエデは歩行者信号機を渡っているのか、ぴよぴよという効果音が、だんだんと携帯電話から遠ざかっていく。

 彼女は、ふふっ、と笑い、スズに尋ねた。



『一応、書き置きを残そうと思ったのだけれど、嫌じゃなかったかしら?』



 スズは首を振る。



「ううん。初めてもらったから嬉しいよ」



 多分、カエデは、金属でできた階段をカンコンと上っているはずだ。



『それはよかったわ。あなたは、もう部屋に戻ってるの?』



「うん。ちょっと、久遠さんと話したくて」



 カエデは、自宅の前で立ち止まったみたいだ。



『そうなの?』



 彼女は、持っていたカバンを漁っているらしい。カバンの金属音がしたときから、少ししても、チリンッチリンッと、何かの金属音がしている。



「うん。あ、サクラさんから、体調大丈夫だって聞いたよ。ホントによかった」



 カエデの声は、一瞬聞こえづらかった。



『あなたにも心配かけたのね』



 だが、携帯電話の奥で、チリンッと、また何かの金属音が鳴ったと同時に、カバンの蓋が閉まるような音も聞こえた。



「ううん。気にしなくていいよ、久遠さん」



 別な、チリンッという音は、ガチャガチャという音にすぐに変わり、ガチャリッと鍵が開く音がした。

 おそらく、カエデが玄関の外開きの扉を開けた音だろう。すぐに、玄関の扉の開閉音が携帯電話から聞こえた。

 カエデは靴を脱ぎ、短い渡り廊下を歩いているらしい。

 彼女が、どこかにカバンを置く音がする。

 スズは、このまま電話を続けても大丈夫だろうか、と一抹いちまつの不安を覚えた。

 こんなに人と、しかも友だちよりも、他人とすらも、彼女は長電話をしたことがないのだ。

 だが、カエデに、先程よりも少し大きな声で尋ねられる。



『ところで、私から質問してもいいかしら?』



 彼女は手を洗っているらしく、絶え間ない水音が携帯電話から聞こえる。

 スズは首肯する。



「うん。何?」



 カエデは蛇口をまたひねると手を拭いて、部屋の床かどこかの場所に腰を下ろしたようだ。



『あなた、私のその呼び方、抜けてないのね。ふふっ。ユキも、真白さんじゃない』



「いや、だって、なかなか呼びづらくて……」



『好きな呼び方でいいわ』



「じゃあ、カエデって呼んでいい?」



 スズは、少し気恥ずかしくなった。



「あの、手紙、本当にありがとう。私が話したかっただけだから」



『そう? 私も楽しかったわ』



「うん。じゃあ、また明日。おやすみなさい。……カエデ」



『あ。そうだわ、すっかり忘れるところだった。ごめんなさい。スズ。今日、給料日なのよ。

 つまり、支部という会社から、私たちはお金がもらえるのよ』



「へえ。そうなんだね」



『ええ。一応、しっかりしているわ』



 だが、カエデが話した内容は、スズにとっては、開いた口がふさがらない話だった。



『でも、パイロットの基本給金は、三千万円だなんて、私たちは何に使っていいかわからないものね。

 ユキはともかくとして、あなたなんてそんな大金もらったことないでしょう?』



 彼女は自室の椅子から立ち上がると、思い切りひざをぶつけた。

