罪人の家
第五話 罪人の家
尹家の門が次に叩かれたのは、夜が明けるより前だった。
「――叔父上?」
ほとんど眠れないまま朝を待っていた尹 柔莉は、その音を聞いた瞬間、立ち上がった。
考えるより先に身体が動いていた。
帰ってきた。
叔父が帰ってきた。
そう思った。
「柔莉」
後ろから母の尹 美蘭に呼び止められたが、尹 柔莉はすでに部屋を飛び出していた。
昨夜から、何度同じことを考えただろう。
調べれば分かる。
薬を見れば分かる。
尹 仁救が王を殺すはずがないことなど、少し考えれば誰にだって分かる。
だから、きっと帰ってくる。
そう思っていた。
「叔父上――」
門が開く。
けれど。
そこに尹 仁救はいなかった。
代わりに立っていたのは、見知らぬ男たちだった。
まだ薄暗い空の下。
揃いの官服を身につけた男たちが、静かに尹家の門前に並んでいる。
尹 柔莉の足が止まった。
「……誰?」
答える者はいなかった。
遅れて出てきた父、尹 泰成が娘の前へ出る。
「何の御用でしょう」
その声は、いつもの父と変わらないほど落ち着いていた。
けれど尹 柔莉は気づいた。
父の手が、ほんの少しだけ強く握られている。
役人の一人が一歩前へ出た。
「王命である」
その言葉だけで、空気が変わった。
「医官、尹 仁救の居室、ならびに所有する薬材、医書、調薬に関する記録を改める」
尹 柔莉は瞬きをした。
「叔父上の……?」
「柔莉」
父に名前を呼ばれ、口を閉じる。
「……承知いたしました」
尹 泰成はそう答えると、静かに道を開けた。
男たちが尹家へ入ってくる。
昨日まで。
ここへ入ってくる者は、皆、尹家を訪ねてきた客だった。
父の知人。
母の友人。
姜 賢俊。
そして、仕事を終えて帰ってくる尹 仁救。
けれど今。
見知らぬ男たちが、王命という言葉ひとつで家の奥へ入っていく。
尹 柔莉は、それを止めることができなかった。
◇ ◇ ◇
尹 仁救の部屋は、尹 柔莉にとって見慣れた場所だった。
幼い頃から何度も入った。
薬草の名前を教わった。
薬研の使い方を教わった。
読めない医書を勝手に開いて叱られたこともある。
大きくなってからは、薬草を分けたり、簡単な調合を手伝ったりすることも増えた。
だから。
知らない男たちがその部屋の棚を開ける光景は、ひどく奇妙に見えた。
「これは」
「医書です」
「持っていけ」
一冊。
また一冊。
尹 仁救が大切にしていた本が積み上げられていく。
「こちらは調薬の記録か」
「おそらく」
「それもだ」
紙の束が持ち上げられる。
尹 柔莉は思わず一歩前へ出た。
「丁寧に扱ってください」
役人が振り返る。
「……何?」
「叔父上が大切にしているものです。だから――」
「柔莉」
尹 泰成の声だった。
「下がっていなさい」
「でも」
「いいから」
いつもより少し低い声に、尹 柔莉は仕方なく一歩下がった。
納得はしていなかった。
叔父は悪いことなどしていない。
ならば、こんなふうに扱われる理由もない。
そう思っていた。
役人たちは次々と薬箱を開けていく。
乾燥させた根。
葉。
木の皮。
粉末。
尹 柔莉には、そのほとんどが何なのか分かった。
そして。
「あ……」
一人の役人が、部屋の隅に置かれた籠へ手を伸ばした。
昨日。
尹 仁救に言われて、自分が仕分けた薬草だった。
「それは違います」
考えるより先に声が出た。
役人の手が止まる。
「違う?」
「はい。それは陛下のお薬とは関係ありません」
「なぜ分かる」
「だって、それは昨日、私が――」
言いかけて、尹 柔莉は首を傾げた。
何もおかしなことは言っていない。
「私が分けたものです」
部屋が静かになった。
役人の目が、薬草から尹 柔莉へ移る。
「お前が?」
「はい」
「名は」
「尹 柔莉です」
「尹 仁救との関係は」
「姪です」
役人が柔莉を見つめる。
「この部屋にはよく入るのか」
「はい」
「薬材に触れることもある?」
「あります」
「医術を学んでいるのか」
尹 柔莉は少し迷ってから頷いた。
「学んでいるというほどではありません。叔父上の手伝いをしているだけで――」
「調合もする?」
「簡単なものなら」
「柔莉」
父の声が飛んだ。
今度は、はっきりと強かった。
尹 柔莉が振り返る。
「もう答えるな」
「……どうして?」
「いいから」
「でも、お父様」
分からなかった。
聞かれたことに答えているだけだ。
むしろ、自分が知っていることを話した方がいい。
叔父が普段どれほど慎重に薬を扱っていたか。
人を助けることをどれほど大切にしていたか。
自分なら、いくらでも話せる。
「私が説明すれば、叔父上がそんなことをする人じゃないって――」
