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次の約束

第21話 次の約束


「……予約って、できる?」


 月華(ウォルファ)は、目の前の姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)を見た。


「できるよ」


「どうやるの?」


「春昊(チュンホ)に言えばいいよ。空いてる日を見てくれるから」


「分かった」


 賢俊はすぐに頷いた。


 あまりにも迷いがない。


 月華は少し笑った。


「……何?」


「ううん」


「笑っただろ」


「だって、まだ帰ってもないのに」


「何が?」


「もう次の予約の話してる」


「だって、次も来るから」


 当たり前のことのように言う。


「予約しておけば、ユリが空いてないってこともないんだろ?」


「先に入ってればね」


「じゃあ予約する」


「……うん」


 賢俊は少し考えてから、聞いた。


「一番早く空いてる日って、いつ?」


「それは私も分からない。春昊が帳面持ってるから」


「じゃあ聞いてくる」


「今?」


「うん」


「ヒョンジュン」


「何?」


「まだ帰るって言ってないよ」


「…………」


 賢俊が止まった。


 月華はとうとう吹き出した。


「予約の方が先なんだ」


「……忘れた」


「普通、忘れる?」


「次いつ会えるか気になって」


「ふふっ」


「そんな笑う?」


「だってヒョンジュン、全然変わってないんだもん」


 そう言ってから。


 月華は、自分の言葉に少しだけ黙った。


 三月しか経っていない。


 それなのに。


 ずいぶん長い時間が経ったような気がしていた。


 自分はもう、尹家の娘ではない。


 婚約者でもない。


 ここでは、月華という名の妓生だ。


 それでも。


 目の前にいる賢俊は、昔と同じように自分を見ている。


「……ユリ?」


「何でもない」


「本当に?」


「うん」


 月華は笑った。


「予約、して帰りなよ」


「する」


「忘れないでね」


「それは絶対忘れない」



 部屋を出て一階へ下りると、春昊はすぐに見つかった。


「春昊さん」


「ん?」


「月華の予約を取りたいんですけど」


「ああ」


 春昊は慣れた手つきで帳面を開いた。


「いつがいい」


「一番早く空いてる日」


「一番早く?」


「はい」


 帳面を何枚かめくり、春昊が指を止める。


「三日後だな」


「じゃあ、そこお願いします」


「時間は?」


「一番長くいられるので」


「はいよ」


 春昊が筆を取る。


 その日の欄に、名前が書き込まれた。


 姜 賢俊(カン・ヒョンジュン)。


「これでいいか?」


「はい。あと、その次は?」


「ん?」


「次に空いてる日」


 春昊は再び帳面へ目を落とした。


「五日後」


「そこもお願いします」


「ああ」


 また一つ。


 姜 賢俊。


「あと、その次は?」


 春昊が顔を上げた。


「三回取るのか?」


「はい」


「七日後なら空いてるぞ」


「じゃあ、そこも」


「はいよ」


 三つ目の名前が書き込まれる。


「毎度あり」


 春昊はそれ以上気にする様子もなく、帳面を閉じた。


「ありがとうございます」


 賢俊が振り返る。


 少し離れたところで見ていた月華と目が合った。


「……三回も取ったの?」


「うん」


「一回ずつでもいいんだよ?」


「また空いてなかったら嫌だから」


「…………」


「三月会えなかったし」


「だから三回?」


「本当はもっと取ってもいいけど」


「え」


「ずっと取ったら他の人が困るだろ?」


「……まあ」


「だから、とりあえず三回」


「とりあえず……」


 月華は思わず笑った。


「何?」


「何でもない」


「また笑ってる」


「だって」


 三つ。


 帳面の中に。


 姜 賢俊という名前が、三つ。


 今日だけではない。


 次も。


 その次も。


 その、また次も。


 この人は自分に会いに来る。



「じゃあ……帰る」


 百華楼(ペッカル)の入口で、賢俊が言った。


「うん」


「三日後」


「うん」


「来るから」


「分かってるよ」


「絶対来る」


「予約したんだから来てよ」


「行く」


 そう言ったのに。


 賢俊は動かなかった。