 ゴンッと、鈍い音が電話越しに響くと、カエデは、大丈夫? と、彼女を心配する。



「だ、大丈夫大丈夫……ありがとう。いったー……」



 だが、彼女は、その痛みに悶絶もんぜつする間もなく、ひたいに手を当てた。



「ちょ、ちょっと待ってよ。カエデ? 何言ってるの? さ、三千万円? 何これ、夢?」



 スズは頬をつねったが、つねったところが痛いだけだった。



「夢じゃない……」



『ええ。そうね。夢じゃないわ』



 スズは声が出なかった。



「…………」



『スズ? どうかしたの?』



 カエデに尋ねられた彼女は、うなじに触れる。



「あ、ごめん。ちょっと、驚きすぎて……。ありがとう、カエデ。教えてくれて助かったよ」



『いえ。また明日ね、スズ』



 スズは、うん、とうなずいた。



「また、明日ね。カエデ」



 彼女は通話ボタンを押して電話を切ろうとしたが、彼女自身の声がすんでのところで止める。



「ねえ」



『何? スズ』



 スズは、痛む膝をさすりながらダイニングテーブルに戻り、自席につく。



「そういえば、金額って、何でわかるの?」



『玄関に給与明細がないかしら? 受け口に金額が書かれた紙があるはずよ』



「わかった」



 スズは一葉の紙を手に、ダイニングテーブルに戻ってきた。

 彼女の黒い瞳に映ったその紙には、目を疑うほどの金額ばかりが並べられていた。



「——って、何これ? ホント、日本の国家予算とかって、どうなってるの……?」



 スズは急に、自分の口の中に染み込んできたつばを、ゴクリと、飲み込んだ。それに、なんだか、両手の手のひらも汗ばんだみたいだった。

 彼女はもう一度、唾を飲み込んでから、その破格の金額を口に出した。



「パイロット基本給付金が三千万円。うわ……こんな金額のお金、もらえないよ……」



 スズが、カエデから受けた話によると、支部の職員やパイロットたちは、エンジェル戦の最前線で、命の危機にひんした人類を何度も救済している。

 そのため、まるで冷水を顔にかけられたような、目を疑う金額になっているというらしいのだ。

 それにしても、パイロットの基本給付金が破格なのは、自分たちが最前線に立ち、そのたびに、何度も自分たちの命を懸けてエンジェルを倒しているから、飛び抜けて高額になっている、というのだ。

 スズは、その金額を脳内でも反芻はんすうしてみたが、納得できるような、よくわからないような気がした。

 これは、ドイツ支部やアメリカ支部などのほかの支部でも、ほぼ同額がもらえるらしい。



「ん? 職員でも基本給付金で、一千万円なんだ……へえ、すごいなあ」



『そういえば、スズ。足は大丈夫なの? さっき、すごい音したから、どこかぶつけたのかしら?』



「あ、うん。大丈夫だよ」



『怪我には気をつけて。あ、痛かったら、林主任から湿布をもらったらどうかしら?』



 スズは給与明細に気を取られて、大丈夫だよ、と生返事でうなずく。それから、また、視線を紙に落とした。



「ええっと、危険手当は、一千万円プラスで前後——大体、五百万円から最大で一千五百万円」



 スズは、あっ、と目を止めた。



「この、『地域調整手当』や『赴任手当』は、支部の方がもらえるの? 

