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月華

第十三話 月華



「月華(ウォルファ)」



呼ばれて。


尹 柔莉(ユン・ユリ)は、振り返らなかった。



「月華(ウォルファ)」



もう一度。



それでも。


自分が呼ばれているとは思わなかった。



「……あんたのことだよ」



隣から言われて。


ようやく顔を上げる。



そこには。


先ほど春花(チュンファ)から紹介された女が立っていた。



雪華(ソルファ)。



柔莉(ユリ)より四つ年上。


十六の頃から、この百華楼(ペッカル)にいるという。



「あ……」



自分で選んだ名前なのに。


まだ。


自分の名前だという気がしない。



「すみません」



「謝らなくていいよ」



雪華(ソルファ)は、呆れたように言った。



「でも、早く慣れな」



「……はい」



月華(ウォルファ)。



心の中で。


もう一度、繰り返した。



今日から。


ここでは。


そう呼ばれる。



「行くよ」



雪華(ソルファ)が歩き出した。



「春花(チュンファ)様から、中を案内するように言われてる」



「はい」



慌てて。


その背中を追った。




   ◇ ◇ ◇




百華楼(ペッカル)は。


外から見ていたよりも。


ずっと広かった。



客を迎える部屋。


酒や料理が並ぶ広間。


琴や舞を披露する場所。



表からは見えない奥には。


ここで暮らす女たちの部屋や。


食事をする場所もある。



「ここが厨房」



「はい」



「食事の時間は決まってる。でも仕事があれば、ずれることもある」



「はい」



「湯を使うときは、先に誰かに聞いて」



「はい」



「それから衣は――」



「はい」



「客の前に出るときは――」



「はい」



「…………」



雪華(ソルファ)が。


足を止めた。



月華(ウォルファ)も止まる。



「何ですか?」



「そんなに必死に覚えなくていいよ」



「え?」



「顔が怖い」



「……怖い?」



「全部覚えなきゃって顔してる」



図星だった。



「だって……覚えないと」



「今日だけで全部覚えられるわけないでしょう」



「でも」



「明日もいるんだから」



その言葉に。



月華(ウォルファ)の表情が止まった。



明日も。



いる。



ここに。



明後日も。



その次の日も。



父と母のいる家へ帰るのではなく。



ここで。


朝を迎える。



「…………そうですね」



雪華(ソルファ)は。


月華(ウォルファ)の顔を見た。



けれど。


大丈夫だとも。


すぐに慣れるとも。


言わなかった。



「次、行くよ」



ただ。


それだけ言って歩き出した。



月華(ウォルファ)には。


その方がありがたかった。




   ◇ ◇ ◇




「危ない!」



突然。


声が飛んできた。



「え――」



腕を引かれる。



次の瞬間。



大きな荷を抱えた男が。


すぐ横を通り過ぎていった。



「前見て歩けよ!」



荷を抱えた男の声が遠ざかる。



月華(ウォルファ)は。


目を瞬いた。



「……大丈夫?」



腕を掴んでいた男が聞いた。



「あ……はい」



「ならよかった」



手が離れる。



若い男だった。



「春昊(チュンホ)」



雪華(ソルファ)が呼んだ。



「何?」



「今日来た子」



「ああ」



春昊(チュンホ)が。


改めて月華(ウォルファ)を見る。



「名前は?」



「…………」



一瞬。



また。



答えるのが遅れた。



「……月華(ウォルファ)です」



「月華(ウォルファ)」



春昊(チュンホ)が。


その名前を繰り返した。



「俺は春昊(チュンホ)」



「よろしくお願いします」



月華(ウォルファ)が頭を下げる。



そのとき。



春昊(チュンホ)の視線が。


月華(ウォルファ)の髪で止まった。



「それ」



反射的に。


月華(ウォルファ)は髪へ手を伸ばした。



月の髪飾り。



「綺麗だな」



「……ありがとうございます」



「大事なもの?」



「はい」



今度は。


迷わなかった。



春昊(チュンホ)は。


それ以上、何も聞かなかった。



「なら、なくさないようにな」



「はい」



春昊(チュンホ)が。


雪華(ソルファ)を見る。



「そうだ。母さん、今日は機嫌悪いから気をつけて」



