↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/30

昔話

五月に入ったばかりの百華楼(ペッカル)は、昼間から慌ただしかった。


春花(チュンファ)は帳面を広げ、届いた品の数を確かめていた。


そこへ、春昊(チュンホ)が顔を出した。


「母さん、バン様が来てる」


春花の筆が止まった。


「……ああ、もうそんな時期かい」


帳面を閉じると、春花は立ち上がった。


「いつもの席かい?」


「ああ。もう案内してある」


「そうかい。じゃあ、月華を呼んでおくれ」


「月華を?」


「古いお客様の顔も覚えてもらわないとね。あの子も、いつまでも新入りじゃいられないんだから」


「分かった」


春昊が部屋を出ていくと、春花は窓の外へ目を向けた。


庭の若葉が、五月の風に揺れていた。


⸻


一階の広間には、一人の男が座っていた。


房 智敏(バン・ジミン)。


かつて軍に身を置き、瑞華(ソファ)との戦にも赴いた男である。


その前には酒瓶と、二つの杯が置かれていた。


「ジミン、今年も来たんだね」


春花が声をかけると、智敏は顔を上げた。


「おう、チュンファ。相変わらず忙しそうだな」


「あんたが来るたびに、そう言われている気がするよ」


「昔から忙しそうにしてただろう」


「誰のせいだと思ってるんだい」


二人は顔を見合わせて笑った。


その後ろで、月華(ウォルファ)が静かに頭を下げる。


「今日は新入りを連れてきたよ。月華、ご挨拶なさい」


「初めまして。月華と申します」


智敏は月華を見て、穏やかに頷いた。


「月華か。よろしくな」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


「まだ覚えることばかりの子だけどね。よく気がつくし、真面目な子だよ」


「ほう。チュンファがそこまで言うとは珍しいな」


「余計なことを言うんじゃないよ」


春花は笑いながら、月華に席を勧めた。


月華が酒瓶を手にすると、智敏が一つの杯を差し出した。


「こっちを頼む」


「はい」


月華は丁寧に酒を注いだ。


続けて、もう一つの杯へ手を伸ばしかけたとき、智敏が言った。


「そっちは、俺が注ぐよ」


「かしこまりました」


智敏は酒瓶を受け取ると、空いていた杯を満たした。


そして、誰も座っていない隣の席へ、そっと置いた。


月華は何も尋ねなかった。


⸻


「……あいつがいたら、今日も朝まで飲んでいただろうな」


智敏が隣の杯を眺めながら言った。


春花は懐かしそうに笑った。


「そうだねぇ。あの人は、本当にここが好きだったから」


「俺よりも、この店に詳しかったぞ」


「あんたが知らないことまで知っていたからね」


「まったく。どっちが常連だったんだか」


二人の笑い声が広間に響いた。


月華は静かに酒を注ぎながら、その話に耳を傾けていた。


「その方は、こちらによくいらしていたのですか?」


月華が尋ねると、智敏は嬉しそうに頷いた。


「ああ。俺をここへ連れてきたのも、あいつだった」


「そうだったのですね」


「戦から戻ったら、またここで飲もうってな。出陣前にも、そればかり言っていた」


智敏は笑った。


けれど、その笑みは長く続かなかった。


「……結局、帰ってこなかったが」


春花は二つ並んだ杯を見つめた。


「王城で亡くなったんだったね」


「ああ。瑞華の王城だ」


智敏は酒を一口飲んだ。


しばらく、誰も口を開かなかった。


やがて智敏が、ぽつりと言った。


「……今でも、時々考えるんだ」


春花が顔を上げる。


「何をだい?」


「あの時の命令さ」


智敏は杯を置いた。


「俺たちは、港を押さえるはずだった。瑞華の港を確保するために、ずっと準備を進めていたんだ」


「そうだったのかい」


「ああ。だが、直前になって命令が変わった。港より先に王城を攻めろとな」


月華は静かに智敏を見た。


「王城を先に、ですか?」


「そうだ」


智敏は頷いた。


「王城を先に攻めること自体が、間違った策というわけじゃない。だが、あの時は港を押さえる準備が整っていた。それを覆してまで王城へ向かう理由が、俺には分からなかった」