 しかも、地位が上がるごとに六百万……。

 え? 『指令室室長はプラス二百万円給付』って、ハルトって、プラスで二百万ももらってるの?」



『そうね。でも、ウーゼや旧第二東京都市の修繕費は高いのよ』



「旧第二東京都市? それって……この都市の前身じゃ……カエデってそこにいたの?」



 スズは携帯電話をいったん耳から離すと、また耳に、黒い携帯電話を近づける。



「カエデ? 大丈夫?」



『え……ええ。平気よ』



「あ、そういえば、その旧第二東京都市って、北海道だったよね?」



『ねえ、スズ。そういえば、あなた、北海道出身よね?』



「うん。釧路くしろだよ。小さな街だけど、いい所だよ。トシヤさんとオウカさん——あ、育ての親代わりの二人も、優しい人なんだ」



『春風夫妻ね。知ってるわ』



「え? あー……確か、私たちって、なんか報告書に書かれるんだっけ? ちょっと恥ずかしいね」



 スズは、片手でうなじに触れる。

 パイロットの個人情報は、分厚い報告書にまとめられ、一括いっかつして『資料室』に置かれるのだ。



『報告書に書かれる私の情報なんて、ただの文書だから、感情なんていだかないもの——そうだと思っていたのだけれど、違ったのね』



 スズは呆気にとられて、口走っていた。



「感情なんて抱かない……」



 すぐに彼女は思い直すと、再び、カエデに尋ねた。



「あ……ユキ、今日、どこいるか知ってる?」



『ユキ? 彼女、今日も検査よ。今はきっと、林主任と一緒にいると思うわ。

 ところで、スズ。私たちのことを名前で呼ぶことにしたの?』



「ん……あ、うん……」



 スズは気まずそうに、片手をもじもじさせた。



「カエデ。あの……本当に、ユキは、私のお母さんを殺したの?」



 少しの沈黙のあと、カエデは静かに話す。



『あのとき、ナギサ主任たちを助ける方法はなかったわ』



「たち? お父さんたちって——ユキも言ってたけど、私のお父さんもそのときいなくなって……」



 スズはカエデの話を聞いていたが、耳鳴りがうるさくなっていた。



「カエデは……?」



 スズは、あの日のカエデの行動を、どうしても彼女本人に尋ねたかったのだ。



『私はいなかったわ。じゃあ、また明日ね』



「あ、うん……また明日」



 彼女は不自然さを覚えながら、携帯電話を切った。



「私、何聞いてるの? カエデ困ってたじゃん……」



 思わず、はあ、と口からため息が出る。しかし、彼女は、そんなことを悩んではいられずに、次のことに頭を切り替えた。



「あ、そうだ。ご飯、食べないと……いただきます」



 手を合わせると、スズは、まず最初に味噌汁をすする。



「ん、おいしい」



 スズは卵焼きを一切れ口の中に放り投げると、白米と一緒に咀嚼そしゃくする。

 彼女は、ごくりと味噌汁を飲み込む。



(おいしいな。今度、ユキにもお礼言わなきゃ……でも……)



