第九話:江戸大開発と「定年退職の交渉」
文禄・慶長年間(1590年代後半)。
徳川家康の関東移封から数年。かつて湿地帯の広がる泥の田舎であった「江戸」は、激変を遂げていた。
河川の付け替えによる治水工事、物流網を支える運河の建設、そして整然と区画整理された城下町。
その開発の現場において、徳川家の代官頭・伊奈忠次と共に、不眠不休で書類を裁き、現場の調整に奔走していた男がいた。
小山田信茂(前世:佐藤和夫)である。
(……限界だ。もう、本当の本当に限界だ……!)
江戸城内の「勘定・総務部屋」で、信茂は死んだような目で書類に判(花押)を押していた。
前世で過労死寸前まで働いていた58歳の記憶と、この肉体の実年齢(五十歳手前)が重なり、信茂の腰と胃は悲鳴を上げていた。
「信茂様! 伊奈様より『神田上水の開削に関する予算と人件費の再計算書』が届きました! 今日中に目を通してほしいとのことです!」
「信茂様! 秀吉様より『文禄の役(朝鮮出兵)における肥前名護屋城への陣屋手配および兵糧搬送の割り当て』の催促が来ております!」
「信茂様! 奉行所より『町人の地帳の記載に誤りあり』との報告が……!」
次々とデスクの上に叩きつけられる書類の山。
「あああぁぁぁぁぁっ!!」
信茂は頭を抱えて発狂しそうになった。
(無理! もう無理!! 朝鮮出兵の補給調整に、江戸の都市開発に、豊臣家への各種報告……! 史実の死のフラグを回避したと思ったら、待っていたのは『超巨大インフラ企業の残業上限なし・休日なしの取締役兼現場監督』という地獄じゃないか!!)
江戸の大開発、関東の行政経営、朝鮮出兵への対応・・・怒濤のように日々が過ぎていった。
そして・・・・・・・秀吉が死に、次の天下を巡る争いが起きようとしていた。
信茂は自分の手を見た。手の甲にはうっすらとシミができ、白髪も目立つようになっている。
胸の奥が、前世で孤独死したあの猛暑の日のように、トクンと嫌な高鳴りを見せた。
(……このままだと過労死する)
信茂の脳内に警報が鳴り響いた。
史実の「即処刑」は回避した。
織田・豊臣・徳川という絶対的権力者の下で「使い勝手の良い優秀な中間管理職」としての地位も完璧に築いた。
……だが、このまま働き続けて倒れたら、前世の社畜人生と何一つ変わらないではないか!
(俺の夢は何だった!? 定年退職して、ポカポカした日当たりの良い縁側で、誰にも邪魔されずに茶をすすることだろ!!)
信茂はガタッと立ち上がった。
「宮内助!」
「は、はいっ! 信茂様、いかがされましたか!?」
「俺は……これより内府様(徳川家康)のもとへ参る!」
「えっ? どのようなご用件で……?」
信茂は胸を張り、力強く、涙目で宣言した。
「『早期退職(肩たたき拒否・円満退職)』の直判(直接交渉)だ!!」
江戸城本丸。家康の執務室。
天下の副将軍的立場として、秀吉死後の豊臣政権の権力構造をジッと見極めていた徳川家康は、機嫌良く文机に向かっていた。そこへ、信茂がやってきた。
信茂はいつものように深々と平伏したが、その姿はどこか悲壮感に満ちていた。
「おお、小山田か! ちょうど良かった。江戸の町割りも順調、関八州の年貢の徴収も完璧じゃ。秀吉公が亡くなり、京の石田三成めが不穏な動きを見せておるが……近いうちに天下の趨勢を決める『大戦(後の関ヶ原)』が起きるやもしれん。その節にはお前に……」
「内府様」
信茂は家康の言葉を遮り、畳に額をこすりつけた。
「……? どうしたのだ、小山田。面を上げよ」
「内府様。……某、本日をもちまして、役職を辞し、隠居させていただきたく存じます」
「……なに?」
家康の手から筆がぽたりと落ち、朱墨が和紙に滲んだ。
部屋の隅で書類を整理していた本多正信も、驚いて手を止めた。
「隠居……だと? 小山田、お前は今、幾つになった?」
