行くな
第六話 行くな
姜 賢俊がその知らせを聞いたのは、朝餉の席だった。
「――陛下が、崩御されたそうだ」
父、姜 正勲の言葉に、箸を持っていた手が止まった。
「……陛下が?」
向かいに座る母、姜 秀蓮も驚いたように顔を上げる。
「昨日のことだそうだ」
姜 正勲は、いつもと変わらない落ち着いた声で続けた。
「宮中は今、ひどく混乱しているらしい」
姜 賢俊は、黙って父を見た。
昨夜から妙に屋敷の中が慌ただしかった。
使用人たちが小声で何かを話していることにも気づいていた。
ただ。
それが国王の崩御だとは思っていなかった。
「それと、もうひとつ」
姜 正勲が言った。
わずかな間があった。
「陛下が最後に口にされた薬を調合した医官が、宮中で拘束された」
姜 賢俊の胸が、嫌な音を立てた。
医官。
その言葉だけで。
なぜか、一人の顔が浮かんだ。
「……誰ですか」
父はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで。
分かってしまった。
「まさか」
姜 賢俊は立ち上がった。
「尹 仁救殿だ」
椅子が大きな音を立てた。
「賢俊」
母の声が聞こえた。
けれど。
姜 賢俊は、もう部屋を出ようとしていた。
「どこへ行く」
父の声に、足を止める。
「尹家です」
「行くな」
短い言葉だった。
姜 賢俊が振り返る。
「……何でですか」
「分からないのか」
「分かりません」
父の眉がわずかに動いた。
「賢俊」
「叔父上が捕まったんでしょう」
尹 仁救は、姜 賢俊にとっても幼い頃から知っている人だった。
尹家へ行けば、いつもいた。
薬の匂いをさせて。
柔莉と言い合いをして。
時には自分まで巻き込まれて。
そんな人だった。
「だったら、ユリは――」
言いかけたところで。
姜 賢俊は気づいた。
父が自分を見ていない。
父の視線は、机の上に落ちていた。
「……何かあったんですか」
「今朝早く、尹家に捜索が入った」
今度こそ。
姜 賢俊は何も言えなかった。
「尹 仁救殿の部屋だけではない。尹家そのものが調べられている」
「だから何ですか」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「だから行くなと言っている」
「意味が分かりません」
「今、あの家へ出入りすることが何を意味するのか分からないのか」
「分かっています」
「分かっていない」
姜 正勲の声が、初めて強くなった。
「お前一人の問題ではない」
姜 賢俊は黙る。
「姜家には、お前だけがいるのではない。賢成がいる。賢宇がいる。この家に仕える者たちもいる」
「……それが?」
「王を死に至らしめた疑いをかけられている医官の家と、今まで通り親しく付き合っていると見られる。それがどういうことか考えろ」
分かっていた。
姜 賢俊だって、もう子どもではない。
姜家の名が何を意味するのか。
父が何を守ろうとしているのか。
分からないわけではなかった。
だからこそ。
腹が立った。
「じゃあ」
姜 賢俊は父を見た。
「だから、行かないんですか」
「……何?」
「昨日まで家族になるはずだった人たちでしょう」
姜 正勲の顔が強張った。
「まだ何も決まってない」
姜 賢俊は続けた。
「仁救殿が陛下を殺したって決まったわけじゃない」
「だからこそだ。何も決まっていない今、軽率に動くなと言っている」
「俺は軽率に動いてるんじゃありません」
「なら何だ」
答えは簡単だった。
「ユリがいるから行くんです」
部屋が静まり返った。
母、姜 秀蓮が目を伏せる。
父はしばらく何も言わなかった。
やがて。
「……お前は姜家の息子だ」
「知っています」
「ならば、自分の行動が家に及ぼす影響も考えろ」
「考えてます」
「なら――」
「でも」
姜 賢俊は父の言葉を遮った。
普段なら、そんなことはしない。
「ユリは俺の婚約者です」
その言葉に。
姜 秀蓮が、ゆっくりと顔を上げた。
「……あなた」
夫を呼ぶ。
「柔莉は昨日まで、私たちの娘になるはずだった子です」
姜 正勲は妻を見る。
「分かっている」
「なら――」
「分かっているから言っている」
怒鳴ったわけではなかった。
むしろ。
その声には疲れが滲んでいた。
姜 賢俊は、初めて父の顔をきちんと見た。
父だって。
何も感じていないわけではない。
それくらいは分かった。
けれど。
「行きます」
それでも。
答えは変わらなかった。
「賢俊」
「すみません」
父に頭を下げる。
そして。
姜 賢俊は、そのまま部屋を出た。
◇ ◇ ◇
尹家へ向かう道は、いつもと同じだった。
何度歩いたか分からない。
幼い頃から。
何度も。
遊びに行った。
食事をした。
柔莉と喧嘩をした。
仲直りもした。
十六になった年。
両家から婚約の話を聞かされたあとも。
結局、何も変わらなかった。
昨日だって、ここを歩いた。
月が綺麗だった。
柔莉に。
月より綺麗だと言った。
思い出した瞬間。
姜 賢俊は顔をしかめた。
――何で今それを思い出すんだ。
あのとき柔莉に。
帰って。
と言われた。
それで本当に帰った。
昨日の自分を殴りたい。
もし。
あのとき帰らなかったら。
何か変わっていただろうか。
――変わるわけない。
分かっている。
自分が尹家に泊まっていたところで、国王は亡くなっていた。