「春花(チュンファ)様?」



「うん」



「今度は何があったの?」



「仕入れ値が上がった」



「ああ……」



雪華(ソルファ)が。


すべてを察したような顔をする。



月華(ウォルファ)は。


二人を交互に見た。



「……母さん?」



「ん?」



「春花(チュンファ)様が……?」



「ああ」



春昊(チュンホ)が答える。



「俺の母親」



「えっ」



思わず。



声が出た。



春昊(チュンホ)が眉を上げる。



「何」



「いえ……」



「似てない?」



「…………」



答えられない。



隣で。


雪華(ソルファ)が吹き出した。



「困らせないの」



「いや、絶対今、似てないって思っただろ」



「思ってません」



「嘘だ」



「思ってません」



「顔に出てる」



「出てません」



春昊(チュンホ)が笑った。



「まあいいや。じゃあな、月華(ウォルファ)」



「あ……はい」



春昊(チュンホ)が去っていく。



月華(ウォルファ)は。


その背中を見送った。



妓楼。



もっと。


息をすることさえ怖い場所なのだと思っていた。



もちろん。



怖くないわけではない。



これから。


何をしなければならないのか。



誰と会うのか。



まだ何も知らない。



それでも。



今のやり取りは。



少しだけ。



普通だった。




   ◇ ◇ ◇




「姐さん!」



廊下の向こうから。



明るい声がした。



一人の少女が。


こちらへ駆けてくる。



「新しい子が来たって聞いた!」



「走らない」



雪華(ソルファ)が言う。



「だって気になるじゃん」



「転ぶよ」



「転ばないって」



そう言いながら。


少女はこちらまでやってきた。



そして。



月華(ウォルファ)を見つける。



「あ」



月華(ウォルファ)も。


少女を見る。



年は。


自分とそう変わらないように見えた。



少女は。



月華(ウォルファ)の顔を見て。



衣を見て。



そして。



髪で目を止めた。



「……綺麗」



「え?」



「髪飾り」



月華(ウォルファ)は。


また。


月へ触れた。



「……ありがとう」



「月?」



「うん」



「花もついてる」



「百合」



「へえ……」



少女が。


近くで見ようと顔を寄せる。



「誰にもらったの?」



「ちょっと」



雪華(ソルファ)が止めた。



「あ」



少女が口を押さえる。



「ごめん」



「……ううん」



「私、気になるとすぐ聞いちゃうの」



「見れば分かるよ」



雪華(ソルファ)が言う。



「姐さんは黙ってて」



「はいはい」



少女は。


もう一度。


月華(ウォルファ)へ向き直った。



「私は星華(ソンファ)」



「星華(ソンファ)……」



「うん」



にこりと笑う。



「よろしくね、月華(ウォルファ)」



また。



新しい名前で呼ばれた。



月華(ウォルファ)。



今度は。



ちゃんと。



自分が呼ばれていると分かった。



「……よろしくお願いします」



「敬語じゃなくていいよ」



「え?」



「同じくらいでしょう?」



星華(ソンファ)が。


月華(ウォルファ)の顔を覗き込む。



「何歳?」



「今日……十七になった」



「今日?」



星華(ソンファ)の目が。


大きくなる。



「今日が誕生日なの!?」



「……うん」



「姐さん!」



「何」



「今日だって!」



「聞こえてたよ」



「誕生日!」



「それも聞こえてる」



「ちょっと待ってて!」



「え?」



言うなり。



星華(ソンファ)が走っていく。



「走るなって言ったでしょう!」



雪華(ソルファ)の声が飛ぶ。



「分かってるー!」



「分かってない!」



月華(ウォルファ)は。



呆然と。


その背中を見送った。



「……何だったんですか?」



「さあ」



雪華(ソルファ)は。


慣れているのか。


まったく気にしていない。



しばらくすると。



本当に。


星華(ソンファ)が戻ってきた。



「はい!」



何かを差し出される。



月華(ウォルファ)は。


手元を見る。



小さな菓子だった。



「……これ?」



「私の今日のおやつ」



「え?」



「まだ食べてなかったから」



