帰らない人
第四話 帰らない人
その日、尹 柔莉は珍しく、叔父に言いつけられたことをすべて終わらせた。
「……できた」
種類ごとに分けた薬草を前に、柔莉は満足そうに頷いた。
朝、尹 仁救に渡された籠は空になっている。
途中で投げ出してはいない。
一つも残していない。
文句のつけようがない出来だ。
「今日は何も言わせないんだから」
帰ってきた叔父に見せれば、きっと最初は何でもない顔をする。
それから薬草を一つずつ確認して、間違いがなければ小さく頷く。
褒めてくれればいいのに。
尹 仁救は、そういうことを滅多に言わない。
だから今日こそ言わせてやろうと思った。
よくできた、と。
柔莉は籠をそのままにして、叔父の部屋を出た。
*
日が傾き始めても、尹 仁救は帰ってこなかった。
柔莉は最初、特に気にしていなかった。
王に仕える医官なのだから、帰りが遅くなることくらいある。
まして今日は、国王である承赫の薬を用意すると言っていた。
何か仕事が増えたのだろう。
そう思っていた。
けれど。
「……遅いですね」
夕餉の支度が始まる頃になって、柔莉はぽつりと言った。
向かいに座っていた母、尹 美蘭が顔を上げる。
「叔父上です」
「ああ」
「允浩も一緒でしょう?」
「そうね」
「何かあったのかな」
そう言いながらも、柔莉の声に不安はなかった。
何かあった。
その言葉が意味するものを、まだ知らなかったからだ。
「宮中のお仕事でしょう」
尹 美蘭が穏やかに答える。
「陛下のお身体を診ているのかもしれないわ」
「でも朝は、悪くないって言ってましたよ」
「そうなの?」
「昔の傷が痛むだけだって」
柔莉は頬杖をついた。
「叔父上、帰ったら薬草を見るって言ってたのに」
「まあ。終わったの?」
「今日は全部」
「珍しいこともあるのね」
「母上まで!」
尹 美蘭がくすくすと笑う。
「叔父上に言いつけますよ」
「何て?」
「母上が私を馬鹿にしましたって」
「そうしたら仁救も笑うでしょうね」
「もう」
柔莉は唇を尖らせた。
その様子を見て、尹 美蘭がまた笑う。
いつもと変わらない夕方だった。
台所から夕餉の匂いが漂ってくる。
使用人たちが行き交い、どこかで器の重なる音がする。
父、尹 泰成も間もなく戻ってくる。
叔父も、そのうち帰ってくる。
そう思っていた。
*
尹 泰成が帰宅したのは、それからしばらくしてからだった。
「お帰りなさいませ、父上」
「ああ。ただいま」
出迎えた柔莉の頭に手を置こうとして、尹 泰成はやめた。
娘が嫌そうな顔をしたからだ。
「まだ嫌なのか」
「子どもじゃありません」
「十七など、私から見ればまだ子どもだ」
「もうすぐ姜家へ嫁ぐ娘ですよ」
「それは関係ない」
「あります」
「ない」
親子のやり取りを聞きながら、尹 美蘭が笑った。
「あなたまで仁救と同じことをして」
「兄弟だからな」
「そういえば」
柔莉が父を見る。
「叔父上、まだ帰ってないんです」
「仁救が?」
「允浩も」
尹 泰成がわずかに眉を寄せた。
「宮中か」
「たぶん」
「今日は陛下の薬があると言っていました」
尹 美蘭の言葉に、尹 泰成は「ああ」と頷いた。
「なら、その関係だろう」
「ほら」
柔莉が得意げに言う。
「何が、ほら、なんだ」
「何も心配いらないってことです」
「お前が一番気にしていたんじゃないのか」
「気にしてません」
「さっきから何度も外を見ていたでしょう」
「母上!」
また笑い声が上がった。
そのときだった。
門の向こうから、物音がした。
柔莉が真っ先に振り返る。
「あ」
立ち上がった。
「帰ってきた」
朝から待っていた相手がようやく帰ってきた。
そう信じて、柔莉は部屋を飛び出した。
「叔父上、遅――」
言葉が止まった。
門の前に立っていたのは、一人だった。
「……允浩?」
允浩が立っている。
朝、尹 仁救と一緒にこの家を出た男。
けれど。
その隣にいるはずの人がいない。
「お帰りなさい」
柔莉はそう言ってから、允浩の後ろを見た。
誰もいない。
「……叔父上は?」
允浩は答えなかった。
その顔を見て、柔莉はようやく気づいた。
朝とは違う。
顔色が悪い。
唇から血の気が引いている。
いつもなら柔莉が何か言えば、呆れたように笑う人なのに。
今は、笑わない。
「允浩?」
「……柔莉」
「何?」
「泰成様と、美蘭様は?」
「中にいるけど」
「話がある」
「話?」
「ああ」
「叔父上は?」
また答えない。
柔莉の胸に、初めて小さな不安が生まれた。
「……允浩」
「中へ入ろう」
「だから」
柔莉は動かなかった。
「叔父上は、どこ?」
