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名を呼ぶ人

百華楼(ペッカル)の朝は、いつも遅い。


都の商人たちが店先に品を並べ、役人たちが忙しなく往来を行き交う頃になっても、百華楼の門はまだ固く閉ざされている。


昨夜遅くまで鳴っていた伽倻琴の音も、客たちの笑い声も、今はない。


廊下の隅には片づけを待つ酒器が残り、焚きしめた香と酒の匂いが、夜の名残のように漂っていた。


日が暮れれば、百華楼は都でも指折りの華やかな場所になる。


色鮮やかな衣をまとった妓生たちが客を迎え、楽の音が響き、酒が振る舞われる。


けれど朝だけは、驚くほど静かだった。


「……月華。起きてる?」


襖の向こうから聞こえた声に、布団の中の女は眉を寄せた。


聞こえなかったことにしよう。


そう決めて、目を閉じる。


「月華(ウォルファ)」


今度は少し大きな声。


「……起きてない」


「返事したじゃない」


「寝言」


「寝言ではっきり会話する人、初めて見た」


「貴重なものが見られてよかったわね」


「女将が呼んでるよ」


「あと半刻」


「そう言うと思って、もう三回待った」


「じゃあ、もう半刻」


「月華」


「はいはい」


とうとう諦めて、月華(ウォルファ)は目を開けた。


窓から差し込む朝の光が眩しい。


昨夜は最後の客を送り出したあと、星華(ソンファ)と話し込んでしまった。


寝たのが遅かったのだから、眠いのは当然だ。


身体を起こすと、長い黒髪が肩から滑り落ちた。


「入っていいわよ」


「もう入ってる」


「……いつから?」


「寝言って言ったあたり」


「最低」


「起きない方が悪い」


星華(ソンファ)は悪びれる様子もなく、部屋の隅に座っていた。


すでに身支度を整えている。


月華(ウォルファ)と同じ二十四歳。


同じ年に百華楼へ入り、同じように芸を学び、気づけば七年を一緒に過ごしてきた。


「早く着替えて。春花(チュンファ)様、機嫌悪かったよ」


「いつものことでしょ」


「今日は特に」


「何かあったの?」


「あなたが昨日、客に出すはずだった菓子を食べた」


月華(ウォルファ)の手が止まる。


「……どうして知ってるの」


「やっぱり食べたんだ」


「罠だったの?」


「今ので確信した」


「星華」


「私は何も聞いてないから」


「絶対言うじゃない」


「もう女将に言った」


「最悪」


星華(ソンファ)が声を立てて笑った。


百華楼に来て、七年。


十七だった月華(ウォルファ)は、二十四になっていた。


今ではもう、彼女がこの場所に馴染めず、一人で庭の隅に座っていた頃を覚えている者の方が少ない。


月華(ウォルファ)。


客も。


妓生たちも。


百華楼の女将である春花(チュンファ)も。


皆が彼女をそう呼ぶ。


七年間呼ばれ続けたその音に、振り返らなかった日はない。


それが彼女の名前だった。


少なくとも――ここでは。


*


「月華」


「はい」


「そこに座りな」


「嫌です」


「まだ何も言ってないよ」


「菓子の話でしょう」


「分かってるなら座りな」


「お腹が痛くなってきました」


「都合のいい腹だね」


朝餉の席についた月華(ウォルファ)は、逃げ道を探すように周囲を見回した。


助けを求めた先にいた男は、目が合った瞬間に顔を逸らした。


「春昊(チュンホ)」


「俺を見るな」


「助けて」


「自業自得だ」


「薄情者」


「昨日、俺が『それ客用だぞ』って言ったのに食っただろ」


「……聞こえなかった」


「俺の目を見て『一個くらい分からない』って言ったよな」


「記憶にない」


「便利な頭してんな」


「誰に似たんだろうねぇ」


春花(チュンファ)の一言で、春昊(チュンホ)が黙った。


月華(ウォルファ)は思わず笑う。


春昊(チュンホ)が眉を寄せた。


「笑うな」


「だって」


「お前のせいだろ」


「仲良しね、親子」


「月華」


「はい。黙ります」


春花(チュンファ)は大きく息を吐いた。


怒っているように見えるが、本気で怒っていないことくらい月華(ウォルファ)には分かる。


この人のもとで七年暮らしたのだ。


それくらいは分かるようになった。


「まったく……。今日の分は買い足しておいたからいいけどね」


「ありがとうございます」


「代金はあんたの取り分から引くよ」


「えっ」


「当然だろ」


「春花様」


「駄目」


「女将」


「駄目」


「お母様」


「誰がお母様だ」


隣で星華(ソンファ)が吹き出した。


春昊(チュンホ)は呆れた顔で飯を口に運んでいる。


こんな朝が、月華(ウォルファ)は嫌いではなかった。


むしろ――好きだった。


「そうだ、月華」


春昊(チュンホ)が思い出したように言った。


「今日、お前に一人入ってる」


「今日?」


「ああ」


月華(ウォルファ)は汁物の椀を置いた。


「誰?」


「姜家の三男坊」


ほんの一瞬。


月華(ウォルファ)の指が止まった。


「……そう」


それだけ言って、再び椀を持ち上げる。


「ふうん」


向かいから声がした。


見ると、星華(ソンファ)がこちらを見ている。


妙に楽しそうな顔で。


「何よ」


「別に?」


「その顔やめて」


「私、何も言ってないけど」


「顔が言ってる」


「何を?」


「言わせたいだけでしょ」


「私はただ、姜家の三男坊が来るんだなあって」


「星華」


「はいはい」


笑いながら箸を動かす星華(ソンファ)を睨みつけてから、月華(ウォルファ)はもう一度椀に目を落とした。


そこに映る自分の顔が、ほんの少しだけ緩んでいる。


気づいて、口元を引き締めた。


