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会えた

第22話 それでも会いに行く



 翌朝。


 いつものように三人で朝餉を囲んでいたが、姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)はほとんど箸を動かしていなかった。


 昨夜、百華楼(ペッカル)から帰った時。


 父も母も、何も聞かなかった。


 ただいま戻りました、と言った賢俊の顔を見て、母は何か言いたそうにした。

 父も一度だけ賢俊を見た。


 それでも、二人とも何も聞かなかった。


 だから。


 話すなら、自分からだと思った。



「父上、母上」



 正勲(ジョンフン)が箸を止める。


 秀蓮(スリョン)も顔を上げた。


 賢俊は二人を見た。



「……ユリを見つけました」



 秀蓮の目が大きくなる。



「……本当に?」


「はい」


「本当に、柔莉(ユリ)なの?」


「はい」



 何度答えても、嬉しかった。


 見つけた。


 昨日まで、どこにいるのかも分からなかった人を。



「元気だった?」


「……はい」


「痩せてなかった? ちゃんと食べていた?」


「それは……聞いてません」


「どうしてそこを聞かないの」


「母上……」



 思わず困った声が出た。


 昨日、三月ぶりに会ったのだ。


 聞きたいことはいくらでもあったはずなのに、実際に顔を見たら、ほとんど何も聞けなかった。


 ただ、会えたことが嬉しかった。



「次に会ったら聞きなさい」


「……はい」



 秀蓮はそれでようやく小さく息を吐いた。


 その向かいで、正勲は黙っていた。


 けれど、ほんの少しだけ。


 張りつめていたものが緩んだように見えた。


 三月。


 賢俊が柔莉を探し続けていたことを、父も知っている。


 そして、見つからないまま帰ってくる日々を見ていたことも。



「……どこにいた」



 正勲が尋ねた。


 賢俊は答える。



「百華楼(ペッカル)です」



 空気が変わった。



「……百華楼?」


「はい」


「柔莉が、か」


「今は月華(ウォルファ)という名前です」



 正勲の眉間に、深く皺が寄った。


 秀蓮も言葉を失っている。



 尹家が罪に問われた時、柔莉も身分を落とされた。


 それは世間にも知られている。


 けれど、どこへ送られたのか。


 どんな暮らしをしているのか。


 そこまでは公にされていなかった。



「……そうか」



 正勲が低く呟いた。


 それ以上は何も言わなかった。


 賢俊は膝の上で一度、手を握った。



「父上」


「何だ」


「俺、これからも会いに行きます」



 今度は、間がなかった。



「やめなさい」



 賢俊は父を見た。



「嫌です」


「賢俊」


「嫌です」



 二度言った。


 正勲の眉が動く。



「お前が今、周囲から何と言われているか知っているのか」


「知っています」


「……知っている?」


「ユリとの婚約がなくなっておかしくなった。自棄になって遊び歩いている。今度は妓楼にまで行くようになった」



 賢俊は淡々と言った。


 この三月で、嫌でも耳に入った。


 婚約者を失っておかしくなった。


 尹家の娘を忘れられないらしい。


 あちこち出歩いているのも、そのせいだ。


 そして昨日、初めて百華楼へ入った。


 これからは、そこに新しい噂も加わるのだろう。



「そこまで分かっているのなら――」


「構いません」



 正勲が口を閉じる。



「ユリがいない今、どんな噂をされても構いません」


「賢俊」


「それに、両班の若い者なら妓楼くらい普通に通っています。一人の妓生に入れ込んでいる者だっています。俺だけがしていることではありません」



 正勲は黙って息子を見ていた。


 賢俊には、本当に分からなかった。



「……だから、父上がなぜそこまで怒っているのか分かりません」



 しばらく沈黙が落ちた。



「お前が、その者たちとは違うからだ」


「何がですか」


「遊びではないだろう」


「はい」



 即答だった。



「一月も通えば飽きるのか」


「飽きません」


「半年なら」


「同じです」


「一年なら」


「同じです」


「なら、いつまで通うつもりだ」



 賢俊は少し考えた。


 考えても、答えは一つしかなかった。



「……ユリがそこにいるなら、ずっと」



 正勲が目を閉じた。


 秀蓮は何も言わなかった。


 ただ、息子と夫を交互に見ている。



「だからだ」



 正勲が言った。



「他の者と同じに考えるな。お前が柔莉を諦められないことくらい、私は知っている」



 幼い頃からずっと一緒だった。


 柔莉との婚約が決まったと伝えた時、あれほど嬉しそうに笑った息子を、正勲は覚えている。


 その婚約を終わらせた時の顔も。



