最悪な誕生日
第十二話 十七歳
「お誕生日、おめでとう。柔莉」
目を覚まして。
最初に聞いたのは。
約束していた母の声だった。
尹 柔莉は、ゆっくりと目を開けた。
「……お母様」
「十七歳ね」
尹 美蘭が笑っていた。
泣いていなかった。
だから。
柔莉も笑った。
「……ありがとう、お母様」
十七歳になった。
ずっと楽しみにしていたはずの誕生日だった。
去年までは。
あと何日。
あと何日と数えていた。
今年は。
昨日まで忘れていた。
「起きられる?」
「うん」
起き上がる。
部屋は。
昨日までと何も変わらなかった。
いつもの寝台。
いつもの窓。
いつもの机。
昨日。
姜 賢俊からもらった小さな箱だけが。
そこに増えていた。
柔莉は。
箱を開けた。
月の髪飾り。
細い月に。
白い百合が添えられている。
「……それ」
尹 美蘭が気づいた。
「賢俊がくれたの」
「昨日?」
「うん」
柔莉は。
髪飾りを手に取った。
「本当は、今日くれるつもりだったんだって」
「……そう」
「誕生日と、婚約のお祝い」
母の顔を。
見られなかった。
婚約は。
もうない。
それでも。
髪飾りはここにある。
「つけていく?」
母が聞いた。
柔莉は。
少し迷って。
頷いた。
「……うん」
「では、こちらへいらっしゃい」
幼い頃から。
何度もそうしてもらったように。
柔莉は母の前に座った。
尹 美蘭が。
娘の髪を梳く。
ゆっくり。
丁寧に。
「お母様」
「何?」
「小さい頃も、こうしてくれたよね」
「毎日していたでしょう」
「覚えてる」
「じっとしていなくて、大変だったのよ」
「それは覚えてない」
「都合の悪いことは、何も覚えていないのね」
柔莉が笑った。
母も笑った。
髪をまとめる。
最後に。
月の髪飾りを挿した。
「できたわ」
柔莉が振り返る。
「どう?」
「綺麗よ」
「髪飾りが?」
「柔莉が」
「……お母様」
「本当のことです」
尹 美蘭の指が。
娘の髪に触れた。
月に。
百合に。
そして。
その手が。
柔莉の頬へ降りてきた。
「……よく似合ってる」
今度は。
声が少し震えた。
柔莉は。
母の手に。
自分の手を重ねた。
「これなら」
「うん?」
「持っていけるね」
母の目から。
涙が落ちた。
昨日。
何を持たせられるだろうと。
二人で考えた。
衣も。
書物も。
幼い頃から大切にしていたものも。
何一つ。
持っていけない。
けれど。
今。
身につけているこれは。
持っていける。
柔莉が。
この家で過ごした十七年から。
たった一つ。
持っていけるものだった。
◇ ◇ ◇
朝餉は。
三人で食べた。
いつも通りに。
父、尹 泰成が座って。
母、尹 美蘭が座って。
柔莉が座る。
「誕生日、おめでとう」
父が言った。
「ありがとう、お父様」
「十七か」
「うん」
「早いものだな」
「お父様、昨日もそれ言ってなかった?」
「言っていない」
「言った気がする」
「言っていないわ」
母まで父の味方をする。
「また二人で私に嘘ついてる」
「そんなことはしない」
「するよ」
普通に。
話した。
誰も。
今日のことを口にしなかった。
もうすぐ。
役人が迎えに来る。
それを。
三人とも知っている。
それでも。
最後の朝くらい。
家族でいたかった。
罪人の家族ではなく。
奴婢でもなく。
妓生でもなく。
父と。
母と。
娘として。
食事を終えた頃。
尹 泰成が。
柔莉を呼んだ。
「柔莉」
「何?」
「こちらへ」
父の前に座る。
尹 泰成は。
しばらく。
娘の顔を見ていた。
「これから」
静かな声だった。
「お前に、いろいろなことを言う者がいるかもしれない」
柔莉は黙って聞いた。
「罪人の家の娘だと」
「…………」
「お前も同じだと」
父の手が。
柔莉の手を包んだ。
「だが」
力が込められる。
「何を言われても、お前が悪いわけではない」
「お父様……」
「それだけは、忘れるな」
柔莉の目に。
涙が溜まった。
「お前は何もしていない」
「…………」
「恥じる必要もない」
「うん」
「自分を嫌いになるな」
「……うん」
「誰に何と言われても」
尹 泰成の声が。
初めて。
震えた。
「お前は、私たちの大切な娘だ」
柔莉は。
父に抱きついた。
「お父様……」
尹 泰成が。
娘を抱きしめた。
強く。
「すまない」
「謝らないで」
「守ってやれなかった」
「お父様のせいじゃない」
「それでも……」
「違うよ」
柔莉は。
父の衣を掴んだ。
「お父様も、お母様も悪くない」
尹 美蘭が。
二人を抱きしめた。
三人で。
泣いた。
声を殺す必要なんて。
もうなかった。
◇ ◇ ◇
門の外から。
人の声がした。
迎えが来た。
三人とも。
分かった。
尹 美蘭が。
柔莉の手を握った。
「柔莉」
「うん」
「あなたの名前」
「……名前?」
「お父様と私で、たくさん考えたのよ」
柔莉が。
母を見る。
「生まれる前から」
母は。
泣きながら。
それでも。
笑った。
「どんな名前なら、この子が幸せになれるだろうって」
「…………」
「だから」
母の指が。
娘の頬を撫でる。
「私は、あなたの名前が大好き」
柔莉の唇が。
震えた。
「……私も」
「うん」