「でも……」



「今日、誕生日なんでしょう?」



星華(ソンファ)が。



笑った。



「おめでとう、月華(ウォルファ)」



月華(ウォルファ)は。



何も言えなかった。



朝。



母が言ってくれた。



――お誕生日、おめでとう。柔莉(ユリ)。



父も。



――誕生日、おめでとう。



二人とも。



自分を。



柔莉(ユリ)と呼んだ。



そして。



ここへ来て。



初めて。



「月華(ウォルファ)」として。



誕生日を祝われた。



「…………ありがとう」



菓子を受け取る。



ただの。



小さな菓子だった。



なのに。



視界が滲んだ。



「え」



星華(ソンファ)の顔から。


笑顔が消える。



「ちょっと、待って」



月華(ウォルファ)は。


慌てて目元を拭った。



「泣いてない」



「泣いてる!」



「泣いてない」



「姐さん!」



星華(ソンファ)が。


雪華(ソルファ)を振り返る。



「どうしよう! 泣かせちゃった!」



「私は知らないよ」



「姐さん!」



「嬉しくても泣くことくらいあるでしょう」



「……え?」



星華(ソンファ)が。



月華(ウォルファ)を見る。



「嬉しいの?」



月華(ウォルファ)は。



手の中の菓子を見た。



「……うん」



「本当?」



「本当」



「よかったぁ……」



星華(ソンファ)が。


大きく息を吐いた。



その様子がおかしくて。



月華(ウォルファ)は。



少し。



笑った。



十七歳の誕生日。



最悪な誕生日だった。



大好きな家を出た。



父と母から離された。



婚約者とも離れた。



そして。



妓楼へ来た。



きっと。



一生。



忘れない。



それでも。



その日に。



初めて会った少女から。



小さな菓子を一つ。



もらった。



それも。



きっと。



忘れない。




   ◇ ◇ ◇




夜。



与えられた部屋で。



月華(ウォルファ)は。


一人になった。



知らない天井。



知らない寝台。



知らない匂い。



家ではない。



当たり前だった。



ここは。



今日初めて来た場所なのだから。



月華(ウォルファ)は。



窓を開けた。



夜の空。



そこには。



月があった。



「…………」



髪から。



月の髪飾りを外す。



掌に乗せた。



細い月。



その傍らに。



白い百合。



昨日。



姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)が。



自分の髪に挿してくれたもの。



――月なんか見なくても思い出す。



思い出して。



少しだけ。



笑った。



「……私もだよ」



賢俊(ヒョンジュン)。



今。



何をしているだろう。



昨日。



見つかるまで探すと。



言ってくれた。



けれど。



自分がここにいることを。



賢俊(ヒョンジュン)は知らない。



百華楼(ペッカル)。



その名前さえ。



教えることができなかった。



会いたい。



お父様。



お母様。



賢俊(ヒョンジュン)。



叔父上。



帰りたい。



帰りたい。



帰りたい。



何度思っても。



帰れない。



月華(ウォルファ)は。



目を閉じた。



今日。



ここへ来た。



春花(チュンファ)に。



名前くらい自分で決めろと言われた。



雪華(ソルファ)に。



明日もいるのだから。



今日すべて覚えなくていいと言われた。



春昊(チュンホ)に。



月の髪飾りを綺麗だと言われた。



星華(ソンファ)に。



小さな菓子をもらった。



――おめでとう、月華(ウォルファ)。



月華(ウォルファ)は。



掌の髪飾りを。



そっと胸元へ抱いた。



最悪な誕生日だった。



それでも。



全部が。



最悪だったわけではなかった。



「……明日も」



小さく。



呟く。



明日も。



ここにいる。



なら。



明日も。



生きなければならない。



十七歳。



最初の夜。



尹 柔莉(ユン・ユリ)は。



月華(ウォルファ)として。



百華楼(ペッカル)で。



初めて眠った。

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