百華楼の常連
第十五話 百華楼の常連
「雪華は?」
百華楼へ入ってくるなり。
朴 世俊はそう尋ねた。
「世俊様、今日も雪華ですか?」
女の一人が笑う。
「今日も、じゃない。今日も雪華なんだよ」
「昨日もいらしたでしょう?」
「昨日は昨日。今日は今日」
「明日もですか?」
「雪華が会ってくれるなら」
「毎日じゃないですか」
周囲から笑い声が上がった。
世俊は。
百華楼では珍しくもない客だった。
むしろ。
来ない日の方が珍しいのではないかと。
冗談を言われるほど。
そして。
世俊が百華楼へ来れば。
決まって尋ねる名がある。
雪華。
「雪華なら、もうすぐ来ますよ」
「じゃあ待つ」
「最初からそのつもりでしょう」
「よく分かってるな」
「何年通ってると思ってるんですか」
世俊は笑って。
いつもの部屋へ向かった。
◇ ◇ ◇
「雪華」
呼ばれて。
雪華が振り返った。
「世俊様がお見えです」
「また?」
思わず。
口から出た。
「昨日もいらしてましたよね?」
「ええ」
「…………」
雪華は。
小さく息を吐いた。
来ること自体は。
珍しくない。
むしろ。
来ない方が珍しい。
けれど。
昨日も来て。
今日も来る。
そして。
おそらく。
明日も来る。
「いつものお部屋でお待ちです」
「分かりました」
雪華は。
手にしていたものを置いて。
衣を整えた。
そのまま。
廊下を歩いていく。
途中。
向こうから。
盆を抱えた月華が歩いてきた。
「雪華姐さん(ソルファねえさん)」
「月華」
すれ違いざま。
雪華が声をかける。
「それ、どこへ?」
「奥のお部屋です」
「そう。気をつけてね」
「はい」
月華が。
ぺこりと頭を下げる。
雪華は。
そのまま歩いていった。
いつもの部屋。
戸の前まで来て。
一度。
息を吐く。
そして。
戸を開けた。
「また来たんですか」
部屋の中では。
朴 世俊が。
すでに待っていた。
「馴染みの客に対する第一声がそれ?」
「昨日も来た客に対する第一声です」
「昨日は昨日だろ」
「さっきも同じことを言っていたそうですね」
「もう聞いたの?」
「世俊様の声はよく通りますから」
「褒めてる?」
「いいえ」
雪華は。
世俊の向かいに座った。
慣れた手つきで。
酒器を取る。
「今日は何を飲みます?」
「雪華が注いでくれるなら何でも」
「では、水を」
「酒にして」
「何でもいいと言ったでしょう」
「水を飲みに百華楼まで来る男がいるか?」
「世俊様なら来そうですけど」
「俺を何だと思ってるんだ」
「百華楼の常連」
「間違ってないな」
世俊が笑った。
雪華は。
呆れたように。
世俊の杯へ酒を注ぐ。
長い付き合いだった。
世俊は。
女が好きで。
酒が好きで。
賑やかな場所が好きで。
妓楼が好き。
百華楼にも。
もう何年も通っている。
けれど。
嫌がる女に。
無理を言うことはない。
妓生だからと。
見下すこともない。
口は軽い。
態度も軽い。
けれど。
越えてはいけないところは。
きちんと知っている。
だから。
雪華も。
世俊には。
遠慮がなかった。
「それで」
雪華が。
酒器を置く。
「今日は何の話です?」
「俺、話がないと来ちゃ駄目なの?」
「では黙って飲んでください」
「冷たいなぁ」
「昨日も聞きました」
「昨日より冷たくない?」
「気のせいです」
世俊が。
杯を口へ運ぶ。
そのとき。
開いた戸の向こうを。
誰かが通った。
「…………」
世俊の視線が。
廊下へ向く。
先ほど。
雪華とすれ違った少女だった。
用事を終えたのか。
今度は。
空になった盆を持って歩いている。
「雪華」
「何です?」
「あの子」
雪華が。
廊下を見る。
「ああ」
