幸せだった柔莉(ユリ)
「ユリ!」
名前を呼ばれて、尹 柔莉は振り返った。
あの頃はまだ、その名で呼ばれることが当たり前だった。
七年前。
尹 柔莉、十七歳。
「待ってって言ってるだろ」
「嫌よ」
「なんで?」
「待ちたくないから」
「理由になってないだろ」
庭を横切りながら、尹 柔莉は後ろから追ってくる男を振り返った。
姜 賢俊。
同い年の十七歳。
幼い頃から、気づけばいつも隣にいた。
「そもそも、どうして今日もいるの?」
「ユリに会いに来た」
「昨日も来たでしょう」
「昨日来たら、今日来ちゃ駄目なの?」
「暇なの?」
「だから、ユリに会いに来たんだって」
「暇なのね」
「なんでそうなるんだよ」
姜 賢俊が不満そうな顔をする。
尹 柔莉は笑いを堪えながら前を向いた。
尹家と姜家は、柔莉が生まれるより前から付き合いがあった。
互いに両班の家柄で、父親同士にも交流がある。
だから姜 賢俊が尹家を訪ねてくることなど、今さら珍しくもなかった。
門番ですら、彼の顔を見ると確認もせずに門を開ける。
「今日なんて、門番に『またいらしたんですか』って言われたんだからな」
「ほら。みんな思ってるのよ」
「何を」
「来すぎ」
「お前がうちに来ないからだろ」
「この前行ったわよ」
「五日前」
「十分でしょう」
「全然」
「毎日会う必要なんてないでしょう?」
「俺はある」
「私はない」
「ひどくない?」
口ではそう言いながら、柔莉は少しだけ歩く速度を落とした。
そのことに賢俊が気づいたかどうかは分からない。
けれど、すぐに隣へ並んだ。
「ユリ」
今度は後ろからではなく、すぐ隣から名前を呼ばれる。
「何?」
「呼んだだけ」
「……変なの」
「昔からだろ」
「そうね」
幼い頃から、何度この声で名前を呼ばれただろう。
数えようと思ったことすらない。
それくらい当たり前だった。
「柔莉」
今度は別の声がして、二人は同時に振り返った。
母が廊下に立っている。
「賢俊も来ていたの?」
「はい。お邪魔しています」
「お邪魔って、昨日もいたじゃない」
「……今日はそれを何回言われるんでしょうか」
「だって昨日もいたもの」
「ほら」
柔莉が笑う。
「来すぎなのよ」
「お前まで言うなって」
母も笑った。
幼い頃から何度も見てきた光景なのだろう。
賢俊を客人として扱う様子は、もうほとんどない。
「そうだわ。お母様はお元気?」
「元気です」
「この前いただいた茶葉、とても美味しかったと伝えてちょうだい」
「分かりました。母上も、またユリを連れてきなさいって言ってました」
「まあ。また?」
「最近、俺が帰るたびに聞くんです。『今日はユリは来なかったの?』って」
「当然よ」
柔莉が頷く。
「なんでお前まで当然みたいな顔するんだよ」
「だって、おば様は私のこと好きだもの」
「俺よりな」
「それも当然」
「そこは否定しろよ」
母が堪えきれずに笑った。
「そうそう。柔莉」
「何ですか?」
「姜家から使いの方がいらしていたわよ」
「何かありました?」
「婚礼衣装のことで」
柔莉がぴたりと止まる。
賢俊も「ああ」と声を漏らした。
「母上、まだ一年も先でしょう?」
「一年しかないのよ。今から決めておかないと間に合わないでしょう」
「俺は何でもいいです」
賢俊が口を挟む。
母は彼を見た。
「あなたには聞いていません」
「……俺の婚礼なのに」
「賢俊」
「はい」
「男のあなたが口を出したら、話が余計にややこしくなるでしょう」
「はい……」
柔莉は思わず吹き出した。
二人の婚約が決まったのは、一年前。
家同士が決めた婚約だった。
けれど、それを嫌だと思ったことは一度もない。
物心がつくより前から知っている。
喧嘩もした。
泣かされたこともある。
泣かせたことなら、もっとある。
それでも。
いつか誰かのもとへ嫁ぐのなら。
その相手が姜 賢俊であることは、柔莉にとって、とても自然なことだった。
「私は青がいい」
柔莉が言う。
「婚礼衣装?」
「うん」
「赤じゃないの?」
「あなたに聞いてない」
「なんで俺だけ何も決めさせてもらえないんだよ」
「じゃあ、賢俊は何色がいいの?」
「ユリが着るなら何でもいい」
「ほら。聞くだけ無駄でしょう?」
母が言う。
「……俺、今すごく理不尽な目に遭ってない?」
「気のせいよ」
「絶対違う」
笑い声が庭に響いた。
その時だった。
「随分楽しそうだな」
低い男の声に、柔莉の顔がぱっと明るくなる。
「叔父上!」
門の方から、一人の男が歩いてきた。
宮中に仕える医師であり、柔莉の父の弟でもある。
その少し後ろには、薬箱を抱えた若い男がいた。
「お帰りなさい。今日は早かったんですね」
「ああ。明日から少し忙しくなりそうだからな」
「また宮中?」
