それぞれの行先
第十話 それぞれの行き先
朝が来た。
尹 柔莉は、ほとんど眠っていなかった。
目を閉じるたび。
尹 仁救の声が聞こえた。
――帰ったら見るからな。
だから。
眠ることを諦めた。
まだ薄暗いうちに起きて。
顔を洗って。
髪を整えた。
いつもと同じように。
そうしていれば。
昨日までと同じ朝になるような気がした。
けれど。
叔父の部屋の前を通れば。
そこに誰もいないことを思い知らされる。
柔莉は足を止めなかった。
居間へ行くと。
尹 美蘭が座っていた。
「お母様」
「……柔莉」
母も。
眠っていないようだった。
目が赤い。
それでも。
柔莉の顔を見ると、いつものように笑おうとした。
「朝餉にしましょうか」
「うん」
二人で支度をした。
ほとんど会話はなかった。
何を話せばいいのか分からなかった。
尹 泰成も起きてきた。
三人で座る。
一人分。
席が空いていた。
誰も。
そこを見ようとしなかった。
◇ ◇ ◇
門が叩かれたのは。
朝餉を終えて、しばらくした頃だった。
三人とも。
動かなかった。
以前なら。
誰かが訪ねてくるたび。
柔莉が真っ先に立ち上がった。
叔父かもしれない。
姜 賢俊かもしれない。
知っている誰かかもしれない。
けれど。
もう。
門を叩く音が。
怖かった。
もう一度。
音がする。
尹 泰成が立ち上がった。
「私が出る」
「お父様」
「ここにいなさい」
父が出ていく。
しばらくして。
複数の足音が聞こえた。
柔莉は。
母の手を握った。
役人たちが入ってきた。
以前。
家を調べに来た者たちとは違う。
その先頭に立つ男が。
一枚の書状を持っていた。
尹 泰成が。
妻と娘の前へ戻る。
「……こちらへ」
三人。
並んで座った。
役人が書状を開く。
「王命を申し渡す」
柔莉の指先が。
冷たくなった。
「前王・承赫陛下の崩御に関し、王付き医官、尹 仁救が調合した薬より毒が確認された」
違う。
柔莉は思った。
違う。
叔父上が作った薬じゃない。
「尹 仁救は取り調べの最中、自ら命を絶った」
違う。
それも。
違う。
けれど。
声にはできなかった。
「その行為は、自らの罪を認めたものと判断される」
柔莉が顔を上げた。
「違います」
尹 泰成が娘を見る。
役人も。
柔莉を見た。
「叔父上は、自分で命を絶ったりしません」
「柔莉」
父の声。
けれど。
止まれなかった。
「それに、あの薬は叔父上が作ったものではありません。允浩も――」
「柔莉」
今度は。
少し強い声だった。
父を見る。
尹 泰成は。
小さく首を横に振った。
柔莉は唇を噛んだ。
役人は。
何も言わず。
書状へ視線を戻した。
「よって、尹家についても連座の処分を下す」
連座。
知っている言葉だった。
もちろん。
意味も知っている。
けれど。
自分の家に向けられる言葉として聞くと。
まるで。
知らない言葉のようだった。
「尹 泰成」
「はい」
父が答える。
「その妻、尹 美蘭」
「……はい」
母が答える。
「両名の身分を剥奪する」
柔莉は。
父と母を見た。
「今後は奴婢として籍を移し、指定された家へ送るものとする」
「…………」
何を。
言っているのだろう。
父と。
母が。
奴婢。
「待ってください」
柔莉が言った。
「柔莉」
「待って」
役人を見る。
「お父様もお母様も、何もしてません」
「…………」
「叔父上だって何もしてない。でも……でも、お父様とお母様は本当に何も関係ないでしょう?」
返事はない。
「薬にも触ってない。宮中にも行ってない。何も知らない」
「柔莉」
「だったら、どうして」
役人が。
静かに答えた。
「連座とは、そういうものだ」
その言葉が。
柔莉には。
どうしても理解できなかった。
「……そんなの、おかしいです」
「柔莉」
「おかしいでしょう」
父を見る。
「お父様」
尹 泰成は。
娘を見つめた。
「……聞きなさい」
「でも」
「最後まで、聞きなさい」
最後まで。
その言葉が。
嫌だった。
まだ。
何かある。
柔莉は。
ゆっくり。
役人を見た。
書状には。
まだ続きがあった。
「そして」
役人が読む。
「尹家の娘、尹 柔莉」
自分の名前。
「……はい」
「同じく身分を剥奪する」