 スズの脳裏には、どうにも不自然さが残っていた。

 スズは、リリム——〝真白ユキ〟以外に会った少女がもう一人、確かにいたのだ。

 黒髪を持ち、冬の時季のセーラー服を着ていた少女——いつの間にか、スズは彼女の腕の中に抱かれていたのだ。

 スズは彼女の何らかの能力らしきもので、彼女の近くに引き寄せられたらしかった。しかし、その能力らしきものが〝黒い何か〟ということ以外何かは、わからなかった。

 スズは流し台を見る。



 ピチャンッ、と、流し台から音がする。また水滴が、滴り落ちているようだ。

 スズは嘆息をすると、目をつぶった。



 幼い自分の自らの足元には、赤黒い液体が染み渡っていた。周囲には、濃厚な鉄のような匂い。

 血だ。



 スズはそこまで鮮明に思い出すと目を開けた。そして、彼女は、食器を流し台に置き、急いで、自室のベッドに横になった。

 そして、瞳を閉じた。

 自分の悪夢と、現実で起きている嫌な想像を、早く忘れようとするように。







 ユキは、サクラの定期検査を受けていた。彼女は質問の受け答えをしているが、その間にも注射をされている。

 ユキは左腕に一本目の針を刺されたとき、口には出さなかったものの、顔を少しだけなんとも言えない不快感に歪める。

 二本目の針が彼女に刺されたとき、彼女の体液が少しずつ抜かれていく。

 シリンダーに、彼女の体液が溜まる。

 注射器のポンプも最初に作業を開始したときよりかは、少しずつ負荷がかかっていく。

 銀色のトレイとは別に、厳重な銀のアタッシュケースがそのそばに置いてあった。

 A4サイズのふたの手前には、持ち運びがしやすいように取っ手が付いている。

 サクラは、周りを覆っている白い衝撃緩和材の中央にあるシリンダーの型にぴったりとはめられるように、二本目の注射器の注射針を抜いてから収めた。

 透明なシリンダーがその中に収められたときには、彼女の薄赤い体液が少しだけ波打った。

 アタッシュケースの両端に付いている鍵は、すぐに厳重に閉められた。



「よし、今日も終わり。お疲れさま。ユキさん」



「はい」



 サクラは、検査結果をパーソナルコンピュータに打ち終える。



「ねえ」



 サクラは、自分を呼んだユキのほうを振り向くが、ハッと少し目を見開く。



 サクラは躊躇ちゅうちょしながら、目の前の少女に尋ねた。



「あの、私は林サクラです。あなたが新しいパイロットの真白ユキさんでしょうか?」



 彼女は、こくっとうなずく。

 彼女の肩から胸までの雪のような髪に、吸い込まれそうな赤い瞳は、どこか美しかった。

 だが同時に、その絶世とも言える美しさには、何か恐ろしさもそこに同居をしていた。

 どこか悲しそうな赤い瞳が、ふっと、まっすぐサクラを見つめた。



「あの、真白さん。あなたどこかで……?」



 サクラは、そのあとに続けたい言葉を喉の奥になぜか押しやった。



 ユキは、サクラが自分のほうをじっと見つめているのに驚いていた。

 彼女は、ぱちくりと瞬きをすると、呼びかける。

 だが、平素の優しい声から一転、今の彼女の口からは冷静な声が発せられた。



「サクラ?」



 その声は、サクラを回想の世界から現実に引き戻させる。

 発光する赤い瞳が、目の前のサクラを射抜いていた。







 学校での授業が終わった放課後は、下校をする生徒たちで、廊下があふれ返っていた。

 スズが窓際のユキの席を見ると、彼女も帰り支度をしていた。



「あの……」



 ユキは、スズをちらりと見て、何? と言い、帰り支度をする手を止めた。

 スズは、うなじに手を当てる。



「えーと……ユキ。一緒に帰ってもいい?」



 ユキは、ぱちくりと瞬きし、それから、口の中でつぶやく。



「名前……」



 スズは胸の前で両手を振った。



「あ、えっと、これは……カエデが名前で呼んでいい、っていうから、ユキも、名前で呼んだほうがいいかなって、思って……」



 スズは制服のスカートの裾をつかむが、彼女は頭に何かの感触を感じた。



「真白さん? なんで、私の頭を撫でてるの……?」



 ユキは、スズの黒の髪ゴムでまとめられた髪を撫でていたが、首を横にふるふると振った。



「——ううん。あの子に似てただけ」



 スズは、きょとんとする。



「あの子?」



 ユキは答えずに、少し口を閉じたが、静かな声で答える。



「一緒に帰ろう」



 そう言うと、ユキはスズの手をつかみ、生徒玄関へと向かった。

 しかし、スズは、ユキがつなごうとしていた手を離した。ユキが、あの〝実験〟にいたからだ。彼女が、スズの両親を殺したかもしれないのだ。

 彼女は、少し突き放すような言い方をする。



「やめてよ。あ……ごめん」



「平気」



 ユキはそのまま、スズと歩を合わせて帰宅した。

 スズはその間中、顔をうつむかせて、奥歯を噛んでいた。



 二人が歩道を歩くたびに、すずむしの声が聞こえる。

 しかし、すずむしの声は一時中断された。草原くらはらを揺らした。

 周囲は、兵装ビルがおりのように囲んでいる。彼らは一体、どこへ行くというのだろうか。

 地上の諏訪すわ湖は、いまだ白いまま、水面みなもを揺らしもしなかった。その湖は、静謐せいひつをたたえている。その代わり、冷たい蒸気が湖上こじょう陽炎かげろうを作り出していた。

