昔話
五月に入ったばかりの百華楼は、昼間から慌ただしかった。
春花は帳面を広げ、届いた品の数を確かめていた。
そこへ、春昊が顔を出した。
「母さん、バン様が来てる」
春花の筆が止まった。
「……ああ、もうそんな時期かい」
帳面を閉じると、春花は立ち上がった。
「いつもの席かい?」
「ああ。もう案内してある」
「そうかい。じゃあ、月華を呼んでおくれ」
「月華を?」
「古いお客様の顔も覚えてもらわないとね。あの子も、いつまでも新入りじゃいられないんだから」
「分かった」
春昊が部屋を出ていくと、春花は窓の外へ目を向けた。
庭の若葉が、五月の風に揺れていた。
⸻
一階の広間には、一人の男が座っていた。
房 智敏。
かつて軍に身を置き、瑞華との戦にも赴いた男である。
その前には酒瓶と、二つの杯が置かれていた。
「ジミン、今年も来たんだね」
春花が声をかけると、智敏は顔を上げた。
「おう、チュンファ。相変わらず忙しそうだな」
「あんたが来るたびに、そう言われている気がするよ」
「昔から忙しそうにしてただろう」
「誰のせいだと思ってるんだい」
二人は顔を見合わせて笑った。
その後ろで、月華が静かに頭を下げる。
「今日は新入りを連れてきたよ。月華、ご挨拶なさい」
「初めまして。月華と申します」
智敏は月華を見て、穏やかに頷いた。
「月華か。よろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「まだ覚えることばかりの子だけどね。よく気がつくし、真面目な子だよ」
「ほう。チュンファがそこまで言うとは珍しいな」
「余計なことを言うんじゃないよ」
春花は笑いながら、月華に席を勧めた。
月華が酒瓶を手にすると、智敏が一つの杯を差し出した。
「こっちを頼む」
「はい」
月華は丁寧に酒を注いだ。
続けて、もう一つの杯へ手を伸ばしかけたとき、智敏が言った。
「そっちは、俺が注ぐよ」
「かしこまりました」
智敏は酒瓶を受け取ると、空いていた杯を満たした。
そして、誰も座っていない隣の席へ、そっと置いた。
月華は何も尋ねなかった。
⸻
「……あいつがいたら、今日も朝まで飲んでいただろうな」
智敏が隣の杯を眺めながら言った。
春花は懐かしそうに笑った。
「そうだねぇ。あの人は、本当にここが好きだったから」
「俺よりも、この店に詳しかったぞ」
「あんたが知らないことまで知っていたからね」
「まったく。どっちが常連だったんだか」
二人の笑い声が広間に響いた。
月華は静かに酒を注ぎながら、その話に耳を傾けていた。
「その方は、こちらによくいらしていたのですか?」
月華が尋ねると、智敏は嬉しそうに頷いた。
「ああ。俺をここへ連れてきたのも、あいつだった」
「そうだったのですね」
「戦から戻ったら、またここで飲もうってな。出陣前にも、そればかり言っていた」
智敏は笑った。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
「……結局、帰ってこなかったが」
春花は二つ並んだ杯を見つめた。
「王城で亡くなったんだったね」
「ああ。瑞華の王城だ」
智敏は酒を一口飲んだ。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて智敏が、ぽつりと言った。
「……今でも、時々考えるんだ」
春花が顔を上げる。
「何をだい?」
「あの時の命令さ」
智敏は杯を置いた。
「俺たちは、港を押さえるはずだった。瑞華の港を確保するために、ずっと準備を進めていたんだ」
「そうだったのかい」
「ああ。だが、直前になって命令が変わった。港より先に王城を攻めろとな」
月華は静かに智敏を見た。
「王城を先に、ですか?」
「そうだ」
智敏は頷いた。
「王城を先に攻めること自体が、間違った策というわけじゃない。だが、あの時は港を押さえる準備が整っていた。それを覆してまで王城へ向かう理由が、俺には分からなかった」
