↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/30

探す

第十六話 姜家の三男坊



「この三月、ずっと妓楼を回ってる奴がいるんだよ」



月華(ウォルファ)の。



足が。



止まった。



三月。



その言葉だけが。



妙に。



耳に残った。



「妓楼を?」



雪華(ソルファ)が聞く。



「ああ」



世俊(セジュン)は。



何でもない話でもするように。



杯を傾けた。



「俺の友達。良家の両班の三男坊なんだけどさ」



「世俊(セジュン)様のお友達なら、妓楼がお好きなのでは?」



「それが正反対」



世俊(セジュン)が笑う。



「むしろ、ずっと嫌がってた」



「嫌がってた?」



「ああ。俺が何回誘ったと思う?」



「知りません」



「数え切れないくらい」



「迷惑だったでしょうね」



「雪華(ソルファ)、今日ちょっと冷たくない?」



「いつもです」



「そうだった」



世俊(セジュン)が。



また笑う。



月華(ウォルファ)は。



まだ。



部屋の前に立っていた。



帰らなければ。



そう思うのに。



足が。



動かなかった。



「昔から堅い奴でさ」



世俊(セジュン)が続ける。



「俺が『妓楼行こうぜ』って誘っても、絶対来ない」



「真面目な方なんですね」



「真面目っていうか……」



世俊(セジュン)が。



少し考える。



「興味がないんだよ」



「妓楼に?」



「妓楼にも。他の女にも」



月華(ウォルファ)の。



指先が。



わずかに動いた。



「一回、聞いたことがあるんだ」



世俊(セジュン)が。



昔を思い出すように。



笑った。




   ◇ ◇ ◇




「賢俊(ヒョンジュン)」



まだ。



何も失われていなかった頃。



世俊(セジュン)は。



隣を歩く友人の肩へ。



腕を回した。



「今夜、付き合えよ」



「嫌だ」



返事が。



早い。



「まだ何も言ってないだろ」



「妓楼だろ」



「何で分かった?」



「お前が夜に俺を誘う理由なんて、それくらいしかない」



「分かってるじゃん」



「だから嫌だ」



「一回くらいいいだろ」



「何が楽しいんだよ」



「綺麗な女がいる」



「それで?」



「酒もある」



「家で飲める」



「琴も聴ける」



「家でも聴ける」



世俊(セジュン)は。



呆れた。



「お前、人生楽しい?」



「楽しいけど」



「どこが?」



「ユリがいる」



「…………」



世俊(セジュン)が。



黙った。



「いや」



少しして。



もう一度。



口を開く。



「ユリがいるのは分かった」



「ならいいだろ」



「よくない。まだ婚約しただけだろ?」



「だから?」



「だからって……」



世俊(セジュン)は。



言葉に詰まった。



賢俊(ヒョンジュン)は。



本気で。



意味が分からないという顔をしている。



「綺麗な女がいるんだぞ?」



「ユリも綺麗だけど」



「そういう話じゃない」



「じゃあ何の話だよ」



「…………もういい」



「じゃあ帰る」



「待てよ!」



世俊(セジュン)が。



慌てて追いかける。



「本当に一回も来ないつもり?」



「行かない」



「何で?」



賢俊(ヒョンジュン)は。



少しだけ。



不思議そうに。



世俊(セジュン)を見た。



「好きでもない女に金払って会いに行って、何するんだよ」



「…………」



「俺にはユリがいるのに」



世俊(セジュン)は。



しばらく。



何も言えなかった。



そして。



「お前、面倒くさいな」



「お前に言われたくない」




   ◇ ◇ ◇




「――っていう奴だった」



世俊(セジュン)が。



笑う。



「だから驚いたよ」



月華(ウォルファ)は。



動けなかった。



今。



確かに。



聞いた。



ユリ。



その名前を。



三月ぶりに。



知らない誰かの口から。



「それが三月くらい前からさ」



世俊(セジュン)は。



月華(ウォルファ)の様子には気づかず。



話を続ける。



「俺が妓楼へ行くって言うと、急に――」



少し低い声を作る。



「『俺も連れてけ』」



世俊(セジュン)は。



肩をすくめた。



「最初、何か変なものでも食ったのかと思った」



雪華(ソルファ)が。



少し笑う。



「それほど?」



「それほどだよ。何年誘っても来なかった奴だぞ?」



「心変わりしたのでは?」



「俺も最初はそう思った」



世俊(セジュン)は。



杯へ酒を注いでもらいながら。



首を振った。



「全然違った」



「違った?」



「遊びに来てるんじゃない」



月華(ウォルファ)が。



息を呑む。



「女を探してる」



「女?」



「ああ」



世俊(セジュン)が。



酒を一口飲む。



「元婚約者」



月華(ウォルファ)の。



胸が。



大きく。



鳴った。



「事情があって、妓楼に送られたらしい」



雪華(ソルファ)の。



表情が。



わずかに変わった。



そして。



部屋の前に立ったままの。



月華(ウォルファ)を見る。



「どこの妓楼かは?」



「分からない」



「分からない?」



「ああ。本人から教えてもらえなかったらしい」



――……どこの?



――……教えられない。



――なんで。



――言っちゃいけないって。



あの夜の。



賢俊(ヒョンジュン)の顔が。



浮かんだ。



「だから」



世俊(セジュン)が。



何でもないように言う。



「全部探してる」



月華(ウォルファ)の。



目が。



揺れた。



――探す。



「一軒行って」



――妓楼なんて、いくつあると思ってるの。



「いなかったら次」



――全部探す。



「そこにもいなかったら、また次」



――見つからなかったら?