 兵装ビルに囲まれたからの街は、秋だ。



 スズが玄関のインターホンを押すと、玄関に現れたのはサクラだった。



「おかえりー。スズちゃん、ユキ」



 スズは、はい、と首肯する。



「ただいま戻りました。サクラさん」



「……ただいま」



 二人は洗面所で手を洗うと、ダイニングテーブルに着いた。

 テレビの液晶画面から、午後のニュースが放映されている。テレビの向こう側のニュースキャスターが、今夜は、冷えそうだと懸念していた。

 サクラが、白い小皿を各人の前に置くと、早速、銀色のボールに中に入ったうどんを箸で取っている。



「うどんですか? おいしそうですね」



「本当? よかった」



 サクラは、安堵あんどしたように微笑む。

 スズは、うどんを小皿の汁に付けてすする。

 付け合わせのねぎと、めんつゆが、コシがある中太のうどんの麺に絡まっている。



「あ、おいしい。おいしいですね、これ」



 スズは眉を上げた。サクラは、スズに向かって微笑む。

 そして、うどんを静かにすする、白髪の少女を見る。



「ねえ、おいしい? ユキ?」



 ユキは、こくりとうなずく。



「おいしい」



 サクラは満足したように、マグカップに注いだ冷たい麦茶を飲む。



「ユキ、お茶飲む?」



 ユキは首肯した。



「ん。飲む」



 青色の雪の結晶をかたどったマグカップに、とぽとぽと麦茶が注がれる。



「はい。どうぞ」



「ありがとう」



 ユキは麦茶を飲んで、一息ついた。



「……家族の存在っていい」



 スズは、麦茶を飲もうとしたが、マグカップに口を付けるのをやめる。



「家族?」



 ユキはうなずく。



「そう。家族というコミュニティは、人の欲求を満たしてくれる」



 サクラはうなずきながら、人差し指を振って答える。



「そうだね、安心は大切。確かにユキの言うとおり、食事は人を幸せにするかもね」



「そうですね」



 同意したスズが少し口角を上げるが、すぐに顔をうつむかせる。

 サクラは、片付けた食器を流し台に置くと、また自席に戻る。



「ねえ、どうしたの?」



「……さっき、帰るときにユキの手を振り払っちゃったんです。それで、嫌な言い方もしちゃったので、どうすればいいかなって」



「スズちゃんは謝ったの?」



「はい。ユキに謝りました」



「そっか……」



 サクラは椅子の上であぐらをかき、左手を顎に当てている。



「手を払ったのも嫌だし、突き放した言い方も嫌だったと。じゃあさ、次からは確認してみれば?」



「確認ですか?」



 サクラはうなずく。



「うん。次から手をつなぐとかそういうことになったら、つないでいい? って、聞いてみて、相手の確認がとれたらつなぐとかかな。

 というか、なんで、手をつなぐことになったの?」



 わずかに眉をひそめたサクラに、ユキは淡々と答える。



「幼い子はそうするから」



「スズちゃんのこと、何歳だとおもってるのさ……ユキ」



「十三歳」



「年相応じゃん」



 そして、彼女は、冷蔵庫の両扉をガパッと開けたが、厳しい瞳でスズを見る。



「え……なんですか? サクラさん。その怖い顔……」



 スズは、ひくっと肩を震わせる。



「ここにあったプリン、もしかして食べた?」



 そのとき、部屋の温度が急激に、二、三度下がった気がした。

 一同は、顔をうつむかせる。

 スズもユキも何も悪いことをしていないのに、彼女たちは、悪さをして母親に叱られている子のように、肩を下げていた。

 ズズは冷や汗をかきながら、ゴクリと唾を飲む。



「私です……私がプリン食べました」



 そのとき、部屋の雰囲気がふわっとなごんだ気がした。

 スズが不思議に思って顔をあげると、サクラは眉を下げた顔をしていた。



「あれ……おいしかった?」



「……え?」



 スズは、うなじに触れた。



「まあ……夏限定だったので……あ、でもあれは——」



 スズは、そこで、本能的に口を閉じた。



「何? あれは。何?」



 サクラの目線から逃げるように、彼女は再び、顔をうつむかせて目をそらす。



「いえ。なんでもないです……」



 ユキは、冷たい麦茶を音も立てずにすすっていたが、静かな声でひと言答える。



「私も食べた」



 ユキは、首をゆるやかにうなだれさせて会釈した。