「何か、急ぐ理由があったのでしょうか」
月華が尋ねる。
「さあな」
智敏は小さく首を振った。
「王命だった。俺たちは従うしかなかったよ」
春花は黙って聞いていた。
「……その戦で、あいつを失った」
智敏は隣の杯へ目を向けた。
「命令が違っていれば、なんて考えても仕方ないんだがな」
「ジミン」
春花が静かに呼んだ。
「……あんたは、毎年ちゃんと会いに来ているじゃないか」
智敏は少し驚いたように春花を見た。
それから、照れくさそうに笑った。
「そうだな」
彼は杯を持ち上げた。
「ほら、飲め。お前の好きだった酒だぞ」
誰もいない隣の席へ向けて、そう言った。
月華は静かに頭を下げた。
二つの杯には、五月の柔らかな光が差していた。
⸻
翌日。
張 泰元が百華楼を訪れた。
その傍らには、いつものように允浩がいる。
允浩が百華楼に通い始めて、半年近くが経っていた。
初めの頃は泰元の診察を手伝うばかりだったが、最近では、少しずつ診察を任せてもらえるようになっていた。
「月華さん、最近はよく眠れていますか?」
允浩は月華の脈を確かめながら尋ねた。
「うん。前よりずっと眠れるようになったわ」
「それならよかったです。食事は?」
「ちゃんと食べてるわよ」
「本当ですか?」
「……ユンホ、疑ってる?」
「以前も同じことをおっしゃっていましたから」
月華は少しだけ頬を膨らませた。
「もう。ちゃんと食べてるってば」
允浩は笑いながら、脈を取っていた手を離した。
「顔色もいいですね。特に問題はなさそうです」
「ありがとう」
月華は袖を整えた。
そして、ふと思い出したように口を開いた。
「ねえ、ユンホ」
「はい?」
「昨日、少し気になるお話を聞いたの」
允浩は顔を上げた。
「どんなお話ですか?」
「春花様の昔からのお客様がいらしたの。その方は、以前、軍にいらしたそうなのだけれど……」
月華は昨日の出来事を話し始めた。
亡くなった戦友のこと。
毎年、その命日に百華楼を訪れていること。
そして、瑞華との戦で下されたという命令のこと。
「……港を押さえるはずだったのに、王城を先に攻めるよう命じられたんですか?」
「そうおっしゃっていたわ」
允浩は考え込んだ。
「その方は、理由をご存じなかったのですね」
「ええ。王命だったから従うしかなかったって」
「……そうですか」
月華は允浩の表情を見た。
「何か、おかしいの?」
「まだ、何とも言えません」
允浩は慎重に答えた。
「戦のことは、僕も詳しくありませんから。ただ……少し調べてみたいと思います」
「そう」
月華は頷いた。
「何か分かったら、教えてね」
「はい」
允浩は微笑んだ。
「ありがとうございます、月華さん」
⸻
その日の夕刻。
診療所へ戻った允浩は、古い記録を広げていた。
瑞華との戦が起きた頃の記録だった。
当時、景和では幾度かの不作が続き、穀物の値が上がっていた。
海運で栄えていた瑞華の港を確保することは、景和にとって大きな利益になる。
少なくとも、当時の記録にはそう記されていた。
允浩は指先で文字を追った。
港を確保し、海上の交易路を押さえる。
それが戦の目的だったのなら、なぜ王城への進軍を急いだのだろう。
もちろん、王城を先に攻めることにも、軍事上の理由はあったのかもしれない。
けれど、月華が聞いた話では、すでに港を攻める準備が整っていたという。
それを変更するほどの理由が、記録からは見えてこなかった。
允浩は別の巻物を開いた。
しかし、そこにも王城への進軍命令について詳しい説明はなかった。
「……これだけじゃ、分からないな」
允浩は小さく呟いた。
そもそも、自分は医師の見習いだ。
軍の事情に詳しいわけでもなければ、調べられる記録にも限りがある。
しばらく考えたあと、允浩は巻物を閉じた。
そして、一人の男の顔を思い浮かべた。
「あの人に聞いてみるか」




