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二人

第23話 二人



 三日後。


 姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)は、約束どおり百華楼(ペッカル)へ来た。



「……ヒョンジュン」


「うん」


「そろそろ離して」


「嫌だ」


「来てからずっとじゃん」


「うん」


「うん、じゃなくて」



 月華(ウォルファ)は困ったように笑った。


 二階にある月華の部屋。


 春昊(チュンホ)に案内されて入ってきた時から、賢俊はほとんど月華を離していない。


 会えた。


 三日前にも会ったのに。


 今日もちゃんと、ここにいた。


 腕の中にいる。



「お茶、冷めるよ」


「あとでいい」


「せっかく淹れたのに」


「あとで飲む」


「じゃあ離して」


「嫌だ」


「飲めないじゃん」


「ユリが飲ませて」


「……三月でそんな人になったの?」


「ユリに会えなかったせい」


「私のせいにしないでよ」



 月華が笑う。


 その声が近くで聞こえるだけで、嬉しかった。


 結局、月華に無理やり身体を離されるまで、賢俊はしばらくそのままだった。



「ほら。座って」


「うん」



 月華が卓の向こうを指した。


 賢俊はそちらを見てから、月華の隣に座った。



「……なんでこっち?」


「近いから」


「向こう空いてるよ」


「遠い」


「すぐそこだよ」


「遠い」



 月華が呆れたように賢俊を見る。


 賢俊は気にせず、その手を取った。



「ヒョンジュン」


「なに?」


「お茶」


「飲んでるよ」


「片手で?」


「飲める」


「手、離せばいいじゃん」


「嫌だ」


「今日そればっかり」



 言いながらも、月華は手を引かなかった。



 指先を絡めたまま、二人で茶を飲んだ。


 用意されていた菓子を半分ずつ食べた。


 賢俊がこの三月、どこを探したのか。


 月華が百華楼へ来てから、何を覚えたのか。


 そんな話を、少しずつした。



「……髪、伸びた?」


「三月しか経ってないよ」


「三月見てなかったから分かんない」


「そんなに変わらないよ」


「そう?」


「そう」



 賢俊は月華の髪を一房取った。


 指の間をさらりと落ちていく。



「何?」


「見てる」


「何を?」


「ユリ」


「ずっと見てるじゃん」


「三月見てなかったから」


「それ、いつまで言うの?」


「三月くらい」


「長いよ」



 また月華が笑った。


 賢俊も笑った。



 三月分。


 本当に取り戻せるわけではない。


 けれど今は、それでよかった。



 帰る時間が近づいた時。


 賢俊はまた月華を抱きしめた。



「……また?」


「うん」


「三日後にも会ったでしょ」


「次は五日ある」


「五日くらい」


「長い」


「三月探してた人が?」


「三月探したから長いんだよ」



 月華は笑って、それから。


 賢俊の肩に額を預けた。



「……じゃあ、五日後ね」


「うん」


「ちゃんと来て」


「来るよ」



 当たり前だった。



     *



 五日後。


 賢俊が部屋へ入ると、月華はもう笑っていた。



「いらっしゃいませ」


「……何それ」


「妓生だから」


「俺にも言うの?」


「お客様でしょ?」


「ユリに会いに来たんだけど」


「ここでは月華です」


「じゃあ月華に会いに来た」


「お客様として?」


「ヒョンジュンとして」



 月華は一瞬黙って。


 それから、ふっと笑った。



「……おかえり、ヒョンジュン」



 賢俊が止まった。



「何?」


「もう一回」


「嫌」


「なんで」


「一回言ったから」


「もう一回言って」


「嫌です」


「ユリ」


「聞こえたでしょ?」


「聞こえたけど」


「じゃあいいじゃん」


「よくない」


「面倒くさい」



 そう言いながら月華が背を向ける。


 賢俊はすぐに後ろから抱きついた。



「ちょっと!」


「ただいま」


「まだ言ってる」


「ユリ」


「……おかえり」


「うん」



 満足した。


 月華には見えないところで、賢俊は笑った。



 この日は、前よりも何でもない話をした。


 姜家の仕事のこと。


 学問のこと。


 月華が覚え始めた琴のこと。


 星華(ソンファ)が上手いこと。


 春花(チュンファ)に今日も叱られたこと。



「何したの?」


「お客様に出す酒、間違えた」


「怒られた?」


「『見て覚えなって言っただろ!』って」


「怖そう」


「怖いよ」


「大丈夫だった?」


