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第十六話 姜家の三男坊
「この三月、ずっと妓楼を回ってる奴がいるんだよ」
月華の。
足が。
止まった。
三月。
その言葉だけが。
妙に。
耳に残った。
「妓楼を?」
雪華が聞く。
「ああ」
世俊は。
何でもない話でもするように。
杯を傾けた。
「俺の友達。良家の両班の三男坊なんだけどさ」
「世俊様のお友達なら、妓楼がお好きなのでは?」
「それが正反対」
世俊が笑う。
「むしろ、ずっと嫌がってた」
「嫌がってた?」
「ああ。俺が何回誘ったと思う?」
「知りません」
「数え切れないくらい」
「迷惑だったでしょうね」
「雪華、今日ちょっと冷たくない?」
「いつもです」
「そうだった」
世俊が。
また笑う。
月華は。
まだ。
部屋の前に立っていた。
帰らなければ。
そう思うのに。
足が。
動かなかった。
「昔から堅い奴でさ」
世俊が続ける。
「俺が『妓楼行こうぜ』って誘っても、絶対来ない」
「真面目な方なんですね」
「真面目っていうか……」
世俊が。
少し考える。
「興味がないんだよ」
「妓楼に?」
「妓楼にも。他の女にも」
月華の。
指先が。
わずかに動いた。
「一回、聞いたことがあるんだ」
世俊が。
昔を思い出すように。
笑った。
◇ ◇ ◇
「賢俊」
まだ。
何も失われていなかった頃。
世俊は。
隣を歩く友人の肩へ。
腕を回した。
「今夜、付き合えよ」
「嫌だ」
返事が。
早い。
「まだ何も言ってないだろ」
「妓楼だろ」
「何で分かった?」
「お前が夜に俺を誘う理由なんて、それくらいしかない」
「分かってるじゃん」
「だから嫌だ」
「一回くらいいいだろ」
「何が楽しいんだよ」
「綺麗な女がいる」
「それで?」
「酒もある」
「家で飲める」
「琴も聴ける」
「家でも聴ける」
世俊は。
呆れた。
「お前、人生楽しい?」
「楽しいけど」
「どこが?」
「ユリがいる」
「…………」
世俊が。
黙った。
「いや」
少しして。
もう一度。
口を開く。
「ユリがいるのは分かった」
「ならいいだろ」
「よくない。まだ婚約しただけだろ?」
「だから?」
「だからって……」
世俊は。
言葉に詰まった。
賢俊は。
本気で。
意味が分からないという顔をしている。
「綺麗な女がいるんだぞ?」
「ユリも綺麗だけど」
「そういう話じゃない」
「じゃあ何の話だよ」
「…………もういい」
「じゃあ帰る」
「待てよ!」
世俊が。
慌てて追いかける。
「本当に一回も来ないつもり?」
「行かない」
「何で?」
賢俊は。
少しだけ。
不思議そうに。
世俊を見た。
「好きでもない女に金払って会いに行って、何するんだよ」
「…………」
「俺にはユリがいるのに」
世俊は。
しばらく。
何も言えなかった。
そして。
「お前、面倒くさいな」
「お前に言われたくない」
◇ ◇ ◇
「――っていう奴だった」
世俊が。
笑う。
「だから驚いたよ」
月華は。
動けなかった。
今。
確かに。
聞いた。
ユリ。
その名前を。
三月ぶりに。
知らない誰かの口から。
「それが三月くらい前からさ」
世俊は。
月華の様子には気づかず。
話を続ける。
「俺が妓楼へ行くって言うと、急に――」
少し低い声を作る。
「『俺も連れてけ』」
世俊は。
肩をすくめた。
「最初、何か変なものでも食ったのかと思った」
雪華が。
少し笑う。
「それほど?」
「それほどだよ。何年誘っても来なかった奴だぞ?」
「心変わりしたのでは?」
「俺も最初はそう思った」
世俊は。
杯へ酒を注いでもらいながら。
首を振った。
「全然違った」
「違った?」
「遊びに来てるんじゃない」
月華が。
息を呑む。
「女を探してる」
「女?」
「ああ」
世俊が。
酒を一口飲む。
「元婚約者」
月華の。
胸が。
大きく。
鳴った。
「事情があって、妓楼に送られたらしい」
雪華の。
表情が。
わずかに変わった。
そして。
部屋の前に立ったままの。
月華を見る。
「どこの妓楼かは?」
「分からない」
「分からない?」
「ああ。本人から教えてもらえなかったらしい」
――……どこの?