それを春花(チュンファ)が見ていたことには、気づかなかった。


*


日が沈むと、百華楼は朝とはまるで違う顔を見せる。


灯籠に火が入り、妓生たちは鮮やかな衣をまとい、髪に飾りを挿す。


伽倻琴と笛の音。


客たちの笑い声。


酒器の触れ合う澄んだ音。


静まり返っていた建物が、夜になれば一斉に花開く。


鏡の前で、月華(ウォルファ)は最後の髪飾りを挿した。


派手すぎないものを選んだ。


「それにしたんだ」


背後から星華(ソンファ)が言う。


「何が?」


「髪飾り」


「これが一番合ったから」


「へえ」


「何」


「別に」


「今日そればっかりね」


「姜家の三男坊が来る日だけ、それ選ぶなと思って」


月華(ウォルファ)は鏡越しに睨んだ。


「偶然」


「三回連続で?」


「……よく見てるわね」


「七年一緒にいるからね」


言い返せなかった。


しばらくして、廊下から春昊(チュンホ)の声がした。


「月華」


「はい」


「来たぞ」


胸の奥が、小さく跳ねた。


それを悟られたくなくて、月華(ウォルファ)はゆっくり立ち上がる。


「じゃあ、行ってくる」


「いってらっしゃい」


星華(ソンファ)はにやにやしている。


「……その顔、本当にやめて」


「何も言ってないってば」


「帰ってきたら覚えてなさい」


「はいはい」


襖を開ける。


春昊(チュンホ)が壁にもたれて待っていた。


月華(ウォルファ)の姿を上から下まで一度見て、何も言わず歩き出す。


月華(ウォルファ)もその後をついていった。


客間の前で春昊(チュンホ)が足を止める。


「月華」


「何?」


「……いや」


「何よ」


「遅くなりすぎるなよ」


月華(ウォルファ)は少しだけ笑った。


「分かってる」


「ならいい」


春昊(チュンホ)が離れていく。


月華(ウォルファ)は一度だけ息を整えた。


そして、襖を開けた。


男は窓辺に座っていた。


月明かりの下でも、見間違えるはずがない。


幼い頃から、何度も見てきた横顔だった。


「お待たせしました」


男――姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)が振り返る。


月華(ウォルファ)の姿を見るなり、眉を寄せた。


「……痩せた?」


「会うたびにそれ言うのやめて」


「だって痩せた」


「前に会ったの十日前よ」


「十日あれば痩せるだろ」


「太ることもあるわ」


「じゃあ太った?」


「帰って」


「来たばっかりなのに?」


思わず笑ってしまった。


部屋へ入り、襖を閉める。


途端に、外の喧騒が少し遠くなった。


「お酒は?」


「いらない」


「一応聞いただけ」


「知ってる」


「じゃあ、お茶?」


「それは欲しい」


「最初からそう言えばいいのに」


月華(ウォルファ)は慣れた手つきで茶を淹れた。


向かい合って座る。


姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)が湯呑みを手に取った。


「これ、お前が淹れた?」


「そうだけど」


「上手くなったな」


「七年いるのよ」


「最初ひどかったもんな」


「……覚えてるの?」


「覚えてるよ」


「忘れなさい」


「嫌だ」


「なんで」


「面白かったから」


「最低」


姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)が笑う。


月華(ウォルファ)もつられて笑った。


七年。


その数字を口にすると、とても長い。


けれど彼とこうして向かい合っていると、時々その長さが分からなくなる。


何も変わっていないような気がする。


そして同時に。


何もかもが変わってしまったような気もした。


「……元気だった?」


不意に、姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)が尋ねた。


月華(ウォルファ)は首を傾げる。


「見れば分かるでしょう」


「そうじゃなくて」


「じゃあ何?」


「月華(ウォルファ)が元気なのは、見れば分かる」


「……何それ」


姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)は答えなかった。


ただ、彼女を見る。


その目を、月華(ウォルファ)は知っていた。


妓生を見る目ではない。


客が女を見る目でもない。


七年前から、変わらない目。


だから。


次に呼ばれる名前も、分かっていた。


「――柔莉(ユリ)」


胸の奥で。


何かが、静かに揺れた。


その名を呼ばれることは、もうほとんどない。


百華楼では月華(ウォルファ)。


客にとっても月華(ウォルファ)。


春花(チュンファ)も、春昊(チュンホ)も、星華(ソンファ)も。


誰もが彼女を月華(ウォルファ)と呼ぶ。


けれど。


目の前の男だけは。


七年経っても、時折こうして彼女を呼ぶ。


「……その名前で呼ぶの」


月華(ウォルファ)は小さく笑った。


「本当に、あなただけになったね」


姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)は何も言わなかった。


窓の向こうには、月が出ていた。


七年前と同じように。


けれど、その月を見上げる彼女の名が、なぜ変わったのか。


姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)は知っている。


そして――。


彼女がまだ知らないことも、この都には残されていた。

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