「見ない顔だな」
「三月ほど前に入った子です」
「三月?」
「ええ」
世俊が。
少女を見る。
「名前は?」
「月華」
「月華」
世俊が。
その名を。
一度。
口の中で繰り返した。
「新入りか」
「そうですけど」
雪華が。
じろりと。
世俊を見る。
「何だよ」
「何も」
「その顔、絶対何か思ってるだろ」
「別に」
「俺、まだ何もしてないぞ」
「まだ、でしょう?」
「信用ないなぁ」
「何年のお付き合いだと思ってるんですか」
「長い付き合いなら、もう少し信用してくれてもいいだろ」
「長い付き合いだから言ってるんです」
世俊は。
声を上げて笑った。
そして。
廊下へ顔を向ける。
「おーい」
少女は。
そのまま歩いていく。
「新入り」
ぴたり。
足が止まった。
ゆっくり。
振り返る。
月華は。
自分を指差した。
「……私ですか?」
「そう。君」
世俊が。
手招きする。
月華は。
少しだけ。
困った顔をした。
知らない客。
けれど。
部屋の中には。
雪華がいる。
月華は。
空になった盆を持ったまま。
部屋の前まで歩いていった。
「雪華姐さん(ソルファねえさん)」
「ごめんね、月華」
雪華が。
世俊へ目を向ける。
「この人が呼んだの」
「この人って言うなよ」
月華は。
世俊を見る。
上等な衣。
気安い態度。
そして。
雪華との。
遠慮のないやり取り。
百華楼へ来て。
まだ三月の月華にも。
この男が。
相当な馴染み客なのだということは分かった。
「……何でしょうか」
「名前、月華だって?」
「はい」
「俺は朴 世俊」
「……はい」
「…………」
「…………」
世俊が。
少し待った。
けれど。
月華は。
それ以上。
何も言わない。
「それだけ?」
「え?」
「俺、名乗ったんだけど」
「はい。聞きました」
「反応薄くない?」
月華が。
困ったように。
雪華を見る。
「……何と答えればいいんですか?」
雪華が。
ふっと。
顔を逸らした。
「雪華、今笑っただろ」
「笑ってません」
「絶対笑った」
「気のせいです」
世俊が。
月華を見る。
「面白いな、君」
「そうですか?」
「そうでもないかも」
「どっちですか」
今度こそ。
雪華が笑った。
「ほら、笑った」
「世俊様が変なことを言うからです」
「俺のせい?」
「世俊様のせいです」
月華は。
二人を見比べた。
変な客だ。
でも。
怖くはない。
そう思った。
世俊が。
ふと。
月華の髪へ。
目を向ける。
「それ」
月華の手が。
反射的に。
月の髪飾りへ触れた。
「……これですか?」
「月?」
「はい」
「変わった髪飾りだな」
世俊が。
少しだけ身を乗り出す。
「花もついてる」
「……百合です」
「百合?」
「はい」
月華は。
月の髪飾りへ触れたまま。
小さく頷いた。
「大切なものなので」
「へえ」
世俊は。
もう一度。
髪飾りを見る。
細い月。
そのそばに。
小さな白い百合。
「綺麗だな」
「……ありがとうございます」
それだけ。
世俊は。
誰からもらったのか。
どうして大切なのか。
聞かなかった。
けれど。
月と。
白い百合。
その形だけは。
妙に。
頭に残った。
「世俊様」
雪華が。
酒器を持ち上げる。
「月華は仕事中ですよ」
「ああ。悪い悪い」
「いえ」
月華が。
小さく頭を下げる。
「では、失礼します」
そう言って。
部屋を離れようとした。
「そういや」
世俊が。
何でもない調子で。
口を開いた。
「三月といえば」
月華は。
まだ。
何も思わなかった。
「俺の友達にもさ」
世俊は。
杯を手に。
雪華へ話しかける。
「この三月、ずっと妓楼を回ってる奴がいるんだよ」
月華の。
足が。
止まった。




