婚約解消
第七話 婚約解消
「柔莉との婚約についてだ」
姜 正勲の言葉に。
姜 賢俊は、すぐには答えなかった。
意味が分からなかったわけではない。
むしろ。
父が何を言おうとしているのか。
分かってしまったからだった。
「……何ですか」
それでも聞いた。
違っていてほしかった。
姜 正勲は、息子から目を逸らさなかった。
「婚約は、解消する」
静かな声だった。
あまりにも静かで。
一瞬。
何を言われたのか理解できなかった。
「……誰の?」
姜 正勲の眉がわずかに動いた。
「お前と、尹 柔莉の婚約だ」
「嫌です」
答えはすぐに出た。
考える必要などなかった。
「賢俊」
「嫌です」
もう一度言った。
「俺は婚約を解消しません」
「お前の意思を聞いているのではない」
その言葉に。
姜 賢俊の表情が変わった。
「じゃあ、誰の意思ですか」
「姜家当主としての私の判断だ」
「俺とユリの婚約なのに?」
「そうだ」
「俺とユリが結婚するのに?」
「そうだ」
「だったら――」
「賢俊」
低い声だった。
けれど。
姜 賢俊は黙らなかった。
「ユリが何をしたんですか」
「何もしていない」
即答だった。
それだけは。
姜 正勲は迷わなかった。
姜 賢俊が言葉を失う。
「……だったら」
「柔莉が悪いと言っているのではない」
「じゃあ、何でですか」
「尹家には今、国王を死に至らしめた疑いがかかっている」
「叔父上に、でしょう」
「同じことだ」
「同じじゃない!」
初めて。
姜 賢俊が父に向かって声を荒らげた。
「ユリは関係ない。おじさんも、おばさんも関係ない。仁救殿だって、まだ何も決まってない」
「分かっている」
「分かってない!」
「分かっている!」
今度は姜 正勲の声が響いた。
親子の間に沈黙が落ちる。
姜 正勲は一度目を閉じた。
そして。
いつもの落ち着いた声に戻して言った。
「……分かっている」
姜 賢俊は父を睨んだ。
「なら、どうして」
「私には、お前だけを守ればいい立場ではないからだ」
その言葉に。
姜 賢俊は何も言えなかった。
「賢成がいる。賢宇がいる。母上もいる。この家に仕える者も、その家族もいる」
「…………」
「姜家が尹家と婚姻関係を結んだままでいれば、何が起こるか分からない」
「何も起こらないかもしれない」
「そうかもしれない」
「だったら――」
「だが、起こるかもしれない」
姜 正勲は静かに言った。
「私は、それを賭けることができない」
姜 賢俊は唇を噛んだ。
分かる。
分かってしまう。
父が何を言っているのか。
姜家は自分一人のものではない。
兄たちがいる。
母がいる。
使用人たちがいる。
父はそのすべてを背負っている。
分かる。
けれど。
「……ユリは?」
姜 正勲が息子を見る。
「ユリは、どうなるんですか」
答えはなかった。
「俺たちが手を離したら、ユリはどうなるんですか」
「…………」
「昨日まで、家族になるはずだったんでしょう」
父の顔が。
ほんの少しだけ歪んだ。
それを見て。
姜 賢俊は、余計に腹が立った。
「父上だって、ユリのこと可愛がってたじゃないですか」
「……ああ」
「母上だって」
「ああ」
「兄上たちだって」
「ああ」
「じゃあ何で!」
拳を握る。
「何で、こんな時に捨てるんですか」
その言葉に。
姜 正勲は、しばらく答えなかった。
やがて。
「……そう見えるだろうな」
それだけ言った。
「見えるんじゃない。そうでしょう」
「…………」
「俺は嫌です」
姜 賢俊は言った。
「絶対に嫌です」
「決定は変わらない」
「俺は認めません」
「認めなくてもいい」
「じゃあ――」
「それでも婚約は解消する」
冷たい言葉だった。
少なくとも。
十七歳の姜 賢俊には、そう聞こえた。
「……父上なんて、大嫌いだ」
言ってから。
自分でも子どもみたいだと思った。
それでも。
他に言葉が見つからなかった。
姜 正勲は何も言わない。
姜 賢俊は父に背を向けた。
「どこへ行く」
「ユリのところです」
「今からか」
「今からです」
「……そうか」
止められると思った。
けれど。
父は止めなかった。
姜 賢俊は、そのまま書斎を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった部屋で。
姜 正勲は、一人になった。
机の上には。
両家で取り交わした婚約に関する書状が置かれていた。
十六になった息子が。
尹 柔莉との婚約が決まったと聞いて。