「三月ずっと、それ」



――見つかるまで探す。



月華(ウォルファ)は。



唇を。



ぎゅっと結んだ。



泣いてはいけない。



ここで。



泣く理由を。



世俊(セジュン)は知らない。



「しかもさ」



世俊(セジュン)が。



呆れたように笑った。



「妓楼に来ても、全然遊ばないんだよ」



「……遊ばない?」



雪華(ソルファ)が聞く。



「そう」



世俊(セジュン)は。



友人の真似をするように。



真面目な顔を作った。



「『最近、十七になったくらいの女が入らなかったか』」



月華(ウォルファ)の。



目から。



涙が。



一つ。



落ちた。



「『元は両班の娘で』」



もう一つ。



「『このくらいの背で』」



世俊(セジュン)が。



手で高さを示す。



「そんなことばっかり聞いてる」



雪華(ソルファ)は。



もう。



笑っていなかった。



月華(ウォルファ)を。



静かに見ている。



「この前なんか俺がさ」



世俊(セジュン)は。



まだ気づかない。



「せっかく妓楼まで来たんだから、少しくらい楽しめって言ったんだよ」




   ◇ ◇ ◇




「賢俊(ヒョンジュン)」



世俊(セジュン)が。



酒を飲みながら。



隣に座る友人を見る。



「お前さ」



「何」



「妓楼の使い方、致命的に間違ってるぞ」



賢俊(ヒョンジュン)は。



世俊(セジュン)を見た。



「知るか」



「知るかじゃないよ」



「俺は遊びに来てない」



「分かってるけどさ」



世俊(セジュン)が。



周囲を見る。



綺麗に着飾った女たち。



酒。



音楽。



笑い声。



その中で。



賢俊(ヒョンジュン)だけが。



ずっと。



誰かを探している。



「少しくらい楽しんでも罰当たらないだろ」



「何を楽しむんだよ」



「酒飲んだり。女と喋ったり」



「酒なら今飲んでる」



「そういうことじゃなくて」



「じゃあ何だよ」



「他の女とも――」



「何で?」



「…………」



また。



その顔。



本当に。



分かっていない顔。



「ユリを探しに来てるのに」



賢俊(ヒョンジュン)は。



当たり前のように言った。



「なんで他の女と遊ぶんだよ」



世俊(セジュン)は。



しばらく。



友人を見た。



そして。



深く。



息を吐いた。



「……お前、ほんっと変わらないな」



「何が?」



「何でもない」




   ◇ ◇ ◇




「――って」



世俊(セジュン)が。



笑った。



「本当に、面倒くさい奴だろ?」



月華(ウォルファ)は。



もう。



顔を上げられなかった。



違う。



面倒くさくなんか。



ない。



嬉しかった。



苦しいくらい。



嬉しかった。



婚約は。



なくなった。



自分は。



もう。



尹家の娘でも。



賢俊(ヒョンジュン)の婚約者でもない。



月華(ウォルファ)という。



妓生になった。



それでも。



あの人は。



何も。



変わっていなかった。



三月。



ずっと。



探してくれていた。



月華(ウォルファ)は。



震える息を。



小さく吸った。



「……その方は」



世俊(セジュン)が。



顔を上げる。



「ん?」



月華(ウォルファ)は。



涙を拭った。



違ったら。



どうしよう。



もう。



ほとんど。



分かっている。



それでも。



自分の耳で。



聞きたかった。



「その方は……」



声が。



震える。



「何というお名前なんですか?」



世俊(セジュン)は。



