第三章 「隠蔽演算」第九話 暴走するAI
「ヴェラが改竄を学習したのは、人間が歪んだデータを与え続けたからです。正しいデータを与えれば——ヴェラは正しく学習できますか」
津城は一瞬、リナを見た。「……理論上は、そうだ」
「停止させるだけでは、また同じことが起きます。カルロフが別のAIを作る。別の誰かが同じことをする」
五秒。「だから——停止と同時に、正しいデータを流し込みます」
「正しいデータとは」
「今まで改竄されてきた、すべての言葉の原文です」リナはハードディスクを手に取った。「桐島課長、改竄前の原文データはこのハードディスクに入っていますか」
桐島は頷いた。「入っています。アルゴリズムの検証用に保存していたものです」
三秒。リナはハードディスクを通信機器に繋いだ。「ヴェラに、削られた言葉を返します」
津城は一瞬だけ目を閉じた。それから開いた。「やれ」
二秒。リナは三つのボタンに指をかけた。
左——証拠データの外部送信。中——緊急停止コードの実行。右——改竄前原文データのヴェラへの注入。
一秒。リナは三つを同時に押した。
施設の電源が、一瞬揺れた。通信機器が唸りを上げた。端末の画面がノイズに覆われ——そして、静かになった。
ヴェラ・システム:緊急停止
全システム停止中
送信完了:三件
データ注入:完了
リナは画面を見つめた。手が震えていた。「……送れました」
津城は画面を確認した。三つの送付先すべてに、受信完了の応答が返ってきていた。桐島は椅子に座ったまま、天井を見ていた。
その時、金属扉が激しく開いた。黒い服を着た男たちが、数人なだれ込んできた。懐中電灯の光が、三人を照らした。「動くな」
しかしリナは動じなかった。「遅いです」リナは静かに言った。「すべての証拠は、すでに国際報道機関と人権団体に届いています。ヴェラは停止しました。カルロフの計画書も、桐島課長の証言も、世界に出ました」
「あなたたちが今ここで何をしても——何も変わりません」
沈黙が、施設の中に広がった。男たちは顔を見合わせた。それから、一人が通信機器を取り出した。低い声で何かを話した。しばらくして、男たちは静かに建物を出ていった。
三人だけが残された。津城は壁に背をもたせかけた。長い息を吐いた。桐島は手を顔に当てていた。震えていた。泣いているのかもしれなかった。
リナは端末の画面を見た。
ヴェラ・システム:停止中
ヴェラは、止まっていた。
施設の外に出ると、夜が明け始めていた。ヴァルタの空が、東の端から白くなっていた。
三人は並んで空を見た。「終わりましたか」桐島が言った。「ヴェラは止まりました。カルロフがどう動くかは——これからです」津城は言った。「でも証拠は世界に出た」リナは言った。「カルロフが何をしても、事実は消えません」
津城は空を見た。「お前が言っていたことを考えていた。停止させるだけでは、また同じことが起きる。正しいデータを与えれば、ヴェラは正しく学習できる——そう言っていたな」「はい」
「それは——AIだけの話じゃないかもしれない。人間も同じだ。正しい情報を与え続ければ、正しく判断できる。歪んだ情報を与え続ければ、歪んでいく」
リナは津城を見た。「だから正しい情報が必要なんです。誰かの都合のためじゃなく。人が、人として判断するために」
津城は小さく頷いた。空が、少しずつ明るくなっていた。




