先生の先生と先生の助手
第25話 先生の先生と先生の助手
十二月。
都を吹き抜ける風は、日に日に冷たさを増していた。
そんなある朝、百華楼の正面には、客を迎えないことを知らせる札が掛けられていた。
月に一度の休業日である。
表向きは、楼の手入れの日。
実際に傷んだ建具を直したり、調度品を整えたりもするが、何より大切なのは、妓生たちに休息を与えることだった。
そして、この日は医師による定期検診も行われる。
客がいないからこそ、娘たちは周囲を気にせず体の不調を相談できるのだ。
「春花様、おはようございます」
「ああ、おはよう。今日はゆっくりしな」
「ありがとうございます」
妓生の一人が嬉しそうに頭を下げた。
春花は、その背中を見送ってから、息子を呼んだ。
「春昊! 裏口は開けてあるかい?」
「とっくに開けてるよ、母さん」
「先生が来たらすぐ通しな!」
「わかってるって」
春昊が答えた、その時だった。
「おい、春花! まだ生きとるか!」
裏口の方から、威勢のよい声が響いた。
「誰が死ぬかい!」
春花が即座に怒鳴り返す。
春昊は思わず笑った。
「……今年も元気だなあ」
「何を呑気なこと言ってるんだい!」
ほどなくして姿を現したのは、白い髭を蓄えた老人だった。
張 泰元。
七十三歳になる、百華楼の長年のかかりつけ医である。
その後ろには、薬箱を抱えた若い男が続いていた。
「おはようございます、春花様。春昊さん」
若い男が丁寧に頭を下げる。
「おはよう、允浩。寒かっただろう?」
「いえ。先生が道中ずっとお話しされていたので、寒さを気にする暇もありませんでした」
「おい、允浩!」
「事実です」
允浩は涼しい顔で答えた。
春昊が吹き出す。
春花は泰元を上から下まで眺めると、にやりと笑った。
「なんだい、先生。とうとう一人じゃ歩けなくなったのかい?」
「馬鹿を言え! 弟子に仕事を覚えさせとるんじゃ!」
「へえ。引退の準備かい?」
「お前より先にくたばるつもりはないわ!」
「だったら、あと二十年は働いてもらわないとねえ」
「勝手に決めるな!」
春昊は笑いながら、允浩に小声で言った。
「毎月これだよ」
「先生は、こちらへ来るのを楽しみにしておられますから」
「誰が楽しみにしとる!」
允浩は何も言わず、微笑んだ。
「……允浩」
「はい、先生」
「余計なことを言うな」
「承知しました」
あまりに素直な返事に、春昊はとうとう声を上げて笑った。
「先生、俺も弟子にしてくれない?」
「お前はまず、母親に言い返せるようになってからじゃ!」
「それは無理だな」
「春昊!」
「ほらね」
允浩が口元を押さえる。
泰元は呆れたように首を振った。
「まったく、この親子は……」
「何だい。文句があるなら帰ってもいいんだよ?」
「帰るか! 診察があるじゃろうが!」
「だったら早く仕事しな!」
春花に背中を押され、泰元はぶつぶつ言いながら奥へ向かった。
允浩はその後を追いながら、もう一度、春昊に頭を下げた。
「では、準備をしてまいります」
「ああ。よろしく頼むよ」
*
診察は、一階の奥にある小部屋で行われた。
泰元が脈を取り、顔色を確かめ、体調を尋ねる。
允浩はその傍らで道具を整え、必要なことを書き留めていた。
「夜更かしが続いとるな」
「お仕事ですもの、先生」
「仕事だからといって、体を壊してよいわけがあるか」
「春花様にも言ってくださいな」
「何十年も言っとるわい」
妓生がくすくすと笑う。
別の妓生には喉を休めるよう注意し、また別の妓生には、冷えに気をつけるよう言い聞かせた。
泰元の口調は厳しいが、娘たちは誰も怖がらなかった。
この楼で働く者たちを、長年診てきた医師だからだ。
やがて、次の妓生が呼ばれた。
「月華、入りな」
「はい」
戸が開き、淡い桃色の衣をまとった少女が姿を現した。
「失礼いたします」
月華が頭を下げる。
泰元は顔を上げた。
「おお、お前さんが月華か。春花から話は聞いとるぞ」
「……どのようなお話でしょうか?」
「真面目で、物覚えがよいとな」
月華が少し驚いた顔をした。
「春花様が、そのようなことを?」
「ただし、頑張りすぎるところがあるとも言っとった」
「……そちらも、ですか」
「むしろ、そちらの方が長かったな」
月華は思わず笑った。
その笑顔を見た瞬間。
泰元の後ろで筆を持っていた允浩の手が、止まった。
「…………」
見覚えがあった。
少し大人びた顔立ち。
以前より落ち着いた声。
髪の結い方も、身につけている衣も、記憶の中の少女とはまるで違う。
それでも、笑った時の目元は変わっていなかった。
――允浩、これ、何の葉っぱ?