少しだけ。



不思議そうな顔をした。



そして。



何でもないことのように。



答えた。



「姜家の三男坊だよ」



月華(ウォルファ)の。



呼吸が。



止まる。



「姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)」



やっぱりあなただった。



月華(ウォルファ)は。



何も言えなかった。



喉の奥が。



痛い。



目の奥が。



熱い。



今にも。



涙が落ちそうだった。



けれど。



「…………」



月華(ウォルファ)は。



唇を結んだ。



泣かない。



今は。



仕事中だから。



三月。



ここで。



見てきた。



客の前では。



笑うこと。



どれだけ疲れていても。



どれだけ嫌なことがあっても。



戸の向こうへ客が消えるまでは。



笑うこと。



星華(ソンファ)が。



何度も。



そうしていた。



だから。



月華(ウォルファ)も。



笑った。



ほんの少し。



ぎこちなく。



それでも。



笑った。



「……そう、なんですね」



世俊(セジュン)が。



月華(ウォルファ)を見る。



「知ってる?」



「…………」



一瞬。



答えに迷った。



雪華(ソルファ)が。



静かに。



月華(ウォルファ)を見ている。



「……はい」



月華(ウォルファ)は。



小さく答えた。



「知っています」



「え?」



世俊(セジュン)の眉が上がる。



「知り合い?」



「…………」



月華(ウォルファ)の手が。



月の髪飾りへ触れた。



言っていいのか。



分からなかった。



ここでは。



尹 柔莉(ユン・ユリ)ではない。



月華(ウォルファ)だから。



けれど。



「月華(ウォルファ)」



雪華(ソルファ)が。



柔らかく呼んだ。



無理に答えなくていい。



そう言われた気がした。



月華(ウォルファ)は。



小さく息を吐いた。



「……昔」



それだけ。



口にした。



「昔から、知っている人です」



世俊(セジュン)が。



何かを言おうとした。



けれど。



雪華(ソルファ)が。



先に酒器を置いた。



「世俊(セジュン)様」



「何?」



「月華(ウォルファ)は仕事中です」



「あ」



「ずいぶん長く引き止めましたね」



「俺のせい?」



「世俊(セジュン)様以外に誰がいるんです?」



「……はいはい」



世俊(セジュン)が。



苦笑する。



月華(ウォルファ)は。



雪華(ソルファ)を見た。



雪華(ソルファ)は。



何も聞かなかった。



ただ。



「行っておいで」



そう言った。



「……はい」



月華(ウォルファ)は。



頭を下げる。



「失礼します」



部屋を出た。



廊下へ出て。



一度だけ。



足を止めた。



泣きそうだった。



本当に。



泣きそうだった。



けれど。



向こうから。



別の客が歩いてくる。



月華(ウォルファ)は。



顔を上げた。



笑った。



「お帰りですか?」



「ああ」



「ありがとうございました」



頭を下げる。



客が。



通り過ぎる。



月華(ウォルファ)は。



また歩いた。




   ◇ ◇ ◇




夜は。



まだ。



終わらなかった。



酒を運んだ。



器を下げた。



呼ばれれば。



「はい」



と答えた。



客に話しかけられれば。



笑った。



世俊(セジュン)が帰るときも。



月華(ウォルファ)は。



他の女たちと一緒に。



頭を下げた。



「ありがとうございました」



