第十話 情報の主権
三日が経った。
ヴァルタ共和国の朝は、いつもと同じように始まった。しかし——街の空気が、違った。人々がスマートフォンを見ながら立ち止まっていた。カフェの中で、隣の客と画面を見せ合っている人がいた。職場に向かう足が、どこかぎこちなかった。
国際報道機関が、一斉に動いていた。
リナはアパートのテレビをつけた。隣国の独立メディアが生放送をしていた。画面にはカルロフの計画書の一部が映し出されていた。アナウンサーが読み上げていた。
「——ヴァルタ情報管理局が主導した人工知能翻訳システムへの組織的改竄。選挙操作を目的とした情報環境の意図的な歪曲。内部告発者の証言と、設計者本人による証拠提供により——」
リナはテレビを消した。静かな部屋に、自分の息の音だけが聞こえた。
スマートフォンが鳴った。津城からだった。「見たか」「はい」
「カルロフは今朝、政府の公式声明を出した。『根拠のない捏造だ』と言っている」リナは窓の外を見た。「予想通りですね」
「ああ。しかし——与党内から、調査委員会の設置を求める声が出始めている。カルロフの計画を知らなかった議員たちだ」
「ヴェラを通じた情報だけを見ていた人たちが、初めて別の情報に触れた」「そういうことだ」
リナは少し間を置いた。「津城さん、桐島課長はどうしていますか」「昨夜、家族のもとに戻った。今朝、弁護士と話している。法的には厳しい立場になる。しかし——本人は覚悟している」「そうですか」
「リナ、お前は今日、どうするつもりだ」
リナは窓の外を見た。ヴァルタの朝が広がっている。「会いたい人がいます」
午前十時。リナはヴァルタ国立大学の構内にいた。言語情報工学の研究室。リナが修士課程を過ごした場所だ。
指導教員のオルソン教授は、六十代の女性だった。白髪を短く切り、分厚い眼鏡をかけていた。いつも静かな目をしていた。
「リナ、久しぶりだね」オルソン教授は紅茶を二つ用意してくれた。
「先生に報告したいことがあって来ました。そして——聞きたいことがあります」「聞かせて」
リナは出来事を話した。ヴェラの歪み。津城との出会い。桐島の告白。旧軍の通信施設。ヴェラへの正しいデータの注入。オルソン教授は黙って聞いていた。紅茶に手をつけなかった。
話し終わった後、しばらく沈黙が続いた。「よくやった」オルソン教授は言った。
「先生、聞きたいのは——ヴェラに正しいデータを注入しました。でも、ヴェラは今、停止しています。再起動した時、ヴェラは本当に変わっていますか」
オルソン教授は紅茶を一口飲んだ。「それは難しい問いだね」「答えはありますか」
「技術的な答えならある。正しいデータを大量に与えれば、モデルは正しい方向に修正される。それは事実だ。しかし——」「しかし?」
「AIは与えられたものを学習する。与え続けなければ、また歪む可能性がある」教授はリナを見た。「一度注入すれば終わりではない。継続的に正しいデータを与え続ける仕組みが必要だ」
リナは頷いた。「誰かが、監視し続けなければならない」「そうだ。そしてその監視者が正直でなければ——また同じことが起きる」
「先生、もう一つ聞いていいですか」「どうぞ」
「AIに正しい情報を与えるとして——何が正しいかは、誰が決めるんですか」
オルソン教授は少し微笑んだ。「それが本当の問いだね」「答えはありますか」
「私の答えはある。ただし——それが正しいかどうかは、また別の問題だ」教授は言った。「私は思う。正しい情報とは、一人の人間や一つの国家が決めるものではない。多くの人間が、異なる立場から、異なる言葉で語り合った結果として——辿り着くものだ」
「それはとても時間がかかります」「そうだ。だから誰かが近道をしようとする。AIを使って、都合のいい『正しさ』を作ろうとする。カルロフのように」
「先生、私はこれから、ヴェラの再設計に関わりたいと思っています」オルソン教授は少し驚いた顔をした。「再設計?」
「停止したヴェラを、どう再起動するか。政府がどう決めるかは分かりません。でも——改竄のない、本来の翻訳システムとして動かすためには、設計から見直す必要があります」
「それは政府が決めることではないかな」「はい。でも——技術的な提言はできます。誰かが言わなければ、また同じ設計になる」
オルソン教授はリナを見た。しばらく黙っていた。それから言った。「一つだけ条件がある」「何ですか」
「独りでやるな。一人の人間が設計を握れば、また同じことが起きる。複数の立場の人間が関わる仕組みにしなさい」「はい」
教授は立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出した。リナに渡した。「言語と権力——情報が支配に変わる時、というタイトルだ。十五年前に私が書いた本だ。当時は誰も読まなかった」教授は静かに笑った。「今なら、少し読んでもらえるかもしれない」
リナは本を受け取った。「ありがとうございます、先生」
大学を出たリナは、街を歩いた。ヴァルタの昼が広がっていた。
人々はいつもと同じように歩いていた。買い物をしていた。子供を連れていた。しかし——いくつかのカフェのテレビには、カルロフの計画書に関するニュースが流れていた。立ち止まって見ている人がいた。隣の人と話している人がいた。
ヴェラが止まって三日。人々は今、ヴェラを通さない情報に触れ始めていた。
(これが——本来の姿だ)
リナは歩きながら思った。情報が誰かの手で整えられる前の、生の言葉。受け取った人間が、自分で考えて、自分で判断する。
AIはその手助けができる。翻訳を助ける。情報を整理する。言葉の壁を取り除く。でも——判断するのは、人間だ。AIが判断を奪った瞬間、それはもう道具ではない。
リナはスマートフォンを取り出した。津城に電話した。「津城さん、一つお願いがあります」「なんだ」
「ヴェラの再設計の提言書を書きます。一緒に作ってもらえますか」
電話の向こうで、少し間があった。「……お前、休む気はないのか」
リナは少し笑った。「休んでいる時間がありません。選挙まで、あと五ヶ月です」
津城は短く笑った。「分かった。今夜、会おう」「はい」
電話を切った。リナは歩き続けた。ヴァルタの空は青かった。雲が流れていた。どこかで、人々の声がしていた。それは——削られていない、本物の言葉だった。