「お前はこれから官職を目指す身だ。姜家の名も背負っている。普通に妓楼へ足を運ぶことを咎めているのではない」


「では――」


「一人の妓生に入れ込み、学問も仕事も放り出したと思われるような真似をするなと言っている」



 賢俊は黙った。


 正勲の言うことが分からないわけではない。


 自分一人なら、何を言われてもいい。


 けれど自分の名の前には、姜の一字がある。



「……学問は続けます」


「当然だ」


「姜家の仕事も、今まで通りやります」


「当然だ」


「どちらも疎かにはしません」


「口で言うだけなら簡単だ」



 賢俊は少し眉を寄せた。



「本当にします」


「では聞くが」



 正勲が息子を見る。



「次はいつ百華楼へ行く」


「三日後です」


「……その次は」


「五日後です」


「その次が七日後です」


「…………」



 正勲が黙った。



「賢俊」


「はい」


「お前、もう三度も予約したのか」


「はい」


「昨日、初めて行ったのだろう」


「はい」


「…………」



 秀蓮がそっと視線を落とした。


 笑うのを堪えているようにも見えた。



「いくら使った」


「十八万圜です」


「十八万圜?」


「はい」


「昨日一日で?」


「三回分です」


「分かっている」



 正勲が額を押さえた。



「自分で働いて貯めた金です」


「そういう問題ではない」


「でも、家の金には手をつけていません」


「そういう問題ではないと言っている」



 少しだけ、正勲の声が大きくなった。


 賢俊は口を閉じる。



「これからも、その調子で使うつもりか」


「いいえ」



 意外だったのか、正勲が顔を上げた。



「今回は、三月の間に貯めていた分があります。でも、ずっと同じ使い方ができないことくらい分かっています」


「なら、どうする」


「百華楼に使う分は、自分で働いた金から出します。先に必要な分は残します。学問に必要なものも削りません」


「それでも足りなければ」


「会いに行く回数を減らします」


「……家には」


「頼みません」



 正勲はしばらく黙っていた。



「そこまで考えて、それでも行くと言うのか」


「はい」



 迷いはなかった。



「ユリに会うことだけは、やめません」



 静かになった部屋で、秀蓮が初めて口を開いた。



「……柔莉も」



 賢俊が母を見る。



「あの子も、あなたに会いたいと言ったの?」



 昨日の声を思い出した。


 会いに来て。


 そう言ってくれた。


 待っていると。



「はい」



 自然と声が柔らかくなった。



「会いたいって、言ってくれました」



 秀蓮は少しだけ目を細めた。



「……そう」



 それ以上は言わなかった。


 夫を説得することもしない。


 ただ、その一言だけだった。



 正勲は長く息を吐いた。


 そして息子を見る。



「……柔莉が百華楼にいることは、誰にも話すな」


「はい」


「月華が柔莉だということもだ」


「分かっています」



 賢俊は頷いた。



「ユリが自分で話したいと思わない限り、俺から誰かに言うつもりはありません」



 正勲は何も答えなかった。


 ただ、もう一度、深く息を吐いた。



「学問を疎かにするな」


「はい」


「姜家の仕事もだ」


「はい」


「百華楼に使う金は、自分で働いた分から出せ。家に求めるな」


「はい」


「周囲に軽率な振る舞いをするな」


「はい」


「一つでも疎かにするなら、その時は話は別だ」


「分かりました」



 賢俊は父を見つめた。


 正勲も息子を見ていた。


 長い沈黙のあと。



「……好きにしなさい」



 賢俊の目が大きくなった。



「父上」


「勘違いするな。好き勝手にしろと言っているのではない」


「はい」


「今言ったことを守れ」


「はい」



 さっきまでとは明らかに違う声だった。


 正勲はそれに気づいたのか、わずかに眉を寄せた。



「……ありがとうございます」


「礼を言われるようなことではない」


「それでも、ありがとうございます」



 賢俊は頭を下げた。



 三月もの間。


 息子が柔莉を探していたことを、正勲は知っている。


 朝早く家を出て、何の手がかりもないまま帰ってくる日もあった。


 それでも次の日には、また出ていった。


 その息子が昨日、ようやく柔莉を見つけた。


 正勲には、姜家を守る責任がある。


 世間の目を無視することはできない。


 息子の将来を、何も考えないわけにもいかない。



 だから、一度は止めた。



 けれど。



 一度、あの子を息子から取り上げた自分が。


 ようやく見つけた柔莉に、もう会うなと。



 もう一度、それを言うことはできなかった。

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