「それが仕事だ」
叔父は柔莉の頭に手を置こうとして――その手を払いのけられた。
「子供じゃありません」
「俺からすれば子供だ」
「十七です」
「昨日まで七つくらいだっただろ」
「十年も飛ばさないでください」
後ろにいた若い男が小さく笑った。
柔莉はすぐにそちらを見る。
「允浩。今、笑ったでしょう」
「笑ってません」
「笑った」
「先生と仲がよろしいなと思っただけです」
「それを笑ったって言うのよ」
「允浩、気をつけろ」
叔父が真顔で言った。
「この娘は執念深いぞ」
「叔父上!」
「先生、俺を巻き込まないでください」
今度は賢俊が笑う。
「何がおかしいの」
「いや。相変わらずだなと思って」
「何が?」
「ユリ」
「……帰る?」
「なんで俺が追い出されるんだよ」
叔父が賢俊を見る。
「お前、またいるのか」
「叔父上まで!?」
「昨日もいただろ」
「どうして全員それ言うんですか」
「事実だからだ」
「俺、もう明日は来ません」
「そうしたら?」
柔莉が言う。
賢俊が黙った。
「……来る」
「でしょうね」
「お前が来てほしそうだから」
「一言も言ってない」
「顔に書いてある」
「帰って」
「まだ夕餉も食べてない」
「食べるつもりだったの?」
「そのつもりで来た」
「図々しい」
叔父が声を上げて笑った。
*
結局、賢俊は夕餉まで尹家にいた。
父が帰宅すると、「またいるのか」と言った。
その瞬間、柔莉は堪えきれずに笑い、賢俊は本気で拗ねた。
「今日は何回言われるんだよ……」
「五回目?」
「四回だ」
「数えてたの?」
「数えたくもなるだろ」
食卓には父と母。
柔莉。
叔父。
允浩。
そして、当然のように賢俊がいる。
「叔父上」
食事の途中、父が口を開いた。
「明日から忙しいと言っていたそうだな」
「ああ」
「陛下のお身体でも?」
「いや」
叔父は首を横に振った。
「お身体は問題ない。いつもの薬も効いている」
「ならいいが」
「ただ、宮中が少し慌ただしい」
「また戦の話ですか?」
母が心配そうに尋ねる。
叔父は少しだけ黙った。
「……俺たち医官が口を出すことではないよ」
それ以上は話さなかった。
柔莉にもよく分からない。
宮中のこと。
国のこと。
戦のこと。
どれも自分からは遠いところにある話だった。
柔莉が考えていたのは、もっと小さなことだった。
婚礼衣装は本当に青でいいだろうか。
明日は琴の稽古がある。
母と約束した刺繍も終わっていない。
賢俊は、本当に明日も来るのだろうか。
きっと来る。
そんなことを考えていた。
*
「じゃあ、帰る」
「やっと?」
「お前、本当に寂しくないの?」
「全然」
「ひどいな」
夕餉を終えたあと。
柔莉は賢俊を門まで送っていた。
夜風は少し冷たい。
空には、大きな月が浮かんでいる。
「あ」
柔莉が足を止めた。
「何?」
「月」
賢俊も足を止める。
「綺麗」
「そう?」
「……見てなかったの?」
「見てたよ」
「嘘」
「なんで?」
「今、私を見てたでしょう」
「……見てた」
あまりにも素直に認められて、柔莉は言葉に詰まった。
「何よ」
「別に」
「何?」
「月よりユリの方が綺麗だなと思って」
「……帰って」
「なんで!?」
「今すぐ帰って」
「褒めたのに?」
「いいから!」
「顔赤いけど」
「賢俊!」
「分かった、分かったって!」
賢俊が笑いながら逃げる。
柔莉はその背中を睨んだ。
「明日は来ないでよ!」
「行く!」
「来ないで!」
「絶対行く!」
「もう!」
門の向こうへ消えていく背中を見送りながら、柔莉は頬に手を当てた。
熱い。
「……馬鹿」
小さく呟いて。
もう一度、月を見上げた。
あの頃。
柔莉は月を見ても、ただ綺麗だと思うだけだった。
それが誰かを思い出すものになることも。
自分の新しい名前になることも。
まだ、知らなかった。
*
同じ頃。
王宮の一室では、柔莉の叔父が薬草を一つずつ確かめていた。
「允浩」
「はい」
允浩が調合を終えた薬を差し出す。
叔父はそれを受け取り、慎重に確かめた。
一つ。
また一つ。
間違いがないことを確認する。
「……よし」
「こちらでよろしいでしょうか」
「ああ」
叔父は頷いた。
「間違いない」
その薬が。
そのまま王のもとへ届いていたなら。
翌朝もきっと。
尹 柔莉は、姜 賢俊に「また来たの」と笑っていた。
婚礼衣装の色に悩み。
母に叱られ。
父と食卓を囲み。
叔父に頭を撫でられることを嫌がって。
自分の名前を呼ばれるたび、当たり前のように振り返っていた。
尹 柔莉は、まだ知らない。
父も。
母も。
大好きな叔父も。
姜 賢俊との未来も。
そして――自分の名前さえも。
失うことになる朝が。
もう、すぐそこまで来ていることを。