「……ヒョンジュン?」


「うん」


「帰らないの?」


「帰る」


「さっきから帰るって言ってるだけじゃん」


「…………」


「どうしたの?」


「……帰りたくない」


 月華は目を瞬いた。


 それから、小さく笑った。


「三日後に会えるよ」


「三日もある」


「三月探してた人が何言ってるの」


「三月探したから三日も長いんだよ」


「何それ」


 笑うと。


 賢俊もようやく笑った。


 少しだけ。


 昔みたいだった。


「じゃあね、ヒョンジュン」


「……うん」


「三日後」


「うん」


 賢俊が一歩、外へ出る。


 もう一歩。


 そして、振り返った。


 月華はまだそこにいた。


「……何?」


「いや」


 また歩く。


 少しして。


 もう一度振り返った。


「ヒョンジュン」


「何?」


「何回振り返るの」


「ユリがまだいるから」


「いるよ」


「うん」


「三日後もいるよ」


「……うん」


 今度こそ。


 賢俊は歩いていった。



 月華は、その姿が見えなくなるまで立っていた。


 静かになった道を見つめる。


 さっきまで。


 あそこにいた。


 三月ぶりに。


 自分をユリと呼ぶ人がいた。


「月華」


 後ろから呼ばれた。


 振り返る。


「はい」


 いつもの名前。


 三月の間に、何度も呼ばれた名前。


 自分で選んだ名前。


 月華。


 もう、その名を呼ばれて振り返ることにも慣れた。


 それでも今日は。


 何度も。


 何度も。


「ユリ」と呼ばれた。


 月華はそっと髪に触れた。


 指先に、月の髪飾りが触れる。



 三階の自室へ戻る。


 髪から飾りを外して、手のひらに乗せた。


 細い月。


 その傍らに咲く、小さな百合。


 窓の外を見る。


 夜空にも、月があった。


『月を見たら私を思い出す?』


『月なんか見なくても思い出す』


 三月前。


 あの夜に聞いた声。


「……本当に探してたんだ」


 全部探す。


 見つかるまで探す。


 そう言った通りに。


 賢俊は三月、自分を探していた。


 月華は手のひらの髪飾りを見つめた。


 三日後。


 また、これを挿そう。


 その次も。


 その、また次も。


 帳面にはもう。


 三つも、賢俊の名前がある。


「……三つも取る?」


 思い出したら、また笑ってしまった。


「ほんと、変わってない」


 けれど。


 笑い声が消えると。


 部屋は急に静かになった。


 月華は窓の外を見た。


 賢俊はもう、家へ向かっている。


 帰れるのだ。


 自分の家へ。


 百華楼の門を出て。


 好きな道を歩いて。


 自分の家へ帰る。


 月華は、手のひらの髪飾りをそっと握った。


 自分は。


 ここに残る。


 それでも。


 三日前までとは違う。


 次に会える日を知っている。


 待つ日数を、知っている。


「……三日後」


 月華は小さく呟いた。


 そしてもう一度。


 夜空の月を見上げた。



     ◇



 姜 賢俊は、夜道を歩いていた。


 口元が緩む。


 気を抜くと、また緩む。


「……いた」


 声に出す。


「本当に、いた」


 三月。


 探して。


 探して。


 どこへ行ってもいなくて。


 それでも。


 今日。


 やっと会えた。


 柔莉(ユリ)がいた。


 声も聞いた。


 笑った顔も見た。


 自分の名前も呼んでくれた。


 しかも。


 三日後。


 また会える。


 その次も。


 その次も。


 三回も。


「…………」


 また笑ってしまった。


 三回。


 とりあえず三回取った。


 本当はもっと取ってもよかった。


 でも、月華には他の客もいるらしい。


 だから。


 三回にした。


「……三日か」


 少し長い。


 でも。


 三月に比べれば、ずっと短い。


 もう探さなくていい。


 三日後になれば。


 百華楼へ行けばいい。


 あそこに。


 ユリがいる。


 ふと。


 賢俊は足を止めた。


 夜空に、月が浮かんでいる。


『月を見たら私を思い出す?』


 あの夜の声が蘇った。


『月なんか見なくても思い出す』


「……思い出してたよ」


 毎日。


 月なんか見なくても。


 朝起きても。