「柔莉」
尹 泰成は娘の前へ立った。
そして、役人たちから隠すように、その身体を背に置いた。
「娘は関係ありません」
役人はしばらく尹 泰成を見ていた。
「関係があるかどうかを決めるのは、我々ではない」
淡々とした声だった。
怒っているわけでもない。
脅しているわけでもない。
だからこそ。
尹 泰成の表情が初めてわずかに強張ったことを、尹 柔莉は見逃さなかった。
◇ ◇ ◇
捜索は続いた。
医書。
薬材。
調薬の記録。
尹 仁救が医官として生きてきた年月が、ひとつずつ箱へ収められていく。
やがて、一人の役人が棚の奥から古びた記録の束を取り出した。
紙の端は擦れ、ところどころ色も変わっている。
「これも医療記録か」
尹 柔莉はそれを見たことがあった。
「それは、ずっと昔のものです」
父に止められたことを思い出しながらも、つい口を挟んでしまう。
「今回の陛下のお薬とは関係ありません」
役人がこちらを見る。
「読んだことがあるのか」
「……少しだけ」
正確には、叔父の手伝いをしているときに目にしたことがあるだけだった。
戦場で診た者。
負傷した兵。
投じた薬。
施した処置。
幼かった尹 柔莉には読めない字も多く、内容をすべて理解したわけではない。
ただ。
尹 仁救が昔から人を治してきた、その記録だということだけは知っていた。
「それも持っていく」
「でも――」
「柔莉」
今度は母、尹 美蘭が娘の手を取った。
柔莉は口を閉じた。
古い記録が箱へ入れられる。
何年も。
誰にも触れられず。
尹 仁救の部屋に置かれていた記録だった。
その中に何が書かれているのか。
その一枚一枚が、いつ、誰の手によって書かれたものなのか。
このときの尹 柔莉は、まだ知らなかった。
ただ、叔父の大切なものが持っていかれる。
それだけが悲しかった。
◇ ◇ ◇
役人たちが帰った頃には、空が白み始めていた。
部屋は静かだった。
荒らされたわけではない。
壊されたものもない。
それなのに。
「……何もない」
尹 柔莉は呟いた。
いつも棚いっぱいに並んでいた医書が減っている。
積まれていた記録もない。
薬箱にも空いた場所がある。
昨日まで叔父のものに囲まれていた部屋が、急に広くなったように見えた。
尹 柔莉はしゃがみ込んだ。
そこには。
昨夜、役人が手に取った薬草が残されていた。
持っていく必要はないと判断されたらしい。
柔莉は乱れた薬草を一つずつ拾った。
葉は葉。
根は根。
昨日と同じように分け直す。
「柔莉」
後ろから尹 美蘭の声がした。
「もういいのよ」
「駄目」
「でも――」
「叔父上が帰ってきたとき、ちゃんとしてなかったら怒られるもの」
尹 美蘭は何も言わなかった。
柔莉は気づかない。
母が返事をしなかった理由に。
「昨日ね」
薬草を揃えながら、尹 柔莉は言った。
「帰ったら見るって言ったの」
一本。
また一本。
「だから、ちゃんとしておかないと」
指先が少し震えていた。
それでも。
きれいに並べた。
尹 仁救が帰ってきたら、いつものように確認してくれる。
間違っていたら呆れた顔をして。
合っていたら、たぶん素直には褒めてくれない。
――まあ、悪くない。
きっと、そのくらいだ。
それでいい。
それが聞きたい。
だから。
帰ってきてほしい。
そのときだった。
外から声が聞こえた。
「……あそこだ」
尹 柔莉の手が止まる。
門の向こう。
道を歩く者たちの声だった。
「昨夜、役人が入ったらしい」
「やっぱり本当なのか」
「王を殺した医官の家だろう?」
尹 柔莉は顔を上げた。
王を殺した。
誰が?
叔父が?
違う。
違うのに。
立ち上がり、部屋を出る。
門は閉じられていた。
昨日までと何も変わらない門。
その向こうを、人が通っていく。
けれど。
聞こえてくる声だけが違っていた。
「尹家も終わりだな」
柔莉は、動けなかった。
昨日まで。
ここは、ただの尹家だった。
父、尹 泰成がいて。
母、尹 美蘭がいて。
叔父、尹 仁救がいて。
姜 賢俊が、当たり前のように遊びに来る家だった。
それが。
たった一晩で。
――王を殺した医官の家。
そう呼ばれている。
「違う……」
小さく呟いた。
誰にも届かない。
「叔父上は、何もしてない」
それでも。
門の向こうの足音は遠ざかっていった。
尹 柔莉は、そのとき初めて知った。
罪というものは。
犯した者だけにつくものではないらしい。
まだ、何ひとつ証明されていない。
尹 仁救が王を殺したと決まったわけでもない。
それなのに。
叔父の名についた疑いは、もう。
父にも。
母にも。
そして――
自分にも。
静かに、広がり始めていた。