允浩が目を伏せる。
それだけで。
さっきまで何でもなかったはずの夕方が、急に違うものになった。
*
「何があった」
尹 泰成が低い声で尋ねた。
允浩は部屋へ入ってから、ほとんど何も話していなかった。
尹 泰成。
尹 美蘭。
そして尹 柔莉。
三人が自分を見ている。
言わなければならない。
分かっている。
それでも、口が動かなかった。
「允浩」
尹 泰成がもう一度呼んだ。
「仁救はどうした」
允浩が拳を握る。
「……陛下が」
声が掠れた。
「何?」
柔莉が聞き返す。
允浩は一度、息を吸った。
「承赫陛下が――崩御されました」
誰も動かなかった。
「……え?」
最初に声を出したのは、柔莉だった。
「崩御……?」
「今日、薬をお飲みになったあと、急に容体が悪化した」
「でも」
柔莉は允浩を見る。
「朝、叔父上が」
言葉がうまく出てこない。
「大丈夫だって」
「……」
「古傷が痛むだけだって言ってたよね?」
「ああ」
「じゃあ、どうして」
允浩は答えられない。
柔莉の隣で、尹 泰成の表情が変わっていた。
「薬、と言ったな」
「……はい」
「誰が調合した」
允浩が目を閉じた。
その反応だけで、尹 泰成には分かった。
「仁救か」
「……師匠と、私です」
尹 美蘭が息を呑んだ。
柔莉はまだ理解できないように、三人を見ていた。
「でも」
允浩が顔を上げる。
「違います」
声が強くなった。
「あれは、私たちが調合した薬ではありません」
「どういうことだ」
「私も確認しました。師匠も確認しています。量も、使ったものも、何度も。間違いありません」
「では、陛下が飲まれたものは?」
「……違うものです」
沈黙が落ちた。
「師匠もそう言いました」
允浩は続ける。
「陛下が飲まれた器を確認して、すぐに。自分が調合したものではないと」
「なら」
柔莉が口を開いた。
「なら、大丈夫じゃない」
三人の視線が集まる。
「允浩も見てたんでしょう?」
「ああ」
「叔父上が作った薬におかしなものはなかったんでしょう?」
「ああ」
「だったら、それを言えばいいじゃない」
「柔莉……」
「調べれば分かるでしょう?」
柔莉には、それ以外の答えが思いつかなかった。
叔父は何もしていない。
允浩がそれを知っている。
二人で確認した。
なら、調べれば分かる。
間違いだったと分かれば、帰ってくる。
それだけのことだ。
「叔父上は?」
柔莉が尋ねる。
「まだ宮中にいるの?」
允浩は何も言わない。
「だったら私も行く」
「柔莉」
「私も薬は分かるもの。叔父上が普段どうやって薬を作ってるかだって知ってる。私も話せば――」
「柔莉」
今度は尹 泰成が止めた。
けれど柔莉は父を見なかった。
允浩だけを見ている。
「いつ帰ってくるの?」
允浩の顔が歪んだ。
その顔を見た瞬間。
柔莉の中で、何かが冷えた。
「……何?」
「師匠は」
允浩がようやく言った。
「宮中で、そのまま拘束された」
「……拘束?」
「陛下を死に至らしめた薬を調合した疑いで」
柔莉は瞬きをした。
一度。
二度。
言葉の意味が、頭に入ってこない。
「叔父上が?」
「ああ」
「陛下を?」
允浩は答えない。
「そんなわけない」
すぐに出た。
「叔父上がそんなことするわけない」
「分かってる」
允浩も、すぐに答えた。
「俺も分かってる」
「じゃあ、そう言ってよ」
「言った」
「もっと言って」
「言ったよ」
「だったら――!」
「言ったんだ!」
允浩の声が、初めて大きくなった。
柔莉が黙る。
允浩は俯いた。
「……何度も言った」
今度の声は、小さかった。
「師匠の薬じゃない。俺も確認した。師匠が陛下を害するはずがないって」
「……」
「全部、言った」
それでも。
尹 仁救は帰ってこなかった。
柔莉は、膝の上で手を握った。
「……でも」
声が震える。
「調べれば、分かるよね?」
誰も答えない。
「叔父上、何もしてないんだから」
「……」
「だったら……」
柔莉は允浩を見た。
「帰ってくるよね?」
允浩は答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙を、柔莉は初めて怖いと思った。
朝。
いつものように尹 仁救はこの家を出ていった。
帰ったら見るからな、と言った。
だから柔莉は、言いつけられた薬草を全部分けた。
一つも残さず。
間違えないように。
褒めてもらえるかもしれないと思いながら。
叔父の部屋には今も、それが置かれている。
あとは。
尹 仁救が帰ってきて、確かめるだけだった。
けれど、その夜。
尹家の門がもう一度開くことはなかった。




