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崩御

第三話 崩御


 朝餉を終えた尹 柔莉(ユン・ユリ)は、いつものように叔父の部屋へ向かった。


 昨夜、姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)を門前まで見送ったあと、母の尹 美蘭(ユン・ミラン)に散々からかわれたせいで、寝るのが少し遅くなった。


 それでも、この時間だけは昔から変わらない。


 薬草の匂いがする部屋。


 棚には大小さまざまな薬壺が並び、机の上には何冊もの医書が積み重なっている。


 幼い頃の柔莉(ユリ)にとって、この部屋は宝物庫のような場所だった。


「叔父上」


 声をかけても返事がない。


 柔莉(ユリ)は勝手知ったる様子で中へ入り、机に向かっている男の背後からもう一度呼んだ。


「叔父上」


「聞こえている」


「だったら返事してください」


「今しただろう」


「二回目で」


「一回目から聞こえていた」


「では一回目でしてください」


 ようやく男が振り返った。


 尹 仁救(ユン・イング)。


 柔莉(ユリ)の父、尹 泰成(ユン・テソン)の弟であり、王に仕える医官である。


 妻も子も持たず、兄一家と同じ屋敷で暮らしているため、柔莉(ユリ)にとっては叔父というより、もう一人の父に近い存在だった。


「朝からよく喋るな」


「叔父上が喋らないからです」


「二人合わせてちょうどいい」


「私は一人でもちょうどいいです」


 仁救(イング)は小さく笑うと、机の端に置いてあった籠を柔莉(ユリ)へ押しやった。


「なら、口だけじゃなく手も動かせ」


「……これは?」


「見れば分かるだろう」


 中には乾燥させた薬草が何種類も入っている。


「分けるんですか?」


「ああ」


「私、朝餉を食べたばかりなんですけど」


「知っている」


「少しくらい休ませようとは?」


「思わない」


「叔父上」


「医術を覚えたいと言ったのは誰だ」


 そう言われると弱い。


 柔莉(ユリ)は口を尖らせながら、仁救(イング)の向かいへ座った。


 幼い頃から、この部屋に入り浸っていた。


 初めはただ、色も形も匂いも違う薬草が面白かっただけだった。


 これは何に使うの。


 どうしてこれを煎じるの。


 どうして同じ薬でも量が違うの。


 質問ばかりする姪を、仁救(イング)は一度も追い出さなかった。


 やがて柔莉(ユリ)は薬草の名を覚え、医書を読み、簡単な傷なら手当てまでできるようになった。


 もっと学びたい。


 そう思うようになった頃には、もう分かっていた。


 女は医官にはなれない。


 どれだけ学んでも。


 どれだけ知識を身につけても。


 宮中で医官として働く道は、柔莉(ユリ)には最初から用意されていなかった。


 それでも、学ぶことまで禁じられているわけではない。


 だから柔莉(ユリ)は今日もここにいる。


「叔父上」


「今度は何だ」


「もし私が男だったら、弟子にしてくれました?」


 仁救(イング)の手が止まった。


「何だ、急に」


「なんとなくです」


「お前を?」


「はい」


「断る」


「どうしてですか!」


「口答えばかりする弟子はいらん」


「允浩(ユンホ)だってします!」


「お前ほどではない」


「します!」


「本人がいないところで勝手なことを言うな」


「では、本人に聞きましょう」


「何をですか?」


 背後から声がした。


 柔莉(ユリ)が振り返る。


 戸口に立っていたのは、仁救(イング)の弟子である允浩(ユンホ)だった。


「あ、ちょうどいいところに」


「嫌な予感しかしませんけど」


「允浩(ユンホ)は叔父上に口答えしますよね?」


「しません」


「嘘」


「師匠に逆らうほど命知らずじゃありません」


「ほら」


 仁救(イング)が勝ち誇ったように言う。


 柔莉(ユリ)は不満そうに二人を見比べた。


「二人とも嫌い」


