ずっと待ってる
第20話 ずっと待ってる
「……ここで、暮らしてるの?」
姜 賢俊が、部屋の中を見回した。
尹 柔莉――今は月華と呼ばれる少女は、その言葉に一度瞬きをした。
「ここ?」
「うん」
賢俊はまだ、どこか落ち着かない様子だった。
三月。
三月ものあいだ探し続けて、ようやく見つけた。
目の前にいる。
声も聞ける。
手を伸ばせば届く。
それなのに、賢俊には分からないことばかりだった。
柔莉が、この三月をどんなふうに過ごしていたのか。
ここが、どんな場所なのか。
何ひとつ知らない。
「ここでは寝てないよ」
「……違うの?」
「うん。ここは、お客さんに会う部屋」
月華はそう言って、部屋を見回した。
「二階は、そういう部屋なの。妓生にはそれぞれ自分の部屋があって、指名してくれたお客さんとはここで会うの」
「じゃあ、ユリの部屋ではある?」
「仕事ではね」
月華が少し笑った。
「寝るところは三階」
「三階にも部屋があるの?」
「あるよ。一人ずつ」
「そこには行けない?」
「お客さんは入れないの」
即答だった。
「三階は私たちが暮らすところだから。春花様と春昊くらいしか、男の人は入らないよ」
「……春昊は入れるんだ」
「そこ気にするの?」
思わず月華が笑う。
「だって男だろ」
「春花様の息子だよ」
「男は男だろ」
「変なの」
三月ぶりに聞いた笑い声だった。
賢俊はしばらく月華を見つめてから、小さく息を吐いた。
「……笑ってる」
「え?」
「ちゃんと笑えてるんだなって」
月華の笑みが、ほんの少しだけ止まった。
それから。
「……うん」
小さく頷いた。
「ここに来てから、ずっと泣いてたわけじゃないよ」
それを聞いて、賢俊の表情が少しだけ緩んだ。
月華はそんな彼から目を逸らすように、扉の方を見た。
「そういえば、外に木札あったでしょ?」
「木札?」
「月が描いてあるやつ」
「ああ」
ここへ通されたときに見た。
扉の横に掛けられていた、小さな木札。
そこには三日月が描かれていた。
「あれ、私の」
「月華だから?」
「うん」
月華は自分の名前を口にした。
「月華の、月」
賢俊は黙った。
その名前を、まだうまく受け止められない。
自分がずっと呼んできた少女には、もうひとつの名前がある。
「……ユリ」
「なに?」
「俺は、ユリって呼んでもいい?」
月華は少しだけ目を丸くした。
それから、笑った。
「うん」
「……よかった」
本気で安心した顔をするから、月華はまた笑った。
そのとき。
賢俊の視線が、月華の衣へ落ちた。
淡い桃色。
柔莉が以前着ていた服とはまるで違う。
「それも、ここの服?」
「うん」
月華は袖を少し持ち上げた。
「最初はみんな、この色なんだって」
「最初?」
「ずっと同じ色じゃないの。仕事を覚えたら、春花様が変えるの」
「春花様が?」
「うん」
「ユリが好きな色を選ぶんじゃないの?」
「選べないよ」
「……そうなんだ」
本当に何も知らないのだ。
妓楼という場所があることは知っていた。
何をする場所なのかも、当然知っていた。
朴 世俊から何度も誘われたことだってある。
けれど、興味がなかった。
綺麗な女がいると言われても。
酒があると言われても。
好きでもない女に金を払って会いに行って、何をするのだと思っていた。
自分には柔莉がいたから。
だから。
妓生がどんなふうに暮らしているのか。
どんな決まりの中で生きているのか。
考えたことすらなかった。
「ほかの色もあるの?」
「あるよ。赤とか、青とか」
「紫も見た」
「ああ」
月華はすぐに分かったようだった。
「雪華姐さん(ソルファねえさん)だと思う」
「濃い紫の?」
「うん。すごい人なの」
「ユリもいつか着る?」
「どうだろ」
「どうしたら着られるの?」
「知らない」
「……知らない?」
「私も聞いたことあるけど」
月華は少しだけ春花の口調を真似た。
「『そんなこと気にしてる暇があるなら仕事覚えな!』って」
賢俊が吹き出した。
「……言いそう」
「春花様のこと、まだほとんど知らないでしょ」
「さっき会っただけだから」
「あとね」
月華が少し身を乗り出した。
「春花様の前で、女将さんって呼ばない方がいいよ」
「なんで?」
「怒るから」
「……女将なのに?」
「年取ったおばさんみたいだから嫌なんだって」
「…………」
「だから春花様」
「分かった」
「絶対だよ」
「そんなに?」
「絶対」
月華が真剣な顔で言うものだから、賢俊はまた笑った。
少しずつ。
本当に少しずつ。
三月という時間が埋まっていく。
知らなかった月華の生活を、賢俊はひとつずつ知っていく。
「客とは、いつ会うの?」
「いろいろ。昼から夜までは宴席に出たり、琴を弾いたり、お酒を注いだり」
「じゃあ、こうやって二人で会うのは?」
「夜」
「夜?」
「日付が変わってから」
賢俊が目を瞬いた。
「零時から朝の九時まで。個人の指名は、一晩に一人だけ」
「……九時まで?」
「ずっといなきゃいけないわけじゃないよ。早く帰る人もいるし」
「…………」
何かを考えている。
月華にはすぐ分かった。
「何?」
「いや」
「なに」
「……俺も、また来ていい?」
月華は一瞬、言葉を失った。