「ごめんなさい。サクラ。あなたが甘いものを好きだと知っていて、食べたの」



「いいよいいよ。ごめんね。私もプリンひとつで怒ってちゃってごめんね。あ、そうそう。今日はー、なんとー? 二人に朗報だよ。じゃじゃーん」



 サクラが持っていた白い箱には、アップルパイやレモンパイが入っていた。クッキーもあるようだ。



「これ、どうぞ」



 スズは、ダイニングテーブルの中心に置かれたスイーツに、目が釘付けになった。彼女が隣を見ると、ユキも、それをじっと見つめていた。

 サクラは、レモンパイに手を伸ばし、中に入っている甘いカスタードクリームとレモンの砂糖煮を楽しんでいた。



「サクラ」



 ユキに呼びかけられた彼女は、アップルパイをかじろうとしていたところだった。彼女は、あぐらをかくサクラと違い、きちんと両足をそろえて椅子に座っている。



「ん? どうしたの?」



 ユキは、スズに向かって顔を向けた。



「さっき、スズ、嬉しそうだった」



 スズはすでに、ダイニングテーブルからソファに移動している。だが、彼女は、食べていたラズベリーパイを喉に詰まらせそうになった。

 ユキは安堵したようなため息をつくと、テーブルに頬杖をつく。



「サクラ。よかった」



 サクラは口角を少し上げて、微笑む。



「そうだね。本当によかったよ」



 それから、彼女は、三人分のマグカップに牛乳を注ぐと電子レンジで温めた。



 電子レンジから、唸るような低い電子音が聞こえる。

 スズは、一人分空けて隣に座るユキがくれたクッキーに舌鼓を打っていた。



「これ、おいしいね」



 彼女は底の製品表示をちらりと見たが、半額シールが貼られていても、値段は三千円だった。



「こ、これ、正規の値段いくらするの?」



 彼女は口を開けて、クッキーを咀嚼そしゃくする。



「半額だから……」



 彼女は脳内で値段を計算するが、なんだか高そうな値段になりそうなのでやめた。



「スズ、今日、どうかしたの?」



「ん? ユキ? 何が?」



 彼女はまた、ラズベリーパイをかじる。

 ラズベリーのほどよい酸味とパイ生地のサクサク感が、口の中で合わさっておいしいのだ。



「どうしたの?」



「私、あんなに落ち込んだスズを見たのは、三度目なの」



「え? そうなの?」



「そう——。私、第二東京都市の研究所にいた。そのとき、あの〝実験〟の事故が起きた」



 ユキは淡々と話す。

 スズはひと言も言葉を発せずに、ユキをただ見つめていた。

 電子レンジから、軽快な電子音が鳴る。

 ユキは、その音に驚いたスズの背に手を回し、そっと撫でる。



「あのときのスズは、言葉では言い表せないほど落ち込んでた」


 スズは目線を斜め右下に下げ、左手で右腕のひじの辺りをつかむ。



「……うん。そうだね」



 彼女の脳裏に、十歳の頃の自分がよみがえる。白い長方形の建物の玄関から出てくるところだ。

 おそらく、どこかの研究所かもしれない。その研究所は、ノヴァ日本支部の前身の場所だろうか。

 小学生のときの自分は、奥歯を噛みしめた顔をしている。その顔は、不安と寂しさがうかがえる。

 周囲には、うわさ話をする大人で溢れていた。その中で、一際ひときわ幼い自分は、その人波を縫うように歩いていた。そのときは常に、顔をうつむかせ、消えた母と奪われた父をいたんでいた。



 彼女は左手で右腕の肘の辺りをギュッとつかむと、前かがみになり、両手で顔を覆う。



「……見られてたんだ」



 スズは、あははっ、と愛想笑いをする。



「あの実験のとき、少しだけ影から見てたの。私、人前にはあまり出ることができないから」



「そっか」



 スズは、上手く言葉が出ずに歯痒( がゆ)かった。



「ねえ、ユキ。今日の話……嘘だよね? カエデが言ってたこと」



 スズは、一人分空けた隣で座る白髪の少女を見る。

 彼女の赤い瞳は、驚くように少し見開いていた。そして、彼女は、首を横に振った。

 スズはラズベリーパイを食べ終えると、近くのゴミ箱に透明なビニール袋を捨てる。

 それから、彼女は、自室に向かった。ユキは、彼女の背を見ていたが、スズはその彼女の視線を、あえて無視してしまった。

 ユキはソファに、だらりと、もたれかかっている。

 スズは早々と、布団に潜り込んだ。



(嘘だって言ってよ。ユキ……)







