第十一話 人間の言葉
提言書の作成を始めて、五日が経った。リナと津城は毎晩、旧放送局跡で作業を続けた。桐島も弁護士との打ち合わせの合間に加わった。
三人が書いたのは技術文書だけではなかった。なぜヴェラは歪んだか。どこで間違いが起きたか。次に同じことが起きないためには何が必要か。それを、専門家ではない人間にも読めるように書いた。
「難しい言葉を使うな」津城は言った。「カルロフの計画書は、難しい言葉で包まれていた。だから誰も気づかなかった」
「普通の言葉で書けば——」「普通の人間が読める。読めれば、判断できる」リナは頷いた。
六日目の朝。リナのスマートフォンに、見知らぬ番号から着信があった。出ると、低い男の声がした。
「倉木リナさんですか」「はい」「カルロフです」
リナは手が止まった。「……何の用ですか」
「話がしたい。二人で」カルロフの声は穏やかだった。怒りでも焦りでもない。「場所はお前が決めていい」
津城に連絡した。「行くな。罠だ」と津城は言った。
「罠なら——それも証拠になります」津城は黙った。それから言った。「録音しろ。場所は人が多いところにしろ。私が近くにいる」
昼過ぎ。リナは街の中心部にある広場を指定した。カルロフは約束通り一人で来た。
七十代。白髪。背が高い。黒いコートを着ていた。その顔には、テレビで見るような威厳はなかった。ただ——疲れた老人がいた。
二人はベンチに座った。
「報告書は読んだ」カルロフは言った。「よく書けている」リナは何も言わなかった。
「お前に聞きたいことがある」カルロフは広場を見た。人々が歩いていた。「お前は正しい情報が必要だと言う。では——正しい情報を手にした人間が、必ず正しい判断をすると思うか」
リナは少し間を置いた。「思いません」
カルロフは初めて、リナを見た。「正直だな」
「人間は正しい情報を持っていても、間違える。感情で判断することもある。利益で動くこともある。それでも——」「それでも?」
「自分で間違える権利は、自分のものです」リナはカルロフを見た。「あなたがしたことは、その権利を奪うことでした。人々が間違えないように、AIを使って判断を管理した。でも——それは間違えない人間を作ることじゃない。判断できない人間を作ることです」
カルロフは広場を見た。しばらく黙っていた。
「私は——この国を安定させたかった。選挙のたびに政権が変わる。政策が変わる。国民は混乱する。それを止めたかった」
「だからAIで操作した」「安定のためだ」
「津城さんも桐島課長も、最初はそう言われていました。でも——安定のために人の判断を奪うことは、安定ではありません。それは停止です」
「国が止まれば、腐ります。人が判断できなくなれば、誰も責任を取らなくなる。間違いを誰も指摘できなくなる。それは安定じゃない。緩やかな崩壊です」
長い沈黙が落ちた。広場に風が吹いた。落ち葉が舞った。
「……お前は若いな」カルロフはつぶやいた。「はい」「若いから、そう言える」
「そうかもしれません。でも——若いから見えるものもあります」「何が見える」「まだ間に合うということです」
カルロフはリナを見た。その目に、何か複雑なものが過ぎった。「私に——何をしろと言う」
「調査委員会に、自ら出頭してください。桐島課長は証言しました。あなたも話してください。なぜそうしたか。何を考えていたか。全部」
「それは自分の首を絞めることだ」「はい。でも——それがあなたにできる、最後の正しいことだと思います」
カルロフはしばらくベンチに座っていた。広場の人々は誰も、この二人に気づいていなかった。子供が走っていた。老人が鳩に餌をやっていた。若い男女が笑って歩いていた。
「倉木リナ」カルロフは言った。「はい」
「お前が最初に翻訳の歪みに気づいた時——何を感じた」
リナは少し考えた。「気持ち悪い、と感じました」「気持ち悪い」
「はい。言葉がずれている。でも誰も気づいていない。その感覚が——耐えられなかった」
カルロフは小さく笑った。「その感覚が、お前を動かした」「そうです」
「羨ましいな。私はいつから——その感覚を失ったのだろう」
リナは何も言わなかった。カルロフは立ち上がった。コートの埃を払った。
「弁護士に連絡する。明日、調査委員会に出頭する」
リナは立ち上がった。「ありがとうございます」
カルロフは振り返らなかった。広場を歩いていった。人々の中に消えていった。リナはその背中を見送った。




