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六年前の命令

第29話 六年前の命令


三日後。


允浩(ユンホ)は、再び兵曹を訪れていた。


以前と変わらず、役人たちが忙しそうに行き交っている。


「おう、ユンホ!」


聞き慣れた声に振り向くと、林 志成(イム・ジソン)がこちらへ歩いてくるところだった。


「ジソンさん。お忙しいところ、すみません」


「気にするなって。父上には話を通してある」


「ありがとうございます」


「ただし、あまり長くは時間を取れないぞ。帰ってきたばかりで、仕事が山ほどあるらしい」


「もちろんです。お話を伺えるだけでもありがたいですから」


志成は頷くと、允浩を連れて廊下を歩き始めた。


「それにしても、お前が父上に会いたがるとはな」


「六年前のことを、少し確かめたいんです」


「分かってるよ。前にも聞いた」


志成はちらりと允浩を見た。


「……父上、仕事中は結構厳しいぞ」


「そうなんですか?」


「ああ。俺なんか何度叱られたことか」


「ジソンさんが何度も叱られるのは、何となく想像できます」


「おい。どういう意味だ?」


「そのままの意味です」


允浩が小さく笑うと、志成もつられて笑った。


やがて二人は、一つの部屋の前で足を止めた。


志成が扉を叩く。


「父上、志成です。ユンホを連れてまいりました」


「入れ」


低く落ち着いた声が返ってきた。


⸻


部屋の中では、一人の男が机に向かっていた。


林 時允(イム・シユン)。


兵曹の高官であり、志成の父親である。


机には書類が積まれ、その脇にもいくつかの巻物が置かれていた。


時允は手元の書類から顔を上げると、二人を見た。


「来たか」


「はい、父上」


「そちらがユンホ君だね?」


允浩は丁寧に頭を下げた。


「はい。本日はお忙しいところ、お時間をいただきありがとうございます」


「ああ。志成から話は聞いている」


時允は穏やかに微笑んだ。


「そんなに堅くならんでもよい。息子の友人なのだからな」


「ありがとうございます、林様」


「まあ、座りなさい」


勧められた席に允浩が腰を下ろす。


志成も隣に座ろうとしたが、その前に時允が口を開いた。


「志成」


「はい?」


「お前は今日の仕事を終わらせたのか?」


「……まだですが」


「そうか」


時允は机の上に置かれた書類を一瞥した。


「では、あとであちらも頼む」


「父上、それは昨日も増やしたばかりでは……」


「仕事があるのはありがたいことだろう?」


「……はい」


允浩は思わず口元を押さえた。


それに気づいた志成が、小声で言う。


「笑うなよ」


「笑ってません」


「絶対笑ってるだろ」


「志成。客人の前だぞ」


「……はい、父上」


時允は小さく笑った。


「まったく。外では少しは頼りにされていると聞いていたんだがな」


「父上!」


今度こそ、允浩は笑ってしまった。


⸻


ひとしきり笑いが収まると、時允は姿勢を正した。


「さて。六年前の瑞華(ソファ)侵攻について、聞きたいことがあるそうだな」


先ほどまでの柔らかな表情が、少し引き締まる。


允浩も背筋を伸ばした。


「はい」


「まず、なぜ君がその戦について調べているのか、聞かせてもらえるかな」


允浩は一度、息を整えた。


「私は現在、張 泰元(チャン・テウォン)先生のもとで、診察の助手をしております」


「うむ」


「その仕事で定期的に訪れる妓楼で、六年前の瑞華侵攻について妙な話を耳にしたんです」


「妓楼で?」


「はい。妓生たちの診察に伺っておりますので」


「なるほど。それで?」


「その戦では、当初は港を押さえるはずだったのに、突然、王城を先に攻めるよう命令が変わったと聞きました」


時允は静かに話を聞いていた。


「それで、その理由を確かめたいということか」


「はい」


允浩は頷いた。


「公に残されている記録も調べてみたのですが、作戦が変更された理由までは分かりませんでした」


「そうだろうな」


時允は短く答えた。


允浩は顔を上げる。


「……ご存じなのですか?」


「作戦が変更されたことは、私も覚えている」


時允は椅子に深く腰掛け直した。


「当初の目的は港の確保だった。瑞華は海運で栄えた国だ。港を押さえれば、物資の輸送を断つこともできる。こちらの補給にも役立つ」


「はい」


「ところが、進軍を前にして、王城を優先するよう命が下った」


「……やはり、そうだったのですね」


「ああ。間違いない」


時允は頷いた。


「当時の私も、妙な命令だとは思った。港を後回しにすれば、それだけ危険も増えるからな」


「理由の説明はなかったのですか?」


「少なくとも、私が把握していた範囲ではなかった」


允浩は考え込んだ。