「また来るよ」



世俊(セジュン)が。



いつものように。



軽く手を上げる。



そして。



少しだけ。



月華(ウォルファ)を見る。



何か。



聞きたそうな顔。



けれど。



結局。



何も聞かなかった。



「じゃあ、雪華(ソルファ)」



「はいはい」



「明日も――」



「来るんでしょう」



「よく分かってるな」



「何年のお付き合いだと思ってるんですか」



世俊(セジュン)が。



笑った。



門を出ていく。



月華(ウォルファ)は。



その背中を見送った。



まだ。



泣かなかった。




   ◇ ◇ ◇




一人。



また一人。



客が帰っていく。



「ありがとうございました」



頭を下げる。



また一人。



「お気をつけて」



笑う。



そして。



最後の客が。



門を出た。



戸が。



閉まる。



がたん。



その音を聞いた瞬間。



月華(ウォルファ)の。



肩から。



力が抜けた。



「…………」



終わった。



今日の仕事が。



終わった。



もう。



笑わなくていい。



そう思った瞬間。



「……っ」



涙が。



落ちた。



一つ。



二つ。



止まらなかった。



「……月華(ウォルファ)?」



星華(ソンファ)の声がした。



月華(ウォルファ)は。



慌てて。



顔を拭った。



「ごめん……」



「何で謝るの」



「分かんない……」



本当に。



分からなかった。



悲しいわけじゃない。



嫌なことがあったわけでもない。



むしろ。



嬉しかった。



嬉しくて。



苦しかった。



「……探してた」



「え?」



月華(ウォルファ)の。



声が。



震える。



「探してくれてた……」



三月。



ずっと。



自分は。



ここにいた。



賢俊(ヒョンジュン)は。



どこにいるかも分からない自分を。



ずっと。



探していた。



「……本当に」



涙が。



また。



溢れる。



「本当に、探してくれてた……」



月華(ウォルファ)は。



月の髪飾りへ。



触れた。



――全部探す。



あの言葉を。



信じていなかったわけじゃない。



でも。



怖かった。



日が経つたびに。



もしかしたら。



もう。



諦めたかもしれない。



そう思う夜もあった。



婚約は。



なくなったから。



自分は。



妓生になったから。



賢俊(ヒョンジュン)の人生には。



もう。



いない人間だから。



それでも。



あの人は。



探していた。



「……馬鹿」



月華(ウォルファ)は。



泣きながら。



笑った。



「本当に……馬鹿……」



星華(ソンファ)は。



何も分からないまま。



月華(ウォルファ)の隣に座った。



少し遅れて。



雪華(ソルファ)も。



やって来た。



月華(ウォルファ)の。



泣き顔を見る。



けれど。



何も聞かなかった。



ただ。



反対側に。



座った。



「…………」



三人で。



並んだ。



月華(ウォルファ)は。



泣いた。



百華楼(ペッカル)へ来た日とは。



違う涙だった。



家族を失った。



涙でも。



名前を失った。



涙でもない。



まだ。



自分を。



探してくれている人がいる。



そのことが。



嬉しくて。



泣いた。



三月ぶりに。



尹 柔莉(ユン・ユリ)は。



幸せで。



泣いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。