最後の夜
第十一話 最後の夜
「明日は、柔莉の誕生日ね」
尹 美蘭がそう言って。
尹 柔莉は、初めて思い出した。
「……あ」
明日。
十七歳になる。
忘れていた。
自分の誕生日を忘れたのは、生まれて初めてだった。
「忘れていたの?」
「……うん」
「まあ」
尹 美蘭が、少しだけ笑った。
「毎年、あんなに楽しみにしていたのに」
「だって……」
柔莉も笑おうとした。
「それどころじゃなかったから」
「そうね」
笑顔が消える。
明日。
十七歳になる。
そして。
明日。
百華楼へ行く。
同じ日だった。
「本当ならね」
尹 美蘭が言った。
「今年は何を作ろうか、ずっと考えていたの」
「去年と同じでいいよ」
「去年、同じものは嫌だと言ったでしょう」
「……言ったっけ?」
「言いました」
「覚えてない」
「私は覚えています」
母は何でも覚えている。
柔莉が初めて歩いた日も。
初めて熱を出した日も。
幼い頃に転んで、膝を擦りむいて大泣きしたことも。
誕生日に何を食べたかも。
何を欲しがったかも。
「お母様」
「何?」
「明日も言ってね」
「何を?」
「誕生日、おめでとうって」
尹 美蘭の目が揺れた。
「……もちろん」
「朝、一番に」
「ええ」
「忘れないでね」
「忘れるわけないでしょう」
その言葉に。
柔莉は笑った。
今度は。
少しだけ。
ちゃんと笑えた。
◇ ◇ ◇
その日の夕餉は。
いつもと変わらないものだった。
特別な料理を作ることも。
明日の祝いの膳を準備することもなかった。
父、尹 泰成。
母、尹 美蘭。
そして。
柔莉。
三人で食卓を囲んだ。
一つだけ。
席が空いていた。
誰も。
そこには座らなかった。
「……これ」
柔莉が箸を止めた。
「叔父上、好きだったよね」
尹 泰成が料理を見る。
「ああ」
「よく食べてた」
「私の分までな」
「え?」
柔莉が顔を上げた。
「叔父上、お父様の分まで食べてたの?」
「昔からそうだった」
「嘘」
「本当よ」
尹 美蘭が笑う。
「あなたたち、食べ物のことでよく喧嘩していたもの」
「兄上は食べるのが遅いから悪いんだ、と言ってな」
柔莉が吹き出した。
「叔父上、言いそう」
「あいつは昔からそういう男だった」
「お父様、負けたの?」
「負けていない」
「取られたんでしょう?」
「それとこれとは違う」
「同じじゃない」
尹 美蘭が笑った。
柔莉も笑った。
尹 泰成も。
少しだけ笑った。
尹 仁救が死んだと知らされてから。
初めて。
三人で。
仁救の話をして笑った。
柔莉は。
それが嬉しかった。
死んだからといって。
叔父との思い出まで。
悲しいものになってしまうわけではない。
「私、小さい頃ってどんな子だった?」
「急だな」
「聞きたい」
尹 泰成は少し考えた。
「よく喋る子だった」
「今も喋るよ」
「今より酷かった」
「そんなわけない」
「本当よ」
また母が父の味方をする。
「朝、目を覚ました瞬間から話していたわ」
「何を?」
「何でも」
「覚えてない」
「仁救がよく逃げていた」
「ひどい!」
「叔父上、叔父上と追いかけ回していたからな」
「だって叔父上のこと好きだったもん」
言って。
少しだけ。
胸が痛んだ。
それでも。
今度は誰も黙らなかった。
「仁救も、お前のことが大好きだった」
父が言った。
「……うん」
柔莉は。
頷いた。
「知ってる」
それだけは。
ちゃんと知っていた。
◇ ◇ ◇
夕餉を終えた頃。
門が叩かれた。
柔莉は。
その音を聞いただけで分かった。
「……賢俊」
立ち上がる。
「行っておいで」
父が言った。
柔莉が振り返る。
「いいの?」
「ああ」
「でも……」
「待っているのだろう」
昨日。
また明日。
そう約束した。
「……うん」
柔莉は門へ向かった。
開ける。
そこには。
姜 賢俊が立っていた。
「来た」
「……うん」
いつもなら。
それだけで嬉しかった。
今日は。
顔を見た瞬間。
泣きそうになった。
