見て覚えな
第十四話 見て覚えな
百華楼で迎えた、最初の朝。
尹 柔莉――月華は。
いつもより早く目を覚ました。
知らない天井を見つめて。
一瞬。
自分がどこにいるのか分からなかった。
けれど。
枕元に置いた月の髪飾りを見て。
思い出した。
ここは。
百華楼。
昨日。
十七歳の誕生日に。
自分が送られてきた場所。
「…………」
起き上がる。
泣かなかった。
昨日。
たくさん泣いたから。
月華は。
月の髪飾りを手に取った。
今日も。
髪に挿した。
◇ ◇ ◇
「それで」
春花が腕を組んだ。
「何を突っ立ってるんだい」
「……え?」
朝餉を終えた月華は。
目を瞬いた。
「何をすればいいのかと思って……」
「仕事だよ」
「それは分かっています」
「なら動きな」
「何をすれば……」
「見て覚えな!」
「…………」
月華は。
固まった。
「見て……?」
「覚えな!」
「何を見ればいいんですか?」
「それを見つけるところからだよ!」
無茶だ。
そう思った。
けれど。
口には出さなかった。
昨日会ったばかりでも。
それくらいは分かる。
この人に口答えをすると。
たぶん。
もっと怒鳴られる。
「……はい」
「返事だけはいいね!」
「はい!」
「声が大きい!」
「…………はい」
どうすればいいの。
後ろから。
小さな笑い声が聞こえた。
振り返る。
星華が。
口元を押さえている。
「笑わないで」
「だって……私も同じこと言われたから」
「星華も?」
「うん。『何を見ればいいんですか』って」
「同じじゃん」
「同じ」
二人で。
少し笑った。
「そこ!」
春花の声が飛んでくる。
「喋ってる暇があるなら手を動かしな!」
「はい!」
二人の声が。
綺麗に重なった。
◇ ◇ ◇
見て覚えろ。
そう言われても。
最初は。
本当に何を見ればいいのか分からなかった。
女たちは朝から動いている。
衣を整える者。
部屋を掃除する者。
昨日使った器を片づける者。
琴の稽古をする者。
舞を繰り返す者。
月華は。
とりあえず。
一番近くにいた雪華の後ろをついて歩いた。
「……何してるの?」
振り返った雪華に聞かれる。
「見ています」
「何を?」
「雪華姐さん(ソルファねえさん)を」
「…………」
雪華が。
少しだけ笑った。
「春花様に言われた?」
「見て覚えろって」
「ああ」
納得したように頷く。
「私も言われたよ」
「雪華姐さん(ソルファねえさん)も?」
「ここにいる子は、大体言われてる」
「……ちゃんと教えてくれればいいのに」
思わず。
本音が漏れた。
雪華が笑う。
「聞こえたら怒られるよ」
月華は。
慌てて周囲を見た。
春花はいない。
「……よかった」
「でもね」
雪華が。
手にしていた器を月華へ渡した。
「見て覚えるのも、大事なんだよ」
「どうして?」
「客はみんな違うから」
「…………」
「同じように笑って、同じように酒を注いでいればいいわけじゃない」
雪華は。
別の器を手に取った。
「喋りたい人もいる」
置く。
「静かに飲みたい人もいる」
また一つ。
「自慢話を聞いてほしい人もいる」
「それはちょっと面倒そう」
「面倒だよ」
即答だった。
月華が。
思わず笑う。
「だから見るの」
雪華が言った。
「顔を。手を。酒の減り方を。誰と来たのか。何を話しているのか」
「…………」
「言われたことだけやってたら、いつまでも分からないから」
月華は。
手の中の器を見た。
見て覚えな。
ただの。
乱暴な言葉だと思った。
でも。
少しだけ。
意味が分かった気がした。
◇ ◇ ◇
月華は。
見た。
雪華が。
どう歩くのか。
どう座るのか。
どう酒を注ぐのか。
どう笑うのか。
星華が。
客の前と。
裏で。
どれほど違う顔をしているのか。
「疲れたぁ……」
客が帰った瞬間。
星華が机に突っ伏した。
月華は。
目を丸くした。
「さっきまで笑ってたじゃん」
「仕事だから」
「すごく楽しそうだった」
「仕事だから」
「ずっと笑ってた」
「だから仕事なの!」
星華が。
顔だけを上げる。
「頬が痛い」
「そんなに?」
「月華もそのうち分かるよ」
「嫌だな……」
「大丈夫。慣れる」
そこへ。
雪華が通りかかった。
「星華」
「何、雪華姐さん(ソルファねえさん)」
「客がまだ廊下にいるよ」
「えっ」
星華の背筋が。
一瞬で伸びた。
「またお越しくださいませ」
にこり。
さっきまで。
机に突っ伏していた人とは思えない。
客が見えなくなる。
「…………疲れたぁ」
再び。
机に突っ伏した。
月華は。
とうとう吹き出した。
「笑わないでよ!」
「だって……!」
「月華だって絶対こうなるから!」
「ならない」
「なる!」
「ならないよ」
「雪華姐さん(ソルファねえさん)!」
星華が助けを求める。
雪華は。
二人を見て。
「なるね」
「ほら!」
