いつもの人
第24話 いつもの人
「……じゃあ、また来るね」
月華は、賢俊の胸元から顔を上げた。
「うん」
「次の予約、取って帰るから」
「……分かった」
賢俊はもう一度だけ月華を抱きしめ、それからようやく腕をほどいた。
先ほど交わした約束が、頭から消えたわけではない。
次に縁談が来たら、一度会ってみる。
月華がそう望んだから、賢俊は頷いた。
けれど、それと月華に会いに来ることは、賢俊の中ではまったく別の話だった。
「じゃあ、おやすみ。ユリ」
「……おやすみ、ヒョンジュン」
月華が扉を閉めるまで見届けてから、賢俊は階段を下りた。
一階では、春昊が帳面を広げていた。
「お、姜家の三男。もう帰るのか?」
「はい。また来ます」
「次の予約か?」
「お願いします。ユリの空いてる日で」
「……おい」
春昊が顔を上げた。
「はい?」
「ここじゃ月華だ。ユリって呼ぶな」
「あ……」
「誰が聞いてるか分かんねえだろ。部屋の中ならともかく、外じゃ気をつけろよ」
「すみません。気をつけます」
賢俊は素直に頭を下げた。
春昊は帳面に視線を戻す。
「ったく……。次はいつがいい?」
「一番早く空いてる日で」
「またかよ」
「駄目ですか?」
「駄目とは言ってねえよ」
春昊は予約帳をめくり、月華の名前を探した。
賢俊が初めて百華楼に来てから、もう何度目の予約だろう。
最初の日には三回分をまとめて取って帰った。
その三回が終わった今も、当然のように次の予約を入れている。
しかも、一度として他の妓生の名前を口にしない。
春昊は思わず笑った。
「お前、本当に月華ばっかりだな」
「はい」
「……即答かよ」
「月華に会いに来てますから」
「そりゃ知ってるけどよ」
春昊は筆を置いた。
「他の妓生にも、綺麗なやつはいるぞ?」
「そうでしょうね」
「……興味ねえの?」
「ないです」
あまりにも迷いのない返事だった。
春昊は吹き出した。
「ははっ! お前、ほんっと分かりやすいな!」
賢俊は不思議そうに首を傾げる。
「そうですか?」
「ああ。……なあ」
春昊は、ふと思いついたことを口にした。
「お前、月華のどこがそんなに好きなんだ?」
「……どこが?」
「ああ。毎回毎回、あいつに会いに来るだろ。何がそんなにいいんだ?」
賢俊は少し考えた。
それから、真面目な顔で尋ねた。
「……どこから話せばいいですか?」
「…………は?」
「小さい頃からでいいですか?」
「いや、待て」
春昊は思わず手を上げた。
「そんなに長い話なのか?」
「長いですよ?」
「……そうなのか?」
「はい」
賢俊は、何を当たり前のことを聞くのだろうという顔をしている。
春昊は少しだけ嫌な予感がした。
「……じゃあ、短く頼む」
「分かりました」
賢俊は頷いた。
「まず、顔が可愛いでしょう」
「……まず?」
「はい。笑った顔も可愛いですし、怒った顔も可愛いです」
「お、おう」
「でも、本当に怒ってる時は逆に静かになるんですよ。あれはちょっと怖いです」
「怖いのかよ」
「はい。でも可愛いです」
「……そうか」
「あと、昔から薬草が好きなんです」
「ああ、あいつ薬草には詳しいな」
「そうでしょう? 小さい頃からなんですよ。俺にはよく分からないことも、楽しそうに話してくれるんです」
賢俊は嬉しそうに笑った。
「話してる時の顔が、また可愛くて」
「……おう」
「それから、一緒にいると楽しいんです。何もしなくても」
「へえ」
「俺が何か面白いものを見つけると、最初にユ……月華に教えたくなるんですよ」
春昊は、名前を言い直したことに気づいて小さく頷いた。
「昔からそうなのか?」
「はい。物心ついた頃には、もうそうでした」
「……ずいぶん長い付き合いなんだな」
「そうですね。だから、いつから好きになったのかも覚えてないんです」
