嘘だと言って
「俺たちの婚約が」
姜 賢俊の声が、震えた。
「……なくなる」
尹 柔莉は、しばらく何も言わなかった。
聞こえなかったわけではない。
言葉の意味を知らないわけでもない。
ただ。
自分と、その言葉が結びつかなかった。
「……どういうこと?」
姜 賢俊は唇を噛んだ。
「父上が……婚約を解消するって」
「……どうして?」
「尹家と、このまま婚姻関係を続けたら……姜家にも何があるか分からないからって」
「…………」
「でも」
姜 賢俊は、すぐに続けた。
「俺は嫌だって言った」
尹 柔莉が顔を上げる。
「ちゃんと言った」
「賢俊……」
「俺は婚約を解消しないって。柔莉は何もしてないって。まだ仁救殿だって何も決まってないって」
言葉が速くなる。
まるで。
説明すれば、どうにかなると思っているみたいに。
「父上にも言ったんだ。何度も」
「…………」
「俺は嫌だって」
声が掠れた。
「……ちゃんと言ったんだよ」
その瞬間。
尹 柔莉は気づいた。
姜 賢俊の目が赤い。
「……賢俊」
「なのに……」
それ以上。
言葉が続かなかった。
姜 賢俊は顔を伏せた。
一度。
大きく息を吸う。
けれど。
堪えようとしたものは、もう戻らなかった。
頬を伝った涙を。
慌てて袖で拭う。
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「分かんない」
「…………」
「でも……ごめん」
尹 柔莉は、ただ彼を見ていた。
幼い頃から。
姜 賢俊が泣くところを何度も見てきた。
転んだとき。
兄たちと喧嘩したとき。
幼い頃、飼っていた犬が死んだとき。
けれど。
自分のことで泣く姜 賢俊を見るのは。
たぶん。
初めてだった。
「……泣かないで」
「無理」
即答だった。
こんなときなのに。
少しだけ。
姜 賢俊らしいと思った。
「私だって泣いてないのに」
「じゃあ、ユリも泣けばいいだろ」
「何それ」
「だって……」
また袖で目元を拭う。
「俺……」
声が詰まる。
「ユリと結婚すると思ってた」
尹 柔莉の胸の奥で。
何かが。
音もなく崩れた。
結婚したかった。
ではない。
結婚すると思っていた。
そう。
二人にとって。
それは願いではなかった。
いつか叶えばいい夢でもなかった。
来年か。
再来年か。
もう少し先か。
時期は分からなくても。
いつか当たり前に訪れる未来だった。
姜家へ嫁いで。
姜 秀蓮に、きっと毎日のように世話を焼かれて。
姜 賢成や姜 賢宇にからかわれて。
姜 正勲は、きっと相変わらず少し難しい顔をしていて。
そして。
隣には。
姜 賢俊がいる。
ずっと。
そうなると思っていた。
「……私も」
声にした途端。
視界が滲んだ。
「私も……賢俊と結婚すると思ってた」
今度は。
尹 柔莉の頬を涙が伝った。
「ユリ……」
「だって……」
拭っても。
次から次へと溢れてくる。
「この前、お母様と婚礼衣装の話したばっかりなのに」
青がいい。
そう言った。
姜 賢俊は、何でもいいと言った。
母に。
あなたには聞いていません。
と呆れられていた。
あれは。
ほんの数日前のことだった。
「お母様、青がいいって……」
「うん」
「秀蓮様にも聞いてみようって……」
「うん」
「私……」
息がうまく吸えない。
「ちゃんと、考えてたのに」
婚礼衣装を。
嫁いだあとの暮らしを。
姜家の人たちと家族になることを。
そして。
この人の妻になることを。
全部。
もう。
考えてはいけないことになる。
「……嫌だ」
初めて。
尹 柔莉の口から、その言葉がこぼれた。
「私も嫌だよ……」
姜 賢俊が顔を上げた。
「嫌だ……」