 サクラはダイニングテーブルに伏せていたが、悪夢でも見ているのか、うなされている。

 ユキは彼女のそばに近づくと、薄いけ布団を肩にかけてあげた。

 サクラの、いつも穏やかな声とは違う、不安そうな声が彼女の唇から漏れる。



「暗い……怖いよ。誰か助けてよ……」



 ユキは、彼女の黒髪を撫でる手を止めた。

 サクラは、いつも明るい声で大げさな反応をして、肩までの茶髪を大きく揺らしているので、ユキは彼女のことを、いつも楽しそうな女の人、と思っていた。

 ユキは天井に付けられている、円形のLEDライトに照らされた、サクラの疲れた横顔を見ている。

 目の下には、くまができており、激務続きだったことがわかる。



「ううっ……大きな波が来る——」



 ユキも自室ではなく、たまに、リビングのソファで眠っていることがあるので、サクラも疲れているんだろうな、と、彼女は感じていた。

 だが、彼女は、二人に何も恩返しができていない、無力な自分が嫌になるばかりだった。それどころか、自分と関わった〝人間〟は、不幸になると思っていた。

 ユキは、彼女の気持ちが少しでも和らぐように、そっとささやいた。



「サクラ。もう無理しなくてもいい。大丈夫。みんないる。きっと、これからも、サクラはあなたのそばにいる」



 ユキはまた、ソファに自分の体をもたらせると、横向きに体勢を変えた。

彼女は自室には戻らず、ソファで眠るつもりなのだろう。

 だが、足音が聞こえると、ユキは誰かに肩をつかまれた。

 彼女は驚いて起きた。そして、ユキは肩が痛い、と感じた。彼女の肩をつかんでいる人間が、強く、彼女の肩をつかんでいるのだ。



 暗闇で、すでに泣いたような声を発したのは、スズだった。



「来て」



 ユキは努めて、静かな声で話す。ダイニングテーブルに伏せているサクラが、悪夢にさいなまれているからだ。



「……でも、私、部屋にはいけない。今日はここで寝たいの」



 しかし、スズはそれを遮った。



「いいから来て」



 ユキの奥の部屋にスズは彼女を連れていく。ユキのベッドは、窓を頭にした、右端に置いてあった。

 スズはそこのベッドに、彼女を乱雑に突き放した。

 ユキは珍しく、小さな叫び声を上げる。



「きゃっ」



 間髪入れずに、スズはユキのベッドの上で、ユキの肩を押さえつける。

 ユキは、ベッドの上でうめいた。しかし、彼女は、スズの顔を見て、スズがなぜこの行動をとったのか理解できた。



 そのときのスズの顔は、カーテンを透かして部屋に入りこむ、月光に照らされていた。



 彼女は困惑していた。そして、誰を信じればよいのか、わからなくなっていたのだ。



 だから、ソファで眠る自分を、わざわざ自室まで連れていき、ベッドで突き放したのだ。

 突き放すことはスズの部屋でもよかったのだ。だが、彼女が、ベッドでユキを突き放したのは、おそらく相手を怪我させないため。

 もしかしたら、この行為の対象は、サクラでもよかったのかもしれない。



 だが、スズは、ユキを選んだ。

 あの〝実験〟の日——自分の両親を殺した、異能力を持つ少女を。



「私は今まで、犯した大罪をあがなってきた。今も大きな罪をつぐなっているその途中なの」



 ユキは、スズの片手を自ら、ひたりと、自分の片頬に当てた。



「スズが私をめちゃくちゃにしたいなら、それでもいい」



 スズは静かに話を聞いていた。

 彼女は今も、苦しそうな顔をしていた。眉を下げて、奥歯を噛み締めている。

 スズがユキを乱暴に扱った——いわば、彼女は加害者なのに、彼女がそんな顔をするのは、ユキは共感できた。

 ユキの心臓の鼓動がいつもより激しく、彼女の胸のうちを叩く。

 ユキは優しい声のトーンで、淡々と話す。



「だけど、今、スズが私をめちゃくちゃにしたそのあと、私は、あなたに、ずっとその後の人生を後悔してほしくない」



 スズは、握った片手の拳をベッドの脇に押さえつけた。



「ユキ……ばかだよね?」



「うん。わかってる。でも、私はあなたを護りたい」



「な……どうして? なぜ、そこまでするの?」



「それを話すには、カエデの話をしなくちゃいけない」



「カエデの? ユキがカエデの話をするの? そんな——」



 スズは、そこで口を閉じた。

 月光は、ユキの部屋のカーテンを透かしていた。

 ポタッ、と、ユキの頬をにわか雨が伝った。

 そして、ユキは思った。



(スズの涙、きれい……)



 泣くスズは唇を引き締めて、彼女の頭を撫でようとするユキの胸に顔を押し付けた。



「ごめん。ユキ……」



 ユキは、彼女のつやつやな黒髪を撫でる。



「平気。ごめなさい。スズ。私は、ナギサたちには『最愛の祈り』を与えたかったの」



 彼女の耳には、スズの小さなすすり泣きが聞こえてくる。

 ユキは、泣いている彼女にゆったりとした口調で話しかける。



「……カエデは私に殺されかけた。そして、エンジェルの〝カオル〟に殺されかけた。

 だから、カエデは、エンジェルが嫌いなの。

 私たちは彼女を殺しかけ、人間の彼女を人形のように操るから」

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