「どうした?」
すぐに気づかれた。
「何でもない」
「何でもない顔じゃない」
「賢俊」
「うん」
柔莉は。
一度。
息を吸った。
「私、明日ここを出るの」
姜 賢俊の表情が止まった。
「……どこへ?」
「妓楼」
「…………」
「妓籍に入ることになった」
長い。
沈黙だった。
「……何で」
「叔父上のことで、連座になったから」
「ユリまで?」
「うん」
「おじさんと、おばさんは?」
「二人は奴婢になる」
「…………」
「でも、私は別」
姜 賢俊が。
柔莉を見る。
「どこの妓楼?」
柔莉は。
答えなかった。
「ユリ」
「……言えない」
「何で?」
「行き先を外の人に話しちゃいけないって言われたから」
「外の人……」
小さく。
姜 賢俊が繰り返した。
柔莉は。
しまったと思った。
「違う」
「…………」
「そういう意味じゃないの」
「でも、俺はもう家族じゃない」
「賢俊」
「婚約者でもない」
「そんな言い方しないでよ……」
「昨日までは、教えてもらえた?」
柔莉は。
答えられなかった。
「昨日まで婚約者だったら、ユリがどこに行くのか知っててよかった?」
「……分からない」
「今日は駄目なの?」
「分からないよ!」
柔莉の声が震えた。
「私だって言いたいよ」
涙が滲む。
「言えるなら言いたい」
「…………」
「でも、駄目だって言われたの」
「…………」
「私だって……」
唇を噛む。
「何でこんなことになったのか、分からないよ」
姜 賢俊は。
何も言わなかった。
そして。
「……行くな」
小さく言った。
「え?」
「妓楼なんか行くな」
「…………」
「ここにいろよ」
「できないよ」
「だったら――」
言いかけて。
止まった。
うちに来い。
そう言いたかった。
けれど。
言えなかった。
昨日。
父が。
二人の婚約を解消したばかりだった。
自分には。
柔莉を姜家へ連れて帰る力すらない。
「……じゃあ」
柔莉が。
静かに聞いた。
「私は、どこに行けばいいの?」
答えられなかった。
「私だって行きたくない」
「…………」
「ここにいたい」
「うん」
「お父様とお母様と一緒にいたい」
「……うん」
「賢俊とも」
姜 賢俊が。
顔を上げた。
「ずっと一緒にいたかった」
「…………」
「でも、無理なんだって」
柔莉が泣いた。
姜 賢俊は。
その涙を見て。
自分も泣きそうになった。
けれど。
今日は。
泣きたくなかった。
昨日。
柔莉の前で散々泣いた。
今日は。
何か一つくらい。
笑って渡したかった。
「……ユリ」
「何?」
「これ」
懐から。
小さな箱を取り出した。
「……何?」
「本当は」
姜 賢俊は。
箱を見つめた。
「明日、渡すつもりだった」
「明日?」
「誕生日」
柔莉の目が。
少しだけ大きくなった。
「……覚えてたの?」
「忘れるわけないだろ」
「私、忘れてた」
「自分の誕生日を?」
「お母様にも言われた」
姜 賢俊が。
ほんの少し。
笑った。
「開けて」
柔莉が箱を受け取る。
ゆっくり。
蓋を開けた。
「…………」
中には。
髪飾りが一本。
細い月を象った飾り。
その月に寄り添うように。
小さな白い百合が咲いている。
柔莉は。
しばらく。
何も言わなかった。
「……月」
「うん」
「百合もついてる」
「ユリ、百合好きだろ」
「……うん」
指先で。
そっと触れる。
「綺麗……」
「気に入った?」
「うん」
「よかった」
姜 賢俊が。
少しだけ。
安心したように笑った。
「誕生日の祝いと」
そこで。
一度。
言葉が止まった。
「……婚約の祝い」
柔莉の指が。
止まった。
「婚約してから、最初の誕生日だったから」
「…………」
「前から作ってもらってた」
「……そうなんだ」
「うん」
柔莉は。
月の髪飾りを見つめた。
「でも」
小さく言った。
「もう、婚約者じゃないよ」
「俺はやめてない」
すぐに。
返ってきた。
「…………」
「ユリは?」
「え?」
「やめたかった?」