「五十の手前にございます」
「何を言うか! まだまだ働き盛りではないか! これからわしが天下を取り、お前にはさらに大きな領地と重職(奉行)を与えようと考えておったのだぞ! なぜ今、退くのだ!?」
家康の声には、怒りよりも純粋な困惑が含まれていた。
武士の世界において、「戦の予感が漂う時期」に実績抜群の重臣が辞意を表明するなど、あり得ないことだったからだ。
信茂はガバッと顔を上げた。
その目には、涙が溢れていた。前世の58年間の社畜生活と、戦国で死に物狂いで生き抜いてきたこれまでの思いが、すべてそこに詰まっていた。
「内府様……! 某の胸の内を、どうかお聞きくださいませ!」
信茂は拳を握りしめ、語り始めた。
「某は武田家が滅びてより今日まで……織田信長様、滝川一益様、そして内府様のもとで、ただひたすらに『死にたくない』という一心で働いてまいりました!」
「う、む……」
「書類を書き、兵糧を数え、街道を整え、武将たちの愚痴を聞き……常に『一歩間違えれば首が飛ぶ』という恐怖と戦いながら、胃の痛む思いで今日まで生き延びてまいりました!」
信茂は自分の胸を強く叩いた。
「しかし……某の身体は、もはや限界にございます! 最近では夜も眠れず、胸が締め付けられるように痛み、書類の数字が夢に出てきてうなされる毎日にございます! このまま働けば……某は文机の前で過労死いたします!!」
「か、過労死……!?」
聞き慣れない単語だが、家康と正信にはその意味が痛いほど伝わった。要するに「働きすぎて病死する」ということだ。
「内府様! 武士の誉れとは何でしょうか!? 華々しく戦場で死ぬことでしょうか!? 違います! 某にとっての勝利とは……『最後まで生き残り、穏やかな老後を迎え、畳の上で茶をすすって死ぬこと』にございます!」
信茂は叫んだ。前世で叶わなかった、たった一つの素朴な夢を。
「某は天下など欲しくありません! 万石の加増もいりません! ただ……残された寿命を、穏やかな日の当たる場所で、ゆっくりと過ごさせていただきたいのです! これが……武田、織田、徳川と三代にわたり、中間管理職として組織を支え続けた小山田信茂の、最初で最後のワガママにございます!!」
広間に、沈黙が訪れた。
信茂は床に強く頭を叩きつけたまま、ピクリとも動かない。
「……ハッ」
本多正信が、思わず吹き出した。
「ハハ……ハハハハハハ! 殿、聞きましてございますか? 『万石の加増もいらんから、茶をすすらせてくれ』と申しておりますぞ!」
正信は腹を抱えて笑った。
「戦国の世で、名誉も領地もいらんから定年退職させろと面と向かって殿に直訴した武士など、後にも先にもこの小山田左衛門尉くらいのものでございますな!」
家康は……笑わなかった。
家康は文机から立ち上がると、ゆっくりと信茂の前に歩み寄った。
そして、その太い手で、信茂の肩を優しく叩いた。
「……小山田」
「は、ははっ……!」
「お前は……偉いな」
家康の声は、驚くほど温かかった。
「皆が功名に目がくらみ、『もっと領地をくれ』『もっと高い役職をくれ』とわしに群がってくる中で……お前だけが『自分の限界』を知り、『自分の幸せ』がどこにあるかを分かっておったのだな」
家康は深く頷いた。
「武田が滅びた時、お前が差し出したあの完璧な帳簿。織田が崩壊した時、滝川を無事に逃がしたあの手際。そして我が徳川が江戸に入った時、不平不満も言わずに泥まみれになって街を作ってくれたこと……わしは一度たりとも忘れたことはない」
「内府様……」
「お前の望み、叶えてやる」
家康はニッコリと笑った。
「小山田左衛門尉信茂。本日をもって、すべての役職を免ずる! 隠居を許可する!」
(勝ったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!)