「雪華姐さん(ソルファねえさん)があとで教えてくれた」


「優しいんだ」


「うん。すごく」



 知らない名前が増えた。


 知らない話も増えた。


 三月の間に、月華には賢俊の知らない日々ができていた。



 少し寂しい。


 けれど。


 その話を月華自身の口から聞けるのは嬉しかった。



「ヒョンジュンは?」


「何が?」


「姜家のお仕事」


「今日、父上に帳簿やり直された」


「また?」


「一箇所だけだよ」


「一箇所でも間違ってたんでしょ?」


「ユリまで父上の味方する」


「だってヒョンジュンが間違えたんじゃん」


「慰めて」


「嫌」


「じゃあ抱きつく」


「結局それじゃん」



 賢俊が腕を広げる。


 月華は呆れた顔をした。



 けれど。



「……仕方ないなあ」



 自分から、その腕の中へ入った。



「…………」


「なに?」


「いや」


「何、その顔」


「ユリから来た」


「嫌なら離れるけど」


「嫌じゃない」



 抱く腕に力が入る。



「ちょっと、苦しい」


「ごめん」



 少し緩める。


 でも離さない。



 月華も離れなかった。



 しばらくそのままでいると、月華が賢俊の胸元で小さく笑った。



「何?」


「なんか変なの」


「何が?」


「ここ、百華楼なのに」


「うん」


「ヒョンジュンといると、前とあんまり変わらない」



 賢俊は月華の髪を撫でた。



「ユリはユリだから」


「……ここでは月華だってば」


「知ってる」


「じゃあ月華って呼んで」


「月華」


「……なに?」


「呼んだだけ」


「もう」



 少しだけ身体を離した月華と目が合った。


 近い。


 互いに、何も言わなかった。



 賢俊がそっと顔を寄せる。


 月華は逃げなかった。



 触れるだけの口づけだった。



 離れると、月華が賢俊を見た。



「……急に何?」


「したかった」


「急に?」


「うん」


「…………」


「嫌だった?」


「……嫌じゃない」


「じゃあ、もう一回」


「調子に乗らないで」


「嫌?」


「そういう聞き方ずるい」


「嫌じゃない?」


「…………嫌じゃない」


「じゃあ――」


「一回だけ」


「うん」



 もう一度。


 今度は月華の方から、少しだけ近づいた。



 それだけで賢俊は、しばらく何も言えなくなった。



「……ヒョンジュン?」


「もう一回」


「一回って言ったでしょ」


「今のはユリからだから」


「同じでしょ」


「違う」


「違わない」


「じゃあ次は俺から」


「駄目」


「なんで?」


「帰らなくなるから」


「帰りたくない」


「知ってる」



 二人で笑った。



 何か特別なことをしたわけではない。


 茶を飲んで。


 菓子を食べて。


 話をして。


 抱きしめて。


 少しだけ、口づけをした。



 それだけだった。



 それなのに。



 賢俊には、三月ぶりに。


 二人だけの時間が戻ってきたような気がした。



     *



 その数日後。


 朝餉を終えた賢俊を、姜 正勲(カン・ジョンフン)が呼び止めた。



「賢俊」


「はい」


「少しいいか」


「はい」



 向かいに座った父は、少し言いにくそうにしていた。



「何ですか」


「……縁談が来ている」


「断ってください」



 正勲が黙った。



「……まだ相手の名も言っていない」


「誰でも同じです」


「賢俊」


「見合いはしません」


「一度、会ってみるだけでもいい」


「嫌です」


「会うだけだ」


「嫌です」



 賢俊は眉を寄せた。



「……父上」


「何だ」


「この前、ユリに会いに行くことは認めてくれましたよね」


「ああ」


「だったら、どうして見合いの話を持ってくるんですか」



 正勲は黙って息子を見た。



「父上は……」



 賢俊は一度、言葉を止めた。



「やっぱり俺に、ユリとは結婚するなと言いたいんですか」



 正勲の表情が変わった。



「違う」


「じゃあ、どういう意味ですか」


「柔莉(ユリ)を諦めろと言っているわけではない」


「なら――」


「だが、柔莉以外を見るなと言った覚えもない」


「……見る必要がありますか」


「ある」


「なぜですか」


「お前はまだ十七だ」


「もう成人しています」


「知っている」



 正勲は少し呆れたように息を吐いた。



「成人したからといって、十七が十七でなくなるわけではない」


「…………」


「この先、誰と出会うかも分からない。何を考えるようになるかも分からない」


「ユリが好きです」


「分かっている」


「なら――」