「何か、急ぐ理由があったのでしょうか」


月華が尋ねる。


「さあな」


智敏は小さく首を振った。


「王命だった。俺たちは従うしかなかったよ」


春花は黙って聞いていた。


「……その戦で、あいつを失った」


智敏は隣の杯へ目を向けた。


「命令が違っていれば、なんて考えても仕方ないんだがな」


「ジミン」


春花が静かに呼んだ。


「……あんたは、毎年ちゃんと会いに来ているじゃないか」


智敏は少し驚いたように春花を見た。


それから、照れくさそうに笑った。


「そうだな」


彼は杯を持ち上げた。


「ほら、飲め。お前の好きだった酒だぞ」


誰もいない隣の席へ向けて、そう言った。


月華は静かに頭を下げた。


二つの杯には、五月の柔らかな光が差していた。


⸻


翌日。


張 泰元(チャン・テウォン)が百華楼を訪れた。


その傍らには、いつものように允浩(ユンホ)がいる。


允浩が百華楼に通い始めて、半年近くが経っていた。


初めの頃は泰元の診察を手伝うばかりだったが、最近では、少しずつ診察を任せてもらえるようになっていた。


「月華さん、最近はよく眠れていますか?」


允浩は月華の脈を確かめながら尋ねた。


「うん。前よりずっと眠れるようになったわ」


「それならよかったです。食事は?」


「ちゃんと食べてるわよ」


「本当ですか?」


「……ユンホ、疑ってる?」


「以前も同じことをおっしゃっていましたから」


月華は少しだけ頬を膨らませた。


「もう。ちゃんと食べてるってば」


允浩は笑いながら、脈を取っていた手を離した。


「顔色もいいですね。特に問題はなさそうです」


「ありがとう」


月華は袖を整えた。


そして、ふと思い出したように口を開いた。


「ねえ、ユンホ」


「はい?」


「昨日、少し気になるお話を聞いたの」


允浩は顔を上げた。


「どんなお話ですか?」


「春花様の昔からのお客様がいらしたの。その方は、以前、軍にいらしたそうなのだけれど……」


月華は昨日の出来事を話し始めた。


亡くなった戦友のこと。


毎年、その命日に百華楼を訪れていること。


そして、瑞華との戦で下されたという命令のこと。


「……港を押さえるはずだったのに、王城を先に攻めるよう命じられたんですか?」


「そうおっしゃっていたわ」


允浩は考え込んだ。


「その方は、理由をご存じなかったのですね」


「ええ。王命だったから従うしかなかったって」


「……そうですか」


月華は允浩の表情を見た。


「何か、おかしいの?」


「まだ、何とも言えません」


允浩は慎重に答えた。


「戦のことは、僕も詳しくありませんから。ただ……少し調べてみたいと思います」


「そう」


月華は頷いた。


「何か分かったら、教えてね」


「はい」


允浩は微笑んだ。


「ありがとうございます、月華さん」


⸻


その日の夕刻。


診療所へ戻った允浩は、古い記録を広げていた。


瑞華との戦が起きた頃の記録だった。


当時、景和(キョンファ)では幾度かの不作が続き、穀物の値が上がっていた。


海運で栄えていた瑞華の港を確保することは、景和にとって大きな利益になる。


少なくとも、当時の記録にはそう記されていた。


允浩は指先で文字を追った。


港を確保し、海上の交易路を押さえる。


それが戦の目的だったのなら、なぜ王城への進軍を急いだのだろう。


もちろん、王城を先に攻めることにも、軍事上の理由はあったのかもしれない。


けれど、月華が聞いた話では、すでに港を攻める準備が整っていたという。


それを変更するほどの理由が、記録からは見えてこなかった。


允浩は別の巻物を開いた。


しかし、そこにも王城への進軍命令について詳しい説明はなかった。


「……これだけじゃ、分からないな」


允浩は小さく呟いた。


そもそも、自分は医師の見習いだ。


軍の事情に詳しいわけでもなければ、調べられる記録にも限りがある。


しばらく考えたあと、允浩は巻物を閉じた。


そして、一人の男の顔を思い浮かべた。


「あの人に聞いてみるか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。