誕生日だから
第30話 誕生日だから
学問を終え、家路についていた姜 賢俊は、いつになく足取りが軽かった。
気づけば口元が緩んでしまう。
今夜のことを考えるだけで、自然と笑みがこぼれるのだ。
「おい、賢俊!」
背後から聞き慣れた声がした。
振り返ると、朴 世俊がこちらへ歩いてくるところだった。
「セジュン!」
「今帰りか?」
「うん」
世俊は当然のように賢俊の隣に並んだ。
二人が知り合ったのは、まだ学問を習い始めて間もない頃のことだった。
二歳年上の世俊は、何かと賢俊の世話を焼いた。
食事に誘い、困っていれば手を貸し、時には余計なことにまで首を突っ込んだ。
そんな世俊に賢俊が懐くまで、そう時間はかからなかった。
今では、互いに気を遣うこともない。
しばらく歩いていた世俊が、ふと賢俊の顔を覗き込んだ。
「おい、賢俊。今日はやけに機嫌がいいな」
「そう?」
「ああ。何かあるのか?」
「明日、誕生日なんだ」
「……お前、明日が誕生日なのか」
「うん」
「百華楼に月華に会いに行くのか?」
「うん! 誕生日にもユリに会えるのが嬉しくて」
「そうか」
世俊はそれだけ言って、前を向いた。
賢俊が柔莉のことで嬉しそうにしているのは、今に始まったことではない。
「そういや、もう十八か」
「うん」
「早いもんだな」
「そうだね」
二人はそのまま並んで歩いた。
途中、世俊が道端の菓子屋へ目を向ける。
「おい、あそこの菓子、うまそうだな」
「そうだね」
「買って帰るか」
「うん」
世俊が店先へ向かうと、賢俊もそのあとについていった。
いつもと変わらない、二人の帰り道だった。
⸻
その夜。
百華楼の一室では、月華が小さな包みを手にしていた。
薄い布に包まれた、銀の髪留め。
先日、春昊と衣装を買いに出かけた際に見つけたものだった。
翼を広げた鷹の細工を見た瞬間、賢俊の顔が浮かんだ。
幼い頃、姜家で飼われていた一羽の鷹。
その姿が、今も鮮明に思い出される。
「……喜んでくれるかな」
月華は包みをそっと撫でた。
以前は、毎年のように誕生日の贈り物を交換していた。
けれど、百華楼へ来てからは、それもできなくなっていた。
今年は、久しぶりに自分で選んだものを渡せる。
それが嬉しくて、少しだけ緊張もしていた。
包みを大切にしまうと、月華は鏡の前に座った。
髪には、いつもの月の髪飾り。
賢俊に会う日は、必ずこれを挿す。
鏡の中の自分を見つめ、月華は小さく微笑んだ。
⸻
日付が変わり、五月十五日。
十八歳になった賢俊が、百華楼へやって来た。
案内された部屋の前で足を止めると、扉が開いた。
「ヒョンジュン!」
月華が笑顔で迎える。
「ユリ!」
賢俊も嬉しそうに笑った。
部屋に入ると、月華は賢俊の顔を見上げた。
「ヒョンジュン、お誕生日おめでとう」
「ありがとう、ユリ」
「十八歳だね」
「うん!」
「ふふっ、嬉しそう」
「だって、誕生日にユリに会えたから」
月華はくすっと笑った。
「私も嬉しいよ」
その言葉に、賢俊はますます嬉しそうな顔をした。
二人が向かい合って座ると、月華は少しだけ落ち着かない様子で膝の上に手を重ねた。
「……あのね、渡したいものがあるの」
「僕に?」
「うん。こないだ、チュンホと一緒に衣装を買いに行った時に見つけたの」
月華は小さな包みを差し出した。
賢俊は目を丸くした。
「……僕への贈り物?」
「そうだよ。お誕生日だから」
「本当に?」
「ふふっ、本当だよ」
賢俊は包みを両手で受け取った。
「開けてもいい?」
「もちろん」
丁寧に布をほどく。
中から現れたのは、銀の髪留めだった。
翼を大きく広げた鷹が、細やかに彫られている。
賢俊はしばらくそれを見つめた。
「……これ、鷹?」
「うん。覚えてる?」
「……パラム?」
「覚えてたんだ、すごく嬉しい!」
「忘れるわけないよ」
風。
それは、幼い頃に姜家で飼われていた鷹につけた名前だった。
もともとは、賢俊の父・姜 正勲が大切にしていた鷹である。
まだ幼かった柔莉が、その鷹の飛ぶ姿を見て、風のようだと言った。
そして、いつしか「パラム」と呼ぶようになった。
それは賢俊と柔莉、二人だけが使っていた呼び名だった。
「……すごいな。パラムだ」
賢俊は髪留めを手に取り、何度も角度を変えて眺めた。
「ふふっ、そんなに嬉しい?」
「うん! すごく嬉しい!」
賢俊は顔を上げた。
「ユリ、ありがとう。本当にありがとう!」
「そんなに喜んでもらえるなんて思わなかった」
「だって、ユリが僕のために選んでくれたんでしょう?」
「うん」
「それに、パラムだよ!」
そう言って、また髪留めに目を落とす。
月華は、そんな賢俊を嬉しそうに眺めていた。
「ねえ、ユリ。これ、今つけてもいい?」
「もちろん!」
「じゃあ……つけてくれる?」
「私が?」
「うん。ユリにつけてもらいたい」
月華は笑いながら髪留めを受け取った。
賢俊は嬉しそうに身をかがめる。
月華が髪に手を伸ばすと、賢俊はじっとしていた。
「……動かないでね」