――お嬢様。まずはご自分で考えてみてください。
――じゃあ、允浩は知ってるの?
――もちろんです。
――ずるい!
尹家の庭。
薬草の匂い。
師匠の後ろをついて回っていた、小さなお嬢様。
允浩は、息を呑んだ。
まさか。
そんなはずはない。
けれど。
目の前の少女は、間違いなく――。
「……允浩?」
不意に名前を呼ばれ、允浩は顔を上げた。
月華がこちらを見つめていた。
驚きに見開かれた瞳。
その表情だけで、允浩には十分だった。
「……お嬢様」
声にならないほど小さく、そう呟いた。
「どうした、允浩?」
泰元が振り返る。
「……いえ。失礼しました」
允浩は慌てて視線を落とした。
月華も口を閉じる。
泰元は二人を交互に見たが、ひとまず診察を続けた。
「さて、月華。食欲はあるか?」
「……はい」
「眠れておるか?」
「日によります」
「ふむ。正直でよろしい」
泰元は脈を確かめ、いくつか質問を重ねた。
「大きな問題はなさそうじゃ。だが、無理はするなよ」
「はい。ありがとうございます」
診察が終わると、月華は立ち上がった。
けれど、すぐには部屋を出ようとしなかった。
允浩も、片づける手を止めている。
その様子を見た泰元は、何かを察したように眉を上げた。
「……お前たち、知り合いか?」
二人は顔を見合わせた。
「……先生」
允浩が口を開く。
「後ほど、お話ししてもよろしいでしょうか」
泰元はしばらく允浩を見つめ、それから頷いた。
「……わかった。わしは春花のところへ行ってくる」
そう言って部屋を出た。
戸が閉まる。
静寂が落ちた。
*
「……お嬢様」
允浩が、改めて呼んだ。
月華の瞳が揺れる。
「……允浩」
「……本当に、お嬢様なんですね」
月華はゆっくり頷いた。
「……久しぶり」
それだけ言うと、少し笑った。
允浩は胸の奥が詰まるような思いだった。
あれほど懸命に探されていた少女が、目の前にいる。
けれど、その身には妓生の衣がまとわれていた。
「……どうして、ここに……」
思わず漏れた問いに、月華は少しだけ目を伏せた。
「……いろいろ、あったの」
允浩は、それ以上尋ねなかった。
尋ねなくても、わかることがあった。
仁救が罪人とされ、尹家が処罰されたこと。
婚約が解消されたこと。
そして、柔莉が姿を消したこと。
「……ヒョンジュンが、ずっと探していました」
月華が顔を上げる。
「……知ってたの?」
「はい。私にも何度か相談に来ました」
允浩は苦笑した。
「普段はあれほど落ち着いているのに、あの時ばかりは……」
言いかけて、言葉を止める。
月華が小さく笑った。
「……ヒョンジュンらしいね」
「ええ。本当に」
允浩も笑った。
「……会えたよ」
「え?」
「ヒョンジュンに。先月、ここで」
允浩は目を見開いた。
「……本当ですか?」
「うん。今も、会いに来てくれてる」
月華の表情が、少しだけ柔らかくなる。
允浩はその顔を見て、心から安堵した。
「……よかった」
思わず、そう呟いた。
「ヒョンジュンは、昔からお嬢様のことになると周りが見えなくなりますからね」
「……そうなの?」
「ご存じなかったんですか?」
「……うん」
允浩は少し考えた。
「……知らない方が幸せかもしれません」
「え?」
「いえ。何でもありません」
月華が不思議そうに首を傾げる。
允浩は笑って誤魔化した。
あの男が柔莉の話を始めると、どれほど長くなるか。
それを本人に教える必要はないだろう。
けれど、次の瞬間。
月華の笑顔が消えた。
「……允浩」
「はい」
「叔父様のこと……覚えてる?」
允浩は、まっすぐに彼女を見た。
「忘れたことなどありません」
月華の唇が、かすかに震えた。
「……私、今でも信じてるの」
「…………」
「叔父様は、そんなことする人じゃないって」
允浩はゆっくり頷いた。
「私もです」
「……本当?」
「はい。仁救先生は、あのようなことをなさる方ではありません」
月華は俯いた。
ぎゅっと握った指先が白くなる。
「……ありがとう」
その声は、ひどく小さかった。
允浩は何も言わず、彼女が顔を上げるのを待った。
やがて月華は、そっと目元を拭った。
「……でもね、允浩」
「はい」
「今は、柔莉じゃないの」
允浩は静かに頷いた。
「ここでは、月華っていうの」