――……教えられない。
――なんで。
――言っちゃいけないって。
あの夜の。
賢俊の顔が。
浮かんだ。
「だから」
世俊が。
何でもないように言う。
「全部探してる」
月華の。
目が。
揺れた。
――探す。
「一軒行って」
――妓楼なんて、いくつあると思ってるの。
「いなかったら次」
――全部探す。
「そこにもいなかったら、また次」
――見つからなかったら?
「三月ずっと、それ」
――見つかるまで探す。
月華は。
唇を。
ぎゅっと結んだ。
泣いてはいけない。
ここで。
泣く理由を。
世俊は知らない。
「しかもさ」
世俊が。
呆れたように笑った。
「妓楼に来ても、全然遊ばないんだよ」
「……遊ばない?」
雪華が聞く。
「そう」
世俊は。
友人の真似をするように。
真面目な顔を作った。
「『最近、十七になったくらいの女が入らなかったか』」
月華の。
目から。
涙が。
一つ。
落ちた。
「『元は両班の娘で』」
もう一つ。
「『このくらいの背で』」
世俊が。
手で高さを示す。
「そんなことばっかり聞いてる」
雪華は。
もう。
笑っていなかった。
月華を。
静かに見ている。
「この前なんか俺がさ」
世俊は。
まだ気づかない。
「せっかく妓楼まで来たんだから、少しくらい楽しめって言ったんだよ」
◇ ◇ ◇
「賢俊」
世俊が。
酒を飲みながら。
隣に座る友人を見る。
「お前さ」
「何」
「妓楼の使い方、致命的に間違ってるぞ」
賢俊は。
世俊を見た。
「知るか」
「知るかじゃないよ」
「俺は遊びに来てない」
「分かってるけどさ」
世俊が。
周囲を見る。
綺麗に着飾った女たち。
酒。
音楽。
笑い声。
その中で。
賢俊だけが。
ずっと。
誰かを探している。
「少しくらい楽しんでも罰当たらないだろ」
「何を楽しむんだよ」
「酒飲んだり。女と喋ったり」
「酒なら今飲んでる」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあ何だよ」
「他の女とも――」
「何で?」
「…………」
また。
その顔。
本当に。
分かっていない顔。
「ユリを探しに来てるのに」
賢俊は。
当たり前のように言った。
「なんで他の女と遊ぶんだよ」
世俊は。
しばらく。
友人を見た。
そして。
深く。
息を吐いた。
「……お前、ほんっと変わらないな」
「何が?」
「何でもない」
◇ ◇ ◇
「――って」
世俊が。
笑った。
「本当に、面倒くさい奴だろ?」
月華は。
もう。
顔を上げられなかった。
違う。
面倒くさくなんか。
ない。
嬉しかった。
苦しいくらい。
嬉しかった。
婚約は。
なくなった。
自分は。
もう。
尹家の娘でも。
賢俊の婚約者でもない。
月華という。
妓生になった。
それでも。
あの人は。
何も。
変わっていなかった。
三月。
ずっと。
探してくれていた。
月華は。
震える息を。
小さく吸った。
「……その方は」
世俊が。
顔を上げる。
「ん?」
月華は。
涙を拭った。
違ったら。
どうしよう。
もう。
ほとんど。
分かっている。
それでも。
自分の耳で。
聞きたかった。
「その方は……」
声が。
震える。
「何というお名前なんですか?」
世俊は。
少しだけ。
不思議そうな顔をした。
そして。
何でもないことのように。
答えた。
「姜家の三男坊だよ」
月華の。
呼吸が。
止まる。
「姜 賢俊」
やっぱりあなただった。
月華は。
何も言えなかった。
喉の奥が。
痛い。
目の奥が。
熱い。
今にも。
涙が落ちそうだった。
けれど。
「…………」
月華は。
唇を結んだ。
泣かない。
今は。
仕事中だから。
三月。
ここで。
見てきた。
客の前では。
笑うこと。
どれだけ疲れていても。
どれだけ嫌なことがあっても。
戸の向こうへ客が消えるまでは。
笑うこと。
星華が。
何度も。
そうしていた。
だから。
月華も。
笑った。
ほんの少し。
ぎこちなく。
それでも。
笑った。
「……そう、なんですね」
世俊が。
月華を見る。
「知ってる?」
「…………」
一瞬。
答えに迷った。
雪華が。
静かに。
月華を見ている。
「……はい」
月華は。
小さく答えた。