分かっていた。
父と母がそうなら。
自分だけ何もないはずがない。
だから。
驚かなかった。
「分かりました」
答えた。
「私も、お父様とお母様と一緒に行きます」
その瞬間。
母の手に力が入った。
「……柔莉」
「大丈夫」
柔莉は。
母へ笑った。
「三人なら大丈夫だよ」
父を見る。
「ね?」
尹 泰成は。
答えなかった。
「お父様?」
役人の声が。
続いた。
「尹 柔莉は、妓籍へ移す」
柔莉の笑顔が。
止まった。
「…………」
意味は。
分かった。
今度は。
すぐに。
分かってしまった。
「……妓籍?」
「そうだ」
「どうして」
声が。
小さくなる。
「どうして、私だけ……」
役人は。
淡々と答えた。
「年齢、容姿、教養、芸事その他を考慮した結果だ」
柔莉は。
何も言えなかった。
十七歳。
両班の娘として育った。
文字を読める。
礼儀作法を知っている。
琴も。
舞も。
最低限は教わった。
それらは。
昨日まで。
両親が娘に与えてくれたものだった。
それが今。
自分を。
父と母とは違う場所へ送る理由になっている。
「……どこへ?」
ようやく。
声が出た。
役人が答えた。
「百華楼」
聞いたことのある名だった。
都にある。
大きな妓楼。
それ以上のことは。
知らなかった。
「いつですか」
尹 美蘭が聞いた。
声が震えていた。
「明日」
柔莉が。
母を見た。
「……明日?」
「日の出後、迎えが来る」
「そんな」
尹 美蘭が初めて声を荒らげた。
「一日だけですか」
「…………」
「娘といられるのは、あと一日だけなのですか」
役人は答えなかった。
答える必要がないのだろう。
書状を閉じる。
「以上だ」
尹 泰成が。
深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
「お父様!」
柔莉が振り返る。
「何で!」
父は。
頭を下げたままだった。
「何で承知するの!」
「柔莉」
「嫌だよ!」
初めて。
はっきりと叫んだ。
「私、お父様とお母様と行く!」
「…………」
「奴婢でいい!」
母が息を呑む。
「何でもするから!」
「柔莉」
「働く! ちゃんと働くから!」
涙が溢れた。
「だから一緒に――」
「柔莉」
尹 泰成が。
娘の肩を掴んだ。
「聞きなさい」
「嫌!」
「柔莉」
「嫌だ!」
父の手を振り払おうとする。
「私も一緒がいい!」
「……分かっている」
「分かってない!」
「分かっている!」
父の声が。
部屋に響いた。
柔莉が止まった。
父が。
泣いていた。
昨日。
弟が死んだと聞いても。
娘と妻の前では。
必死に耐えていた父が。
泣いていた。
「……分かっている」
もう一度。
今度は。
小さな声だった。
「私だって……」
尹 泰成の手が震えている。
「お前と一緒にいたい」
「…………」
「お前を連れていきたい」
「だったら……」
「できないんだ」
柔莉は。
何も言えなかった。
父が。
娘を抱きしめた。
「すまない」
「お父様……」
「すまない、柔莉」
何度も。
何度も。
父は謝った。
父が謝ることではない。
分かっている。
それでも。
柔莉は。
父の衣を掴んだ。
「嫌だよ……」
「……ああ」
「離れたくない」
「ああ」
尹 美蘭も。
二人を抱きしめた。
「お母様……」
「柔莉」
「私、ちゃんとするから……」
「うん」
「迷惑かけないから」
「そんなこと、思ったことないわ」
「じゃあ一緒に……」
それ以上。
言えなかった。
三人で。
ただ。
抱き合った。
役人たちは。
何も言わず。
静かに部屋を出ていった。
◇ ◇ ◇
昨日。
尹 柔莉は。
婚約者を失った。
そして。
叔父を失った。
今日。
身分を失った。
家を失うことが決まった。
明日。
父と母を失う。
もちろん。
死ぬわけではない。
どこかで。
生きている。
けれど。
十七歳の尹 柔莉には。
それが。
何の慰めにもならなかった。
「……百華楼」
自分が明日から暮らす場所の名を。
初めて。
口にした。
尹 柔莉は。
まだ知らない。
そこで。
どんな人たちと出会うのか。
どんな日々を生きるのか。
そして。
尹 柔莉ではない名を。
自分自身で選ぶことになるのだということを。




