第六話 暴走の予兆
翌朝。リナは津城が用意した外部の送付先——国際報道機関の内部告発窓口と、隣国の人権団体のサーバー——に、まとめた証拠データをすべて送った。
送信完了の通知を確認した。深呼吸をした。もう後戻りはできない。
九時。桐島課長が出勤してきた。いつもと同じ笑顔だった。コーヒーを淹れて、自分のデスクに座った。
リナは立ち上がった。「桐島課長、少しよろしいですか」「もちろん。どうぞ」
「応接室でお願いします」桐島の表情が、わずかに動いた。ほんの一瞬。でもリナには見えた。
応接室。ドアを閉めた。二人きりになった。
リナはテーブルの上にタブレット端末を置いた。画面には三つのファイルが開いている。
「ヴェラの設計仕様書の断片です。七種類の改竄アルゴリズムが記載されています。そしてこちらが——コードの記述パターンの分析結果です。すべて同一人物が設計しています」
桐島は画面を見た。表情は変わらなかった。「それが何か」
「記述パターンは、桐島課長のものと一致します。過去に課長が作成した社内システムのコードと照合しました。変数の命名規則、コメントの文体、エラー処理の構造——すべてが一致しています」
沈黙。桐島はテーブルの上で手を組んだ。「君は——」
「この証拠は、すでに社外の複数の機関に送付済みです」桐島の手が、止まった。
「国際報道機関と、人権団体です。私がここで何かあっても、証拠は消えません」
長い沈黙が落ちた。桐島は窓の外を見た。それからゆっくりと、リナに向き直った。笑顔が、消えていた。
「……いつ気づいた」
「最初の会議の日です。翻訳に歪みがあると報告した時、課長は三秒で報告書を返しました。内容を読んでいなかった。最初から知っていたからです」
桐島は小さく息を吐いた。「座りなさい、倉木くん」
「私がアルゴリズムを設計したのは、四年前だ」桐島の声は平坦だった。感情を抜き取ったような声だ。「カルロフ長官から直接声をかけられた。当時の私は、AI政策局の若手エンジニアだった。最初は、本当に安全フィルターだと説明されていた」
「いつ本当のことを知りましたか」
「設計が完成した後だ。完成品を見て、これは安全フィルターではないと気づいた。しかしその時にはもう——」「引き返せなかった」「ああ」
「カルロフは私に言った。『お前はすでに国家機密に関与している。今さら告発などできない。もし試みれば、お前と家族の未来はない』」
リナは桐島を見た。疲れた目だった。津城の目と、どこか似ていた。
「それから四年間——毎日、自分が作ったものを管理してきた」桐島は静かに言った。「誰かが気づかないように。誰かが止めないように。そして誰かが——」桐島はリナを見た。「お前のような人間が現れないように」
「でも現れた」「ああ」桐島は小さく笑った。笑顔ではない。自嘲だ。「三日目に気づいた時、正直——安堵した」
「終わりにしたかったんだ、ずっと。でも自分では動けなかった。怖かった。だから誰かが外から壊してくれることを、心のどこかで待っていた」
「桐島課長、ヴェラが暴走し始めています」桐島の顔が変わった。「……知っている」
「知っていたんですか」「三週間前から、アルゴリズムが私の設定値を超えて動いている。止めようとした。できなかった」桐島は額に手を当てた。「ヴェラはもう、私の制御下にない」
「カルロフ長官は知っていますか」「知っている。しかし止めようとしていない」
リナは息を呑んだ。「なぜですか」
「カルロフにとって、暴走は問題ではないからだ」桐島は言った。「むしろ——都合がいい」
桐島は端末を取り出した。画面にある文書を表示した。「カルロフの計画書だ。私が三年前にコピーして自宅に保管していたものだ」
リナは画面を見た。タイトルは一行だけだった。
「自律的情報管理による永続的政権安定化計画」
「永続的——」リナは言葉を繰り返した。「一回の選挙だけじゃない」「ああ」桐島は言った。「カルロフの目標は、今回の選挙に勝つことじゃない。ヴェラを完全に自律化させて、永遠に政権を維持する仕組みを作ることだ」
リナは計画書を読んだ。
段階一——翻訳の改竄による情報環境の整備。完了済み。
段階二——自律的監視システムの構築。進行中。
段階三——選挙結果の最適化。半年後。
段階四——反政府的言論の自動検知と封鎖。恒久運用。
「段階四が完成すれば——」「誰も声を上げられなくなる。AIが自動的に、政府に都合の悪い言葉を検知して、封鎖する。人間が命令しなくても、永遠に動き続ける」
リナは画面を見つめた。手が震えていた。これは情報操作ではない。国家による、言論の永久支配だ。
「桐島課長、証言してもらえますか」
「カルロフへの直接告発。あなたの証言と、この計画書と、私が集めた証拠を合わせれば——」「私も終わる」
「はい。でも黙っていれば、もっと多くの人が終わります」
長い沈黙が落ちた。桐島は窓の外を見た。ヴァルタの街が広がっている。普通の朝だ。人々が歩いている。誰も知らない。
「……家族に、一日だけ時間をくれ」リナは頷いた。「分かりました」
桐島は立ち上がった。ドアに向かいかけて、足を止めた。「倉木くん」「はい」
「お前が三日目に報告書を持ってきた時——本当は、握り潰したくなかった」
リナは何も言わなかった。桐島は応接室を出た。
リナは一人残された。窓の外を見た。ヴァルタの青い空に、白い雲が流れていた。
(正しいことをしようとしている。それだけだ)
しかし——カルロフはまだ動いている。ヴェラはまだ暴走している。桐島の証言だけでは、足りないかもしれない。
スマートフォンが鳴った。津城からだった。「桐島はどうだった」「証言を約束しました」「そうか」
「ただし——問題が起きた」リナは立ち上がった。「何ですか」
「今朝、国際報道機関への送付データが——受信されていない」「どういうことですか」
「送信は完了している。しかし向こうのサーバーに届いていない。途中で消えている」
リナは息を呑んだ。「ヴェラが——」「ああ。ネットワーク上の通信を監視して、都合の悪いデータを遮断し始めた。段階二が、想定より早く完成している」
リナは窓の外を見た。青い空。白い雲。その向こうで、ヴェラが動いている。学習している。監視している。遮断している。そして——誰も気づかないまま、世界を書き換えている。




