救世主
第27話 救世主
五月の柔らかな陽射しが、都の通りを照らしていた。
允浩は人々の行き交う道を歩きながら、昨夜読んだ記録のことを考えていた。
瑞華との戦。
港を確保するために進められていた作戦が、直前になって王城への進軍に変わったという話。
古い記録を調べても、その理由は分からなかった。
軍のことなら、もっと詳しい者に聞くしかない。
そう考えた允浩が向かったのは、兵曹だった。
⸻
兵曹の一室では、数人の役人が書類に目を通していた。
その中で、若い男が机に向かって筆を走らせている。
林 志成。
二十三歳。
十六歳から兵曹に勤め、今では後輩から仕事の相談を受けることも多い。
父親は兵曹の高官だったが、志成自身はそれを鼻にかけることもなく、誰に対しても気さくに接する男だった。
「林様、お客様がお見えです」
声をかけられ、志成は顔を上げた。
「ん? 誰だ?」
「允浩様とおっしゃる方です」
「ユンホ?」
志成は筆を置いた。
「おお、通してくれ!」
しばらくして、允浩が部屋へ入ってきた。
「お久しぶりです、ジソンさん」
「おう! 久しぶりだな!」
志成は嬉しそうに笑った。
「元気にしてたか?」
「はい。ジソンさんもお元気そうですね」
「見ての通りだ。仕事は山ほどあるけどな!」
志成は机の上に積まれた書類を指さした。
「それにしても珍しいな。お前がここへ来るなんて」
「お仕事中にすみません」
「いいって、いいって。ちょうど一息入れようと思ってたところだ」
「……その割には、随分お忙しそうですけど」
「気にするな。書類は逃げない」
「増えたりはしませんか?」
「……それを言うな」
志成は大げさに肩を落とした。
允浩は思わず笑った。
昔から変わらない。
志成はいつも、こうして人を笑わせる。
年上ではあるが、允浩にとっては気兼ねなく話せる友人の一人だった。
「それで? 今日はどうした?」
志成は向かいの席を勧めた。
「わざわざ兵曹まで来るなんて、何かあったんだろ?」
允浩は腰を下ろした。
「少し、聞きたいことがあるんです」
「俺に?」
「はい」
志成は面白そうに笑った。
「珍しいな。医術のことなら、俺に聞いても何も分からないぞ?」
「医術のことではありません」
「じゃあ、何だ?」
允浩は少し間を置いてから口を開いた。
「瑞華との戦で、聞きたいことがあるんです」
「……瑞華?」
志成は首を傾げた。
「また随分と昔の話だな」
「何か覚えていませんか?」
「覚えてることはあるけどな。俺もあの頃は十七だったし、まだ分からないことだらけだったぞ」
志成は腕を組んだ。
「それで、何が聞きたいんだ?」
「当時、景和の軍は瑞華の港を確保する予定だったんですよね?」
「ああ、そう聞いていたな」
「それが、突然王城へ進軍するよう命令が変わったそうなんです」
「……王城?」
志成の眉がわずかに上がった。
「港より先に、か?」
「はい」
「へえ……」
志成はしばらく考え込んだ。
「俺が聞いていた話じゃ、港を押さえるのが先だったはずだけどな」
「やはり、そうなんですね」
「ただ、俺が知ってるのはその程度だぞ。あの頃はまだ下っ端だったし、上の連中が何を決めていたかなんて知らない」
「そうですか……」
允浩は小さく息をついた。
「でも、どうしてそんな話を?」
志成が尋ねた。
「お前、前から師匠のことを調べてただろ? それと関係があるのか?」
允浩は少しだけ目を伏せた。
尹 仁救。
かつて自分に医術を教えてくれた師。
先王を殺害した罪で捕らえられ、獄中で亡くなったとされている人物。
志成は、允浩が今も仁救について調べていることを知っていた。
だが、その死に疑問を抱き、真実を探していることまでは話していない。
「……まだ、分からないんです」
允浩は静かに答えた。
「ただ、少し気になる話を聞いたので」
「ふうん」
志成はそれ以上、追及しなかった。
「まあ、お前が気になるっていうなら、何か理由があるんだろうな」
「すみません」
「何で謝るんだよ」
志成は笑った。
「昔からの仲だろ?」
允浩は顔を上げた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うには、まだ早いぞ」
志成は椅子にもたれ、天井を見上げた。
「しかし、王城への進軍命令か……」
しばらく考えたあと、ぽんと手を打った。
「ああ、そうだ!」
「どうしました?」
「父上に聞けばいいんじゃないか?」
「お父様に?」
「ああ。俺が知らないことでも、父上なら大体の事情は知ってるかもしれない」
允浩は少し驚いた。
「よろしいんですか?」
「何が?」
「そんな昔の戦のことを、わざわざお尋ねしても……」
「別に構わないだろ。聞くだけなんだから」
志成はあっさりと言った。
「もっとも、父上だって何でも知ってるわけじゃないけどな」
「それでも、ありがたいです」
「ただ、一つ問題がある」
「問題、ですか?」
「ああ。父上は今、都にいないんだ」
「そうなんですね」
「仕事で地方へ出ていてな。確か、戻るのは三日後だったはずだ」
志成は指を折りながら数えた。
「うん、三日後だな」
「では、その頃にまた伺っても?」
「もちろん。父上には俺から話しておくよ」
「ありがとうございます、ジソンさん」
「だから、礼はまだ早いって!」
志成は笑った。
「何も分からないかもしれないぞ?」
「それでも、聞いてみなければ分かりませんから」
「そうだな」
志成は頷いた。
「じゃあ、三日後。またここへ来いよ」
「はい」
允浩が立ち上がると、志成も席を立った。
「それにしても、久しぶりに顔を見せたと思ったら、戦の話とはなぁ」
「すみません」
「だから謝るなって!」
志成は允浩の肩を軽く叩いた。
「今度は用事がなくても遊びに来いよ」
「ジソンさんがお忙しくないときにします」
「それじゃ、いつまで経っても来られないだろ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
⸻
兵曹を出ると、午後の陽射しが通りを照らしていた。
允浩はゆっくりと歩き始めた。
三日後。
志成の父親に会えば、何か分かるかもしれない。
もちろん、何も得られない可能性もある。
それでも、昨日まで手がかりのなかった調査に、小さな道が開けたような気がした。
允浩は振り返り、兵曹の建物を見上げた。
「……ジソンさんには、いつも助けられてばかりだな」
そう呟くと、自然に笑みがこぼれた。
三日後の約束を胸に、允浩は診療所へと足を向けた。




