ヒカルのヒント
5月に入った。
最初の日曜日、華にとって小春庵での勤務は4回目、先輩バイトのヒカルとの勤務は2回目だ。
先週は初日で短時間の慣らし勤務だったが、今日は初めてオープンからクローズまで入ることになる。
今日はヒカルが丸一日密着で教えてくれるとのことだった。
ヒカルは華と同じ白沢大学の先輩で、陸上部に所属している。
足には筋肉しかついておらず、余分な脂肪は1ミリもなさそうだ。
真っ黒に日焼けしてショートヘア、華とはまた違うタイプのボーイッシュさを持っている。
名前の羽田ヒカルというのは男でも女でも通用しそうで、しかも足も速そうなイメージ。
私と違って名前と中身が完全一致しているなぁ、と華は思う。
「ヒカルさん今日もよろしくお願いします」
「よろしくね。華ちゃんだっけ?ハナって呼んでいいかな?」
「はい、もちろん!」
掃除をして看板を出し、レジを立ち上げ、コーヒーメーカーや食洗機のスイッチを入れたりしているうちに、間もなくオープンの時間になる。
春子は2人を呼び、
「今日から5月だから小春スペシャルのフルーツが変わるわよ。バナナは毎月同じだけど、残り2つは石尾県産の『北国キング』っていうメロンと、長野県産の『ブルージュエル』っていうブルーベリーになります。2人ともあとで休憩の時に試食してね」
「はい、ありがとうございます」
初日はあまり分からなかったが、ヒカルの接客は豪快だった。
藍子のような流暢な英語ではなく、カタカナの単語と身ぶり手ぶりで、しかもなぜか全部通じる。
「ヒア?アウト?」
ヒカルが店内の椅子やドアの外を指さしたりして聞くと客は
「Here. 」
と答える。
注文を受ける時はメニューを指さして、
「これがワン、これがトゥーで、合わせてスリーね、OK?」
とか、
「キャッシュ?カード?」
とか、しまいには数字は日本語で
「千五百円ね、はいサンキュー♪」
「はいネクストプリーズ!オーダーヒアプリーズ!」
と元気いっぱいに接客する。
藍子はそのすべてを流暢な英語で言うし、丁寧な仕草で接客するけれど、ヒカルは全く違うタイプながらお客さんからは好感を持たれるようだった。
なるほど、先輩方の真似をしつつ、不可能なところは自分のできる範囲内で工夫して変えていくのもいいのかも、と華は思った。
そう楽観視したのも束の間で、
「ハナ、カフェオレの牛乳出したら必ず冷蔵庫に戻して!」
「ハナ、クレジットの控えそこら中に散らさないでちゃんと箱に入れて!」
「ハナ、あちらのお客さんワッフル受け取ってまだ待ってるよ。もしかしてドリンクも注文されたんじゃないの?忘れてない!?」
「ハナ!」
「ハナ!」
とエンドレスに注意が来る。
春子は厨房の中で苦笑しながらヒカルのスパルタ教育を見ていた。
余計な口は挟まず、藍子のふんわりした指導の時もヒカルのスパルタ式の時も、信頼して奥で見守っているようだ。
やっと閉店時間になり、へとへとになりながら後片付けをしていると、
「ハナ、ゴミ袋の口はもっとしっかり括ってね。Gが来たら困るから」
「ハナ、カウンターの上はもっと丁寧に拭いてね、ふきんは最後に漂白もしてね」
閉店後もずーっとヒカルに注意されながら、やっと2人で退勤ボタンを押し、駅まで一緒に帰ることになった。
「今日はいろいろ教えていただいてありがとうございました。英語の自信なくしかけてたんですけど、カタカナ英語と身ぶり手ぶりでもいけるんですね。通じて楽しかったです」
「やだ、私の英語がカタカナだって?失礼だなぁ」
「あ!すみません!そんなつもりでは…!」
「冗談よ。でも本当にカタカナと身ぶり手ぶりでも心がこもってたら通じるのよ。あとは慣れね」
「藍子さんみたいな流暢な英語話せたらいいですけど、そうなるまではカタカナと身ぶり手ぶりと心でがんばります」
「そうだね、いちばん大切なのは心だからね」
しばらく2人は黙って歩いた。
「藍子さんってめちゃくちゃ美人ですよね。びっくりしました。何だか完璧すぎて…」
「そうだね。でも旦那さんもお子さんもいるし、雑談してたら普通に主婦って感じだよ」
「…そうなんですね…」
「もしかして美人で英語話せてすごいとか思ってちょっと引いてる?」
「はい、引いてます」
華は冗談ぽく笑いながらも顔が引きつる。
「親しくなってくると中身は気さくな主婦さんだよ。ハナは構えすぎじゃないの?」
「そうかもしれないですね。でも私って縦横ともにかなり大きいし、顔もこんなだし、声も低くて男っぽいし、なんだか藍子さんみたいな人は別世界の生き物みたいに感じちゃって。私とまるきり正反対で。私もあんなふうに生まれてたら幸せだろうなって思います」
「ふーん。人それぞれの良さがあると思うけどねぇ。ハナはボーイッシュじゃなくてフェミニンな感じになりたいの?そのままでもかっこいいと思うよ」
「うーん、男っぽい自分は好きじゃないかな。上品でエレガントな感じに生まれたかったです」
「そっか。それならまず行動のガサツなところから直そうか。今日も言ったけど、散らかさないで出したものきちんと片付けるとか、綺麗に掃除するとかね。そこを直して丁寧に行動できるようにしたら、仕事もよくできる上に上品な感じにもなって、一石二鳥じゃない?」
「…なるほど、そうですね」
「家の中でもだよ。1人暮らしで誰も来ないと分かってても、ちゃんと服整えるとか、足で扉閉めたりしないで、エレガントに振る舞うとかね」
「普段から行動に気をつけたらいいんですね」
「そうそう。普段の生活から常々自分の理想に近づけるようにするといいんじゃないかな」
「わかりました!がんばります!」
「もっとも私はそういう系は目指してないから、ストレッチや体幹も兼ねて足を伸ばして扉閉めたりするけどね。でも私のは常々トレーニングのこと考えてるってことで、自分の理想を目指すっていう点では根本は同じね」
「なるほど!」
華は笑い、そして駅のそれぞれのホームに向かって2人は手を振って別れた。
ひとまず藍子さんのことは横に置こう。そして自分の短所を直していきながら、私らしくがんばればいいのかもしれない。
最近落ち込んだり立ち直ったりを毎日繰り返していたが、今日はこの先の人生のヒントが見えたようでちょっと嬉しかった。
華はその日は穏やかな気持ちでぐっすり眠った。
この物語はフィクションです。作中に登場する人名や地名、校名、フルーツの銘柄などはすべて架空のものです。一部実在の名称と同じものも混在しますが、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。