「……へえ」
「気づいた時には好きだったので」
春昊は少しだけ黙った。
賢俊は何でもないことのように続ける。
「それで、昔、一緒に出かけた時なんですけど――」
「待て」
「はい?」
「まだあるのか?」
「え?」
賢俊が目を丸くした。
「まだ全然話してませんけど」
「…………」
春昊は、先ほどの嫌な予感が当たり始めたことを悟った。
その時だった。
「お、ヒョンジュンじゃないか」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、朴 世俊が階段を下りてきたところだった。
雪華との時間を終え、帰るところらしい。
「まだいたのか?」
「あ、世俊」
賢俊が顔を上げる。
「ちょうどよかった」
「……何が?」
「今、月華の話をしてたんだ」
世俊の笑顔が、ぴたりと止まった。
「…………は?」
春昊が笑いながら説明する。
「いや、こいつに月華のどこが好きなのか聞いたら、話が終わらなくてな」
「…………」
世俊は春昊を見た。
それから賢俊を見た。
もう一度、春昊を見た。
「……お前」
「ん?」
「それ、聞いたのか!?」
「なんだよ、急に」
「なんで聞いたんだよ!!」
「いや、気になったからだろ!」
世俊は額を押さえた。
「……俺、帰るわ」
「おい! なんでだよ!」
「帰りたいからだよ!」
「世俊、待って」
賢俊が呼び止めた。
世俊は嫌そうな顔で振り返る。
「……なんだよ」
「今、昔の話をしてたところなんだ」
「知ってるよ!」
「最近の話もあるんだけど」
「増えてんのかよ!!」
賢俊はきょとんとした。
「そりゃ増えるだろ。会ってるんだから」
「…………」
世俊は春昊の肩に手を置いた。
「……悪いことは言わねえ。もう聞くな」
「いや、もう聞いちまったんだよ」
「だから止めろって!」
「どうやって!?」
二人が言い合っている間にも、賢俊は何かを思い出したらしい。
「あ、そういえば」
「「まだあるのか!?」」
二人の声が重なった。
賢俊は少し驚いた顔をした。
「……ありますけど」
世俊は天井を仰いだ。
「……昔からそうなんだよ、こいつ」
「昔から?」
「ああ。婚約してた頃なんか、会うたびにユリの話だった」
「お前も大変だったんだな……」
「分かってくれるか……」
「でも、今の月華も可愛いですよ」
賢俊が嬉しそうに口を挟んだ。
世俊は振り返った。
「……お前、俺たちの話聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「じゃあなんでまた始めるんだよ!」
「今の月華の話、まだしてないから」
春昊は思わず笑った。
「お前、本当に飽きねえな!」
「飽きるって、何にですか?」
「月華にだよ!」
賢俊は、ますます不思議そうな顔をした。
「……なんで飽きるんですか?」
「…………」
春昊は世俊を見た。
世俊は静かに首を横に振った。
「……な?」
「……ああ」
二人が妙な納得をしていると、奥から大きな声が飛んできた。
「何を騒いでるんだい!!」
春花だった。
「男が三人も集まって、何をぎゃあぎゃあと!」
「母さん!」
春昊が振り返る。
「助けてくれ!」
「はあ?」
「こいつに月華の好きなところを聞いたら、話が終わらねえんだよ!」
春花は賢俊を見た。
「……なんだい、そんなことかい」
「そんなことじゃないんです、春花様!」
世俊まで口を挟む。
春花は呆れた顔をした。
「情けない男どもだねえ。だったら一番好きなところを聞けばいいだろ!」
「……一番?」
賢俊が考え込んだ。
春昊と世俊は顔を見合わせた。
しばらくして、賢俊が口を開く。
「……ユリだから、ですかね」
「…………は?」
春花が眉を寄せた。
「答えになってないよ」