「朝から元気ですね」


「さっき叔父上にも言われた」


 允浩(ユンホ)が笑いながら部屋へ入ってくる。


 いつもと同じ朝だった。


 何度も繰り返してきた、尹家の日常。


 この時間が失われるなど、柔莉(ユリ)は考えたこともなかった。



     *



「そろそろ行くぞ」


 しばらくすると、仁救(イング)が立ち上がった。


「もう宮中へ?」


「ああ」


「今日は早いですね」


「陛下のお薬がある」


 柔莉(ユリ)の手が止まる。


「昨日、父上がおっしゃっていた……」


「古傷だ。ここ数日、痛みが出ているらしい」


「悪いんですか?」


「いや」


 仁救(イング)は首を振った。


「昔からあるものだ。三日ほど続いているが、いつもの薬で痛みも治まっている」


「なら安心ですね」


「ああ」


 その返事に迷いはなかった。


 柔莉(ユリ)も、それ以上は気にしなかった。


「行ってらっしゃいませ」


「薬草、途中で放り出すなよ」


「分かっています」


「昨日もそう言って半分残しただろう」


「あれは賢俊(ヒョンジュン)が来たからです」


「言い訳になっていない」


「なります」


「ならん」


「なります」


「……師匠、遅れますよ」


 允浩(ユンホ)が呆れたように割って入る。


 仁救(イング)はため息をついた。


「帰ったら見るからな」


「はいはい」


「返事は一度」


「はーい」


「柔莉(ユリ)」


「行ってらっしゃいませ、叔父上」


 追い出すように手を振ると、仁救(イング)は苦笑した。


 そして、允浩(ユンホ)とともに部屋を出ていった。


 柔莉(ユリ)は知らなかった。


 これが、叔父と交わす最後の――


 何でもない朝の会話になることを。



     *



 宮中の医官たちが使う部屋には、薬草を煎じる匂いが満ちていた。


 仁救(イング)は出来上がった薬を確認し、隣にいる允浩(ユンホ)へ視線を向けた。


「確認したか」


「はい」


「量は」


「いつもと同じです」


「他の薬は混ざっていないな」


「ありません」


 仁救(イング)は自分でも確かめる。


 王に差し出す薬である。


 何度確認しても、確認しすぎるということはない。


 やがて小さく頷いた。


「これでいい」


 薬は器へ移され、蓋が閉じられる。


 そこから先は、宮中の者の仕事だった。


 薬を受け取ったのは、朴 福順(パク・ボクスン)という男だった。


 まだ若い。


 以前は奴婢だったが、今は身分を解かれ、宮中で使い走りの仕事をしている。


「陛下へ。冷めないうちに」


「はい」


 福順(ボクスン)は両手で器を受け取った。


 廊下を進む。


 ただ薬を届ける。


 いつもと変わらない仕事だった。


 だから、その角から現れた男にも、特別な注意を払わなかった。


「あ――」


 肩がぶつかった。


 福順(ボクスン)の手から器が滑る。


「っ……!」


 慌てて手を伸ばす。


 男も同時に身を屈めた。


「申し訳ない」


「い、いえ、私の方こそ……!」


 福順(ボクスン)の顔から血の気が引いていた。


 王の薬だ。


 何かあれば、自分の首では済まない。


「割れてはいないようだ」


 男が器を拾い上げた。


 整った身なりをしている。


 商人にも見えたが、立ち居振る舞いには妙な品があった。


 福順(ボクスン)はそんなことを考える余裕もなく、差し出された器を受け取った。


「ありがとうございます」


「いや。こちらこそ悪かった」


 男はそれだけ言うと、来た道を静かに歩いていった。


 福順(ボクスン)は器を確認した。


 割れていない。


 蓋も閉じている。


 中身もこぼれてはいないようだった。


「……よかった」


 胸を撫で下ろす。


 そして再び歩き出した。


 一度だけ、振り返った。


 だが、男の姿はすでに見えなかった。



     *



「陛下。お薬でございます」


 承赫(スンヒョク)は書状から目を上げた。