珍しく。
本当に珍しく。
隠しきれないほど嬉しそうに笑った日のことを思い出す。
――よかったな。
あのとき。
自分は確かにそう言った。
姜 正勲は目を閉じた。
そして。
誰もいない部屋で。
小さく呟いた。
「……すまない」
◇ ◇ ◇
姜 賢俊が書斎を出ると。
廊下に姜 秀蓮が立っていた。
「母上」
「……聞こえていました」
姜 賢俊は何も言わなかった。
母の横を通り過ぎようとする。
「賢俊」
足を止めた。
「柔莉のところへ行くの?」
「はい」
「そう」
それだけだった。
止めない。
姜 賢俊は母を見る。
「母上も、婚約を解消した方がいいと思ってるんですか」
姜 秀蓮は。
すぐには答えなかった。
「……私は」
そして。
静かに首を横に振った。
「柔莉を、娘に迎えたかったわ」
胸が痛んだ。
「だったら父上に――」
「言いました」
姜 賢俊が顔を上げる。
「何度も」
母は少しだけ笑った。
悲しそうな笑顔だった。
「でもね。お父様の言っていることも、分かるの」
「…………」
「だから、私はお父様を責められない」
「俺は責めます」
「ええ」
姜 秀蓮は否定しなかった。
「今は、それでいいと思う」
そして。
息子の衣の襟を、幼い頃のように整えた。
「行ってらっしゃい」
「……はい」
「柔莉のそばにいてあげて」
姜 賢俊は。
少しだけ俯いた。
「母上」
「何?」
「俺、ユリ以外とは結婚しません」
十七歳の少年の言葉だった。
これから何年が過ぎるのか。
明日、何が起こるのかさえ知らない。
それでも。
その言葉だけは。
迷わなかった。
姜 秀蓮は、息子を見つめた。
「……今、決めなくてもいいのよ」
「決めました」
「賢俊」
「行ってきます」
母の返事を待たず。
姜 賢俊は歩き出した。
その背中が見えなくなってから。
姜 秀蓮は、閉じられた書斎の扉を見た。
「……あなた」
返事はない。
それでも。
扉越しに言った。
「聞こえていたでしょう」
しばらくして。
中から。
「……ああ」
低い声が返ってきた。
「困った子ですね」
「……誰に似たんだか」
「あなたでしょう」
「私ではない」
こんなときなのに。
姜 秀蓮は少しだけ笑った。
そして。
「あなた」
「何だ」
「本当によかったのですか」
長い沈黙があった。
やがて。
「……よくない」
姜 秀蓮は目を閉じた。
「そうですか」
「だが、私が決めなければならない」
姜家の当主として。
家を守る者として。
姜 正勲は。
自分の息子と。
娘になるはずだった少女の縁を切った。
姜 秀蓮は、もう何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
その頃。
尹家では。
尹 柔莉が、母の尹 美蘭と並んで座っていた。
朝から。
父、尹 泰成の姿はない。
役所へ呼ばれていた。
何を聞かれているのか。
いつ帰ってくるのか。
何も分からない。
「……お父様、遅いね」
「そうね」
「大丈夫かな」
「大丈夫よ」
母はそう答えた。
昨日から。
家族は何度、この言葉を口にしただろう。
――大丈夫。
柔莉も言った。
母も言った。
允浩にも聞いた。
誰も。
何が大丈夫なのかは分からないまま。
そのとき。
門を叩く音がした。
尹 柔莉が顔を上げる。
昨日なら。
叔父かもしれないと思った。
今朝なら。
役人かもしれないと思った。
けれど。
今。
なぜか。
誰なのか分かった。
柔莉は立ち上がった。
「ユリ?」
「……たぶん、賢俊」
門へ向かう。
開ける。
そこには。
やっぱり。
姜 賢俊が立っていた。
少し息を切らして。
昨日と同じように。
「……また来たの?」
柔莉が言った。
姜 賢俊は答えなかった。
「来なくていいって言ったのに」
「うん」
「話、聞いてないでしょ」
「聞いてる」
「じゃあ――」
「ユリ」
呼ばれて。
柔莉は口を閉じた。
何かがおかしい。
すぐに分かった。
「……どうしたの?」
姜 賢俊は。
目の前の少女を見た。
昨日まで。
婚約者だった。
今日だって。
自分にとっては何も変わっていない。
それなのに。
もう。
そう呼んではいけないらしい。
「……話がある」
「何?」
言いたくなかった。
自分の口から。
絶対に。
言いたくなかった。
それでも。
他の誰かから聞かせたくなかった。
姜 賢俊は。
拳を握った。
そして。
「俺たちの婚約が」
声が。
少しだけ震えた。
「……なくなる」