「私も、好き」
尹 柔莉。
父と母が。
自分にくれた名前。
生まれて。
最初にもらったもの。
「どこへ行っても」
尹 美蘭が言った。
「あなたは、私たちの柔莉よ」
「……うん」
「忘れないで」
「絶対、忘れない」
門が。
叩かれた。
今度は。
強く。
時間だった。
柔莉は。
父を見た。
母を見た。
何と言えばいいのか。
分からなかった。
さようなら。
それだけは。
言いたくなかった。
昨日。
姜 賢俊にも。
言わなかった。
だから。
柔莉は。
いつものように。
言った。
「……行ってきます」
母が。
顔を覆いたくなるのを堪えるように。
唇を噛んだ。
父が。
一度。
目を閉じた。
そして。
「行ってらっしゃい」
尹 泰成が言った。
「……行ってらっしゃい、柔莉」
尹 美蘭も。
続いた。
「うん」
柔莉は。
笑った。
「行ってきます」
◇ ◇ ◇
生まれ育った家を。
出た。
振り返らなかった。
振り返れば。
走って戻ってしまいそうだった。
月の髪飾りだけを。
何度も。
指で確かめた。
ある。
ちゃんと。
ここにある。
歩いた。
知らない道を。
役人に連れられて。
歩いた。
どれくらい歩いたのか。
分からなかった。
やがて。
足が止まった。
柔莉は。
顔を上げた。
大きな門。
華やかな建物。
その上に掲げられた文字。
百華楼。
ここが。
今日から。
自分が生きる場所。
「入りなさい」
背中を促された。
一歩。
門をくぐる。
その瞬間だった。
「いつまでそこで突っ立ってるんだい!」
大きな声が飛んできた。
柔莉が。
びくりと肩を揺らす。
「邪魔だよ! 入るならさっさと入りな!」
見ると。
一人の女が立っていた。
年の頃は五十ほど。
腕を組み。
ものすごく。
怖い顔をしている。
「……あの」
「聞こえなかったのかい?」
「い、いえ」
「だったら入りな!」
柔莉は。
慌てて中へ入った。
女は。
頭の先から足の先まで。
柔莉を見る。
そして。
髪で。
目を止めた。
月の髪飾り。
「それ」
柔莉が。
反射的に髪へ手を伸ばした。
「……取らなきゃ駄目ですか」
女は。
眉を上げた。
「誰がそんなこと言った」
「え?」
「大事なんだろ」
「…………はい」
「なら持っときな」
それだけ言って。
女は背を向けた。
「ついてきな」
柔莉は。
少し遅れて。
その背中を追った。
「私は春花」
女が言う。
「ここの女将だ」
「……はい」
「返事はもう少し大きく」
「はい!」
「うるさい」
「…………」
どうすればいいの。
柔莉が。
初めて。
少しだけ困った顔をした。
春花が。
ちらりと振り返る。
「名前は」
「尹 柔莉です」
「そうかい」
春花は。
それ以上。
何も聞かなかった。
罪人の家の娘なのか。
何をしたのか。
なぜここへ来たのか。
何も。
聞かなかった。
「こっちだよ」
廊下を進む。
何人もの女たちとすれ違った。
華やかな衣。
美しく結われた髪。
笑い声。
知らない匂い。
知らない声。
知らない場所。
柔莉は。
自分だけが。
ここにいてはいけない人間のような気がした。
「春花様」
前から。
一人の女が歩いてきた。
美しい。
柔莉は。
思わず見つめた。
女も。
柔莉を見る。
「その子?」
「ああ」
春花が答えた。
「今日からここにいる」
女は。
柔莉の前で足を止めた。
「私は雪華」
「……柔莉です」
「そう」
雪華の視線が。
一瞬。
月の髪飾りへ向いた。
けれど。
何も言わなかった。
「あとで中を案内してやって」
「分かりました」
「それから――」
春花が。
柔莉を見る。
「ここで使う名前を決めな」
「……名前?」
「そう」
「柔莉じゃ、駄目なんですか」
「駄目ってわけじゃない」
春花は言った。
「でも、ここじゃ別の名を使う女が多い」
「…………」
「今までの名を使いたくない者もいる」
柔莉は。
黙った。
「忘れたい者も」
春花が続ける。
「忘れたくない者もいる」
「…………」
「どっちでもいい」
柔莉は。
春花を見る。
「自分で決めな」
「自分で……?」
「あんたの名前だろ」
春花は。
当たり前のように言った。
「名前くらい、自分で決めな」
柔莉は。
自分の髪へ。
手を伸ばした。
指先に。
月の髪飾りが触れる。
父と母がくれた。
柔莉という名前。
忘れたくない。
捨てたくない。
私は。
柔莉。
それは。
変わらない。
けれど。
ここで。
生きなければならない。
昨夜。
同じ月を見た。
どこにいても。
月は同じだと。
そう言ってくれた人がいた。
柔莉は。
髪にある月へ触れたまま。
顔を上げた。
「……月」
春花が。
待っている。
「月華」
口にした。
初めて。
自分で。
自分のために選んだ名前。
「月華にします」
春花は。
一度だけ。
頷いた。
「そうかい」
それだけだった。
柔莉と。
呼ばれなくなる日が来るなんて。
昨日まで。
考えたこともなかった。
それでも。
柔莉という名前を。
捨てたわけではない。
父と母がくれた名前は。
胸の中に。
ちゃんとある。
そして。
髪には。
姜 賢俊がくれた月がある。
十七歳の誕生日。
尹 柔莉は。
百華楼へ来た。
そして。
その日。
月華が生まれた。