 ここ三日ほど、古傷が痛んでいる。


 若い頃、戦場で負った傷だった。


 命に関わるものではない。


 だが、天候や疲れによって、ときおり疼く。


「置け」


「はい」


 福順(ボクスン)が薬を置き、頭を下げて退室する。


 承赫(スンヒョク)はしばらく書状を読んでいた。


 やがて器へ手を伸ばす。


 蓋を開ける。


 いつもの匂い。


 何もおかしくはない。


 承赫(スンヒョク)は薬を口にした。


 一口。


 二口。


 そして、すべて飲み干した。



     *



 異変が起きたのは、それから間もなくのことだった。


「陛下!」


 宮中を鋭い声が走った。


 仁救(イング)が部屋へ駆け込んだときには、すでに数人の者が承赫(スンヒョク)の周囲を取り囲んでいた。


「退いてください!」


 人を押しのけ、仁救(イング)が膝をつく。


「陛下。聞こえますか」


 返事はない。


 呼吸が乱れている。


 額には汗が浮かび、明らかに先ほどまでとは様子が違う。


 允浩(ユンホ)もすぐ隣に膝をついた。


「師匠……」


「薬箱を」


「はい!」


 仁救(イング)は承赫(スンヒョク)の状態を確かめながら、眉を寄せた。


 おかしい。


 古傷の痛みではない。


 そして――


「陛下は何を口にされた」


 仁救(イング)が振り返る。


「何か食べたのか」


「い、いえ……」


 近くにいた者が震える声で答える。


「では何を」


「先ほど……お薬を」


 仁救(イング)の表情が止まった。


「薬?」


「はい。医官より届けられたものを」


「いつだ」


「ほんの少し前に……」


「器は!」


 空になった器が差し出される。


 仁救(イング)はそれを手に取った。


 匂いを確かめる。


 指先でわずかに残ったものを見る。


 その顔から、ゆっくりと血の気が失われていった。


「……違う」


「師匠?」


 允浩(ユンホ)が仁救(イング)を見る。


「違う」


 仁救(イング)はもう一度言った。


「何が違うのです」


「これは……」


 喉が詰まる。


 自分が作った。


 自分が確認した。


 允浩(ユンホ)にも確認させた。


 間違えるはずがない。


 それなのに。


 仁救(イング)は器を握り締めた。


「私が調合した薬ではない」


 部屋の空気が変わった。


 誰も言葉を発しなかった。


 仁救(イング)はすぐに承赫(スンヒョク)へ向き直る。


 今はそんなことを考えている場合ではない。


「允浩(ユンホ)!」


「はい!」


「まだ間に合う。急げ!」


 救わなければ。


 何が入っていたのか。


 どこで変わったのか。


 誰がやったのか。


 そんなことは後でいい。


 今はただ、目の前の命を救わなければならない。


 仁救(イング)は必死に手を尽くした。


 何度も名を呼んだ。


「陛下」


 返事はない。


「陛下!」


 それでも手を止めなかった。


 救える命を諦めない。


 それが医官として生きてきた仁救(イング)が、ずっと守ってきたことだった。


 けれど。


 やがて――。


 仁救(イング)の手が止まった。


「……師匠」


 允浩(ユンホ)の声が震える。


 仁救(イング)は何も答えない。


 震える指を、承赫(スンヒョク)の首元へ当てる。


 一度。


 もう一度。


 確かめる。


 それでも。


 何も返ってこなかった。


 仁救(イング)はゆっくりと手を離した。


 部屋の中から、音が消えた。


 誰かが息を呑む。


 そして。


 膝から崩れるように、頭を垂れた。


 景和(キョンファ)国王。


 承赫(スンヒョク)。


 ――崩御。


 その知らせが尹家へ届くまで、あとわずか。


 その頃。


 尹 柔莉(ユン・ユリ)はまだ、叔父に言いつけられた薬草を、一つずつ丁寧に分けていた。

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