第七話 主権という名の支配
その夜。リナはアパートの部屋で、オフラインの端末に向かっていた。社内ネットワークには繋げていない。津城の指示だ。ヴェラに監視されないために。
問題は、証拠データをどうやって外部に送るかだ。ネットワークを通せばヴェラに遮断される。物理的に運ぶしかない。しかし国際報道機関の窓口はヴァルタ国外にある。
リナはノートに手書きで整理した。選択肢は三つ。
一つ目——国外に出る。しかしリナのパスポートがまだ有効か、今の時点では確認できない。ヴェラがデータを遮断できるなら、出入国システムにも干渉できるかもしれない。
二つ目——国内にいる外国人記者に直接渡す。しかしヴァルタに常駐している外国メディアは少ない。信頼できる人間を見つける時間がない。
三つ目——津城が持つ人脈を使う。
リナはスマートフォンを手に取った。しかしすぐに置いた。スマートフォンも監視されているかもしれない。リナは外出着に着替えた。直接、津城に会いに行く。
深夜十一時。旧放送局跡に着くと、津城は珍しく外で待っていた。建物の陰に立って、周囲を確認していた。
「来たか」津城はリナを建物の中に促した。「スマートフォンは」「アパートに置いてきました」「よし」
二人は奥の部屋に入った。今夜の津城は、いつもより機材が少なかった。完全にオフラインの環境だ。
「桐島から連絡はあったか」「ありません。約束は明日の朝です」
津城は頷いた。「問題はデータの送付だ。ヴェラのネットワーク監視は想定より早く完成している。通常の経路は使えない」
「三つの選択肢を考えました」リナは手書きのノートを見せた。
津城はノートを見た。「四つ目がある」「何ですか」
「ヴァルタ国内に、ヴェラのネットワークに接続していない独立回線がある」
リナは眉を上げた。「そんなものが」
「旧軍の通信施設だ。ヴェラ導入以前から存在する、古いアナログ回線と衛星通信の複合システムだ。ヴェラの監視対象外になっている」
「なぜそんなものが残っているんですか」
「政府が存在を忘れているからだ」津城は少し笑った。「デジタル化の波で、古いインフラは予算から外れた。取り壊しも改修もされないまま、ただ残っている」
「使えますか」「私が政策局にいた頃、緊急時の通信手段として調査したことがある。当時はまだ動いていた。今もおそらく——」「おそらく、ですか」
「確認しに行く必要がある。明日の朝、桐島の証言を得た後に動く」津城は言った。「それまでは——」
その時、津城のオフライン端末が、小さく点滅した。二人は同時に画面を見た。
「これは——」リナは息を呑んだ。「オフラインなのに」
「近距離無線通信だ。誰かが近くにいる」
端末の画面に、短いメッセージが表示されていた。「津城さん、私です。桐島です。入ってもいいですか」
二人は顔を見合わせた。津城は立ち上がり、入口に向かった。リナも続いた。
鉄扉を開けると、桐島が立っていた。コートを着て、小さなバッグを持っていた。顔が、昼間とは違った。何かが、吹っ切れたような顔だった。
「なぜここを」津城が言った。「津城さんがここを使っているのは、三年前から知っていました。政策局にいた頃、緊急連絡先として登録されていた場所です」
津城は桐島を中に入れた。三人は奥の部屋に座った。
「家族には会えましたか」リナは聞いた。「会いました。妻に、全部話しました」「全部」
「四年間、自分が何をしてきたか。これからどうなるか。全部」桐島は手を組んだ。「妻は——怒りませんでした。ただ、一言だけ言いました」
「何と」「『やっと話してくれた』と」
リナは桐島を見た。四年間の重さが、その横顔に刻まれていた。
「証言します。カルロフに対して。ヴェラの改竄計画の全容について。私が知っていることをすべて」
津城は桐島を見た。「覚悟はできているか」「はい」
「もう一つ——持ってきたものがあります」桐島はバッグから、古い外付けハードディスクを取り出した。「カルロフの計画書の完全版です。これには、カルロフが誰と、いつ、何を決めたか。すべての記録が入っています」
リナはハードディスクを受け取った。重かった。「これがあれば——」「証拠として十分なはずです」
「ただし——」桐島の表情が、わずかに曇った。「今夜、カルロフから連絡がありました」
津城が身を乗り出した。「何を言ってきた」
「倉木リナの動きを把握している、と。そして——明日の朝までに、彼女を止めなければ、私の家族が危険にさらされると」
沈黙が落ちた。リナは桐島を見た。「それでも、来たんですか」
「ああ。四年間、脅されて従ってきた。もう終わりにしたい。それだけです」
津城は立ち上がった。「カルロフが動き始めた。時間がない。今夜中に旧軍の通信施設に行く。データを送付する」
「今夜中に」リナは言った。「場所は」
「北地区の山沿いだ。車で一時間かかる」津城は桐島を見た。「桐島、お前も来い。証言の音声記録をその場で送付する」桐島は頷いた。「分かりました」
三人は立ち上がった。リナは桐島から受け取ったハードディスクを、コートの内ポケットに入れた。
津城が鉄扉を開けた。夜のヴァルタが広がっていた。冷たい風が吹いていた。「行くぞ」
三人は夜の闇へ踏み出した。
その時。リナのコートのポケットで、置いてきたはずのスマートフォンが——リナは確かにアパートに置いてきたと言った。しかし今、ポケットの形が、微かに膨らんでいる。
リナは足を止めた。ポケットに手を入れた。そこにあったのは、スマートフォンではなかった。小さな、黒い発信機だった。
「……これ」津城が振り返った。発信機を見た瞬間、その目が鋭くなった。「いつ入れられた」「分かりません。気づかなかった」
津城は発信機を手に取った。「カルロフだ。桐島への脅しと同時に、お前を追跡していた」「現在地がバレている」「ああ。急げ」
三人は走り出した。夜のヴァルタに、足音が響いた。