柔莉は。
首を横に振った。
「……ううん」
「俺も」
それだけだった。
それだけで。
十分だった。
姜 賢俊が。
箱から月の髪飾りを取る。
「つけてもいい?」
柔莉は。
小さく頷いた。
「うん」
髪に。
そっと。
挿す。
姜 賢俊は。
少し離れて。
柔莉を見た。
「……似合う」
「本当?」
「うん」
「変じゃない?」
「全然」
「賢俊、何でも似合うって言うじゃない」
「言ってない」
「言うよ」
「ユリだから似合うんだよ」
「…………」
「何」
「何でもない」
柔莉は。
顔を逸らした。
空には。
月が出ていた。
「あ」
柔莉が。
空を見上げる。
「月、綺麗」
姜 賢俊は。
月ではなく。
柔莉を見た。
あの日と。
同じだった。
けれど。
今日は。
からかう気にはなれなかった。
「……明日から」
柔莉が言う。
「会えなくなるね」
「…………」
「どこにいるかも、教えられないし」
姜 賢俊も。
月を見上げた。
「それでも」
「うん?」
「月は同じだろ」
柔莉が。
彼を見る。
「どこにいても」
姜 賢俊は言った。
「月は見える」
柔莉は。
髪に挿された飾りへ触れた。
「……月を見たら、私を思い出す?」
「月なんか見なくても思い出す」
柔莉が。
泣きながら笑った。
「何それ」
「本当だから」
「……私も」
「何が?」
「月なんか見なくても」
一度。
息を吸った。
「賢俊のこと、思い出す」
姜 賢俊は。
何も言わなかった。
ただ。
柔莉の手を握った。
柔莉も。
握り返した。
二人は。
しばらく。
そうして月を見た。
話すことは。
たくさんあるはずだった。
それなのに。
何を話せばいいのか。
分からなかった。
だから。
手だけは。
離さなかった。
◇ ◇ ◇
「……そろそろ帰らないと」
柔莉が言った。
姜 賢俊は。
返事をしなかった。
「賢俊」
「分かってる」
分かっている。
でも。
立ち上がれない。
今。
ここを出たら。
次にいつ柔莉に会えるのか。
分からない。
それでも。
やがて。
姜 賢俊は立ち上がった。
柔莉も。
門まで送った。
「……じゃあ」
「うん」
「…………」
「…………」
いつもなら。
言える言葉があった。
また明日。
けれど。
明日は。
もう。
会えない。
柔莉が。
口を開いた。
「賢俊」
「何?」
「今まで――」
「言うな」
「え?」
「それ以上、言うな」
「…………」
「最後みたいだから」
柔莉の目から。
また。
涙が落ちた。
「でも……」
「また会う」
姜 賢俊は。
はっきりと言った。
「絶対に」
「……どこにいるか、分からないよ」
「探す」
「どうやって?」
「分からない」
「…………」
「でも、探す」
柔莉は。
泣きながら笑った。
「妓楼なんて、都にいくつあると思ってるの」
「全部探す」
「馬鹿」
「知ってる」
「見つからなかったら?」
「見つかるまで探す」
「…………」
「だから」
姜 賢俊は。
柔莉を見た。
「さよならは言わない」
柔莉は。
何度も。
頷いた。
「……うん」
「ユリも言うなよ」
「うん」
「絶対」
「分かった」
そして。
二人は。
最後まで。
さよならを言わなかった。
姜 賢俊が。
門を出る。
一度。
振り返る。
柔莉がいる。
もう一度。
歩いて。
また振り返る。
まだ。
いる。
三度目に振り返ったとき。
柔莉は。
泣きながら。
それでも。
笑って手を振った。
姜 賢俊も。
手を上げた。
そして。
今度こそ。
歩き出した。
柔莉は。
その背中が見えなくなっても。
しばらく。
門の前から動かなかった。
髪には。
月の髪飾り。
本当なら。
明日。
婚約者から。
十七歳の誕生日祝いとして受け取るはずだったもの。
柔莉は。
そっと。
その月に触れた。
明日。
十七歳になる。
そして。
明日。
この家を出る。
父とも。
母とも。
姜 賢俊とも。
離れる。
それでも。
今夜。
誰一人。
柔莉に。
さよならとは言わなかった。