「……月華」
「うん。私が選んだ名前なの」
月華は、少しだけ微笑んだ。
允浩は、その言葉を大切に受け止めた。
「……では、月華さんとお呼びします」
「ありがとう」
今度は、月華もはっきりと笑った。
*
「……何じゃと?」
すべての診察を終えた後。
允浩から事情を聞いた泰元は、珍しく言葉を失っていた。
春花も同席している。
ほかの者がいないことを確かめてから、允浩が話を切り出したのだ。
「あの月華という娘が……仁救の姪じゃと?」
「はい」
「……柔莉という名の?」
「間違いありません」
泰元は椅子に深く腰を下ろした。
「……そうか」
長い沈黙の後、ようやく声が出た。
「……あの娘が、そうか」
泰元は、仁救から何度も姪の話を聞いていた。
薬草が好きで、何でも知りたがる娘。
難しいことを教えても、翌日にはまた新しい質問を持ってくる娘。
医術を学びたいと目を輝かせる娘。
その話をする時、仁救はいつも嬉しそうだった。
『先生、あの子は本当に覚えが早いのです』
『お前は姪の話になると、そればかりじゃな』
『事実ですから』
あの穏やかな笑顔が、鮮明に蘇る。
「……顔を見たことがなかったからのう」
泰元が呟いた。
「まさか、あの娘が……」
春花は腕を組んだまま、静かに口を開いた。
「あの子がここへ来たのは、九月だよ」
「……十七になったばかりか」
「ああ」
泰元は目を閉じた。
「……仁救が生きておったら、どれほど悲しんだことか」
誰も答えなかった。
やがて、允浩が口を開いた。
「先生」
「何じゃ」
「私は……何もできませんでした」
泰元が顔を上げる。
「仁救先生が捕らえられた時も、ヒョンジュンが月華さんを探していた時も」
「允浩」
「怖かったんです」
允浩は俯かなかった。
「王の命に関わる事件でした。下手に動けば、私まで疑われるかもしれない。そう思って……」
泰元は黙って聞いていた。
「でも、今日……月華さんに会って」
允浩の声が、わずかに震えた。
「仁救先生のことを、今でも信じていると聞いて……」
「…………」
「このまま、何もしないわけにはいかないと思いました」
泰元は深く息を吐いた。
「……何をするつもりじゃ」
「調べたいんです」
「何を」
「仁救先生の事件を」
部屋が静まり返った。
春花の表情も険しくなる。
「允浩。それがどういうことかわかって言ってるのかい?」
「はい」
「相手は王宮だよ。昔の事件だからって、軽く考えるんじゃないよ」
「わかっています」
泰元が低い声で言った。
「……証拠もなしに騒げば、お前まで失うことになる」
允浩は頷いた。
「だから、騒ぐつもりはありません」
「…………」
「何ができるか、まだわかりません。それでも、何か手がかりを探したいんです」
泰元は允浩をじっと見つめた。
十九歳。
まだ若い。
ほんの数か月前、師を失ったばかりの青年だった。
行き場をなくした彼を引き取ったのは、自分だった。
もう二度と、同じことを繰り返したくはない。
「……急ぐな」
長い沈黙の後、泰元が言った。
「先生……」
「わしは、仁救が王を殺したなどと思っとらん」
その声は、はっきりしていた。
「だが、信じることと、証明することは違う」
「……はい」
「思い込みで動くな。危険を感じたら、必ずわしに話せ」
允浩が顔を上げた。
「それは……」
「勝手に一人で抱え込むなと言っとるんじゃ!」
いつもの怒鳴り声だった。
允浩は目を見開き、それから深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、先生」
「礼などまだ早いわ!」
春花がふっと笑う。
「まったく。師匠も弟子も、揃って頑固だねえ」
「お前にだけは言われたくないわ!」
「何だい、その言い草は!」
また始まった。
允浩は思わず笑ってしまった。
けれど、その胸の内には、先ほどまでとは違うものが芽生えていた。
あの日から、ずっと目を逸らしてきた事件。
失った師匠。
そして今日、百華楼で再会した少女。
お嬢様。
いや。
月華さん。
彼女が自分で選んだ名前を、允浩は心の中で呼んだ。
あの人が、もう一度、自分の望む道を歩けるように。
そのために何ができるのか、まだわからない。
けれど。
何もしないままでは、終われなかった。