「うん」
銀の髪留めをそっと挿す。
「はい、できた!」
賢俊はすぐに髪へ手を伸ばした。
「どう? 似合う?」
「うん! すごく似合ってる!」
「本当?」
「本当だよ」
「よかった」
賢俊は満面の笑みを浮かべた。
「これ、ずっと大切にするね」
「うん」
月華も笑った。
贈り物を選んだあの日、こんなふうに喜んでもらえたらいいなと思っていた。
けれど、実際の賢俊は、その想像よりもずっと嬉しそうだった。
⸻
しばらくして、二人は並んで座り、温かいお茶を飲んでいた。
賢俊は時折、髪留めに触れている。
「ヒョンジュン」
「うん?」
「さっきから何回触ってるの?」
「分からない」
「ふふっ、そんなに気に入った?」
「うん!」
月華が笑うと、賢俊も笑った。
やがて、賢俊がそっと口を開く。
「ねえ、ユリ」
「なあに?」
「もう少し近くに座ってくれる?」
「え?」
「こっち」
賢俊は自分の隣を軽く叩いた。
月華は首を傾げながら、少しだけ近づいた。
「これでいい?」
「もう少し」
「もう、ヒョンジュン」
「今日、誕生日だから」
月華は思わず吹き出した。
「それ、関係ある?」
「あるよ」
「ふふっ、しょうがないなぁ」
月華が隣へ寄ると、賢俊は満足そうに微笑んだ。
それから少しして。
「ねえ、ユリ」
「なあに?」
「手、繋いでもいい?」
「いいよ」
賢俊は嬉しそうに月華の手を取った。
「今日、誕生日だから」
「ふふっ、それ、さっきも聞いたよ?」
「うん」
「何でも誕生日だからって言うつもり?」
「今日しか言えないからね」
あまりにも楽しそうに答えるものだから、月華はまた笑ってしまった。
「じゃあ、今日は特別だね」
「うん!」
賢俊は繋いだ手を見つめ、嬉しそうに笑った。
⸻
夜も更け、部屋の灯りを落とす頃になった。
月華が寝具を整えていると、賢俊が声をかけた。
「ねぇ、ユリ」
「なあに?」
「隣に来て一緒に寝よう」
月華は振り返り、くすっと笑った。
「ふふ、誕生日だから?」
「そう、誕生日だから」
「もう、今日何回目?」
「何回だろう?」
「数えてないの?」
「うん」
月華は笑いながら首を振った。
「しょうがないなぁ」
そう言って、賢俊の隣に横になる。
賢俊はそっと手を差し出した。
「手も、繋いでいい?」
「それも誕生日だから?」
「うん!」
「ふふっ、欲張りなんだから」
月華は差し出された手を握った。
賢俊は繋いだ手を見つめ、それから月華に微笑んだ。
「……今日、すごく幸せ」
「私もだよ」
「ユリ、ありがとう」
「もう何回も聞いたよ?」
「でも、まだ言いたいんだ」
月華は小さく笑った。
「……私も、渡せてよかった」
「うん」
賢俊は月華の手を優しく握り直した。
「おやすみ、ユリ」
「おやすみ、ヒョンジュン」
二人は手を繋いだまま、静かに目を閉じた。
⸻
翌朝。
窓から差し込む朝の光に、賢俊はゆっくりと目を開けた。
隣では、月華がまだ眠っている。
繋いだ手は、昨夜のままだった。
賢俊はその手を見つめ、そっと微笑んだ。
起こさないように、もう一度目を閉じる。
もう少しだけ、このままでいたかった。
やがて月華が目を覚ますと、賢俊は嬉しそうに笑った。
「おはよう、ユリ」
「……おはよう、ヒョンジュン」
「よく眠れた?」
「うん。ヒョンジュンは?」
「すごくよく眠れたよ」
「ふふっ、よかった」
月華が起き上がろうとすると、賢俊は繋いだ手をそっと引いた。
「……もう少しだけ」
「ヒョンジュン?」
「今日、誕生日だから」
月華は目を丸くしたあと、声を上げて笑った。
「もう! 朝になってもそれなの?」
「まだ誕生日だよ」
「そうだけど!」
賢俊も笑った。
結局、月華はもう少しだけ隣に座り、賢俊と手を繋いで過ごした。
⸻
九時が近づく頃。
身支度を終えた賢俊は、鏡の前で髪を整えていた。
「ユリ、これ、もう一回つけてくれる?」
手には、昨夜贈られた銀の髪留め。
月華は嬉しそうに頷いた。
「うん、いいよ」
賢俊が少し身をかがめる。
月華は丁寧に髪留めを挿した。
「はい、できた!」
「ありがとう」
賢俊は鏡を覗き込み、満足そうに笑った。
「……やっぱり、いいな」
「そんなに気に入ってくれたなら、私も嬉しい」
「うん。大切にするね」
月華は微笑んだ。
やがて、帰る時間になった。
賢俊は名残惜しそうに月華を見つめる。
「……また来るね」
「うん。待ってる」
「ユリ」
「なあに?」
「本当にありがとう。今までで一番嬉しい誕生日だった」
月華は少し照れたように笑った。
「ふふっ、そんなに?」
「うん!」
賢俊はもう一度、髪留めにそっと触れた。
「……じゃあ、行ってくるね」
「いってらっしゃい、ヒョンジュン」
月華に見送られ、賢俊は百華楼をあとにした。
五月の朝。
柔らかな陽射しの下、銀の鷹が小さく光る。
賢俊は歩きながら、ふと髪留めに触れた。
そして、また嬉しそうに笑った。
十八歳になったばかりの彼にとって、それは何よりも幸せな朝だった。




