まだ見てもらってない
第九話 まだ見てもらってない
その日の夕刻。
尹家の門が開いた。
「お父様!」
尹 柔莉は、その音を聞くなり立ち上がった。
昼を過ぎても戻らなかった父、尹 泰成が、ようやく帰ってきたのだ。
「お父様、遅かったね」
駆け寄って。
すぐに、足が止まった。
「……お父様?」
尹 泰成は、ひどく疲れた顔をしていた。
朝、役所へ向かったときとは違う。
疲れている。
ただ、それだけではなかった。
何かが。
おかしい。
「どうしたの?」
「…………」
「何か言われた?」
尹 泰成は答えなかった。
代わりに。
娘の頭へ手を伸ばした。
いつものように。
けれど。
その手は、柔莉の頭に触れる直前で止まった。
「……お父様?」
「中へ入ろう」
「うん……」
柔莉は父の後ろについていった。
部屋には、尹 美蘭がいた。
夫の顔を見た瞬間。
その表情が変わった。
「あなた」
「……ああ」
それだけだった。
けれど。
夫婦の間には。
柔莉には分からない何かが交わされた。
「何?」
二人を見る。
「何かあったの?」
「柔莉」
父に呼ばれた。
「座りなさい」
「……うん」
言われた通りに座る。
尹 泰成も向かいに座った。
尹 美蘭は。
座らなかった。
夫のそばに立ったまま。
「今日、役所へ呼ばれたのは」
父が話し始める。
「仁救のことだった」
柔莉は顔を上げた。
「叔父上?」
「……ああ」
「何か分かったの?」
思わず身を乗り出した。
「いつ帰ってくるって?」
尹 泰成の唇が、わずかに震えた。
柔莉は気づかなかった。
「ちゃんと調べてもらえた?」
「…………」
「薬が違ったこと、允浩も知ってるよね? 二人で作ったんだから」
「柔莉」
「叔父上も言ったんでしょう? 自分が作った薬じゃないって」
「柔莉」
「だったら――」
「聞きなさい」
父の声に。
柔莉は口を閉じた。
尹 泰成は。
娘を見つめた。
何度も。
言おうとして。
言えなかった。
弟のことを。
娘に。
どう伝えればいいのか分からなかった。
けれど。
伝えなければならない。
「……仁救が」
声が掠れた。
一度。
息を吸う。
「昨夜、獄中で亡くなったそうだ」
静かだった。
外から。
鳥の声が聞こえた。
柔莉は。
父を見ていた。
「…………」
尹 泰成も。
娘を見ていた。
「……誰が?」
柔莉が聞いた。
尹 美蘭が口元を押さえた。
「柔莉……」
「誰が亡くなったの?」
「……仁救だ」
「…………」
「叔父上が?」
「ああ」
「……どうして?」
尹 泰成は。
膝の上で拳を握った。
「役所からは……自ら命を絶ったと」
「違う」
すぐだった。
「柔莉」
「違うよ」
「…………」
「叔父上がそんなことするわけない」
声は。
驚くほど普通だった。
泣いてもいない。
怒ってもいない。
ただ。
間違いを訂正するように。
「だって叔父上、自分がやってないって分かってるもん」
「…………」
「允浩も分かってる」
「柔莉」
「調べたら分かるんだから」
尹 泰成は何も言えなかった。
「だから違う」
柔莉は。
もう一度言った。
「何かの間違いだよ」
尹 美蘭が娘の隣へ座った。
「柔莉」
そっと。
手を握る。
柔莉は母を見る。
母の目に。
涙が溜まっていた。
「……お母様?」
「…………」
「なんで泣いてるの?」
その一言で。
尹 美蘭の涙が落ちた。
「お母様」
「ごめんなさい……」
「何で謝るの?」
分からない。
父も。
母も。
どうしてそんな顔をしているのか。
「叔父上、帰ってくるよ」
「…………」
「帰ってくるって」
誰も。
答えなかった。
「だって」
そこで。
ふと。
思い出した。
柔莉は立ち上がった。
「柔莉?」
「待ってて」
「どこへ――」
答えず。
部屋を出た。
廊下を歩く。
いつの間にか。
歩く足が速くなった。
叔父の部屋へ向かう。
戸を開ける。
そこには。
荒らされたままの部屋があった。
役人たちが持っていった書物。
記録。
薬。
以前よりずっと少なくなった棚。
そして。
その隅に。
残っているものがあった。
薬草。
柔莉が。
あの朝。
叔父に頼まれて分けたもの。
しゃがみ込む。
「……ほら」
後ろから。
両親が来ていた。
「ちゃんとあるよ」
柔莉は振り返った。
「私、ちゃんと分けたの」
「…………」
「叔父上に言われた通り」
薬草へ手を伸ばす。
一つ。
また一つ。
指先で確認する。
「これはこっちで……」
声が震えた。
「これは……こっち」
分かっている。
全部。
教えてもらったから。
「ちゃんと、できてるの」
尹 泰成が目を伏せた。
「柔莉」
「だから」
初めて。
涙が一粒。
薬草の上へ落ちた。
「叔父上に見てもらわないと」
もう一粒。
「帰ったら見るって言ったの」
「…………」
「叔父上が言ったんだよ」
声が。
うまく出なくなった。
「帰ったら見るからなって」
あの朝。
いつもと同じ顔で。
いつもと同じ声で。
言った。
自分は。
何と言っただろう。
――行ってらっしゃいませ、叔父上。
それだけだった。
「だから……」
薬草を握る。
「まだ……」
息を吸った。
けれど。
途中で。
喉が詰まった。
「まだ、見てもらってない……」
尹 美蘭が。
娘を抱きしめた。
「お母様……」
「……うん」
「私、ちゃんとやったのに」
「うん」
「間違えてないよ」
「うん」
「叔父上に……褒めてもらおうと思って……」
「うん……」
そこで。
ようやく。
尹 柔莉は泣いた。
「叔父上……」
母の胸に顔を埋める。
「帰ってきてよ……」
十七歳の少女の声が。
主を失った部屋に響いた。
「帰ってきて……」
尹 泰成は。
泣き崩れる娘と妻を。
ただ見ていた。
兄だから。
父だから。
自分まで崩れるわけにはいかない。
そう思った。
けれど。
棚に残された薬草を見た瞬間。
堪えきれなかった。
「……仁救」
弟の名前を呼んだ。
返事はなかった。
もう。
返事は返ってこない。
そう思っていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
尹 柔莉は眠れなかった。
目を閉じれば。
叔父の声が聞こえる。
――そこ、違うぞ。
――え?
――それはこっちだ。
――叔父上、細かすぎます。
――薬を扱う人間が大雑把でどうする。
――私は医官じゃないもの。
――なら俺の手伝いをするな。
――嫌です。
――どっちなんだ。
いつも。
そんなふうだった。
もっと。
聞いておけばよかった。
薬のことも。
宮中のことも。
戦場にいた頃のことも。
どうして医官になったのかも。
まだ。
聞いていないことがたくさんあった。
「……叔父上」
小さく呼ぶ。
当然。
返事はない。
今日。
姜 賢俊との婚約がなくなった。
そして。
叔父が死んだ。
朝には。
どちらも。
自分の人生からなくなるものだとは思っていなかった。
柔莉は。
枕元に顔を埋めた。
もう。
何もなくならないでほしい。
父と。
母と。
この家と。
それだけは。
どうか。
残っていてほしい。
そう願った。
けれど。
その願いさえ。
叶わない。
尹家に下される処分が。
すぐそこまで迫っていた。