 道を歩いていても。


 妓楼の門をくぐるたびにも。


 ずっと。


 それでも今夜。


 月を見て思い浮かべたのは。


 もう一つの名前だった。


「……月華」


 今日。


 初めて自分の口から呼んだ名前。


 少しだけ、不思議だった。


 柔莉が自分で選んだ名前。


 自分の知らない三月を。


 彼女はその名前で生きていた。


 月の髪飾りをつけて。


「……月華」


 もう一度、呼んでみる。


 柔莉も。


 月華も。


 どちらも。


 今日、そこにいた。



 賢俊は再び歩き出した。


 姜家へ。


 自分の家へ。


 帰るために。


「…………」


 足が止まった。


 帰る。


 自分は今。


 帰っている。


 百華楼の門を出て。


 自分の足で歩いて。


 誰にも止められず。


 家へ帰っている。


 明日も。


 好きな時に外へ出られる。


 三日後も。


 自分の意思で百華楼へ行ける。


 でも。


 柔莉は。


 月華は。


 自分の意思だけでは、あの門を出ることすらできない。


 さっきまで軽かった足が。


 急に重くなった。


 見つければいいと思っていた。


 三月前。


『探す』


『全部探す』


『見つかるまで探す』


 そう言った。


 見つけさえすれば。


 何とかなると思っていた。


 見つけて。


 連れて帰ればいい。


 また一緒にいられる。


 どこかで。


 そう思っていた。


 なのに。


 見つけた。


 やっと。


 見つけたのに。


 自分は今。


 一人で帰っている。


「……なんでだよ」


 柔莉は、何もしていない。


 何も悪いことなんてしていない。


 なのに。


 自分だけが帰れる。


 賢俊は空を見上げた。


 月は。


 何も答えなかった。



 姜家へ戻ると。


 まだ、灯りがついていた。


「……ただいま戻りました」


 秀蓮(スリョン)が顔を上げた。


「おかえりなさい」


 正勲(ジョンフン)も、賢俊を見る。


「……ああ」


 それだけだった。


 今日も見つからなかったのか。


 どこへ行っていたのか。


 何も聞かれない。


 賢俊も。


 何も言わなかった。


「……先に休みます」


「ええ」


 自室へ向かおうとして。


「……賢俊」


 母の声に、足を止めた。


「はい」


 振り返る。


 秀蓮は。


 じっと、自分の顔を見ていた。


 何かを聞かれると思った。


 けれど。


「……おやすみなさい」


 それだけだった。


「……はい。おやすみなさい」


 父も何も言わない。


 ただ。


 いつもより少し長く、自分を見ていた。


 賢俊は、何となく分かった。


 たぶん。


 二人とも。


 気づいたのだと思う。


 今日。


 自分が。


 柔莉を見つけたことを。



 自室へ戻り。


 戸を閉める。


 一人になる。


 賢俊は、その場に座り込んだ。


「……会えた」


 口にした途端。


 また、嬉しくなった。


 会えた。


 本当に。


 柔莉に会えた。


 三日後にも会える。


 その次も。


 その次も。


 嬉しい。


 どうしようもなく。


 嬉しいのに。


「……なんで」


 目の奥が熱くなった。


「なんで、ユリが帰れないんだよ……」


 何もしていないのに。


 柔莉は。


 何も悪いことなんてしていないのに。


 自分はいつもの家へ帰ってきた。


 柔莉を。


 あそこに残して。


「……ユリ、何もしてないじゃん……」


 頬を伝ったものを、袖で拭った。


 それでも。


 三日後がある。


 その次もある。


 その、また次も。


 賢俊は窓の外を見た。


 月が浮かんでいた。


 さっき見たのと。


 同じ月。


 百華楼からも。


 きっと見える。


「……三日後」


 賢俊は呟いた。


 もう。


 探さなくていい。


 どこにいるのか、知っている。


 何と呼ばれているのかも。


 会うための方法も。


 全部、知っている。


 だから。


「……また行くから」


 探すのは。


 今日で終わりだ。


 これからは。


 何度でも。


 会いに行けばいい。

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