「そうですか?」
「そうだよ! どこが一番好きなのか聞いてるんだ!」
賢俊は少し困ったように笑った。
「でも、全部好きなんですよ」
「全部?」
「はい。顔も、声も、笑い方も、怒り方も。昔から変わらないところも、変わったところも」
春花は黙って聞いた。
「三月会えなかった間に、知らないことも増えましたし」
賢俊は続ける。
「ここで覚えたことも、できるようになったことも、これからもっと知りたいです」
「……昔のお嬢様だった頃とは、違うところもあるだろう?」
春花が尋ねた。
「ありますよ」
賢俊は迷わず答えた。
「三月も会ってなかったんですから」
「それでも好きなのかい?」
「はい」
「……どうして?」
賢俊は、少しだけ首を傾げた。
「……だって、ユリでしょう?」
春花は口を閉じた。
世俊も、春昊も。
賢俊は三人の顔を見回した。
「……変ですか?」
春花は大きく息を吐いた。
「……あんた、相当重症だね」
「そうですか?」
「自覚がないのが一番厄介だよ!」
春昊が頭を抱える。
世俊は肩を震わせて笑っていた。
「だから言っただろ……! こいつ、ずっとこうなんだって!」
「お前、よく今まで付き合ってきたな……」
「友達だからな……」
「……ご苦労なこった」
春花まで呆れ果てている。
それでも賢俊は、まだ話し足りない様子だった。
「それで、最近なんですけど」
「もういい!!」
春昊が叫んだ。
「まだ話してないことが――」
「聞かねえ!!」
「……そうですか?」
賢俊は少し残念そうだった。
その時。
「……ヒョンジュン?」
四人が一斉に振り返った。
階段の途中に、月華が立っていた。
手には、小さく畳まれた手巾を持っている。
「これ、部屋に忘れてたよ」
「あ、ユリ!」
賢俊の顔が、ぱっと明るくなった。
「本当だ。ありがとう!」
月華は階段を下り、賢俊に手巾を渡した。
「もう帰ったかと思った」
「うん。今帰るところ」
「……そうなんだ」
月華はふと、周囲を見回した。
春昊は疲れ切った顔をしている。
世俊は何かを堪えるように口元を押さえている。
春花は腕を組み、呆れた顔で賢俊を見ていた。
そして賢俊だけが、やけに嬉しそうだった。
「……何があったの?」
「ユリの話してた」
「……私の?」
「うん」
月華は首を傾げた。
「……何の話?」
「好きなところ」
「…………え?」
春昊が慌てて口を挟んだ。
「月華! もういい! こいつ連れて帰れ!」
「えっ、何!?」
「頼むから!」
世俊まで頷いている。
「月華、お前は何も悪くない……」
「……だから、何があったの!?」
春花が大きく手を振った。
「いいから! 姜家の三男、さっさと帰りな!」
「はい。……じゃあ、また来ます」
賢俊は月華に笑いかけた。
「おやすみ、月華」
「……うん。おやすみ」
月華は最後まで不思議そうな顔をしていた。
賢俊が玄関を出ていく。
月華も二階へ戻っていった。
ようやく静かになった一階で、春昊は深々と息を吐いた。
「……なんだったんだ、あいつ」
世俊は苦笑した。
「昔からだよ」
「……あれが?」
「ああ。ユリのことになると、ずっとああだ」
春昊は呆れたように笑った。
「……どんだけ好きなんだよ」
世俊も笑った。
けれど、ふと表情を和らげる。
「……でも、よかったよ」
「何が?」
「あいつ、ようやくまた、あんな顔で笑うようになったから」
春昊は黙った。
三月もの間、賢俊が月華を探していたことは知っている。
世俊は、その三月をすぐそばで見ていたのだろう。
「……そうか」
春昊が小さく答える。
しばらくして、世俊は肩をすくめた。
「ま、とにかく」
「ん?」
「次からは、ユリのどこが好きかなんて絶対聞くなよ」
春昊は、力強く頷いた。
「あぁ、ぜってー、しねえ!」