信茂の脳内で、全宇宙の歓喜のファンファーレが爆発した。
「ただし!」
家康が人差し指を立てた。
「タダで辞めさせるわけにはいかん。お前のこれまでの莫大な功績に報い、江戸近くの暖かく日当たりの良い地に、二千石の養老領(年金)を与える!」
「に、二千石の養老領……!?」
「そうだ。そこで一生、誰も邪魔させんから、思う存分ポカポカした縁側で茶をすするが良い!」
「な……内府様ぁぁぁぁぁっ!!」
信茂はボロボロと大粒の涙を流し、家康の足元にすがりついた。
「ありがとうございます! ありがとうございますぅぅぅっ! 徳川家康様、あなたは最高のCEO(社長)でございますぅぅぅっ!!」
こうして小山田信茂は、戦国時代において奇跡とも言える「満額の退職金(養老領)付きでの完全定年退職」を勝ち取ったのであった。
数ヶ月後。慶長五年(1600年)。
天下分目の「関ヶ原の戦い」が勃発した。
石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が激突。
日本中の武将たちが二つに分かれ、血で血を洗う凄惨な死闘を繰り広げた。
真田昌幸・信繁(幸村)親子は西軍に就いて徳川秀忠の軍を足止めし、後に流罪。
かつて信茂とやり取りをした多くの武将たちが、討ち死にするか、改易されて路頭に迷った。
――その頃。
江戸近郊、小高い丘の上に建つ、小さな屋敷。
日当たりの良いポカポカとした縁側で、一人の男が横になってあくびをしていた。
「ふあぁぁ……。今日も良い天気だなぁ」
小山田信茂(50歳超)である。
白髪の混じった髪を適当におんぶにし、湯気の立つお茶をズルズルとすすっている。
隣には、長年連れ添った小林宮内助が、やはり私服姿で穏やかな顔をして座っていた。
「信茂様。京からの知らせによりますと、関ヶ原にて徳川様が大勝利を収められたとのことです。石田三成様は捕らえられ、六条河原で斬首されたとか……」
「そうか……。三成くん、仕事は完璧だったのに、社内政治(ライン読み)が下手だったからなぁ……。南無阿弥陀仏」
信茂は悲しそうに目を閉じ、静かに手を合わせた。
「信茂様。徳川家に残っておられたら……今頃は関ヶ原の大功で十万石の大名になっておられたかもしれませんのに」
宮内助が少し惜しそうに言う。
信茂はフッと笑い、お茶をもう一口すすった。
「宮内助。十万石の大名になったらどうなる?」
「え? それは……もっと大きな城に住めて、大勢の家臣を雇えます」
「その代わり、休日はゼロ。いつ豊臣の残党や徳川家の政争に巻き込まれて首が飛ぶか分からない毎日だぞ?」
「うぐっ……」
「俺はな……これでいいんだ」
信茂は縁側にゴロンと寝転がり、雲一つない青空を見上げた。
「美味しいお茶があって、温かい日差しがあって、今日生きている。……前世の俺が死ぬほど欲しかったのは、この『何も起きない平和な一日』なんだよ」
信茂は満足そうに目を閉じた。
史実の「裏切り者として即処刑」という死のフラグを見事に回避し、
織田・豊臣・徳川という怪物たちの下で中間管理職として完璧に生き残り、
ついに手に入れた、夢の「定年退職」。
サラリーマン武将・小山田信茂の生存サバイバルは、ここに完全な勝利(大団円)を迎えたのである。