泣きながら。
尹 柔莉は首を横に振った。
「叔父上が帰ってこないのも嫌」
「うん」
「知らない人が家に入ってくるのも嫌」
「うん」
「外で変なこと言われるのも嫌」
「うん」
「賢俊と婚約してないことになるのも……」
言葉が途切れた。
「嫌……」
姜 賢俊は。
もう何も言えなかった。
ただ。
一歩。
柔莉へ近づいた。
そして。
抱きしめた。
幼い頃。
泣いている柔莉の手を握ったことはある。
転びそうになった彼女を支えたことも。
けれど。
こんなふうに抱きしめたのは。
初めてだった。
尹 柔莉は拒まなかった。
姜 賢俊の衣を。
強く掴んだ。
「……嫌だよ」
「うん」
「何で私たちなの」
「……うん」
「私たち、何もしてないのに」
答えられなかった。
本当に。
何もしていない。
二人とも。
ただ。
結婚するつもりだっただけだ。
「ユリ」
「……何」
「俺は」
姜 賢俊は言った。
「婚約がなくなっても」
柔莉の手に力が入る。
「ユリのこと、嫌いにならないから」
「…………」
「絶対」
「……そんなの」
柔莉は泣きながら言った。
「当たり前でしょ」
姜 賢俊は。
泣いているくせに。
少し笑った。
「うん」
「私だって……」
鼻を啜る。
「賢俊のこと、嫌いになったわけじゃないもん」
「うん」
「婚約がなくなるだけでしょ」
その言葉に。
姜 賢俊は答えられなかった。
柔莉は。
自分に言い聞かせるように続けた。
「叔父上のことだって、ちゃんと調べれば分かる」
「…………」
「そうしたら、全部戻るよね」
姜 賢俊の胸元から。
柔莉が顔を上げた。
「ね?」
十七歳の姜 賢俊に。
未来のことなど分からない。
尹 仁救の疑いが晴れるのか。
尹家がどうなるのか。
一度なくなった婚約が。
元に戻ることなどあるのか。
何ひとつ。
分からなかった。
それでも。
「……うん」
頷いた。
柔莉が少しだけ笑う。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で。
「じゃあ、大丈夫」
大丈夫。
また。
その言葉だった。
昨日から。
何度も何度も口にしている。
何ひとつ大丈夫ではないのに。
二人とも。
まだ。
大丈夫だと思いたかった。
やがて。
姜 賢俊は柔莉から離れた。
「……また来る」
「うん」
今度は。
来なくていいとは言わなかった。
「明日?」
「明日」
「本当に?」
「来るよ」
「……うん」
柔莉は頷いた。
「待ってる」
姜 賢俊は。
その言葉を。
ずっと忘れなかった。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。
尹 泰成が帰ってきた。
「お父様!」
尹 柔莉は、門の音を聞くなり駆け出した。
今度こそ。
父だった。
「お父様、大丈夫だった?」
「ああ」
疲れた顔をしていた。
それでも。
父はいつものように娘へ笑った。
「少し話を聞かれただけだ」
「叔父上のことは?」
「…………」
「何か分かった?」
尹 泰成は答えなかった。
その代わり。
家の中へ入る。
尹 美蘭が夫の顔を見た。
「あなた」
夫婦の目が合う。
それだけで。
尹 柔莉には分からない何かが交わされた。
「……どうしたの?」
尹 泰成は。
しばらく娘を見つめた。
そして。
「柔莉」
「はい」
「こちらへ来なさい」
嫌な予感がした。
今日。
姜 賢俊が来たときと。
同じ声だった。
「……何?」
「話がある」
尹 柔莉は。
その日。
二度目の。
その言葉を聞いた。
そして。
まだ知らなかった。
婚約を失った今日が。
自分から何かを奪われる日の。
始まりにすぎなかったことを。