「知っています」
「え?」
世俊の眉が上がる。
「知り合い?」
「…………」
月華の手が。
月の髪飾りへ触れた。
言っていいのか。
分からなかった。
ここでは。
尹 柔莉ではない。
月華だから。
けれど。
「月華」
雪華が。
柔らかく呼んだ。
無理に答えなくていい。
そう言われた気がした。
月華は。
小さく息を吐いた。
「……昔」
それだけ。
口にした。
「昔から、知っている人です」
世俊が。
何かを言おうとした。
けれど。
雪華が。
先に酒器を置いた。
「世俊様」
「何?」
「月華は仕事中です」
「あ」
「ずいぶん長く引き止めましたね」
「俺のせい?」
「世俊様以外に誰がいるんです?」
「……はいはい」
世俊が。
苦笑する。
月華は。
雪華を見た。
雪華は。
何も聞かなかった。
ただ。
「行っておいで」
そう言った。
「……はい」
月華は。
頭を下げる。
「失礼します」
部屋を出た。
廊下へ出て。
一度だけ。
足を止めた。
泣きそうだった。
本当に。
泣きそうだった。
けれど。
向こうから。
別の客が歩いてくる。
月華は。
顔を上げた。
笑った。
「お帰りですか?」
「ああ」
「ありがとうございました」
頭を下げる。
客が。
通り過ぎる。
月華は。
また歩いた。
◇ ◇ ◇
夜は。
まだ。
終わらなかった。
酒を運んだ。
器を下げた。
呼ばれれば。
「はい」
と答えた。
客に話しかけられれば。
笑った。
世俊が帰るときも。
月華は。
他の女たちと一緒に。
頭を下げた。
「ありがとうございました」
「また来るよ」
世俊が。
いつものように。
軽く手を上げる。
そして。
少しだけ。
月華を見る。
何か。
聞きたそうな顔。
けれど。
結局。
何も聞かなかった。
「じゃあ、雪華」
「はいはい」
「明日も――」
「来るんでしょう」
「よく分かってるな」
「何年のお付き合いだと思ってるんですか」
世俊が。
笑った。
門を出ていく。
月華は。
その背中を見送った。
まだ。
泣かなかった。
◇ ◇ ◇
一人。
また一人。
客が帰っていく。
「ありがとうございました」
頭を下げる。
また一人。
「お気をつけて」
笑う。
そして。
最後の客が。
門を出た。
戸が。
閉まる。
がたん。
その音を聞いた瞬間。
月華の。
肩から。
力が抜けた。
「…………」
終わった。
今日の仕事が。
終わった。
もう。
笑わなくていい。
そう思った瞬間。
「……っ」
涙が。
落ちた。
一つ。
二つ。
止まらなかった。
「……月華?」
星華の声がした。
月華は。
慌てて。
顔を拭った。
「ごめん……」
「何で謝るの」
「分かんない……」
本当に。
分からなかった。
悲しいわけじゃない。
嫌なことがあったわけでもない。
むしろ。
嬉しかった。
嬉しくて。
苦しかった。
「……探してた」
「え?」
月華の。
声が。
震える。
「探してくれてた……」
三月。
ずっと。
自分は。
ここにいた。
賢俊は。
どこにいるかも分からない自分を。
ずっと。
探していた。
「……本当に」
涙が。
また。
溢れる。
「本当に、探してくれてた……」
月華は。
月の髪飾りへ。
触れた。
――全部探す。
あの言葉を。
信じていなかったわけじゃない。
でも。
怖かった。
日が経つたびに。
もしかしたら。
もう。
諦めたかもしれない。
そう思う夜もあった。
婚約は。
なくなったから。
自分は。
妓生になったから。
賢俊の人生には。
もう。
いない人間だから。
それでも。
あの人は。
探していた。
「……馬鹿」
月華は。
泣きながら。
笑った。
「本当に……馬鹿……」
星華は。
何も分からないまま。
月華の隣に座った。
少し遅れて。
雪華も。
やって来た。
月華の。
泣き顔を見る。
けれど。
何も聞かなかった。
ただ。
反対側に。
座った。
「…………」
三人で。
並んだ。
月華は。
泣いた。
百華楼へ来た日とは。
違う涙だった。
家族を失った。
涙でも。
名前を失った。
涙でもない。
まだ。
自分を。
探してくれている人がいる。
そのことが。
嬉しくて。
泣いた。
三月ぶりに。
尹 柔莉は。
幸せで。
泣いた。