「分かっているから言っている」



 正勲は賢俊を見た。



「お前が柔莉を好きなのは、昨日今日の話ではない。そんなことは私が一番よく知っている」


「はい」


「だが、十七のお前が今から先のすべてを一つに決める必要はない」


「決めてません」


「……何?」


「決めたんじゃありません」



 賢俊には、その言い方が少し違うように思えた。



「気づいた時からユリが好きだっただけです」


「…………」


「別の人を知らないからユリが好きなわけじゃありません」


「それでも、一度くらい他の娘と話してみてもいいだろう」


「何のために?」


「……お前な」



 正勲が額を押さえた。



「もう少し、いろいろな人間を見てもいいと言っているんだ」


「見ています」


「女の話をしている」


「ユリがいます」


「だから、それしかないのが――」



 正勲は言葉を止めた。


 本当に分からないらしい。



「……別に、女遊びをしろと言っているわけではない」


「しませんよ」


「分かっている」



 むしろ、少しくらい遊んでもいい年頃なのだが。


 口にしたところで、意味がない気がした。



「今回の話は、断ったところで姜家に差し障りのない家だ。先方にも、まず会ってみるだけで構わないと話は通してある」


「それでも嫌です」


「好きでもない相手と結婚しろと言っているのではない。一度会って、それでも何も思わないのなら断ればいい」


「父上」



 賢俊は真っ直ぐ父を見た。



「父上が、ユリとの婚約を解消した事情は分かっています」


「…………」


「あの時、尹家は罪人の家になった。姜家には父上も母上も、兄上たちもいる。姜家に仕えている人たちもいる」


「賢俊」


「俺一人のために、全部を危険に晒せなかったことも分かっています」



 あの時は、分からなかった。


 どうして。


 それしか思えなかった。



 柔莉と結婚するはずだった。


 ずっと一緒にいるはずだった。


 それを父に奪われたと思った。



 今だって、あの決断が嬉しかったわけではない。



 けれど。


 父が何を守ろうとしていたのかくらいは、もう分かっている。



「でも、俺は長男ではありません」


「…………」


「末の三男です」


「だから家のことは関係ないと?」


「違います」



 賢俊は首を振った。



「姜家の人間としてやるべきことはやります。学問も、仕事も。父上と約束したことも守ります」


「なら――」


「でも、俺が誰と将来を誓いたいかまで、姜家のために変えるつもりはありません」



 正勲が黙った。



「いくら見合いを持って来られても」



 賢俊は迷わなかった。



「俺には、ユリと将来を誓う未来しかありません」



 長い沈黙が落ちた。



「……今のお前たちには、その未来を選べない」


「分かっています」


「柔莉は妓籍にいる」


「はい」


「いつ出られるかも分からない」


「はい」


「それでもか」


「それと、俺がユリを好きなことに何の関係があるんですか」



 正勲は何も言わなかった。



「俺は、ユリと結婚できると言ってるんじゃありません」



 賢俊は膝の上で手を握った。



「ユリと結婚したいと言ってるんです」



 できるかどうかは分からない。


 今の自分には、どうすることもできない。



 それでも。



 自分が誰と一緒にいたいのかまで、分からなくなったわけではない。



「……分かった」



 正勲が言った。



「今回の話は断る」


「ありがとうございます」


「だが、これからも縁談は来るぞ」


「そのたびに断ります」


「…………」


「父上?」


「いや。もういい」



 正勲は疲れたように息を吐いた。



     *



 七日後。


 三度目の約束の日。



 賢俊は、今日も月華の隣に座っていた。


 もう向かいに座れとは言われなかった。



「ユリ」


「ん?」


「見合いの話が来た」


「…………え?」



 月華の手が止まった。



「見合い」


「それは分かるよ。……したの?」


「してない」


「なんで?」


「断ったから」


「……断ったの?」


「うん」



 あまりにも当たり前のように答える賢俊を、月華はしばらく見つめた。



「お父様、怒らなかった?」


「怒ってはないと思う」


「思うって」


「ちょっと疲れてた」


「ヒョンジュンのせいじゃないの?」


「たぶん」



 月華が呆れたように笑った。


 けれど。


 その笑顔は、すぐに消えた。



「……ヒョンジュン」


「うん」


「次に見合いの話が来たら、断らないで」


「嫌だ」


「まだ最後まで言ってない」


「分かるから嫌だ」


「会うだけでいいから」


「なんで?」


「……だって」