「雪華姐さん(ソルファねえさん)まで……」
月華は。
頬を膨らませた。
◇ ◇ ◇
数日が過ぎた。
「違う!」
春花の声が響く。
月華の肩が。
びくりと跳ねた。
「酒はそんなに入れるんじゃないよ!」
「でも、まだ入り――」
「入るかどうかじゃない!」
「はい」
「もう一回!」
酒器を持つ。
注ぐ。
「多い!」
「…………」
もう一度。
「少ない!」
「…………」
もう一度。
「遅い!」
「…………」
月華は。
酒器を置いた。
「春花様」
「何だい」
「正解を教えてください」
「見て覚えな!」
「またそれ……」
「何か言った?」
「何も言ってません」
後ろで。
星華が笑っている。
「星華!」
「はい!」
「笑ってないで手本を見せな!」
「私!?」
「早く!」
「はい!」
星華が。
月華から酒器を受け取る。
さらり。
酒を注ぐ。
春花が。
月華を見る。
「見たかい」
「見ました」
「じゃあやりな」
月華が。
真似をする。
今度は。
春花が何も言わなかった。
「……どうですか?」
「次!」
「え、今のは?」
「できてるから次に行くんだよ!」
「それならそう言ってください!」
「調子に乗るんじゃないよ!」
「乗ってません!」
「口答えする元気は出てきたじゃないか!」
「…………」
星華が。
また笑った。
◇ ◇ ◇
月華には。
できることもあった。
「字が綺麗だね」
帳面を見ながら。
春花が言った。
「家で習いました」
「計算は?」
「できます」
「琴は」
「少し」
「舞は?」
「習ったことはあります」
春花が。
じっと月華を見る。
「何だい」
「……何がですか?」
「何もできないわけじゃないじゃないか」
月華の顔が。
少し明るくなる。
「それって、褒めてます?」
「調子に乗るんじゃないよ」
「…………」
やっぱり。
褒めてくれない。
春花が。
帳面を持って歩いていく。
その背中を見ながら。
月華が呟いた。
「絶対、今ちょっと褒めたのに」
「褒めたね」
隣にいた星華が言う。
「やっぱり?」
「春花様にしては、かなり褒めた」
「……あれで?」
「うん」
百華楼では。
褒め言葉まで。
自分で見つけなければならないらしい。
◇ ◇ ◇
さらに。
日が過ぎた。
月華は。
廊下で迷わなくなった。
厨房の場所も。
衣をしまう場所も。
誰に何を聞けばいいのかも。
分かるようになった。
「月華!」
遠くから。
春花の声。
「はい!」
すぐに。
返事が出た。
「これ、奥へ持っていきな!」
「はい!」
受け取って。
歩き出す。
もう。
月華と呼ばれて。
振り返ることに。
迷わない。
「月華」
今度は。
春昊。
「何?」
「これもついでに」
「重い」
「持てる」
「春昊が持ってよ」
「俺、今から外」
「じゃあ帰ってきてから」
「それじゃ遅い」
「もう……」
文句を言いながら。
受け取る。
春昊が。
少し笑った。
「何?」
「いや」
「何なの」
「最初より喋るようになったなと思って」
「…………」
言われて。
月華は。
少しだけ。
驚いた。
そうかもしれない。
最初は。
何を言われても。
はい。
しか言えなかった。
「悪い?」
「悪くない」
春昊は。
そう言って。
出ていった。
月華は。
その背中を見送った。
そして。
自分でも。
少しだけ笑った。
◇ ◇ ◇
夜になれば。
今でも。
月の髪飾りを外して。
掌に乗せた。
それだけは。
毎日変わらなかった。
「……賢俊」
小さく。
名前を呼ぶ。
姜 賢俊は。
まだ。
月華がここにいることを知らない。
探しているだろうか。
本当に。
探してくれているだろうか。
会いたい。
その気持ちは。
一日も。
消えなかった。
父と母にも。
会いたかった。
どこにいるのか。
元気なのか。
何も分からない。
それでも。
朝になれば。
起きる。
髪を結う。
月の髪飾りを挿す。
そして。
誰かが。
「月華」
と呼ぶ。
最初は。
借り物のようだった名前が。
少しずつ。
自分の中へ。
馴染んでいった。
◇ ◇ ◇
百華楼へ来て。
三月ほどが過ぎた。
「月華、それこっち!」
「今行く!」
「星華、あんたは先に支度!」
「分かってます!」
「返事する暇があるなら動きな!」
「返事しないと怒るじゃん……」
「何か言ったかい!?」
「何も言ってません!」
月華は。
思わず笑った。
「笑ってる場合じゃないよ、月華!」
「はい!」
百華楼の夜が。
始まる。
灯りがともる。
酒が運ばれる。
琴の音が聞こえる。
客が。
次々と門をくぐる。
その中に。
一人。
若い男がいた。
「いらっしゃいませ」
女たちが。
慣れた様子で迎える。
「世俊様」
男は。
楽しそうに笑った。
「今日も賑やかだな」
朴 世俊。
百華楼の常連。
そして。
姜 賢俊の友人。
その男が。
百華楼へ。
やって来た。