「では、なぜ王城を……」


「それが分かれば、君もここへ来てはいないだろう?」


時允が少し笑う。


「……そうですね」


允浩も苦笑した。


だが、時允はすぐに真顔に戻った。


「ただ、一つ、思い出したことがある」


「何でしょう?」


「王城が落ちたあとの話だ」


時允はしばらく記憶をたどるように目を伏せた。


「王宮の書庫で、王に関する何かを探せという命が出たらしい」


「……書庫で?」


允浩が聞き返した。


隣にいた志成も、驚いたように父親を見る。


「父上、そんな話は初めて聞きました」


「お前に話すようなことでもなかったからな」


「それは、そうですが……」


允浩は身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を正した。


「何を探していたのでしょうか?」


「分からん」


時允は首を横に振った。


「妙なことに、命を受けた兵たちですら、何を探せばよいのか知らされていなかったという噂だ」


「……探すものも分からずに、ですか?」


「ああ。もっとも、人づてに聞いた話だ。どこまで本当かは分からん」


允浩は眉を寄せた。


王に関する何か。


だが、その何かが分からない。


それでは、何を見つければ命令を果たしたことになるのだろう。


「ただし、一つだけ確かなことがある」


時允の声に、允浩は顔を上げた。


「書庫を調べる兵には、書類を決して捨てるなという命が出ていた。それだけは私も知っている」


「書類を……」


「ああ。当時の私は各部隊への命令を把握する立場にいた。だから、その命令についても報告を受けていた」


「では、何のために書類を残す必要があったのかは……」


「知らん」


時允はきっぱりと言った。


「書庫を調べる兵に、そうした命令が出ていた。それ以上のことは、私にも分からんのだ」


「そうですか……」


允浩は静かに頷いた。


時允は、そんな允浩の様子を見つめていた。


六年前。


あの戦のあと、耳にした話はほかにもあった。


王家にまつわる、妙な噂。


だが……これは、口にしたところで自分がどうなるか分からぬ話だ。


話さぬほうがよいだろう。


時允は何も言わず、机の上の書類へ目を向けた。


「私から話せるのは、これくらいだ」


「いえ。十分です」


允浩は深く頭を下げた。


「貴重なお話を、ありがとうございました」


「役に立ったのなら何よりだ」


時允は穏やかな表情に戻った。


「ただし、噂と事実は分けて考えなさい。そこを間違えると、見えるものまで見えなくなる」


「……はい」


允浩は、その言葉を胸に刻んだ。


⸻


面会を終え、二人は兵曹の建物を出た。


外へ出ると、柔らかな五月の風が頬を撫でた。


「いやぁ、驚いたな」


志成が大きく息を吐く。


「父上があんな話を知っていたとは」


「僕も驚きました」


「書庫で何かを探していた、か……」


志成は腕を組んだ。


「でも、何を探すかも分からないって、変な話だよな」


「そうですね」


「しかも書類は捨てるな、だろ?」


「はい」


志成は首を傾げた。


「王城を先に攻めたことと、関係があるのかねぇ」


允浩はすぐには答えなかった。


六年前、港よりも王城を優先した理由。


そして、王城が落ちたあと、書庫で何かを探していたという噂。


二つの出来事が、頭の中で何度も重なった。


「……まだ、分かりません」


「だよな」


志成は苦笑した。


「まあ、父上も知らないとなると、簡単には分からないだろうな」


「でも、今日のお話はとても参考になりました」


允浩は志成に向き直った。


「ジソンさん、本当にありがとうございました」


「何だよ、改まって」


「お父様にもお礼をお伝えください」


「分かった、分かった」


志成は笑って允浩の肩を軽く叩いた。


「それより、今度は仕事抜きで来いよ。久しぶりにゆっくり飯でも食おう」


「そうですね。ぜひ」


「約束だぞ?」


「はい」


允浩が笑うと、志成も満足そうに頷いた。


「じゃあ、俺は戻るわ。父上に仕事を増やされたからな」


「頑張ってください」


「他人事だと思って……」


そう言いながらも、志成は笑っていた。


二人はそこで別れた。


允浩は診療所へ向かって歩き始める。


王城を先に攻めたのは、なぜだったのか。


書庫で何かを探していたという話は、本当なのか。


そして、書類を捨てるなという命令には、どんな意味があったのか。


まだ、答えは見えない。


それでも、六年前の戦には、公の記録だけでは分からない何かがある。


允浩はそう感じていた。


――王城に、いったい何があったのだろう。


その疑問を胸に、允浩は歩き続けた。

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