 月華は視線を落とした。



「私、いつここを出られるか分からないんだよ」


「…………」


「一年なのか、もっと先なのか。……ずっと出られないのかもしれない」


「だからって、なんで俺が見合いするの」


「それに……」



 月華は膝の上で指を重ねた。



「私のせいで、ヒョンジュンと家の人たちの仲が悪くなるの、嫌だから」


「悪くなってないよ」


「でも、見合いを断ったんでしょ」


「俺が断りたかったから」


「分かってる」


「だったらユリのせいじゃない」


「……それでも嫌なの」



 月華は顔を上げた。



「私のことで、お父様と喧嘩したりしてほしくない」


「喧嘩してないよ」


「そういう意味じゃなくて」


「分かってる」



 賢俊はそう言って、月華の手を握った。



「だから……次は、一回くらい会ってみて」


「嫌だ」


「ヒョンジュン」


「会ってどうするの?」


「話すの」


「何を?」


「何でもいいでしょ」


「知らない人と?」


「最初はみんな知らない人でしょ」


「ユリは違ったよ」


「私たちは小さい頃から一緒だったからでしょ」


「じゃあ、やっぱりユリでいいじゃん」


「もう……!」



 月華が思わず声を上げた。


 賢俊は、どうして怒られたのか分からない顔をしている。



「本当に、一回だけでいいから」


「嫌だよ」


「それで……」



 月華の声が小さくなった。



「もし、ヒョンジュンにいい人が現れたら」



 賢俊の表情が止まる。



「その時は、私に会いに来るのをやめてくれたらいいから」



 賢俊は何も言わなかった。



「だから、次は――」


「ユリ」


「なに?」


「……泣いてる」


「泣いてない」


「泣きそうじゃん」



 月華は慌てて目元を押さえた。


 涙はまだ落ちていない。


 けれど、大きな瞳の縁に溜まっていた。



「これは……違う」


「何が違うの」


「泣いてないもん」


「じゃあ、なんでそんな顔してるの」


「…………」



 答えない。



 賢俊は握っていた月華の手を離さなかった。



「ユリ」


「……なに」


「本当に、俺に見合い行ってほしい?」


「…………」



 月華はすぐには答えなかった。



「俺が嫌だからじゃなくて?」


「そんなわけないでしょ」



 それだけは、すぐに返ってきた。



「じゃあ、俺が他の人に会ってもいいの?」


「…………」



 月華は唇を噛んだ。



 嫌だった。



 本当は。


 賢俊が知らない女性と向かい合って話すのも。


 その人を綺麗だと思うかもしれないことも。


 一緒にいて楽しいと思うかもしれないことも。



 その人との未来を考えるかもしれないことも。



 全部、嫌だった。



 それでも。



「……いいよ」



 小さく頷いた。



「会ってきて」



 賢俊はしばらく月華を見つめた。



「……本当に?」


「うん」


「ユリが、そうしてほしいの?」


「……うん」



 目に涙を溜めたまま。


 それでも月華は、もう一度頷いた。



 賢俊は長く黙っていた。



 それから。



「……分かった」


「……ほんと?」


「うん」


「次は、断らない?」


「断らない」


「ちゃんと会う?」


「会う」



 月華は、ほっとしたように笑った。


 目にはまだ涙が残っている。



「ありがとう」


「でも、一つだけ」


「なに?」


「いい人がいたらユリに会いに来るのをやめるっていうのは、約束しない」


「……ヒョンジュン」


「見合いに行くっていうのだけ」


「でも――」


「それは俺が決めることだから」



 月華は何も言えなくなった。



 賢俊が月華の手を引く。



 そのまま、腕の中へ抱き寄せた。



「……また?」


「うん」


「今日もずっと抱きつくつもり?」


「うん」


「話、終わったじゃん」


「終わったから」


「意味分かんない」



 そう言いながら。


 月華も、賢俊の背中に腕を回した。



「……本当に行ってね」


「行くよ」


「約束だよ」


「うん」


「いい人だったら、ちゃんと――」


「それは約束してない」


「ヒョンジュン」


「ユリ」



 賢俊は少しだけ身体を離した。


 まだ涙の残る目を見つめる。



「ユリが、行ってほしいって言ったから行く」


「……うん」


「それだけ」



 月華はしばらく賢俊を見つめていた。



 やがて、小さく笑った。



「……分かった」



 もう一度。


 二人は抱きしめ合った。



 今度は月華も、離してとは言わなかった。

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