尹 仁救は拘束されていた。
何もできなかった。
それでも。
一人にしなければよかった。
そんなことばかり考えていた。
やがて。
見慣れた門が見えてきた。
そして。
姜 賢俊は足を止めた。
門の前に、見知らぬ人間がいる。
中へ入るわけでもなく。
ただ通り過ぎるふりをしながら、尹家を見ている。
「……ここか」
「そうらしい」
小さな声が耳に入った。
「王を殺した医官の――」
姜 賢俊は、その男たちを睨んだ。
男たちは気まずそうに視線を逸らし、歩いていく。
拳を握った。
けれど。
追いかけなかった。
代わりに。
いつものように門を叩いた。
◇ ◇ ◇
「賢俊?」
門の向こうに立っていた尹 柔莉は。
ひどく驚いた顔をした。
「……どうして来たの」
姜 賢俊は眉を寄せた。
「どうしてって?」
「だって……」
柔莉が門の外を見る。
いつもなら。
姜 賢俊が来れば、何も考えずに中へ入れる。
今日もそのつもりだった。
けれど。
柔莉は門の前から動かなかった。
「来ない方がいいって、言われなかった?」
姜 賢俊は少しだけ黙った。
「言われた」
「……やっぱり」
柔莉が俯く。
「じゃあ、なんで来たの」
「ユリがいるから」
顔が上がった。
「……え?」
「ユリがいるから来た」
「でも――」
「おじさんとおばさんもいるし」
「そうじゃなくて」
「分かってる」
姜 賢俊は言った。
柔莉の顔を見て。
ようやく。
少し安心した。
ちゃんといる。
目の前にいる。
「……大丈夫?」
その一言で。
柔莉の顔が変わった。
「大丈夫」
すぐに返ってきた。
あまりにも早かった。
「叔父上は何もしてないから」
「うん」
「允浩も言ってた。叔父上が作った薬じゃないって」
「うん」
「だから、ちゃんと調べれば分かる」
「うん」
「すぐ帰ってくると思う」
姜 賢俊は。
今度は返事ができなかった。
柔莉は笑おうとした。
けれど。
うまく笑えていなかった。
「……何、その顔」
「どんな顔」
「変な顔」
「ユリに言われたくない」
「私、変な顔してない」
「してる」
「してない」
いつもの会話だった。
少なくとも。
形だけは。
それが。
どうしようもなく嬉しかった。
柔莉が、ほんの少しだけ笑った。
だから。
姜 賢俊も笑った。
「入っていい?」
そう聞くと。
柔莉は一瞬だけ迷って。
それから。
いつものように道を開けた。
「……どうぞ」
◇ ◇ ◇
尹家の中は、昨日と同じようで。
何もかもが違って見えた。
尹 美蘭は、姜 賢俊の顔を見ると驚いた。
「賢俊……」
「おばさん」
頭を下げる。
「来てくれたの?」
「はい」
それだけで。
尹 美蘭は少し困ったように笑った。
「ありがとう」
尹 泰成は何も言わなかった。
ただ。
「……座りなさい」
いつもと同じように言った。
だから。
姜 賢俊も、いつもと同じ場所に座った。
何かできると思って来たわけではない。
実際。
何もできなかった。
尹 仁救を助けることも。
疑いを晴らすことも。
尹家の前で噂する人間を全員黙らせることも。
何も。
ただ。
そこにいた。
柔莉の隣に座って。
話を聞いた。
今朝、役人が来たこと。
叔父の部屋から医書や記録を持っていったこと。
昨日、柔莉が分けた薬草まで調べられたこと。
「私まで色々聞かれたの」
「ユリも?」
「うん。でも、お父様に途中で話すなって言われた」
柔莉は不満そうだった。
「私、叔父上のことならたくさん説明できるのに」
姜 賢俊は、何も言えなかった。
柔莉は。
まだ信じている。
正しいことを話せば。
真実を伝えれば。
元に戻ると。
だから。
姜 賢俊も。
「……そうだな」
そう言った。
それ以外の言葉を。
今の柔莉には、言いたくなかった。
◇ ◇ ◇
帰る頃には、日はかなり高くなっていた。
門まで見送りに来た柔莉が言った。
「明日は来なくていいからね」
姜 賢俊が振り返る。
「何で?」
「何でって……」
「明日も来るけど」
「来なくていい」
「来る」
「話聞いてた?」
「聞いてた」
「じゃあ来ないで」
「嫌だ」
柔莉が呆れたように息を吐いた。
その顔が。
少しだけ。
昨日までの柔莉に戻ったように見えた。
「……ほんと、昔から言うこと聞かないよね」
「ユリもだろ」
「私は聞くよ」
「嘘つけ」
「帰って」
「またそれ?」
昨日と同じ言葉だった。
昨日も。
柔莉は自分に言った。
――帰って。
だから。
姜 賢俊は少し笑った。
「じゃあ、また明日」
「……来なくていいってば」
「また明日、ユリ」
そう言って。
今度こそ帰った。
◇ ◇ ◇
姜家へ戻ると。
父が待っていた。
姜 正勲は、書斎に一人で座っていた。
「……行ったのか」
「はい」
姜 賢俊は隠さなかった。
「そうか」
それだけだった。
怒鳴られると思っていた。
叱られるとも思っていた。
けれど。
父は何も言わなかった。
「父上」
「今日はもういい」
「……はい」
姜 賢俊が頭を下げる。
部屋を出ようとした。
そのとき。
「賢俊」
呼び止められる。
振り返った。
父は。
しばらく息子を見つめていた。
その顔は。
父親のものなのか。
姜家の当主のものなのか。
姜 賢俊には分からなかった。
「話がある」
「……何ですか」
わずかな沈黙。
そして。
姜 正勲は言った。
「柔莉との婚約についてだ」