「今日だけじゃなくて」
賢俊はまっすぐ月華を見た。
「また、ユリを指名していい?」
胸の奥が、きゅっと痛くなる。
嬉しい。
ただ、それだけなのに。
どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。
「……うん」
月華は頷いた。
「来て」
「いつ?」
「え?」
「次、いつ来ていい?」
思わず笑ってしまった。
「今日会ったばっかりなのに?」
「三月会えなかった」
「だから?」
「次は三月も待ちたくない」
月華は笑った。
「予約してくれたらいいよ」
「予約?」
「春花様か春昊に言えばいいの。先に入ってる人がいなかったら取ってくれるから」
「じゃあ帰るときにする」
「もう?」
「する」
本当にするつもりらしい。
月華は笑いながら、少しだけ俯いた。
賢俊が来る。
また会える。
次がある。
三月前には、それすら分からなかった。
「じゃあさ」
賢俊が言った。
「今度、外にも行こう」
月華の笑顔が止まった。
「……外?」
「うん。ずっとここで会う必要ないだろ。前みたいに――」
「行けないよ」
「え?」
「私、一人では外に出られないの」
賢俊の表情が変わった。
「……どういうこと?」
「外に出るときは、春花様か春昊と一緒じゃないと駄目」
「買い物は?」
「一緒」
「散歩は?」
「一人では無理」
「じゃあ、俺と出るのは?」
月華は首を横に振った。
「駄目」
「…………」
「お金も持って出られないし、鞄も持てない。着るものも、外に出るときは春花様か春昊が用意したもの」
賢俊は何も言わなかった。
さっきまでとは違う沈黙だった。
月華は分かっていた。
賢俊は今、初めて知ったのだ。
ここで笑っているからといって。
皆と食事をして。
芸事を習って。
自分の部屋を与えられて。
それで自由になったわけではないことを。
「……帰ろう」
ぽつり。
賢俊が言った。
月華が顔を上げる。
「ユリ」
「……うん」
「俺と帰ろう」
三月前。
同じようなことを言われた。
――行くな。
あの夜。
柔莉は答えた。
――じゃあ私はどこに行けばいいの?
今なら。
行きたい場所は分かっている。
帰りたい場所だって、分かっている。
それでも。
月華は首を横に振った。
「帰れない」
「なんで」
「私は、国からここに入れられたから」
「だからなんだよ」
「普通の妓生とは違うの」
月華は静かに言った。
「借金があってここに来た人もいる。家の事情で来た人もいる。そういう人は、身請けの話があれば、ここを出られることもある」
「だったら俺がする」
即答だった。
「俺が身請けする」
「できないの」
「いくら必要なんだ」
「そうじゃない」
「金なら――」
「お金じゃないの、ヒョンジュン」
賢俊が黙る。
「私をここに入れたのは、百華楼じゃないから」
「…………」
「国が決めたの」
月華は膝の上で、そっと手を握った。
「だから、国から解除されるまで、私はここを出られない」
「そんなの……」
「春花様にも、どうにもできない」
「じゃあ」
賢俊の声が低くなる。
「勝手に出ればいい」
「駄目」
「俺が連れていく」
「駄目」
「ユリ」
「駄目!」
思ったより大きな声が出た。
二人とも黙った。
月華は一度息を吸った。
「……逃げたら、私は罰を受ける」
「だったら俺が――」
「ヒョンジュンもだよ」
賢俊が止まった。
「私を連れ出したら、ヒョンジュンも罪になる」
「……そんなの」
「それに」
月華は続けた。
「お父様とお母様も」
その二人の名前を口にしなくても、賢俊には分かった。
「今も、二人は罪人の家の人間として働かされてる」
「…………」
「私が国の命令を破って逃げたら、お父様とお母様にまで、どんな罰がいくか分からない」
賢俊は唇を噛んだ。
「……俺は構わない」
「私は構うの」
「ユリ」
「ヒョンジュンが罪人になるの、私は嫌」
月華の声が震えた。
「お父様とお母様が、これ以上苦しむのも嫌」
「じゃあ俺は、どうしたらいいんだよ」
苦しそうだった。
三月探して。
やっと見つけた。
なのに。
見つけた人を連れて帰ることすらできない。
月華は、しばらく賢俊を見つめた。
そして。
「……会いに来て」
「え?」
「ここに」
月華は微笑んだ。
「ヒョンジュンが会いたい時に、会いに来て」
「…………」
「私はここにいるから」
それしか言えなかった。
いつ自由になれるかなんて分からない。
明日かもしれないなんて、そんな希望は持てない。
一年後かもしれない。
何年も先かもしれない。
もしかしたら。
それでも。
「来てくれる?」
賢俊は答えなかった。
代わりに。
月華の手を握った。
強く。
「来る」
「……うん」
「何度でも来る」
月華は、その手を握り返した。
「うん」
「だから」
賢俊が言う。
「待ってて」
月華は笑った。
七年前ではない。
まだ三月しか離れていない二人には、それがどれほど長い約束になるのか分からなかった。
それでも。
「うん」
月華は頷いた。
「ずっと待ってる」
三月かけて。
姜 賢俊は、ようやく尹 柔莉を見つけた。
けれど。
見つけることと。
連れて帰ることは。
同じではなかった。




